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翼がつながるとき

作者: 駒田 窮

 クウが乱気流に飲まれていくとき、僕はどんな言葉を発しただろうか。

 クウだけじゃない。仲間のみんなもだ。クモイ、テン、サン、ハヤテ、オロシ。そして名前を覚える前に空に溶けて消えた仲間たち。僕らは数え切れない仲間を失ってきた。僕は彼らが散っていくときにちゃんと言葉を添えてやれただろうか。

 空は自由だ、とお母さんは言った。僕がまだ小さくて餌を自分ではとれない時、お母さんはいつも口移しで食べ物を恵んでくれた。そのときにぼんやりと空のかなたを見つめてよくそう呟いていた。ナギ、空はとっても素晴らしいところよ。なにより自由だもの。

 僕はその言葉を雛鳥のころからずっと信じていた。空は青く美しく、寛容だと。だけれど、空は美しいだけじゃなかった。その言葉をくれたお母さん自身が空に殺されてしまった。途中で力尽き、海に一直線に落ちていった。まるで体の中から命の糸を巻きとられてしまったように。そのときの海の色は生き生きとした青で、まるでそれが一つの命でもあるかというふうに波風の模様を作り出していた。遠くで小さく水しぶきがたつのが見えた。その”大きな青い命”の中に、お母さんの体が沈み込んでいった。僕は見ていることしかできなかった。

 とぽん。

 それは、湖で小石がさざ波をたてたみたいに、ちっぽけだった。


※※※


「鳥は飛べなくなったらそこまでだ。死ぬしかない」

 僕は涙にくれる残りの仲間たちを諭す。小島の木の上で雨宿りをしながら、僕らはまだ目的地を目指すのだ。ここで全滅させるわけにはいかなかった。僕がリーダーだから。ここでみんなを死なせるわけにはいかなかった。

「助けようがない。みんな自分のことで精一杯だった。これは宿命なんだ。飛べなくなった鳥には生きる意味はない。死ぬしかないんだ」

 僕たち渡り鳥は飛ぶために生まれてきた。だから飛べなくなったらそこで終わりだ。自由は奪われ、残るのは死。そういうルールになっているのだ。

「でもクウが・・・・・・」

 年少の一羽がそういった。僕は彼の瞳を見つめて告げる。

「なら君が後を追うのか?」

 彼は押し黙った。もう何もいえないだろう。

 僕は仲間を見渡す。みんなクウに対して思うことは確かにあったろう。クウは体力もあり、雁行――渡り鳥が組む逆V字フォーメーション――の殿をつとめていた。疲れはてた若造を叱咤する嫌われ役だったが、なぜだか誰もが彼を慕っていた。よくしゃべるお調子者で、何よりも温かい性格の持ち主だったからかもしれない。

「もうクウのことは忘れよう。クウだけじゃない。クモイ、テン、サン、ハヤテ、オロシ・・・・・・もう死んだ仲間の話をしても意味がない。

 僕たち鳥には空を飛ぶ自由が与えられている。他の生き物にはない特権だ。だが、それだけだ。人間のような知恵もない。狼のような牙もない。僕たちは飛ぶだけの生き物だ。だからその自由がなくなったら、何の意味もなくなる。むしろ死んで幸せだったよ。空で死ぬことができたんだ。地上に取り残され飛べなくなった鳥たちは悲惨だ。人間に殺されるか、他の生き物の食い物にされるか」

 僕は海に飲み込まれていった母の姿を思い出す。母は幸せだったろうか。今の僕に答えられるのは、地上ではいつくばって生きていくよりはましだったに違いない、という答えだけだ。何かに縛られてまで生きる意味などない。


「オレはそんなこと信じない」

 

 僕が止まっている枝から一番遠くに陣取っている一羽がそう呟いた。このグループの中でも最も血気盛んで向こう見ずな部類に入るヤマセだった。

「飛べなくたって、自由がなくなったって、生き物は生きている方がいいに決まってる。自由に飛ぶことだけが鳥のすべてじゃない」

 ヤマセはそう続けて僕を見つめた。その瞳には悲しみの色が浮かんでいた。それもそのはずだった。ヤマセはクウを一番慕っていた。体力のないヤマセをクウはよく助けていた。

 ほら若造! 達者なのは口先だけか!

