比翼連理の道すがら(慧霖)
告白しよう。
味噌汁の支度をしながら、上白沢慧音はそう思った。霖之助に、告白しよう。
言っちゃあなんだが恋する乙女である。自分より背の高いものが今よりずっと多かった頃から、ひとつの恋心を温め続けている少女である。この数十年間、冷めたことなど一度もない。
その恋心に、ひとつ節目をつけよう――そう決心するような出来事が、今日、あった。
告白された。
嘘だ。
告白されている現場を目撃した。
家の物陰から妙な話し声が聞こえたので、怪しいやつかと思って忍び寄ったら、まさに現在進行形の真っ只中だった。
声からして、まだうら若い少年少女だったはずだと慧音は思っている。反射的に息を殺して耳をそばだてた。告白しているのが少年で、されているのが少女だった。若いくせに、いや若いからこそなのか、聞いているこっちまで赤面してしまいそうなくらい熱くまっすぐな口上だったことを覚えている。
それがあんまりにも情熱的だったから、気がついた時には少年を霖之助に、少女を自分に脳内変換していた。
えへへぇ、とだらしなく笑った。
霖之助の口からああも熱烈な台詞が紡がれるとは、到底思えないけれど。
いやそれ以前に、あの超絶鈍感絶食出不精朴念仁の甲斐性ナシが告白など、夏に豪雪が降る以上にありえないけれど。
それでも焦がれて已まないのは、恋をしてしまった業というやつなのだろうか。
不思議なこともあるものだ。
味噌汁の濃さを確かめながら、上白沢慧音はそう思う。こう言っちゃあなんだが、いや好きになったからこそこう断言できるのだが、霖之助は決して『いい男』ではない。素材こそまずまず整っているものの、肝心の中身がダメダメだ。超絶鈍感絶食出不精朴念仁の甲斐性ナシ。あいつの辞書に、『恋』及び『乙女心』に準ずる単語は一切載っていない。
そんな男を好きになるなんて、我ながら正気の沙汰じゃあないなと思う。
けれど恋なんて、どれも正気じゃあないのかもしれないなとも思う。
幻想郷には、そんな正気じゃない女の子がたくさんいる。
霖之助の周りには、そんな正気じゃない女の子が、たくさんいる。
少年が少女にまっすぐ告白する姿を見ていたら、思いの外、幼馴染という今の関係に疲れてしまっている自分がいることに気づいた。もちろん、日々の生活の中で霖之助に会えるのは嬉しい。胸の高鳴りが自覚できるほどに嬉しい。けれどそれが影を生み出す光であるように、いつも心のどこかで、チクリと痛むものを感じている。
霖之助は私のことをどう思っているんだろう、とか。
他の女たちのことはどう思っているんだろう、とか。
このままでは誰かに先を越されるかもしれない、とか。
いつまでこんなことを続けるつもりなんだろう、とか。
最近あの女と仲がいいなとか、この頃霖之助の態度が素っ気ない気がするとか、霖之助は誰を選ぶんだろうとか、私を選んでくれるのだろうかとか、誰も選ばないのかもしれないとか。
そういう小さな痛みも、時が嵩み数が嵩めば、やがては耐え難い苦痛となるようで。
思いの外、疲れていた。
告白しよう。
にんじんを銀杏切りにしながら、上白沢慧音はそう思う。
この恋に、区切りをつけよう。人の告白を聞いた直後で熱に浮かされているのかもしれないが、とにかくそういう気分だった。だから今のうちにやってしまえばいいと思った。どうせいつまで待ち続けても、霖之助の方から告白してくれる日なんて絶対に来やしない。慧音が霖之助を好きである限り、永遠に消えないこの胸の痛みは、慧音自らの手で解決させるしかない。
例えその結果、恋を失うとしても。
時とともに癒える失恋の痛みは、永遠に続く恋の痛みよりもきっと、苦しくはない。
だから、告白しよう。
じゃがいもの皮を剥きながら、上白沢慧音はそう心に決めた。
今から一週間前の話である。
○
「――で結局、未だに好きの『す』の字すら言えてないと」
「いや、『す』までは言えたんだ」
「お黙り」
「……はい」
妹紅の半目がグサッと突き刺さって、慧音はしおしお縮こまった。つまりはそういうことなのだった。
――霖之助、私はお前のことが、す、すっ、――すいぎょーざでも食べようか、今日は! ……え、餃子の材料なんてないって? そ、そうだな! あはは!
