お父さんお呼び出し券
夏休み真っ只中の8月某日。
カナコは公園のベンチに1人佇んでいた。
カナコがいる場所は木陰になっており、周りと比べて暑さは少しマシだが、この時期特有の湿っぽい空気の気持ち悪さは変わらなかった。
少しでも涼めるかと気休めに買った自販機のアイスはとうに無くなっている。
カナコは残ったアイスの棒を口に含んで甘噛みした。幼い頃からのこの行儀の悪い癖は、なかなか抜けない。
重たいリュックを身体の前に抱え込んで、誰も踏むことのない公園の砂利をただ見つめる。いつもはもう少し人がいるのだろうが、今日は珍しく人の気配はない。
そういえば今朝の天気予報で今年一番の暑さだとお天気キャスターが騒いでいた。何回めの「今年一番」だよと、テレビに向かって呟いたのをカナコは思い出した。
これからどうしようか。ぼんやりとそんなことを考える。
昨日の自分なら筆記用具と分厚いテキストを背負って塾に向かっているはずの時間だ。だが今のカナコにはそれが出来るほどのやる気も気力も無かった。何をするのも気だるい。
ふと、リュックのポケットから飛び出た一枚の紙に目がいく。アイスの棒をベンチの左横のゴミ箱に捨てると、カナコはその紙を取り出した。
紙には『お父さんお呼び出し券』と書かれていた。少し角ばった、綺麗とも汚いとも言い難い微妙な字だ。そんな印象をカナコは抱いた。
「お父さん、か…。」
蚊の鳴くような声で呟いた。「お父さん」という言葉を聞いて、パッと浮かぶ顔がカナコにはない。彼女が一歳になる前に病気で亡くなったからだ。
それから十八年間、母はカナコを女手一つで育て上げた。そこまで考えて、カナコは無理矢理頭の中から追いやっていた今朝の出来事を思い出した。
今朝は母と随分ひどい喧嘩をしたのだ。受験のストレスも溜まっていたカナコは、つい酷い言葉を母にぶつけてしまった。
そのまま仲直りをすることはなく、母は出勤時間になり、気まずい空気のまま出かけてしまった。
カナコもこの夏休みは毎日塾の自習室に通っていたのだが、今日はどういうわけだか途中にあるこの公園にフラリと立ち寄ってしまったのだった。
「呼び出せるもんなら、呼び出したいよ…。」
クシャリと『お父さんお呼び出し券』を握りしめた。今朝の自分の言葉を思い出して、自己嫌悪に陥る。写真で数回見ただけの父に、何故だか無性に会いたくなった。
「はいはーい!呼ばれて飛び出てジャジャーン!」
「!?」
突然真後ろから聞こえた声に、カナコは飛び上がった。
振り返ってみると、カナコと同じくらいの歳の男の子が、満面の笑みを浮かべて立っていた。制服姿にふわふわとした黒髪と左にある泣きボクロが特徴的なその容姿は、不思議とどこか懐かしさを覚える。が、カナコの知り合いにこんな少年はいない。
「あなた誰!?」
「え?やだな〜たった今呼んだじゃん。お父さんだよ〜」
「どう考えても違うでしょ!」
カナコはそう叫んでその少年から少し距離をとった。制服からして同じ学校の男子生徒だろうが、どう考えてもヤバいやつである。関わり合いたく無かった。
「ホントなんだって、カナちゃん。」
「キモい呼び方しないで。ていうか何で私の名前知ってるの。」
「き、キモいって…。」
満面の笑みから一変、ショックを受けた様子で少年はカナコの隣に腰かけた。隣に座らないでほしい。カナコは本気でそう思った。
少年は訝しげにこちらを伺うカナコに少し悲しげな目をしたが、気を持ち直して口を開いた。
「…えーと、こんな姿だから信じてもらえないだろうけど、僕は正真正銘、君のお父さんなんだよ。君の持ってるその『お父さんお呼び出し券』の力で、君の前に現れることができたってわけ。」
「意味分かんない。」
「どうにか信じてくれないかな〜、ほら、僕の顔!見覚えない?」
「…若すぎて分かんないよ。」
「だよな〜カナちゃん生まれたの30手前だもんなぁ。」
