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47.闇堕ちして来ちゃいました

 真下には渡り廊下があるし、最悪届かなくても死にはしないと実行に移したのだけれど。人外もやってみればできるもので、果たして僕の指先は、向かい校舎の淵にかろうじて引っかかっている。

 もちろん助走なしの幅跳びで手が届いたのは僥倖だった。

 けれど、こちらの屋上にも見張りがいる可能性は完全に失念していた。

 結果。再び頭上にうるさい弾幕を張られていて壁に張り付きっぱなし。しかもこちらの見張り役とはあいにく顔見知りじゃなく、喫煙はおろか、飲酒もアンパンもやっていなかったらしきため、わかりやすい弱みも握らせてくれやしない。

 本当にどうしてこうなったんだろう、なんて嘯きつつ。

 増援が来る前にと、仕方なく掴んでいた屋上の淵を離して自由落下に身を任せる。次善の予定通り、渡り廊下の屋根へと降りることができて、そこのサッシからようやく校舎内へと再侵入。

 重量を両足で支えられるありがたみをしみじみと感じつつ、襲いかかってきた男子生徒の首を条件反射な片手で見もせずに捻り折り、投げ捨てる。ちょうど真向かいにあった中央階段から降りて、三階へ。

 こちらの廊下にも人は配置されていない、というより先に銃声のあった向かい校舎へと集ってしまったらしく、誰にも見られることなく音楽室へと忍び込むことに成功する。

「動かないでください、星田くん」、と。

「……」

 懐かしい声を聞いた気がした。

 そういえばすっかり失念していたけれど、『影血鬼』の体現する『異常』にはいくつかルールがあるのだった。

 『死体消失』、それから。

「偽浮月さん、だよね」

「はい、私です」

 『成り代わり』。

 闇堕ちして来ちゃいましたと振り返った先の彼女は笑っていた。相変わらずの包帯まみれな手元でナイフをくるりと回す。

 一方で僕はなるほど、浮月さんなら闇堕ちだろうとも素殴りで僕を殺せるだろうし、砂音の奥の手はこれだったのかなと思い至る。

 人外どちらか一人ならまだしも、二人に挟まれたら最悪一分と保たない気がする。

「どうして音楽室に来ちゃったんですか、星田くん」なんて心にもないことをのたまう、偽浮月さん。「ここなら戦わなくて済むかと思っていたのですが」

「隠れようと思って」「嘘ですよね」

「……」、嘘だけど。そっちの戦いたくなかったも嘘でしょうに。

 恐らくは砂音の手によって僕をここへと追い込む手はずだった。そこへ運悪く僕だけが先に来てしまった。なんてところだろうか。

 そう考える僕の向かいで少し考えるような仕草があって、面の皮が僕と負けず劣らずな偽浮月さんは言った。

「用があったのはたぶん奥隣の放送室で、そこから校内放送を使って妹さんを脅迫しようとでも考えていたのでは」

「……いや、考えていたのは交渉程度だったけど」、と。

 それにしても、あまりにいつも通りな会話すぎて、僕は笑みが浮かびかけるのを抑えきれなかった。

「でも残念ですね」と相変わらず、心との間に深い断絶がある口先。「ここで私と出会ってしまったからには、星田くんには戦ってもらわなくてはなりません」

「同好のよしみで見逃してくれたりしない?」

 微笑みが返ってくる。残念ながら、と。

「どうもこの身体になってしまうと、妹さんに逆らうのはとても面倒らしいですので」

 諦めてください、と。そう囁いた浮月さんも少し嬉しそうだった。

 その笑顔で、冷たいものが背筋に伝うのを押し隠して。

「嬉しそうだね、偽浮月さん」

 そう尋ねると、少し沈黙があった。

「……星田くんと『普通部』を立ち上げたから、ずっと考えていました」

 恥ずかしげに目を伏せて、覚えていますか、と。