しにたくなった。家に帰ってからこっそり泣いた。
まったく、と妹紅が呆れかえっている。
「好きです、って。たったそれだけのことに、どんだけ時間掛けるつもり? このままじゃあ、告白する頃にはおばあちゃんになっちゃってるんじゃないの」
「う、うう……」
まったく返す言葉もない。早々に白旗を挙げた慧音は妹紅から目を逸らし、誤魔化すように、酒にちょびちょびと口をつけた。
慧音はあまり酒を嗜まない。嫌い、というわけではないけれど。人里の守護者として、或いは寺子屋の教師としてふしだらな生活を送っては面目がないから、数日に一度、ほどほどに傾ける程度を基本的には守っている。酔っ払うくらいまで呑んでしまったのは、霖之助が独り立ちし、人里を去った日の夜が最後だろうか。
酒を酌み交わす仲間も多くはない。今隣にいる妹紅と、色々と長い付き合いである阿求と――最近は白蓮と酒を分けることも増えたが、強いて名前を挙げればそれくらいで、あとは宴会の時にたまたま注いでもらったり、注いだりする程度。
そんな酒をあまり嗜まない慧音だが、ここ数日は毎晩、妹紅に相手をしてもらっていた。理由など、言うまでもなく。今日こそ告白できたんだろうねっと乗り込んでくる妹紅に夕食を作ってやって、そのまま晩酌に突入する。どんな理由があっても呑みすぎるわけにはいかないので、極力、ほろ酔いで済ませているけれど。
お陰でこうして家の縁側から仰ぐ月も、随分と見慣れてしまった。
徳利をゆっくり呑んでいる慧音の横で、妹紅は既に瓶一本を空にしていた。
「でもさあ、真面目な話さっさとした方がいいと思うよ。早い者勝ちってわけじゃあもちろんないけど、霖之助に気がありそうなやつらは結構いるし」
常日頃から香霖堂に入り浸っている魔理沙と霊夢を筆頭に、店の上客である咲夜、読書仲間のパチュリー、外の知識という強力なアドバンテージを持つ早苗、なぜかちゃっかり霖之助の隣にいることが多い妖夢など。彼女たちがあの朴念仁に想いを寄せているのかは断言できないが、仮に明日誰かが告白に踏み切ったとしても、それほどおかしな話ではないと慧音も妹紅も思っている。
たった一言の「好き」が言えないで先を越されたなんて、惨めすぎて笑えもしない。
だから、ようやく告白しようと思えた今を逃すなと、もう耳が痛いほど聞かされているのだけれど。
「何度も言ってるけど、私はアドバイスできないからね。好きな人なんていないし。自分の力でなんとかしなさい」
お前は、恋をしたことがあったか? ――この晩酌を始めて二日目あたりに、そう、妹紅に尋ねたことがあった。
あったよ、と言われた。
あったけど、忘れたよと。
覚えてても意味ないからねと、彼女はあっけらかんと笑っていた。
落ちる時は落ちるのが恋とはいうものの、彼女は不思議とどの異性にも近づきすぎず、また近づかれすぎなかった。見た目は相当な美少女なのに、告白のひとつくらいされていてもおかしくないのに、ただの知り合いという、決して一線を越えない絶妙な距離を保つのが上手かった。
すべての人たちに先立たれていく身だから。
霖之助が相手でも、それは変わらない。
「……お前は、霖之助のことをどう思ってる?」
「弟みたいなもんかなー? あいつがこんなだった頃から知ってるしね」
段々酔いが回ってきたのか、くひひとおかしく笑いながら、妹紅は自分の胸元あたりに平手を置いていた。
「早く、いいお嫁さん見つけてほしいんだけどねー」
「……」
見つけてもらいたいと、何度夢見たことか。
アピールは十二分にしてきたつもりだ。自分で言うのもなんだが、ほとんど通い妻同然の立ち位置にいると思っている。二、三日に一度は様子を見に行って、料理を作ったり掃除をしたり、談笑したり小言を言ったりしている。さすがに泊まったことは、ないけれど。でも香霖堂のことなら、或いは霖之助以上に、隅々まで知り尽くしている自信がある。
しかし一方で、そこまでやってもまったく距離を縮められない自分が情けなくもある。