 そういって豪快にヤマセを笑い飛ばすクウのことが脳裏に焼き付いている。

 僕はそれを知っていたから、何もいえなかった。ヤマセはまだクウの死が受け入れられないのかもしれなかった。

「そう思っているなら、それはそれでいいさ」

 それ以上何もいえなかった。

 

 雨が冷たく、僕らの体力を奪っていく。色彩のない森の中で、僕らはひたすら雨の冷たさに耐えている。


※※※

 

 嵐だ、と誰かが後ろで言った。

 そんなことはわかっている。僕は先頭で雨に打たれながら必死に進路を取っている。

「だめだ! 風が強すぎる!」

 僕のすぐ後ろの一羽が叫んだ。

 見上げると鉛色の空が厚い雲を伴って僕らの翼をたたきおらんばかりの雨を降らせている。空気の中に湿った生臭さが混じり、不穏な予感がおそう。雷が来る。

 

 それは、間違いなく僕の判断ミスだった。

 

 クウが空に落ちていった後の数日間、雨は僕らを苛み続けていた。鬱々とした空気の中、僕らはあの小島で昆虫をつついて暮らしていた。しかしそれも限界。僕らがそうやって傷心を癒している間にも季節は移り変わる。渡り鳥である僕らは季節から取り残され、孤立し、死ぬしかなくなる。

 行こう。僕はそう決め、群を率いて飛び立ったのだ。

 だがそれが命取りだった。

「だめだ! ナギ! 雨宿りしよう!」

 向かい風にかき消されそうなその声は切実なものだった。僕も視界に入る限りの光景を必死に探した。どこか、やりすごせる場所。どこかにないのか。

 だが周りに広がるのは灰色の海と、黒い空。ただ、それだけだった。

「そんな場所ないぞ!」

「とりあえず雲の上に出よう!」

 誰かが声を張り上げた。僕はすぐに後ろに向かって返答する。

「それは無理だ! 確かに雲の上は安全だが、雲を抜ける時に乱気流に巻き込まれるとやっかいだ! 雷に打たれるリスクも高い!」

「じゃあどうするんだ!」

 今は耐えてくれ、と叫ぼうとしたそのときだった。


 ずん、と光が走り、羽が重くなった。


 景色が入れ替わり、荒れている海と怒り狂った空が交互に視界に入った。体が熱く燃えたぎるようになったかと思うと、次の瞬間には感覚という感覚がすべて麻痺しまった。風が刃となって僕をずたずたに引き裂くように感じた。


 落ちる、と誰かが叫んだ。

 ナギが雷にやられたぞ、とか何とか、かなきり声をあげている。


 ああ、落ちるのか、と僕は思った。意識が体からすり抜け、僕自身が僕を俯瞰しているように感じた。

 螺旋状にきりもみながら、僕はまっさかさまに落ちていく。空から空へ。ああ、違うな。あれは海か。同じ色だから、よく、わからない・・・・・・。

 風が痛い。雨が痛い。それだけしか感じなかった。

 海に落ちていく、一羽の渡り鳥。そのイメージ。あの体は本当に自分の体だろうか。それとも、いなくなった仲間たちの体だろうか。それとも、お母さんの体だろうか。


「死なせないぞ」

 若い雄鳥の声がした。体が再び浮き上がった。不思議な力を得たようだった。自分の力ではない、決して自分で自由にできるものではないけれど、温かい力。

「ヤマ、セ・・・・・・?」

 細い両足でヤマセは僕を持ち上げている。焦げ付いた僕の体をヤマセはまだ見捨てていないのだ。

 僕は瞳を見開いて周りを見渡した。

 雷に打たれたものは僕だけではない。先頭の数匹を含み、全体の何割かが負傷しているようだった。進路をうまく取れず、暴風にさらされて今にも吹き飛んでしまいそうなものもいた。

「あきらめんな! 飛べ! 自分の力で無理なら誰かに借りろ! 飛ぶんだ! 飛べ!」

 ヤマセはそう叫んで力一杯僕を持ち上げる。

「だめだ・・・・・・おまえ一羽だけの力じゃだめだ。僕はもうだめだ。自分じゃ、飛べない。もういい、放すんだ・・・・・・」

 体が硬直している。自分では羽ばたけない。僕はもう自由に飛べない。だから、死ぬしかない。

「自由に飛ぶことがオレたちの生きる意味なら、なぜ群で飛ぶ?」

 ヤマセは嵐の中、静かにそう言った。本当ならかき消されるはずの言葉なのに、はっきりと僕に届いた。

「クウは教えてくれたんだ。自由になりたいなら一羽でいけばいい。でもオレたち渡り鳥は群で飛ぶ。だから、オレたちが生きている意味は自由に飛ぶことそれ自体じゃないんだ、って。群で飛ぶ意味を考えろ、って」

 僕らは浅い角度を描きながら、海面に向かって落ちていく。だめだ。絶望的だ。このままでは僕らは両方海に散っていく。

「オレはあんたをあきらめない。だからオレたちの生死はあんたが決めろ。ともに羽ばたくか、それとも一緒にこのまま落ちるか」

 

