雨男のいる部屋
そろそろ、潮時かもしれない。
そう思ったのは四週連続で土日が良く晴れた日のことだった。
二人暮らしのマンションの一室、今は私一人しかない。事実婚で旦那にあたる男は今、外に出ている。仕事ではないのは知っているが、どこに何をしに行ってるかは、知らない。在宅で働く翻訳家の男と外で働くある会社の事務員の私は、好きあってこうして一緒に暮らしている。はずだった。一緒に過ごせるのは夜と休日である土日。彼は休みを私に合わせ、自由なはずなのに平日に仕事をして土日を休日と定めていた。それは、一緒に過ごせるように、と。
なのに気が付けば彼は晴れた休日にはいつも一人で外へ出るようになっていた。お互い気儘な性格なのでその気持ちもわからないでもない。一人の時間は、必要だ。だが今こうして形ばかり残った一緒に過ごすための休日は、ひどく滑稽だ。
休みの日は私に告げることなくどこかへ出かける。浮気か、という確信に近い疑惑を持たないでもないが、ならば仕方ない、と怒るでもなく諦めるばかりだ。自覚はしてる。私は「可愛くない」。顔が、見た目がということは置いておいて、兎にも角にも可愛げというものにはとんと無縁だ。古馴染みなんかには無表情・無感動と呼ばれる鉄面皮。笑わない怒らない泣かない。実際は笑ってるし怒ってるし泣いてもいる。ただそれが他人からはよく見えないだけで。大きく感情を動かすのは苦手だ。よく言うなら省エネ。あまり喋るのも得意ではない。笑顔を振りまくこともできない。それだけならまだ救いもあるだろうにダメ押しとばかりに私は「素直じゃない」ときた。可愛くないなら可愛げがないなら、それが少しでも見えるのように、好いてもらえるように努力をすべきなのに、妙なプライドが邪魔してまるでできない。
「可愛い」と言われれば可愛くないと顔を背け。
頭を撫でられればにべもなく手を叩き落とし。
「好きだ」と言われればむすりと黙り込む。
よくよく思い返すと、あの男もよくこんな女と一緒になりたいなどと血迷ったものだ。私が男であればこんな面倒臭い奴願い下げだろうに。
どれもこれも、本当は嬉しい。ただ恥ずかしいだけで。
その言い訳も口に出せないのだから、どうしようもない。それこそ無表情な私は口にしないと伝えられないのに。
要するに、浮気されても仕方がない、愛想を尽かされても仕方がないのだ。もし外に好い人がいるなら、私にできることは身を引くことくらいだろう。好きだからこそ、袖を引けない。何も言わないのに好いてほしいなんて厚かましいにもほどがある。幸い、私たちはあくまで事実婚。夫婦でありながら名字も違う、書面上は赤の他人だ。別離はきっとスムーズだろう。
「ああ、本当、」
誰よりも好きな人といられることは、幸せなはずだったのに。
「馬鹿みたいだ。」
捕まえ続ける努力もできない私は。
呟いても返事はない。小憎らしいほどきれいな雲一つない空で太陽だけが聞いていた。
金曜日、その日は朝から雨が降っていた。重たげな一粒一粒が地面をたたく。狙ったように、土日は降らないくせに。平日の雨なんて何の意味も持たない。ただただ鬱陶しいだけだ。
休日の雨は幸福の導き手だ。
ザアザアという雨の音を遠くに聞きながら二人静かな部屋で過ごす。お互い本好きで、二人並んで只管本を読み続ける。そこに基本的には会話はない。けれどその無言で穏やかな時間が大好きだった。最初、拳一つ分くらい空けて座っているのに、疲れてくるとどちらともなくもたれ掛って距離が0になる。そのこそばゆくて、温かい感覚が、この上なく私を満たす。触れあっている部分からじわじわと体温が混ざり合って均等になる。呼吸音と紙のこすれる音、それから一定の雨音。緩やかで静かで、心地いい。ただ隣にいてくれる、それが私にとって舞い上がるほどに嬉しいことだということを、あの男はきっと知らないだろう。言ったことなどなかったのだから。何も話さなくても、笑ったりしていなくとも、私は喜んでいた。