霖之助も霖之助だ。普通、そこまで世話を焼いてくれる女の子が身近にいたら、「これはひょっとして」とか自惚れた期待をしてしまうものではないのか。ちょっとは意識してしまうものではないのか。台所で包丁を振るい、掃除をして回る女の後ろ姿を、いつの間にか目で追ってしまうものではないのか。今のところ、そんな視線を感じたことは一度もない。
……そんなに魅力ないんだろうか、私。
しょぼくれていたら、しょーがないなあ、と妹紅が大仰にため息をついた。
「では思い悩むけーねさんに、この私が秘密の道具を授けて進ぜよー」
「えっ」
慧音は目を丸くして妹紅を見た。まだ、アドバイスしないと言った舌の根も乾いていない。
しかし、秘密の道具とは。内心期待する慧音に、妹紅がぶっきらぼうに差し出したのは、
「ん」
「……酒?」
新しく封を切ったばかりの酒瓶であり、
「ん」
「……ああいや、私はもう充分呑んだから」
「ちがぁう! 霖之助にお酒呑ませて酔っ払わせて、きせーじじつ作っちゃえばあとはどーでもってちょっと待ったけーねやめ」
今日の頭突きは活きがいいぞ。
ゴチンと一撃。みぎゃあと悲鳴。
後日確認してみたが、やっぱりこの時の妹紅は、かなり酔っていたらしい。
○
「――霖之助っ、あの、その……私はだな、その……す、すっ――すきやきにしようか、今日は!」
「手伝おうかい?」
「いや大丈夫だ、本でも読んで待っててくれ! あはは!」
「――というわけで、『すき』は言えたぞ!」
「バカじゃないの?」
○
結局、お酒の力を借りることにした。
きせーじじつの云々はなしにしても、酒に酔うと普段は言えない本音をぶつけられるというのはよくある話だ。そうやって仲を深めた男女というのもいくらか知っている。告白を決意してからもう二週間が経とうとしてしまっている以上、酒代がそろそろバカにならなくなってきてしまっている以上、可能性のある手段はなんだって試してみるしかないと思った。
「……珍しいね、君が酒に誘ってくるなんて」
「ま、まあいいじゃないか、たまには」
というわけでいつも通り香霖堂にやってきて、いつも通り掃除をしていつも通りに夕食を摂ったあと、慧音は霖之助に月見酒を勧めてみた。霖之助は初めこそ意外そうな顔をしたが、快く了承して、二人分の酒と猪口を縁側まで持ってきてくれた。
香霖堂で霖之助と二人きりで酒を呑むのは、いつ以来だろう。ひょっとすると初めてかもしれない。あまり酒を嗜まない慧音がここにやってきてまで呑もうとしたことはまずないし、霖之助もそんな慧音の節制を察してか、誘ってくれたことはほとんどなかった気がする。
こんな風に隣同士で座って、青白い月明かりの下で、「乾杯」と言い合ったのなんて。
霖之助が独り立ちし、人里を去ってからというもの、初めてなのかもしれない。
最初は、とりとめのない話をした。本題に入るためにはまず酔わなければならないから、寺子屋のことや歴史編纂の作業について話をして、香霖堂の経営や、魔理沙と霊夢の傍若無人っぷりについて話を聞いた。
その間に、なるべく速いペースで酒を呑んだ。慧音は酒を好んで呑まないくせに、アルコールには結構強い。こんなんじゃあまだまだ酔えない。酔わないことには、霖之助に本当の気持ちも伝えられない。
本当に僕の店を店として利用してくれる人が少なくて少なくて、とさめざめ垂れ流される愚痴を適当に聞き流しながら、呑んで、呑んで、呑んで――
「……君がそんなに勢いよく呑むなんて、輪をかけて珍しいね」
「えっ……そ、そうか?」
いつの間にか愚痴をやめていた霖之助が、不思議そうな目で慧音を見ていた。
慧音は少したじろいだ。
「昔から、呑む時は呑む方だったじゃないか……」
「そうかい? 僕が知る限り、君がそんな風に呑んでいるのを見たのは……」
彼は天上の月を見上げ、懐かしむような口振りで、
「……僕が里を発つ直前の夜が、最後だったはずだけど」
「……」
霖之助が行ってしまうのが嫌で、人生で初めて自棄酒をしてしまった時のことを、慧音もまた思い出した。少し、恥ずかしくなった。
「お、覚えてるんだな。そんな前のこと」
「君のことだからね」
……超絶鈍感絶食出不精朴念仁の甲斐性ナシのくせに、たまにこういうことをさらりと言うから困る。