 海面が近づいてくる。波が泡を立てる音が聞こえる。

 羽は動こうとしてくれない。どう考えても無理だ。動くはずがない。でもヤマセはあきらめないと言った。ヤマセはまだ僕の背中を細い両足で持ち上げている。


 落ちる。

 もう何秒かすれば、もう、終わる。


「ナギ! 飛べ!」




 僕は、



※※※


 波の音が聞こえる。寄せては引いていく波の音。

 木陰は涼しくて、でも雨に濡れた体には少し冷たすぎる。木漏れ日が風に揺られて万華鏡のように形を変えている。なんてきれいなんだろう。木陰で休むなんてそれこそ何度もやってきたことだ。でもいつも空を自由に飛ぶことしか考えてなくて、地上にあるものなんて目もくれてなかった。地上にしかないものだってあるんだな。

 そんなことを曖昧な意識の中でぼんやりと考えていると、目の前を蟻が群をなして通っていった。きちんと整列した彼らは、ちっぽけだけれど信頼しあっているみたいだった。もてないほど大きな獲物はみんなで持って巣穴に運んでいく。

 

 助け合って生きているんだな。そう思った。


「起きたか?」

 ヤマセがひょこひょことした足取りで僕の元に近づいてきた。その顔は毒気を抜かれるほど純粋で、僕は言葉をなくしてしまう。

「みんなは無事だったよ。雷に打たれた奴らも、無事だったみんなで助けた。誰も欠けてないよ」

 僕に聞かれる前に、ヤマセは軽い調子でそう言った。どこからか持ってきた木の実をつっつきながら。

「そう、か」

 僕は刻々と変わる木漏れ日の形に視線を落として、そう答えた。さわさわ、と優しい風が傷口をいたわるように体を通り過ぎていく。もう目的地に着いたんだな、と僕は思った。風の暖かさでわかった。僕らは長い旅をひとまず終えたのだ。

「比翼の鳥、って知ってるか?」

 ヤマセが唐突に僕に聞く。

「え?」

 僕は初めて聞くその言葉に少々戸惑いを覚えながら聞き返した。

「地上ではそれぞれ別に歩くんだけど、空では一体となって飛ぶっていう伝説の鳥。人間は”仲のいい夫婦”って意味で使うそうだけど」

 ヤマセは木の実をつつくのをやめ、ふと先ほどの蟻の行列に目をやった。

「オレたちはきっと、それだ。オレたちの群、一羽一羽が全部つがいになって、大きな比翼の鳥なんだ」

 ヤマセは僕の方に向き直る。僕はヤマセの視線がつらくて、自分の羽を見た。焦げ付いた、歪に欠けた僕の羽。

「でも、僕はこんなだ。もう僕はただの足手まといだよ。自分の力で飛べない、不自由な鳥なんて」

「だからだよ。クウが言ってた、オレたちが群で飛ぶ意味はさ」

 ひょい、とヤマセがこちらに木の実を転がしてきた。


「きっと、助け合うためさ」

 

 僕はおそるおそる木の実をかじってみた。

 でもそれは信じられないくらい苦くて、僕は思わず吐き出してしまう。

「苦い・・・・・・」

「だろうな。薬だから」

「でも、生きてるのか」

「そうだな」

 ヤマセは笑いもせず、茶化しもせず僕を見つめている。僕はふと聞きたくなって、口を開いた。

「僕はクウに許してもらえるだろうか。クモイ、テン、サン、ハヤテ、オロシ・・・・・・ほかのみんなたちにも」

 ヤマセは頭をふった。

「死んだ奴らは許してなんかくれない」

 彼は冷徹にそう言い放つ。確かにそうだ。僕は彼らを見限ってきたのだ。許されるはずがない。

「だから生きてる奴らのことを考えろよ、リーダー。これからのことをさ。生きている奴らは許してくれるし、助けてくれる」

 そういってヤマセは僕を引き起こしてくれた。その言葉に、ほんの少しだけれど救われた気がした。

「行こう。みんなリーダーを待ってるぜ」

「飛べない鳥をまだ受け入れてくれるだろうか、みんなは」

 

 ヤマセはそんな僕の不安を笑い飛ばしてくれる。まるでクウのように。彼はまだ完全に歩けない僕の体を支えてくれる。羽と羽が重なる。比翼の鳥か、と僕は呟く。


「飛べない奴には誰かが力を貸してくれるもんさ」

 そうして、仲間の元へと僕らは進んでいく。

 美しい地上の木漏れ日の中を抜けて。


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