静かな雨の日、幸せな日。
でも、もう無理だろう。
「もしもし、クロ?」
「……ああ、どうしたヒナ。」
数コール目で取られた受話器、平日に彼が出ることに違和感はない。
「帰り道でちょっと捻挫しちゃって、病院に来たんだけど少し時間かかりそうだから、帰るの遅くなる。」
「わかった。酷そうか?」
「わからないけど、とりあえず大事を取って。帰るときまた電話するよ。ご飯先に食べてて。」
「了解。気を付けろ。」
そうお喋りな性質でもないため会話は簡素。いつも通りのそれにスマホから耳を離そうとして、
「あんた、今日はもう帰ってくれ。」
こちらではなくあちらの誰かに向けて掛けられた言葉に、身体が硬直する。通話を切ろうとするのに、魔法で身体を石にされてしまったように、指一本動かすことができなかった。それから、靄掛かったように応える高い声が聞こえる。真っ白に思考停止した頭と対照的に、耳に音はクリアに届いた。届いてしまった。ブツ、という無機質な音が鳴ったのは彼が受話器を置いたから。何の音も聞こえなくなったスマホを力なく下ろした。
わかってる。知ってる。今、電話の向こうにいたのは出版社の人だ。私も会ったことがある。ピシッとスーツ着た綺麗な人だ。わかってる。勘繰るような関係なわけではないことは。仕事のことだ。妙なところで生真面目な彼は、平日は仕事をする、という自身の決まりを律儀に守る。それを自分で破るはずがない。
何も疚しいところはない。ただ私が意識過剰になっているだけで。
「潮時か。」
路側帯からはみ出した車をよけようとして蓋のない側溝に無様にもはまり、足をくじいた。泥だらけになって電話を掛ければ、とどめのように、あれだ。震える手でスマホをタップして明日の天気予報を見る。
9月30日(土):晴天
「ああ、もう、」
雨に濡れた身体が寒い、じんじんと痛む足が熱い。その2つが合わさって、ひどく惨めだった。
絶望というものは突然降りかかってくるものじゃない。ヒタヒタと、背後から迫ってくるものなんだ。今まで私が目を背け続けていただけで。
潮時なんかじゃない。
ただ私が
「限界だ。」
「診察終わった。今から帰る。」
「了解。帰って来られるか?迎えに行くぞ。」
「……いや、迎えにって車も持ってないでしょ。タクシー拾って帰るよ。」
酷めの捻挫。金属製の松葉杖一本と湿布を渡されて帰路につく。
振り返ればこんなにもあの人が待つ家に帰りたくないと思ったのは初めてだ。雨に撃たれ滂沱するタクシー窓からマンションが見えて、妙に泣きたくなる。このままどこかへ行ってしまいたくなる。けれど、今は兎にも角にも身体を休めたい。やはり帰るという選択肢以外ないのだ。
初めて使う使い方の掴めない松葉杖を駆使してエントランスの緩やかな階段を上る。
「おかえり。」
「……ただいま。何でエントランスに、」
「車はねぇが荷物持ちくらいにならなれる。」
そう言って彼は私から松葉杖以外の荷物をあれよあれよと攫って行った。ちらっと私んテーピングされた片足に目をやる。
「痛いか?」
「あー、まあまあ。」
素っ気無いようだがそんなものだ。少なくとも病院までは歩いて行けた。
ふむ、と少し考えるように首に手をあてるのは彼の癖だ。チーン、と安っぽい音と共にエレベータの扉が開く。片足を引き摺るように乗り込んだ。
「……松葉杖、貸せ。」
唐突なそれに訝しみながらも明け渡す。立ち止まっているなら片足でもなんら問題はない。何を考えているのかわからないが、今に始まったことでもない。お互いに言えることだが、頭の中で考えていることと口に出す量の差が凄まじい。だから脈絡のない会話など日常茶飯だ。他人から見たら唐突だが、本人にとってはつながりがある。