私だって、と慧音は思う。慧音は、人里に住んでいた頃の霖之助も、独り立ちしてからの霖之助も、みんなみんな覚えている。記憶力がいいからとか、歴史を編纂する力を持っているからとかそういうのは関係なしに、霖之助のことだから、覚えている。
霖之助は一体、どこまで覚えているのだろう。どれほど、覚えてくれているのだろう。慧音にとってあの頃の記憶は忘れようのない宝物だが、霖之助にとってはどうなのだろう。深く心に刻まれた思い出なのか、それともたまたま忘れないでいるだけの記憶なのか。
霖之助が、ぽつりと言った。
「それで、話はなんだい?」
「えっ、」
ドキリとした。彼はほんの短い間、淡く笑った。
「君が僕を酒に誘ったのは、ただの気まぐれなのだろうか」
「……」
見抜かれていた。驚いた――と同時に、呆れた。どうしてこの朴念仁は、色恋が絡むとからっきしのくせに、こういう時だけ無駄に鋭いのだろう。
こういう、まだ心の整理がつけられず躊躇っている時に限って、ズカズカとなんの遠慮なく踏み込んでくる。
酔いは、まだ回らない。
「……里に、戻ってくる気はないのか?」
視線を落とし、逃げるようにそう問うていた。今までにも、何度か尋ねてきた問いだった。そして今まで一度も、肯定以外の返事を聞いたことのない問いでもあった。
今回も霖之助は、これといって悩んだ素振りも見せずに、ああと即答した。
「何度か言ってると思うけど、今のところ考えたことはないよ」
「……」
唇を噛むのを、酒を呑んで誤魔化した。
「……里は、居心地が悪いか」
「いいや、そんなことはない。君のお陰で、人間たちの人外に対する差別意識はほぼ改善されたといっていい。戻ろうと思えば、いつでも戻れるさ」
逆を言えば、戻ろうと思わない限りは戻らないということだ。
「……理由を、訊いても?」
霖之助についてなら大抵のことはわかる慧音でも、彼がどうして人里を離れ、なぜこんな辺鄙な場所に店を構え、そして何故いつまで経っても戻ってこようとしないのかは、あまり見当がつかなかった。戻ろうと思えば戻れるが、戻らない。そんな曖昧な気持ちで彼を留まらせるなにかが、人里と魔法の森の境界にはあるのだろうか。
それとも逆に、人里に――慧音の隣に戻りたくない禍根があるのか。
知らず猪口を持つ手に力がこもる慧音になど見向きもせず、霖之助の答えは呑気なものだった。
「魔理沙の家が近いからね。あの子もまだまだ危なっかしい年頃だから、近くで様子を見られるのは、都合がいいと思ってるよ」
嘘だ。いや、嘘ではないのだろうが、そんなものは理由のほんの一部でしかないはずだ。魔理沙が魔法の森に家を建てたのは、霖之助が独り立ちしてからずっとあと。彼がこの場所を離れない理由にはなるかもしれないが、そもそも人里を去った説明はつけられない。
「他には」
「そうだね……ここは、人里と魔法の森――要するに人間の領域と妖怪の領域の挾間に位置する場所だ。人間でもあり妖怪でもある、どっちつかずな僕にはお似合いだと思うし、僕自身、人妖の違いに囚われない道具屋でありたいと思ってる。これといって店を繁盛させたい欲が強いわけでもないしね、かといって閑古鳥が鳴くのも困りものだけど。ある程度のお客さんたちと円満な付き合いができればそれで満足――まあ現状は、みんなから都合のいい休憩所扱いされて、それすらもできていないわけだけど」
「……本当に? 本当にそれが理由なのか?」
食い下がったら、さすがに少し不審げな顔をされた。
わかっている。多分霖之助は、ここから先に踏み込まれることを望んでいない。しかし、「戻る気はない」と言われて「そうか」と答えて終わるはずの問答を、今はなぜか、有耶無耶にしたくなかった。
少し、酔ってきたかもしれない。
「……他でもない僕自身が言うんだから、そうだろう?」
「……本当に、それだけが、理由なのか?」
嘘をつかれているとは思わない。ただ、はぐらかされているとは感じる。一番大切なところを、何食わぬ顔で躱されていると。
「私にはっ、……私には、教えてくれないのか?」
思っていたより語気が強くなってしまったのに自分で驚いて、途中で区切り、言い直す。そこで慧音はふと、どうして自分がここまで食い下がるのかをなんとなく理解した。
悔しいのだ。