その後も名前、住所、職業など、ありとあらゆる自己紹介をされたが、それは調べれば分かることで、個人的なことも、そもそも父に関する情報に乏しいカナコには判断できなかった。
不審者確定なるか、というところで、自称父は突然膝を打った。
「あ!じゃあこれは!?カナちゃんのお尻の右には3つ並んだ黒子がある!どう!?」
「な、なんで知って…」
それは母と自分しか知らない情報だった。なんだか恥ずかしくて、林間学校や修学旅行の時でも友達にバレないように隠していた。
「オムツ替えの時何回も見たから覚えてるんだ〜」
「…………」
向こうは娘の思い出を語っているだけなのだろうが、カナコとしては見た目が同年代の男の子に自分のオムツ替えの話をされて微妙な気分だった。
とはいえ、ようやく出た父である証拠だ。ひとまずカナコは目の前の少年を言い分を聞くことにした。
「…わかった。とりあえず一旦あなたのことはお父さんと仮定する。」
「ええ?これでまだ仮定なの?」
「だって、普通ありえないもん。死んだはずのお父さんが突然現れるなんて。」
しかも何故か若返った状態である。信じろというのが無理な話なのだから、仮定しただけでも大分譲歩したつもりだった。
「それで、一体どうしてここにお父さんが現れたの?」
「それはもちろん、カナちゃんが僕を呼び出したからさ。」
「私が?」
カナコは眉を顰めた。死者を呼べるなんて、そんな中二病チックな異能力は自分にはない。霊感だってあるはずもなく、十八年間心霊体験とも無縁だ。
首をかしげるカナコに、父親はカナコの手の中にある『お父さんお呼び出し券』を指差した。
「それそれ、それだよ。さっきも言ったけど、その券の力で僕はここにいるんだ。」
「この券ってなんなの?」
「その券は、僕が神様にお願いしてもらったものなんだ。」
「神様に?」
「そうそう。人が死んだ後って、神様が迎えに来るんだけどね、その時に僕、カナちゃんたちと離れたくなさ過ぎて、成仏したくないって駄々こねたんだ。このままじゃ悪霊になるよって言われたんだけど、むしろそうなればいいって言ったら、神様にこの券やるから大人しく成仏してくれって、仕事を増やすなって言われたんだよね。」
「……す、すごいね。」
神様相手に駄々をこねた父に驚けばいいのか、知らないところで悪霊に憑かれるところだった自分達に驚けばいいのか、はたまた仕事を増やすなと父を窘めた神様に驚けばいいのかもう分からなかった。とりあえずやたらツッコミ所が多い。
「で、この券の出番を今か今かと待ってたんだけど、結局十八年間机の引き出しの奥に置き去りだよ。」
そう言われてカナコはこの券を見つけた時のことを思い出す。確か1週間ほど前、机の引き出しの奥の奥までストックしていた修正テープが行ってしまい、それを取ろうとして手を伸ばした先にこれがあったのだ。
その机は、かつて父が使っていた机だった。それをそのままカナコが使っていたのだ。小学生の頃は、周りの友達は新しい机だったり、かわいいキャラものの机だったりしたのにも関わらず、自分は亡き父のお古かと嘆いたものだが、高校生になった今では父の机がとても質のいいものだったと分かる。
10年以上使っているそれは古めかしさはあったが、まだまだ現役の顔を保っている。
「やっと見つけてくれたと思ったら今度はリュックのポケットに入れたまま放置しちゃうし。飛ばされないかとヒヤヒヤしたよ。」
「ご、ごめん…。」
この券を見つけた時、気になりはしたが、出かける時間が迫っていたので、後で見ようと無理矢理リュックのポケットに押し込んだのだ。カナコはそのまま1週間忘れてしまっていた。
申し訳なさから俯くカナコに、首を振りながら父親は笑みを見せた。
「いいんだいいんだ。こうして使ってくれたんだから。この券は、カナちゃんが僕に会いたいと思った時に、力を発揮するんだ。」
「お父さんに、会いたいと思った時…」
「何か僕に相談したいこととか、あったんじゃない?」