「ぃよっと、」
「うっひゃいい!?」
思わず阿呆のような声が飛び出す。今まで味わったことのない浮遊感。もちろん、エレベーターの所為ではない。
「なになになになに!?」
「ぶっくくく……色気のねぇ声と言うかなんというか。」
「うるっさい色気を私に求めないで!」
「はいはい可愛い可愛い。」
「な、に言ってんの!おろして!」
両足共に宙を蹴り、背中と腿裏に回された手によって私は宙にとどまっていた。
いわゆる御姫様抱っこというやつだ。
ただしかしこんな恰好が許されるのは王子様に夢見る少女と絶世の美女だけだ。私にはせいぜい俵担ぎが似合いだろうに。似合わない似合わないやめてほしい、そう確かに思っているのに恥や照れの中に喜んでいる自分を見つけて引き倒したくなった。柄でもないくせに喜ぶな、と。
でもそれから泣きたくなる。
もう別れようかとすら思っていたのにこれだけのことで簡単に名残惜しくなってしまうのだから。
ドライを装っているくせに、実際の心はひどく湿っぽくて子供っぽくて嫌になる。酷くみじめだ。
またチーンと安っぽい音がしてパネルを見れば私たちの住んでいる部屋の階。知り合いや隣人にこの状態で遭遇したら、と思い顔に集まっていた血が一気に引いた。
「ちょ、誰かに見られたら……!」
「見られたところで問題ないだろう。」
「ある!どんなバカップルの様相よこれ!」
「バカなのは帰り道に捻挫してくるお前だけだ。」
ぐうの音も出ず、そのまま部屋まで運ばれる。幸い、廊下で誰かに会うことはなかった。
玄関でおろされ、恭しく靴を脱がされる。これまた柄ではないと逃げ出そうとすればガッチリと足首をつかまれ逃げ出すこともできない。雨に濡れて冷えた足に、温かい彼の掌は毒だった。じわじわと伝染するように熱くなっていく。
彼が持ったままの松葉杖を奪おうとするとひょいと遠ざけられその代わりにと言わんばかりに手を差し出される。
「松葉杖があれば一人で歩けるから。」
「床に傷が付くだろ。俺が支えた方が早い。」
「……杖なくても一応歩ける手は借りない。」
「馬鹿な真似するならお前の大好きなバカップルコースが部屋の中でも決行されるが、それがお望みか?」
「……断る。」
呆れたように逸らされる視線と深いため息に一瞬身体を震わせたのがひどくみじめに思えた。
「可愛げってぇもんがねぇな、っと、」
「け、結局決行するんじゃん!選択肢なかったじゃん!」
「気が変わった。俺がそうしたい気分なんだよ。」
再び重力を無視して両足が宙に踊る。プラプラと揺れる固定された片足は、オヒメサマのものとは程遠い。私なんかに似合うのは俵抱きがせいぜいだ。
「はい、到着。おとなしくしとけよ。」
「善処はする、期待はするな。」
「はいはい、飯できてるぞ。」
そういえば今日の晩御飯は私が担当だった、と思い出し申し訳なく思う。もっともこの状態で料理をするといえば100パーセント馬鹿呼ばわりされて怒られるのだろうけど。足が治ったら数回分晩御飯係を変わろう。
てきぱきと準備をしていく彼を見てふと思う。今日の彼はずいぶんと甲斐甲斐しい。もちろん普段も優しくないわけではないし、私が怪我をしてるからというのもあるだろう。けれどいつもより口数が多いし、物理的にもひどく甘やかしてくる。抱っこされるなんて、今まであっただろうか。引いたはずの熱がぶり返しそうになり慌てて冷えた手で頬を冷やす。
「ほれ、今日は中華だ。」
「酢豚。珍しいね。」
「豚肉が安かった。」