何十年も一方通行で、数日おきに通い妻みたいに世話を焼いて、数え切れないくらいのアピールもして。
それでもこの朴念仁が、慧音の隣になんの興味も示してくれないから、悔しいのだ。だから、相応の理由を聞かないと納得できない。知り合いの家が近いからとか、この場所が自分に似合っているからとか、別に儲けなくてもいいからとか、そんなんじゃあ全然。
霖之助は、人里に戻らないでいる一番大きな理由を隠している。
それを聞かせてもらえない限り、納得なんて絶対にできない。
そういう気分だった。
霖之助が困ったように笑った。少なくとも慧音には教えられないと、そう言うかのような意地の悪い笑顔だった。
「というか、君……僕に、戻ってきてほしいのかい?」
「っ……」
表情を変えないようにするのにひどく苦労した。持っていた猪口を破壊しそうになった。すんでのところでこらえたが、ひびくらいは入ったかもしれない。
本当に――本当に、なんでこの男は、こうなのだろう。怒りと悲しみと呆れがごちゃまぜになったよくわからない感情が渦を巻いて、慧音は震える唇で、ゆっくりと長いため息をついた。
段々、酔ってきた。
「……戻ってこなくていいと、一度でも考えたことがあると思うか?」
胸の奥でのたうつ感情の割に、言葉は意外と冷静だった。
「あの頃に戻れたらいいと、何度考えたと思ってるんだ……」
「……慧音?」
上手く聞き取れなかったのか、霖之助が訝しげに慧音の名を呼んだ。慧音は応えず、俯いたまま、ひとつ静かに深呼吸をした。
里に戻ってくる気はないのかと問うたのは、いきなり核心に踏み込んできた霖之助を躱すための、単なる急場凌ぎだった。だが図らずしも、問うたお陰で心の具合がいい感じに整ってきていた。ほどよく酔いが回って、ついでに、苛々している。
今なら、言えそうだ。そうだ、言ってやらないとならない。隣に座っている朴念仁に、いい加減に女の心をぶつけてやらねばならない。
自分の気持ちはもちろん、他に彼へ想いを寄せる少女たちの心も、全部代弁してやるくらいの気持ちで。
「私は今でもお前に戻ってきてほしいと思ってるし、そもそも、あの時里を離れてほしくなんてなかった。毎日おはようを言って、おやすみを言いたい。毎日お前の店を手伝ってやりたいし、寺子屋で一緒に勉強を教えたりしてみたい。毎日一緒に買い物に行って、一緒に夕飯の献立に悩みたい。台所に近寄らないお前のために毎日料理を作って、美味しいと言ってもらいたい。毎日一緒に、こうやって、同じ月を見上げていたい。全部、あの頃からなにも変わっていない」
「……」
「幼馴染だからなんて思うなよ。……霖之助、私は」
息を、吸った。霖之助をまっすぐに見た。霖之助は戸惑った顔をしていた。慧音はもう、躊躇わなかった。
「あの頃も今も、お前の傍にいたいし、傍にいてほしい。好きなんだ」
霖之助の瞳が、ひどく揺れた。それが痛快で、慧音は笑った。
「……ああ、唯一変わったものがあるな。あの頃からお前のことは好きだったが、今はもっと好きだ」
気づいていなかっただろう、朴念仁め。そう言って慧音は体から力を抜いて、霖之助の肩に頭を預けた。
月を見上げ、もう一度だけ、
「……朴念仁め」
「……」
霖之助は、片腕に預けられた慧音の体を、受け入れもせず拒絶もしなかった。ただ強張った体で、たっぷりと長い時間を掛けて息を吐き、譫言のように、「そうか」とだけ言った。
「……そうか」
「ああ」
「……」
「……」
十秒が経った。
「…………」
「…………」
三十秒が経って、
「……………………」
「……………………、」
一分、
「……は? ちょっと待て、今ので終わりか?」
「え?」
「いや、え? じゃない」
慧音は霖之助の腕から離れ、信じられないモノに出会った目で彼を見上げた。
だってこいつ、女が一世一代の気持ちで告白したというのに、よりにもよってだんまりとか、
「お、お前という、やつはぁ……っ……!!」
自分の中で、ぷっちんとなにかが切れた音がした。
今度は、今度ばかりは、我慢なんてできなかった。
「――このバカッ!! バカバカバカ、バカバカァッ!! なんで、なんでなにも言わないの!? 私の話聞いてた!? 好きだって! 好きだって、言ったのに……っ!」
