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51.いただきます

 現在から遡っておよそ半日ほど前の昼下がり。つまりはちょうど、僕が浮月さん(母)から託された地図を片手に浮月神社の境内を彷徨っていた途上。

「あれ?」

 思わず僕はそんな声を挙げてしまっていた。

 指定された通りの、いかにもな防空壕らしき扉を見付けたまでは良かったのだけど、そこにはどうも鍵穴が見当たらない。

 もしやこれじゃないのかと思いつつ、見直した地図は間違いなくこの場所を示していて、ならばやはりこの中に浮月さん(娘)の遺品があるのだろう。

 じゃあこの鍵はどこで使うんだろう、と内心半分に呟きつつ。

 かんぬきを抜いて、かなり重い鉄製の扉を引き上げてみてもやはり鍵はかかっておらず、暗がりの先。恐らくは地下まで続くのだろう階段が見えた。

 開け放したままに奥へと降りていく。階段が途切れた辺りにスイッチがあり押してみると、トンネルになった向こう暗がりまで、吊るされた電球列に灯りがつく。

 想像以上の本格的な洞窟っぷりに若干怯みつつも、むき出しの砂道を歩き出してみる。入り口から一息に見通せなかった岩道は、されど大した分岐もなく最奥まで五分とかからなくて、正直少し拍子抜けした。

 ……。

 座敷牢。なんて単語が真っ先に思い浮かんだ。

 岩壁の窪みに沿うようやたら大きな鉄格子が嵌められていて、その扉部分には錆び付いた錠が固く降ろされていた。普段、時代劇さえほとんど見ない僕からしてみればそれは違和感そのもので、浮月さんのご先祖様がかつてこの場所をどう使っていたのかと想像するだに、すべてを見なかったことにして帰りたいという欲求が募るばかりだった。

 とまれ、これを使うべき場面はここだったのかと、不幸にも存在を思い出してしまった手持ちの鍵で錠を開ける。見た目の古さの割りにあっさりと回ったのが意外で、恐らく今も頻繁に開け閉めされているのだろう、なんてことを考えついてしまって暗澹としていた僕は。

 檻を隔てて向こう側。暗がりから肉塊に見つめられていることに気付くのが遅れてしまう。

「……」

 声が出なかったのは単に驚きすぎたためで、逃げ出さなかったのも概ね同じ理由だった。

 体長三メートル弱の肌色芋虫といった第一印象。視線を感じたつもりだったけど、バラバラの方向を向く十数個のうち果たしてどの瞳がこちらを見ていたのかもわからず、耳や指が無造作に生える頭部が呼吸に合わせて伸縮していた。背中から伸びる五本の腕脚。歯列に並行する女性器群。形の良い口。薄い乳房。黒い頭髪。

 生物として最低限の構造理念もなく幼児が思いつくままに並べてみただけの感があって、天地がひっくり返っても自重を支えることは愚か、自力で移動することさえ難しそうな肉塊だった。というより現状、呼吸らしきものを続けていることさえも不思議なほど。あくまで想像でしかないけれど、内臓等だって一揃えで済んでいるとは到底思えず、脳や心臓が複数個あったとしてそれぞれの機能はどう統合されているのかなんてことが気になってしまう。

 からからと鉄の引きずられる音がしてふと、さらに奥を見やれば、その肉袋の内側から四本の鎖が伸びて側壁へと繋がっていることがわかった。こんな姿形の身体で逃げられるはずもないだろうにと何だか笑えて、元々は逃げられる程度に人型だったのかもしれないと思い至るにつけ。遅まきながらようやくその正体にたどり着き、背中を冷たいものが滑り落ちる。

「……浮月さん?」

 『彼女』の呼吸が止まる。

 何かを思い出そうと努力するような間があった後、いくつかの目がこちらを向いた。

 ホシダクン?