いつかに彼が酢豚を作ったとき、酢豚の中にパイナップルが入っていて揉めた。私は料理に甘いものが入っているのが許せない。酢豚にパイナップル、ポテトサラダにリンゴ、ドライカレーにレーズン。賛否両論あるが私はあれが駄目だ。それがまあ見事に揉めた。それぞれの家庭の味があるためそれらの否定はある種宗教戦争にも似たものを持っている。実際のところはきのこたけのこ戦争と同じなのだが。
「パイナップル、入れなかったの?」
「お前が蛇蝎の如く嫌がるからな。俺も別に絶対欲しいわけじゃねえし。店のとかには入ってないしな。」
「……うん。」
私が作るのとあまり変わらない、パイナップルの入らなかった酢豚は、甘くないはずなのになんだか甘い気がした。
もそもそと食べる食卓には珍しく会話が多い。いつもなら大して話もしないし、彼の締め切りが迫ってる時なんて部屋から出てこない。
「……どうした?」
「いや、何でもないよ。おいしい。」
「それはよかった。」
楽しい。嬉しい。幸せ。
これが怪我したおかげだというなら数時間前の私に拍手を送りたい。それから、改めこの人のことが本当に好きなんだと感じた。
書面上で婚姻関係にならなかったのは、それをする必要性が感じられなかったからだ。一緒に住む。時間を共にする。それだけ。なら何も変わらない。お互い働いているしそれなりに稼いでいるから扶養には入らない。保険もそれぞれだ。
私には意地のようなものがあった。私たちの関係は誰かに認めてもらわなきゃいけないものなのか。私たちはただ一緒にいられればいいと思っている。それを誰かに認めてもらったりする必要性がどこにある。一緒にいるけど、お互いに守ったり養ったりする関係じゃない。私たちは私たちそれぞれの意思で一緒にいたいと思って時間を共にしている。
形式上の結婚なんて、無意味だ。
そう結論付けた。
今ならわかる。人に認めてもらう必要性はない。私たちは私たちだ。
けれど不安になったとき、相手を疑ってしまったとき。そんなときに第三者から認めてもらいたいのだ。相手ではなく客観的に相手を信じられるような証がほしいのだ。
今更、女々しい。
あのときそれに気が付けなかった青さと、あの頃の自信を失った今の自分。どちらも本当にしょうもない。
つけっぱなしのテレビから明日の天気予報が流れていた。
「明日、どこ行くの?」
そう言いかけた口に人参を詰め込んだ。
可愛げがなくて、素直にもなれない鉄面皮。その鎧の内側には臆病で女々しい自分を隠してる。
その中身を少しでも見せられたら、可愛げもあるというのに。
自分から隠すのに、気が付いてほしいなんて思ってる私は、引き留める言葉もかけられない。
今日の雨は深夜にはあがり、明日は雲一つない快晴でしょう。
今週もまた憎らしい晴れがやって来る。
優しい彼は、明日にはいないのだ。
**********
外はよく、晴れている。天気予報通り青い空が広がっていて、はぐれたような小さな雲が一つ浮いていた。
すがすがしい晴天の午前、なのに私は一人困惑していた。
「昨日の雨が嘘みたいに晴れたな」
晴れているのに、彼が出かけない。朝起きた時からいつ彼が外へ行くのかとソワソワしていたのだが、彼に出かける気配がない。
晴れてるのに、と雨が降っていないかと何度も外を見る私はきっと挙動不審だろう。
「そうだね。」
ベランダから部屋に戻ろうとしてさっと手を出される。差し出された手を無視すると恥辱のお姫様抱っこをされるのは昨日のうちに経験済みだ。
ソファまでエスコートされ、おとなしく座っていると彼は紅茶を入れ始めた。カップは二つ。どうやら今日は本当に出かけないらしい。
なんで、と疑問符を浮かべる自分と、一緒にいられると浮かれている自分がいて、無理やりそれらを押し込める。
「今日は、出かけないの?」
やっとの思いでひねり出した言葉は震えていなかっただろうか。