「春休みのことです。私にとって自分以外の相手と、あれほどの全力で戦えるなんて初めての経験だったんです」

「……」

 話のオチが読めてしまって、微笑みが引きつりかける。

 せめてもっと再会を喜ぶとか、そういう文脈を期待していたのに。

「決着を、いつかちゃんとつけたいと思っていたんですよ」

 マリカでは負けてしまいましたし、と付け加える。

「……左様で」

 どうしてあの時僕は接待プレイをしておかなかったのか、なんて先立たないものはさて置き。

 目の前に迫ってきた手首を弾く。掴んだ逆手にはナイフ。

「不意打ちは卑怯じゃない、浮月さん」

「それって褒め言葉ですか、星田くん」

 無言で睨み合う。次の瞬間。

 避けられるだろう間合いを潰す勢いで、右足を突き出す。狙いは向こうの足の付け根で、人体の構造上、ここは正面から蹴られると膝を折るより容易く折れて転ぶ。はずだったのが。

 浮月さんはこちらの想定を越える跳躍力で距離を稼ぎ、僕の足が届かない場所までバックステップ。

 いつの間にか背中の腰から抜いたベレッタをこちらに向けていて、僕は横へ転がりついでに、引きずり倒した机の影へ。

 首をすくめた頭上で発砲音がせず、それがフェイクだったのだと気付いて振り返った目の前に手榴弾が落ちてくる。

 膝関節がいかれるかと思うほどの瞬間跳躍。勢いを殺さず廊下側の窓を破って、壁際に倒れ込み耳を塞ぐ。

 爆破音。すべての窓が吹き飛ぶ。

 思わず教室の内側に向かって叫んだ。

「窓を割っちゃダメじゃない、浮月さん!」

「……一枚は星田くんですよ」

 と、一瞬だけ覗き込むように横顔を見せ即座に引っ込めた浮月さん。こちらの位置を視認次第、窓越しに手首から先だけのベレッタを向けてくるので、射線を避けつつ走り出す。

「あ、逃げないでくださいよ」

「……っ!」

 無茶言わないで欲しいと思いつつ走り抜ける廊下。階段の角を曲がるまでに盾役を買って出てくれそうな人影は見当たらず、背後からの身を乗り出した銃撃で僕はしっかり左腕を持っていかれている。

 ほとんど転げるようにして階段を降りながら、息を整える。

 以前より明らかに浮月さんの射撃精度が上がっていて、きっと秘かに練習していたのだろうと思うにつけ、僕はむしろ食糧事情の改善で少し太ったことくらいしか自慢の種がなくて、何というか。結構へこむ。『普通部』的に褒められるべきは僕なのに不公平だ、なんて。

 冗談言ってる場合じゃなく、左腕の出血がひどい。幸いにして腱が切られたわけでもないらしく指先が動きはするものの、力が入らない上に歩いてきた廊下に点々と跡を残していて、気分は逆ヘンゼル。これでは家へと帰り着くより先に、闇堕ちグレーテル(偽浮月さん)に追いつかれてしまいそうだった。

 いや、だから。雑な冗談なんて言ってる場合じゃなくて。

「……」

 誰も追いかけてこない静寂の中で、一計を案じる。

 血痕が残るよう一階まで降りきったところで、上着を脱ぎながら今来た階段を逆走。二階へと戻り、脱いだばかりの上着で傷口を抑え血を垂らさないように気を付けつつ、廊下奥の物置部屋へ。

 掃除用具の間に挟まれて、ようやく腰を降ろす。これでしばらくは時間が稼げることを期待しながら。

 最悪過ぎる状況を頭のなかで整理する。

 控えめに言っても、僕が正面から浮月さんに挑んだところで、勝てる可能性は万にひとつあるかないか。市街地ならともかく、校舎内では向こうの射程範囲をくぐり抜けるのも至難なことに加えて逃げ道が少なすぎる。

 何より砂音の能力下において、浮月さんという駒は最も厄介な相手の一人だった。砂音の能力は『影化』されたものが何度も死ぬことを前提に設計されている。逆に言えばそれ以外に常人と変わるところはなく、だからこそ僕は彼女ら全員を殺せば良いとばかり考えていた。しかしその『影化』された相手が殺せないとなれば、当然話にすらならない。

