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5.白地さんが人外の領域にまで堕するとは

 といった感じで昨日の僕は平和裏に帰宅してしまったのだった。心の日記帳にも『帰宅した』とだけ記入して。

 僕はそのページを破り取り、くしゃくしゃに丸めて廊下の隅へと捨ててしまう。

 急ぎ足と言うほどでもない僕の足音だけが響く踊り場。

 推測するに、ポカンと忘却したからこそ、さっきこの出来事を浮月さんに話す際、僕はうっかり因果の間を抜かして前後を繋げるような説明をしてしまったみたい。そんなあれこれを多少の悔恨混じりに思い出しているうちに、僕は階段を降りきって、のみならず向かい校舎までの渡り廊下を抜けきってしまう。白地さんの所属するA組は目の前で、しかし昨日すでに死んでしまった彼女はもうその教室にいないはずだから、客観的に、ここまで来た僕の行動はまったくの無駄足となってしまう、のだと思う。

 いや、そんなことよりも今。僕がつい先ほど与えられた浮月さんの命を忠実に守ろうと試みるにしても、この状況からいかなるリカバリーが行使可能だろうか。やっぱりその難易度は頭を下げるなんて物理でどうにかできる問題でもなく、要求されているのは少女一人の蘇生並みの黒魔術。ごめんで済めば奇跡なんていらない(要出典)とはまさしくこのことで、一介の人外高校生程度にはとてもじゃないけれど荷が重い。

 曲がった先の教室棟廊下にも人影はなかった。夕影に浸る各教室への扉列。

 この時点で一度部室へと戻ることも考えた。改めて浮月さんに釈明しようかと思ったのだ。決して僕は呼び出しよりテレビを優先したわけでもなく、あくまで当初はきちんと応じようとしたのであって、テレビに優先されたのは通報行為だったのだと。何より我が家にテレビはないのだ、と。けれど、ここまで来て何もせずに戻るのは手間だとも、ちらっと思った。僕は足を止めない。何よりそんな釈明をすれば、浮月さんになおさら怒られるだろうことは目に見えているし。

 それとやっぱり腑に落ちないこともある。

 僕はついさっきまで白地さんが死んだことを忘れていたのだ。

 ということはそれを思い出すような契機が今日一日なかったことを示していて、つまり白地さんは校舎の真ん前で死んだにも関わらず、いまだ校内での話題に上がっていないということ。先ほどの反応を見る限り、浮月さんだって知らない様子だった。

 これは一体どういう事態だろうと思いながら、A組を覗いた。

 教室は血塗れだった。

 ……。

 たくさんの人間が死んでいた。たぶんその死体の山はA組のクラスメイト全員分。中央にはこちらへと背を向けて、知らない女子生徒の首をもぐ白地さんがいた。

「えっと」

 一瞬これもテンプレートかと思いかけたけどそうでもないなと思い直して、僕は戸惑ったふりをやめた。向こうから見つからないよう、音を立てずに、伸ばしていた首をすっと元に戻す。そしてまた困ったなと思った。

 今日も昨日と同じく見なかったことにして帰ろうかとも思ったけど、この調子だと明日はこの学校中の人間が死ぬ光景を忘れる羽目になるかもしれない。

 ……。

 それにしてもよくわからないことが立て続けに起きているみたいだ。まさか僕が告白をすっぽかしたからと白地さんが自死にとどまらず、人外の領域にまで堕するとは思っていなかった。

 僕はひとまず音を立てないように廊下を下がっていき、渡り廊下を通過、階段を経由して、浮月さんが待つ特別棟四階まで戻った。先述の釈明に加えて今後の行動を相談するつもりで。そこの窓から向かいの校舎を覗けば、なるほどつい先ほどまでホームルームをしていたはずの窓の内側が血の手形だらけで真っ赤だった。しかし白地さんはすでに去ったあとなのかそれらしき人影が見当たらず、殺気を背後に感じて限界まで腰をかがめる。

「……っ!」

 頭上を大振りなナイフが過ぎ去っていく。その握りから伸びる腕の先に白地さんのゴミでも見るような瞳。今日も目が合ってしまう。特に運命なんて感じたりはしない。

 彼女は空虚な廊下を僕の向かっていた側へと、勢いを殺しながら駆けていき、適当な距離を置いたところで振り返った。

 遠く、平和な校庭から走り込みの掛け声が聞こえる。

「……」

 少なくともたった一日前に告白しようとした相手を見る目ではなかった。やはりあれは浮月さんが懸念した通り果たし状だったのかもしれない。それともまさか、僕が昨日、断りなく女性のスマホに触れてあまつさえ踏み潰してしまったことに憤りを感じているのだろうか。