そう言われて真っ先に思い浮かんだのは母との今朝の喧嘩だ。強烈な父の存在によってすっかり忘れていた自己嫌悪をカナコは再び思い出した。
俯きがちだった顔がさらに下がっていく。ハラリと落ちた一束の黒髪が、より暗さを引き立てた。
「私、お母さんに、酷いこと言っちゃった…。」
今朝の傷ついたような母の顔を思い出す。
ハッとして正気に戻った頃には、もうその言葉はナイフとなって母に刺さっていた。ジワリと視界がにじむ。何もかもが上手くいかなくて、消えてしまいたかった。
「そうかー、ミナコさんと喧嘩しちゃったかー」
一瞬途方にくれていたカナコはその声でハッとする。後ろ髪から零れていた一束の髪は、隣から伸びてきた手によってそっと耳にかけられた。髪に遮られていた陽の光が顔に当たって、視界が明るくなる。
「ミナコさんになんて言ったの?」
「お母さんの子供なんかになりたくなかった、って言った。」
「うわぁキッツい。僕だったら泣いちゃうね。」
「…どっちの味方なの。」
自分の放った言葉がズッシリとのしかかってくる。ジトリと隣を見つめると、父親は可笑しそうに笑った。
「そりゃあ、どっちもだよ。カナちゃんも、ミナコさんも、両方大好きだし。」
「何それ。」
子供みたいな答えに、カナコは少し笑みを浮かべた。
「あ、カナちゃん笑った!笑うと可愛いよ!もっと笑いなよ!」
「………」
「褒められた途端に真顔になるのもミナコさんそっくり!」
「う、うるさいなぁ。」
カナコが悪態をついても父は笑うのをやめない。始めは憮然としていたカナコもいつのまにか、つられて笑ってしまう。母が父を好きになったのはこういう所だろうなと、何となく思った。
しばらく笑った後、父が閃いたように言った。
「ねぇカナちゃん、仲直りの印に、手料理を振る舞うってのはどう?」
「料理?」
料理と言われてもあまりピンとこない。調理実習や家の手伝いでご飯を炊いたり、野菜を切ったりしたことはあるが、実はカナコは一から十までひとりで料理したことは無かった。
「そ!料理。実はカナちゃんが生まれる前、新婚時代は料理は僕担当だったんだよ。」
「え?そうだったの?」
「その頃のミナコさん、料理がちょっと苦手だったみたい。オムレツが消し炭になって出てきたときは、流石に驚いたよ。」
「ちょっと苦手…?」
オムレツを消し炭にするのは「ちょっと苦手」の範囲内であるのかは甚だ疑問ではあったが、カナコはあまり触れないことにした。それにしても意外であった。
カナコが知る限りでは、オムレツはちゃんとした形で食卓に出て来たし、もちろん他のものも然り。母が料理下手なイメージはあまり無かった。
「…ミナコさん、僕が死んでから必死に努力したんだね。」
現在の母の料理事情を伝えると、父は少しだけ目を潤ませた。
「それで、何を作るかだけど、ここはミナコさんの大好物、キュウリの酢の物を作るといいよ。」
「キュウリの酢の物?」
これまた意外な料理名に、カナコは驚いた声をあげた。ハンバーグやオムライスなどそんな定番料理を想像していたからだ。キュウリの酢の物はどちらかというと副菜で地味な料理である。
「ミナコさん、キュウリの酢の物すごい好きなんだよね。それ作ったときは、僕のキュウリの酢の物が世界一美味しいって、ニコニコしながら食べるんだ。それが可愛くって可愛くって。」
デレデレと締まりのない顔をした父親をカナコは呆れた顔で見る。全くこの父親は、隙あらば惚気ようとする。
「他に凝った料理作った時も美味しいって食べるんだけど、やっぱりキュウリの酢の物の時の笑顔には劣るんだよね。まったく、作り甲斐があるんだかないんだか。」
「ふーん…。」
嬉しそうな顔をする父親に、カナコはふと思い浮かんだ疑問の答えを察した。
母がキュウリの酢の物が好物だったのは初耳だった。母から聞いたことがなかったし、そもそも食卓にキュウリの酢の物が並んだことがなかった。