 ……いや。

 少し考え直して、逆だと気付いた。

 これはむしろ幸運の部類で、何故なら生身のままな浮月さんの殺し方なんて僕には検討もつかないけれど、『影化』された人間の消し方なら僕はすでに知っているから。むろん砂音だってその弱点の存在は心得ていて、それでもなお、対象が浮月さんである限りは万にひとつもそれを突かれないと高を括っているのか。

 しかしそうすると。この場合ネックとなるのは僕が浮月さん(母)から託された浮月さん(娘)の遺品の存在を、もちろん遺した本人は把握しているだろうことだ。もっともそれで今すぐ戦況がどうこうという話でもないだろうけれど。

 ともかく、と。埃まみれな棚の隅に見つけた梱包紐で上腕部を縛り、とりあえずの止血。

 今からやるべきことは、この左腕を抱えて浮月さんから逃げ回りつつ、砂音を見付け出して叩くこと。

 けれどやはり血が抜けすぎたのと、空腹も相まって当分は動けそうになかった。

 ……。

 用具室の扉をそっと開けて、近くに誰かいないかと探す。幸いにしてしばらく待つと、足音。

 この部屋の前を通りそうな女子生徒を目視で確認。辺りにいるのはどうやらその子一人だけらしかった。好都合、と。タイミングを見計らって両腕を伸ばし、真っ先に喉元から掴んで、発声器官を親指で押し込み、潰す。悲鳴も上げられずにジタバタと暴れるだけの彼女を部屋へと引きずり入れて、扉を閉める。床に放り投げたそれの顔を、手足が動かなくなるまで何度も殴る。

 沈黙。

 廊下方向へと耳を澄ませて、目撃者などもいなかったらしきことを確認。それ以上は一刻たりとも待ちきれず、いただきます、と手を合わせたところで思い出す。

 この状況下では死体が消えるのだ、と。

 つまり今からどんなに急いで食べても、消化しきる前にこの生徒の肉は僕の胃の中から消えてしまうだろう、と。

「……うわぁ」

 無駄骨、なんて単語が脳裏を過ると同時に徒労感がどっと押し寄せてきて、もう歩く気にもならない。わざわざこっちから敵地へと赴くのも嫌になって、むしろ向こうから襲ってこいとヤケな気分になっていたところに。

 願い叶ったのか、白地さんが扉を開けて覗き込んでくる。

「……」

「見付けた」

 驚き過ぎて声も出ないままに、どうしてここがわかったのか、と。物問いたげなこちらの表情を見て、質問内容を察してくれたらしき白地さんは呆れたように。

「血の跡があったじゃん」、と。

「……」

 それは僕の血ではなく、無駄に殺されて今もそこに転がっている、名もなき少女の血痕だった。

 無駄骨どころか裏目。

 むしろ修羅場。

 僕は無理に立ち上がって、白地さんの正面に対峙する。暗がり。窓から差し込む月明かりだけが光源で、彼女の微笑みがよく見えた。

 邪魔が入らないようにか、あるいは僕を逃がさないためか。彼女は背後の扉を閉める。

 ちょうど訊きたかったんだけどさ、と。

「どうして私たちを裏切ったのかな。つまりこれって私がフラれたってこと?」

「……」

 戦績一対二で勝ち越しだね、と言いかけた口元はちょっと危機意識が足りない。

 ちなみに白地さんは入ってきた時点からずっと、僕の胸元へ銃口を向け続けている。

「しかも連れ込んでるのはちゃっかり女の子だし」

「……死体をカウントしないでよ」

「やっと喋ってくれた」

 と微笑まれて、それが彼女なりの精一杯の冗談だったのだと知る。

「その調子のまま、私たちを裏切った言い訳でも続けてみなよ」

「……」

 そしてまったく許されたわけではないことも。

 一方で、ゲーム開始前。運動場ですれ違った時に僕と目も合わせてくれなかったのは、見限ったからというわけでもなかったのかと少し安堵する。

 ため息に静かな覚悟を秘めて、僕は所詮『言い訳』にしかならない言葉を吐き出す。

「譲れないものがあるんだ」

「諦めなよ」

 …………。

 流石にそうやって、論理性の欠片もなく即答をゴリ押しされると、困ってしまう。

「それはえっと……」どう表現したものかと悩んで。「たぶん僕に死ねって言っているようなものだよ」

 もちろんそれは冗談のたぐいでなく、本心からの言葉だった。だって、僕は『そう』じゃなければきっとどこかの時点で、呆気なく死んでしまっていただろうから。『普通』という指標にしがみつかなければ、僕は道を踏み外したまま間違え続けて、死ぬまで一人きりだったろうから。