形の良い眉が少しだけ上がる。
「出かけてほしかったか?」
「そういう意味じゃない。他意はないよ。」
紅茶を差し出され受け取ると私の隣に彼も座る。休みの日の、雨の日の距離感で一瞬心臓が跳ねた。口にした紅茶は砂糖とレモンが入っている。私が一番好きな味だ。
「なあ、俺のこと嫌いか?」
「まさか、好きだよ。」
唐突な質問に心の中は荒れているのに出てくる言葉はドライだ。使い慣れた鉄面皮はピクリとも動揺を表に出さない涼しい顔。言葉以外に、きっと好意は出ていない。焦るのに、焦るのにそれ以上の言葉も継げない。疑われてしまっているなら、態度で好意を示したいのに意地っ張りな体は動いてくれない。申し訳程度に彼のシャツの端をつまむ。それが私の限界だった。
「……はぁ、そうか。」
持っていた紅茶をローテーブルに置き、何かを考えるように顎を撫でた。時折指先の触れる唇は何か言葉を紡ごうとして迷っている。
何を言われるかは、想像がついた。
これからどうしようか。好きなのはきっともう私だけなのだろう。別れよう、と言われたらなんて答えようか。どんな言い回しで言われようとも、きっと私の表情筋は動かないのだろう。
泣き言なんて飲み込みたくて、最後の瞬間まで格好つけたいから、持っていたカップで顔を隠しながら暖かい紅茶とともに流し込んだ。すると、口をカップの淵から話した瞬間、大きな手にさらわれた。
「あっ、」
「悪い、大事な話があるんだけど、いいか?」
顔を隠すカップも泣き言を飲み込む紅茶も奪われ、どうしようもなくなって両手を膝の上に置いた。
真正面から見る彼は笑っていない。どこか緊張を感じさせる面持ちで私を見ていた。
「ヒナ、」
「何、クロ、」
どんな言葉が一番最初に来るだろうか。私はそれに耐えられるだろうか。
これだから、晴れた休日はろくでもない。
「俺と、結婚してほしい。」
「……うん?」
予想を裏切った第一声は、2年ほど前に一度聞いた言葉だった。
私の一言で言いたいことは理解したらしく、ソファを立ってそれから引き出しから一枚の書類を持ってきた。
見たことはあるけど書いたことはない。私の名前の欄以外がすべて埋められた婚姻届けが彼の手にあった。
「……結婚?」
「ああ。」
「してるよね。」
「……きちんと届を出したいんだ。」
来るだろう言葉への対応ばかり考えていたから、唐突な言葉に頭が回らない。
「お前にもしものことがあっても、今のままだと俺はお前の家族だと認められない。」
もしも大怪我をして、手術をすることになったとき。同意書に家族としてのサインを彼はすることができない。いや、できることもあるがそれには煩雑な過程が伴う。今回は軽傷だった。自分で家に帰ってこられた。けれど本当に命が危なくなった時、
今の私たちには、夫婦としての当然の権利が認められない。
「お前といられればそれでいいと思ってたし、お前が俺に頼り過ぎたくないことも自立してたいと思ってることも知ってる。……それでも、俺はお前の家族としての権利を得たい。」
我がままかもしれねえけど、と付け足した彼を呆然としながら見ていた。
思う。
きっと私たちは、ただ共有する時間を、関係を、距離を測りかねていたのだ。
「クロ、」
「なあ、」
恭しく傅いて、らしくもなく芝居がかった様子で私の手を握った。
「俺と同じ苗字になってくれねえか。」
ろくでもない晴れた日に、雨男は私に証をくれた。
**********
小雨の中、家路を急ぐ。折り畳み傘を持っているが傘を差すほどではないし、家まであと5分もない。パンプスの間からじわじわと濡れていくストッキングに内心舌打ちして足を速めた。
「ただいまー。」
「お帰り。傘持ってかなったのか?」
「折り畳み傘は持ってた。」
