透明な言葉
空気が震えるから音が聞こえる。詳しい仕組みはわからなくても、音が振動によるものだと多くの人が知っているだろう。
初夏の陽気に汗ばむ背中が気持ち悪い。この時期は、半袖にするか長袖にするか悩む。朝方は肌寒いのに、昼間は暑いなんて詐欺だ。薄いストッキングを履いているにもかかわらず、パンプスの中まで蒸れている。こんな時は全てが不快に思えるから不思議だ。
「……あの子やっぱり馬鹿だよね」
「本当」
クスクスと笑いながら私の隣を通る女子高生の話し声が耳に入ってくる。無意識でも耳は他人の声を拾ってしまう。
声は音。温んだ空気をかき混ぜるだけの不快な音。だけど、私にとってはそれだけではない。声のした方を見ると彼女たちが吐き出した空気に色が付いているのがわかる。漆黒の手前の黒だ。そしてそれは吸気として口に吸い込まれるのではなく、彼女たちそれぞれの胸にじわじわと染み込んでいく。
──まるで毒の霧のよう。
突然見え始めたそれが何なのか、初めはわからなかった。口から吐き出される黒い靄。それを誰一人として頓着しない異様さ。周りがおかしいのか自分がおかしいのかと、何日も悩んだ。
悩んだ挙句、病院にも行った。だが、視力にも頭にも異常はなかった。それ以上おかしなことを言えば、精神に問題があるとみなされそうだったので、私は病院に行くのをやめた。
見えなくならないのならと、自分なりに分析してみることにした。他人の靄は見える。ならば自分はどうなのか。結果はまったく見えなかった。
そして、他人同士の会話をしばらく見聞きして、あることに気づいた。他人が吐く息も、透明だったり黒い靄だったりと様々なのだ。そして、黒い靄を発生させる時は、決まって攻撃的な言葉が飛び出す時だった。
「あんたなんか嫌い」
「ムカつく」
そんな言葉を吐くと同時に発生する靄。きっとこれは言葉の色なのだろう。言葉は刃にも毒にもなると言うけれど、それを聞いた相手の胸に吸い込まれていくということは、言葉は心を傷つけるということ。だが、それなら吐いた本人にも吸い込まれることがあるのは何故なのか。
私なりに考えてみた。
吐いた言葉を自分でも聞くから自分に戻るのか、他人を傷つけたという罪悪感なのか、もしくは呪いのように言葉ははね返えるということだろうか。毒を吐く方にもダメージがあるのかもしれない。
そして最近になって、また別の事実に気づいた。
透明で吐き出された言葉は時として変容し、黒く濁って相手の胸に吸い込まれるのだ。
これが指し示す事実は──言葉を発した本人に悪気はなくても、相手は傷ついたということなのだろう。
変容した黒い靄が胸に吸い込まれた人の顔に注視すると、大体の人が笑っていた。顔で笑って心で泣いているのかもしれない。それとも、相手に悪気がないことがわかるから、笑って無かったことにしたいのだろうか。
すれ違った女子高生の口から出た靄は、瞬く間に互いの胸に吸い込まれていった。だが、彼女たちは笑っている。
二人は今、どんな気持ちでいるのだろうか。靄が見えても心が読めるわけではない私には二人の気持ちはわからない。
同じく私が放った言葉は相手にどう作用しているのかわからない。願わくば透明であって欲しい。自分を戒めるように、私は彼女たちの胸に吸い込まれる靄を見つめていた。
自分への戒めとして書きました。
言葉は意図せず人を傷つけてしまいます。
何気ない言葉で相手を傷つけていないか、と考えるようにしたいです。
読んでいただき、ありがとうございました。