 冗談かと訝しむほどに不協和音なささやき声。複数の口から同時に呼ばれた僕の名前はあまりに気味が悪く、思わず唸ってしまった。同時に色々と合点がいく。今ここにこうして招かれた僕へと、求められているのだろう行為も予想がついてしまう。

 きっとこれはバックアップなのだろう、と。

 浮月さんが最後に持病(自称)で休んだのは先週のこと。その時に分裂し、新たに生まれたもう一人の浮月さんがこれで、砂音らに殺された方の浮月さんは、万一自身が死んだときのことを考えてあえてこちらを殺さずに、地下牢へ閉じ込めていたのだとしたら。

 浮月さんが死んだ今、僕が『彼女』の閉じ込められた場所へと導かれた理由もわかる。

 恐らく自生したのだろう余分な四肢に遮られて見えなかったけれど、恐らく肉壁の最奥には元の人型が残っていて、四本の鎖の先には原初の手足が繋がれているのだろう。

 昨夜の夕飯以来、僕が飲まず食わずで戦い詰めだったことは事実だけれど、これだけの肉量が果たして胃袋に納まるだろうかと考えてみると、改めて目眩がする思いだった。

 されど、一方で高揚を抑えきれない自分だっていた。もちろん空腹ゆえなんかじゃなく。

 浮月さんが生きているのならきっと僕はまだ戦える。

 それは端的に、希望そのものだった。

 絶望の淵。失意の底。どんな陳腐な表現でも言い表すことのできない無気力の片隅に射し込んだ一筋の救いだとさえ思えてしまった。

 言い訳するつもりはない。その瞬間の僕は舞い上がっていた。

 きっとこの浮月さんだって、また僕と一緒に戦ってくれるはずだ、なんて。

 そんな浅薄さで、恐る恐る手を伸ばして衣類一つまとわない『彼女』の柔肌に触れてみた僕は。

 意外なほど人肌同然だったその温かさに驚いて、高揚しかけていた気分を恐怖に掴まれ引きずり落とされてしまう。

「……」

 見つめられていた。

 その瞳の色が何を思っているのかなんて、読み取れない。僕程度の想像を絶するだろう感情。怒りでも悲しみでもなく、きっとそれは諦念でさえない。

 というよりむしろ、生物の思考が所詮身体に制御されるものである以上、ここまで人の形を逸しているからにはその意識とてほとんど混濁状態だろうと思われた。

 このまま殺してしまった方が余程優しさなんじゃないか、なんて考えが頭を過るほどには。浮月さんの生存が抱える過酷さを僕は理解している。

 目の前に提示されている景色の本質は、責任というものなのだと、ようやく理解する。

 彼女の生存に手を貸してしまったその時、僕は否応なくその命に責任を持たされてしまうのだろう。

 単純な人助けとはいくらか次元の違う話だった。

 一度死んだはずの人間を蘇らせる。それは間違いなく人命や生死の尊厳を貶める行為で。

 道理を捻じ曲げて人を生かすことは、合意なく人を殺すことに似ていると思った。

 されどむろん、付随する彼女の生への執着もわかりすぎるほどにわかっていた。

 勝手に決め付けないでください、と。

 もし今まともに喋れたなら、そういった言葉を吐くだろうことは想像に難くない。瞳の色。

 いや。たぶんそれすらも邪推というもので、結局。浮月さんが僕に言うことなんて決まりきっているのだ。責任も、覚悟も、悔恨もすべて一人で持ち去ってしまって。

 タベテクダサイ、と一言。きっとただそれだけ。

 決して自身を哀れまないだろう浮月さんは、やはり僕や砂音には到底真似出来ない強さを持っていて、そんな浮月さんだからこそ僕は彼女と一緒にいたいと思える。

 もちろん、二度とすべてを彼女一人に背負わせるつもりはない。僕は彼女に関係する。彼女の隣で戦い続けることを選び取る。雨の真ん中で泣いたあの夜と同じように、誰かとともに生きることを僕はまだ諦めない。

 あぁやっぱり僕は浮月さんが好きなんだ、なんて。きっとこれも独り善がり。

 手を合わせた。

「……いただきます」

 『彼女』は安堵したように目を閉じる。


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