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日常論  作者: 塵箱
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忙閑論

 人間社会はいつも忙しい。

 街ゆく人は路傍の石などには目もくれず今日も目的に向かって前進している。

 対して僕の日常はいつもどこか忙しいさに欠けている。

 学校はあるが、忙しいと形容するよりは面倒くさいといえる。

 部活動に入るわけでもなく、日々をのんのんと過ごしている。

 目的を持って行動するのは良いことだ、とよく言われるが、自分はそれは「行動」という言葉の根底にある事象だと考えている。

 目的があるから行動を起こす。

 だが、その行動が長いといつの間にか目的を忘れてしまう。

 日々は退屈だが、人生は忙しい。

 日々目的無く学校に行っているように見えて、それは実は意図しないうちの行動だった。学校に行くということは日々残りの登校日数を消化し、次のステップへ進むための基盤を築いているのだ。それに気づいたところで今の何が変わるわけでもなく、またつまらない空想を捗らせるのである。

 いつも忙しい人々は忙しいということを誇りに思い、時に言い訳にし、時に生き甲斐とする。

 何も間違ってはいない。

 人は退屈であると生き甲斐を失くす。

 老衰して死に向かっていく老人の様に、人生を無駄に垂れ流すことは確かに人々の心を壊していく。

 時に、退屈な日々をこう考えてみる。

「砂時計」

 ひっくり返した時の上の砂が残りの時間。

 すると、なんだか無性に悲しい気持ちになる。

 あぁ、何をしているのか。

 たが、それでも何も出来ないから悲しいのである。

 忙しいということは時に言い訳になる。

 自分もよく言い訳で使うが、本当に忙しかったことなどないのだから滑稽である。

 忙しいということを誇りに思い自己満足に浸る様もまた見ていて滑稽である。

 忙しさの先にあるものに意味があるということを理解できない様は何処か井の中の蛙に近いイメージを抱く。

 人間社会は大変に忙しいかもしれない。

 だが、そこからたった一歩抜け出すだけで退屈な日常が待っている。

 人の生きる理由は何か。

 と聞かれると頭を抱えずにはいられない。

 すぐに答えれる人は宗教人か馬鹿くらいであろう。

 凡人の僕はいつも考えずにはいられない。

 答えに至ることの出来ない問題である。

 数学のような予備知識は必要なく、また定まった答えはない。そういう疑問が僕の退屈な日々に僅かな彩を加える。


 また、このような彩は現代社会で否定されてきたものの一つである。(次話予告)


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