R 定時で帰りましょう
「社長! 大変です!」
契約書を確かめつつハンコを押していると、バタバタと足音が聞こえた。
私は手を止めて、ドアが開くのを待つ。
息を切らして駆け込んできたのはうちの数少ない社員のうちの1人、北村真奈美だった。
「落ち着いて、北村さん。どうしたの?」
はぁはぁ、と肩で息をしながら北村さんが口を開いた。
「し、塩崎さんが、事故にあったって…」
「え? どういうこと。詳しく聞かせて」
「さっき電話があって、塩崎さんが乗ってたバスが事故にあったって…」
はっきりと私は眉をひそめた。
顔には出さないが、胸の鼓動が早くなっている。
塩崎凛は私の部下でもあり、良い友達でもある。大学卒業と同時に会社を立ち上げ、1番初めに雇ったのが彼女だ。
「怪我の有無などは?」
尋ねると、北村さんは力なく首を振った。
「詳しいことはまだわからないって…。何か…横転したらしくて…」
「わかったわ。みんなを集めて。テレビをつけましょう」
それだけ大きな事故ならばニュースで報道されているだろう。
しかし、その必要はなかった。私が社長室を出ると同時に電話が鳴り、北村さんがとった。
「はい、そうです…、はい、はい、ああそうなんですか!」
彼女の表情が目に見えて明るくなる。
「あ、良かったです、はい、ええ、はい、わかりました。失礼します」
がちゃ、と電話を置いて北村さんがこちらへ振り向いた。
「命に別状はないそうです! 怪我も打撲程度だって!」
「はぁぁぁぁ」
大きなため息をついて、私は膝に手をついた。
「良かった〜〜…」
北村さんが私の肩を掴んで激しく揺さぶった。
「ほんとによかったですね! ね! 社長〜〜!」
苦笑して彼女の手をそっと外す。
「ちょっと…苦しいわよ。まあ良かったけれど」
周りで心配そうに伺っていた社員に顔を向けて、パンパン、と手を叩いた。
「今日はみんな定時であがりましょう。それまで頑張るわよ!」
「はーい!!」
「お先に失礼しまーす」
5時を過ぎたところで次々と社員が帰っていく。
「社長もあがらないんですか〜?」
北村さんに言われたことによって、私は作業の手を止めた。
「…そうね、あがろうかしら」
お、という顔をして彼女がうんうん、とうなずく。
「珍しいですね〜。いいと思いますよ! 旦那さんも喜ぶだろうし!」
「ええそうね…」
旦那さん、と言われて祐介の顔が頭に浮かんだ。
私の3つ下の癒し系男子。働くのが好きな私を認めて支えてくれる有難い存在。
「私も帰るわ」
宣言して、私は荷物をまとめ出した。