「見たよね、星田くん」

「見てないよ」スマホの中身は。

「見てたよ」

 ……。そうか僕は何かを見ていたのか。対象を省略して話されても何のことかはさっぱりわからず、万一これが白地さんの下着の話なら、昨日彼女が落下する時も彼女の死体から持ち物を取り出して検分した時も、誓って僕は見ていなかった。いや、さっき首をもがれていた女子生徒の下着ならたしかに見えていたけど、その時だって浮月さんの教えを生かして本人に指摘せずそっと視線を外したのだ。何が間違っていたのか反省することしきりな僕の顔面めがけて、三歩で間合いを詰めてきた彼女の膝が飛んでくる。

「……っ、あ!」

 見えた。どうにか上体を反らすことで躱した僕の襟を後ろ手に掴み、着地と同時に。

「しっ!」

 背負いで投げられる。襟元が水平方向へのエネルギーを残さず掴まれっぱなしで僕が離されたのは、床方向、直下。タイルを叩き割る勢いで脊髄から落とされて視界が明滅する。

 思わず理性が飛んで脊髄反射的に倒れた状態のまま、とっさの判断。関節をいくつか外した右腕で彼女の足を絡み取り、そのまま組み倒す。

「な、……え?」

 可愛い声で戸惑った彼女が戦況の逆転に気付いた時には、すでに僕の下で首を絞められていた。僕は片腕を肩から床に押し付けて、腕の関節を強引に嵌め直す。その振動で、後頭部から垂れてくる血液が白地さんの怯えた顔の上に落ちる。なんだこの程度の覚悟で僕を殺しに来ていたのか。

 弱い。弱い。弱い。つまりは美味しそう。

 僕はまだ半分朦朧とした意識のまま、彼女の脳へと至る血液をぐいぐいと完全に遮断する。彼女は哀れみを乞うように涙目でその口元が何度か動いたけど、死体になったらそこが一番気持ちよさそうだなと思うだけだった。

 何かが変だなと気付く頃には、取り返しが付かなさそうなほどの時間が抜け落ちかけていた。

 違和感を覚えて死体一歩手前の白地さんを真似るように首元を痙攣させてみる。

 死体。あれ……僕は、彼女を、殺しかけている?

 まぁいいか。

「アホですかっ!」「痛いっ」

 後頭部打撲痕に浮月さんの突き立てた文庫本の角が刺さって、僕は白地さんの首から手を離す。

「痛いじゃないですよ、何殺しかけちゃってるんですか星田くん。アホですか」

 部室から出てきてそのまま飛んで来たらしき浮月さんは、仁王立ちに僕の行動を責めた。

「不純異性交遊なら校舎の外でやってください」

「……」

 何か盛大な勘違いをされている気がしたので、どうにか誤解を解こうと思いつつ彼女の手元を見れば、僕の後頭部傷口を深くえぐったそのタイトルは『ノルウェイの森』上巻だった。外されたブックカバーの下、真っ赤な表紙が黒く濡れている。

 思わず顔をしかめてしまう。

 連続して血を見せられると流石に自制が効かなくなりそうで、僕は目を逸しつつぼやいた。

「そんなの読んでるから」

「何か文句でも」

 文庫を鋭く振って僕の血糊を払う。それでも染み付いた分が落ち切らなかったらしく残念そうにため息を吐いた。

「文句はないけど、せめて痴情のもつれから疑って欲しかったかな」

「……痴情のもつれなんですか?」

「違うけど」

 違うんじゃないですか、と完全に説教モードな浮月さんを前に僕は困ってしまう。

 そんな僕の様子を見かねたのか、ため息一つ。助け舟を出すように浮月さんは尋ねた。

「星田くん、部則その二は?」

「えっと」

 僕は思い出そうと首を傾げた。


『部則その二、よく喋る愛想の良い善人であれ』


「喋るということは、コミュニケーションの意志があることを表明する行為で、つまりは私たちが『普通』であることを証明するための第一歩なのです」

 頷いた浮月さんは、僕に向けて手を差し伸ばす。

 その意味を解しかねて束の間。

「あ」コミュ力。

 微笑んだ。

「釈明してください、星田くん。何か理由があるのでしょう」

 それは彼女の優しさで、この人にはやっぱりどうしても敵わないなと思い知らされる。

「……わかったよ、でも」

 僕は横たわる白地さんを指差した。

「彼女を縛り上げてからでいい?」

 どうしてか目を逸らされ、差し出されていた手も引っ込められる。

 しかし満更でもなさそうに。

「私にそっちの趣味はないんですけどね」

 ……。釈明の方を優先するべきだったかと首を傾げる。

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