「自慢げにいうな。差さなきゃただの荷物だろうが。」
待ち構えていたクロがタオルでワシャワシャと頭をふく。抵抗するが、それが本気の抵抗ではないことは心得ていて続行される。
「ママお帰りー!!」
「はいはいただいま。……手が黒いけど何してたの?」
「テルテル坊主!」
元気よく答える娘に、そう言えば明日は動物園へ遠足に行くと言っていたことを思い出して合点いく。
今日はずっと降ったり止んだりと小雨が続いていた。明日の天気は曇りだが、降水確率は高めだった。
「ほら、テルテル坊主作りに戻れー。ママは今から着替えるから。」
「はーい。」
再びリビングへ駆けていく娘を見送り湿った服を脱いでいく。秋も半ば、すでに寒さはわずかながら訪れている。
着替え終えてリビングへ行くと胡坐を掻いた彼の膝の上で一生懸命ティッシュを丸めている娘がいた。すでに出来上がった坊主たちは随分と表情豊かである。
「……量産型坊主たち、」
「まあほどほどで止めておく。」
ほどほど、すでに5体ほど生産されテーブルの上に転がっている。未だ生産を続けているが、ついたままのテレビにも意識が向き始めているためやや生産ペースが落ち始めている。今作っているものができたら飾る方にでも誘導しようか。
「パパ―”じじつこん”てなにー?」
「は?」
身に覚えのありすぎる単語に疑問符を浮かべるがテレビのニュースの内容だと気が付く。適当に聞き流していた割に単語だけ耳についたらしい。十中八九大した興味はないだろうし、教えたところで明日には忘れているだろう。
どう答えよう、とアイコンタクトをする。
「……名字が違うパパとママってことだ。」
「名字が”雨宮”じゃないってこと?」
「結婚すると名字を同じにするんだけど、事実婚だと名字は違うまま同じにしないの。」
「ふぅん。」
言ってもわからないだろうなあ、とお互い苦笑いをする。名字が同じか異なるか、人によっては重要なことらしいが、私たちにそれは当てはまらなかったため、この説明の仕方がわかりやすいとはいえ、少々腑に落ちないところがある。
「じゃあママは雨宮じゃなかったの?」
「そうだね、ママはね、」
あれから変わったこともあったし変わらなかったこともなかった。ただ私が思っていたよりも悪いものではなかったのは確かだった。子供ができた時だって、名字が違えばまたひと悶着あったに違いない。
ただ何よりも明確な証というものは私にとって支えになった。ひねくれていて疑心暗鬼で意地っ張りな私は少しだけ手を伸ばせるようになった。黙っていたら伝わらないことも学んで、きちんと話せるようにもなった。聞いてみれば、私が雨男などと心の中で呼んでいたことが恥ずかしい。ただ一言、「晴れの日はどこに行ってるの?」と聞けばいい、それだけの話だったのだから。
「……散歩。」
「……はあ?」
「だから散歩だ。ひたすら、外をぶらぶらしてた。……お前は俺といるのが嫌なのかと思ってた。」
「なんで!?嫌じゃないけど!」
「一緒にいると黙ってばっかだろ!」
「いや、その、それは……、」
「…………うん?」
「その、喜ぶというか、楽しいというか、えと……そういうのを噛み締めてると、つい、無言に、」
「…………そういうのは、言え。ちゃんと言え。可愛がるし構い倒すから。」
「柄じゃないから嫌なんだよ!」
雨の休日だけ、同じ時間を共有できていた雨男のいる部屋。
蓋を開ければただただお互い言葉足らずですれ違っていただけだった。
絡まったものを解いて、それから私たちの在り方に名前を付けた。
「ただいま。」
「ああ、おかえり。」
大切な家族のいる部屋。
自然と口角が上がっていた。
読了ありがとうございました!
以下いらない設定
クロ……雨宮勝呂
ヒナ……雨宮瑚雛