 そんな言葉を続けるつもりだった僕の覚悟は。

「なら、死んでみてよ」、と。

「…………は?」

 頭ごなしに否定される。

 いや、というより。

 真正面から拒絶される。

「馬鹿じゃないの、あなたたち。星田くんも、砂音ちゃんもみんな。狂ってるよ」目の前の白地さんは初めて見せる表情で、きっと怒っていた。「どうして自分の理想のためだからってそんな簡単に他人を殺せるの。周りを変えてしまうことに命がけの本気になれるの。やめてよ、正直迷惑だよ。振り回される方の負担を考えて。少なくとも私はついていけないし、本当は周りのみんなだって内心不愉快に決まってるよ。『異常』なら『異常』のまま、黙って迫害され続けてれば良いのに。半端な人間未満だからって、誰かに注目してもらえたり譲ってもらえたりして当然みたいに思い上がってたんじゃない?」

 と、そんなことまで言われてしまったものだから。

 絶句すら通り超えて途端、血の気が引いて煮えくり返るほどの熱を覚え始める。

 堪えるように、鼓動のうるさい自身の胸元を抑えつけて。

「……勝手なこと言わないでよ、白地さん」

「勝手なのはそっちじゃない!」

「…………」

 重くなり続ける僕の視界の真ん中で彼女はうつむいたまま、かすれ声に続けた。

「私のために死んでみてよ、『普通』になるのを諦めてよ」

 私と一緒に間違ってよ、と。

「……っ!」

 ふざけるな、と怒鳴りかけて。視線を上げてしまった結果。正面からに向き合う羽目になった彼女の顔に。

 怒りごと、すべてを溶かされる。

「どうして星田くんなの」、と震える声に。「よりによって、あなたじゃなくても良かったじゃない」、と。

 このタイミングで涙をぐちゃぐちゃに零すのは卑怯だと思う。無条件にこっちが醒めてしまうから、なんて。格好付けてみても仕方がない。全面的に悪いのはもちろん、先に泣かせてしまった僕の方だろう。

 白地さんは叫んだ。

「私を置いて先に進まないでよ。勝手にすごくならないでよ。自分から望んでどんな身体になっても、無理やり震える手でたくさん人を殺しても、私は」

 どうしようもなく『普通』の女の子でしかないのに。

「……」

 できることなら。

 僕はこの場で白地さんに謝りたかった。今まで続けてきたことをぜんぶ投げ打ってしまいたかった。

 それでハッピーエンド。誰も傷つかないままゆっくり死んでいくだけの未来を。

「言いたいことは、それだけかな」、と。

 されど僕は選べなかった。「なら早く撃ちなよ」、なんて。

 息を飲む音が聞こえた。彼女の目は、もう見ることができなかった。

「撃てないよ」

「でも、撃つしかないんだよ」

「……」

 そうすることで晴れて僕は君らの仲間になって。

 君が望む通りの未来が、きっとやって来て。

 世界を変えるとはそういうことなんだよ。

 と。

 口に出して言えるだけの誠実さが、僕にも欲しかった。

 しかし、やがて。

「……撃て、ないよ」、と。

「……」

 それが白地さんの答えだった。

 卑怯者の僕は刺激せぬようゆっくりと近寄って、白地さんの手元から拳銃を奪い取る。

 指先が触れ合った瞬間、ビクッと震えたきり大した抵抗もなく彼女はそれを手放した。

 弾倉を抜き出して、弾が入っていることを確認。嵌め直して、スライドを引く。

 一連の動作を見守る瞳の奥を隅々まで探したけれど、そこに救いは見当たらなかった。

 銃口の先を彼女の額へ。

 目が合う。

「……」

「……」

 破裂音。それだけだった。


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