それは何故か。料理が地味すぎて今まで気がつかなかったが、わざと母はキュウリの酢の物を作らなかったのだとカナコは思った。
それを食べるとどうしても父のことを思い出して泣いてしまうから。
そこまで考えて、カナコは胸が苦しくなった。
「…作れないよ。」
「え?」
「だって、お父さんの料理なんか作ったら、お母さんが泣いちゃうよ。」
「…………」
「お母さんを悲しませたくないよ。」
「カナちゃん……」
「ねぇ、何で死んじゃったのお父さん。ずっと一緒にいてよ。お母さんと私と、一緒に暮らしてよ。」
知らぬ間に、カナコの頬は濡れていた。母と父に対する、愛おしさが一気にこみ上げた。
父はそっとカナコの涙を拭ってやると、その手を強く握った。
「…ごめんね、カナちゃん。」
「………」
「ごめん、ごめんね…」
「……泣かないで、お父さん。」
「…うん。」
しばらくお互いに何も言わない時間が続いた。いつのまにかヒグラシが鳴き始めていた。
強く握りしめている父の手は暖かくて、まるで本当に生きているようだとカナコは思った。
「……ねぇ、お父さん。」
「ん?」
「……やっぱり、作るよ。お母さんの大好物なんでしょ?だったら、悲しい思い出のある料理にしちゃダメだよ。」
「カナちゃん…」
「これから、お祝い事とか、楽しい時に私が作るから。それで、食べるたびに楽しいこと思い出す料理にするから。だから、レシピ教えて。」
「…うん。もちろん!」
レシピは完璧に覚えているのか、何も見ずともスラスラと言葉が出てくる。一言一句書き漏らさないように、カナコは必死でメモを書いた。
書き終わった頃には、メモはびっしりと文字で埋め尽くされていた。
「すごい、キュウリの酢の物でもこんなに…」
「まあね、僕の特製ダレだからね。」
得意げに父が笑う。カナコの胸も、母が喜んでくれるだろうかという期待に満ちていた。
ほくほくとした顔で書き記したレシピを読んでいると、父が口を開いた。
「カナちゃん。」
「なに?」
「…僕はカナちゃんの役に立てた?」
そう言った父の声は、少し不安混じりのものだった。
その不安が少しでも取り除けるように、カナコは明るい声で言った。
「もちろん。すごーく、すごーく、ものすごーく役に立ったよ。」
「ふふっ、それは良かった。」
柔らかな笑い声が弾ける。
カナコが何気なく目をやった先に、父娘らしき二人が公園の前の通りを通るのが見えた。自分と父の姿を重ねる。
父が、宝物を取り出すようにそっと、口を開いた。
「ねぇ、カナちゃん。」
「ん?」
女の子の方が父親に抱っこをねだっている。父親が女の子を抱き上げる。視線は通りを見たまま、カナコは答えた。
「カナちゃんと、ミナコさんのこと、ずっとずっと見守ってるよ。…愛してる。」
「え?」
驚いて隣を見た先には、もう、誰もいなかった。
「え…お父さん?」
辺りを見渡しても、父の姿はない。手元にあったはずの『お父さんお呼び出し券』も消えていた。
「お父さん!お父さんってば!返事して!」
必死に叫んだ。ずっと呼んでいれば、「びっくりした?」なんて、おちゃらけたことをいって茂みから出てきそうな気がしたからだ。
「お父さん!お父さん!お父さん!!」
ヒグラシの鳴き声が響く。
叫んでいた喉も、枯れてきて、やがて止まる。
カナコの足元に、数滴の雫が落ちた。
「お父さん……勝手に、いなくならないでよ…。」
先ほどの父娘連れは、もう、姿を消していた。
◇
──ガチャリ。
玄関の扉が開く音に、かつてこれほど緊張したことがあっただろうか。
食卓の上には、教わった通りのキュウリの酢の物が並んでいる。味噌汁もついでに作ってみた。
「あら、カナコ…」
リビングに入ってきた母の手に、カナコの好きな洋菓子店の袋が提げられている。
泣きたいような、笑いたいような、胸いっぱいの気持ちがこみ上げた。
「おかえりお母さん、あのね──」