猪口なんて投げ捨てて、全身で霖之助の胸倉に掴みかかった。恋心を温めた数十年間、ずっと我慢してきた色々なものが決壊してしまって、幼い頃に逆戻りした言葉遣いも構わずに、
「バカッ!! 鈍感!! 絶食!! 出不精!! 朴念仁!! バカ!! 甲斐性なし!! バカッ!!」
「け、慧音、落ち着」
黙れ。胸倉を掴んだ両手で、殴りつけるように、霖之助を揺さぶった。
「それだけ!? 私の、私の告白って、それだけなの!? その程度なの!? そうかってなに!? なにがそうかなの!? なんでそれしか、言ってくれないの……っ!!」
信じられなかった。こんなの、はっきりと断られた方がまだマシだった。そうか、だけ。肯定でも否定でもない。まるで、どっちでもいいとでも言うかのような。
そこまで――そこまでこの男は、慧音に、慧音の恋に、興味を持ってくれていないのか。
好きだと言われても、どうでもいいのか。
最悪だった。考えうる限り、これ以上ない最悪の返事だった。
「け、慧音、」
「うるさいっ!! 霖くんなんか、霖くんなんか……っ……!!」
霖之助の焦った声を蹴散らした。彼がどんな顔をしているのかは見えない。涙で、もう、なにも。
頭を振り上げる。
「ま、待つんだ! それは誤解」
「霖くんの、ばかあああああああああああああああっ!!」
振り下ろす。もう全部、壊れてしまえばいいと。
壊れてしまいたいと、そう思って。
○
「――慧音。慧音」
名前を呼ばれた気がして、慧音はゆっくりとまぶたを上げた。まだ目元に涙が残っていて、上手く焦点が合わない。霧が晴れるように視界が回復していくのを感じながら、どうなったんだろう、と慧音は思った。
痛みがない。激情のまま振り下ろした頭突きは間違いなく全力全開、いや全力全壊だったから、痛覚までおかしくなってしまったのだろうか。それになんだか、頭の両側を、大きく優しいぬくもりで包まれている気がする。
霧が晴れた。
「まったく……危なかった」
目の前に、霖之助がいた。
霖之助の顔があった。
というか、霖之助の顔しかなかった。
霖之助の顔が、視界いっぱいに広がっていた。
「………………………………ゃ っ、」
音みたいな声が出た。あっという間に体に火がつき、全身の温度がみるみる上昇を開始する。微動だにできない慧音の目と鼻の先で、霖之助はほっと胸を撫で下ろしている。
「さすがにあんなのを喰らったら気絶どころじゃ済みそうになかったからね。受け止めさせてもらったよ」
「……、」
慧音の側頭部を包んでいるぬくもりは、霖之助の大きな両手であり、
「自慢じゃないけど、幻想郷じゃあ一番君の頭突きを喰らい慣れてるから、受け止めるタイミングは心得てる。いつもやられてばかりというわけではないよ」
「…………、」
霖之助がなにを言っているのか、全然まったく理解できない。空気の振動を耳が拾ってはいるものの、それを脳が声だと認識できない。
ぐつぐつと血の煮えたぎる音がする。
だって要するに、今の状況は、
「とにかく、落ち着いてくれ慧音。黙っていたのは悪かった。でもそれは、」
「……………………、」
下手をしたら、鼻の先っちょがくっついてしまいそうなほどの超至近距離は、
あとほんの数センチ前に動くだけで、冗談抜きで、
唇が、
「ふ」
「……慧音?」
「ふにゃぁぁぁ~……」
結果、慧音はのぼせた。酔いが凄まじい勢いで全身を駆け巡り、あっという間に限界を超えて、慧音は意識を失った。
唇がくっついた妄想を、頭の中で繰り広げながら。
○
糸が切れたように崩れ落ちた慧音を、霖之助は慌てて抱きかかえた。急に変な声をあげて一体何事かと思えば、彼女は両目をぐるぐる巻きにして、「ぁぅぁぅぁ~……」などと譫言を言いながら失神していた。
浴びるような勢いで呑んだりするからだ、と霖之助は思う。
「まったく……」
せっかく弁解しようとしていたところなのに、間が悪いやら。だがこうなってしまった以上はとりあえず、どこかで寝かせてあげるのが先だろう。布団が敷きっぱなしになっている、自分の寝室を使うのが楽かもしれない。
自分の布団に女性を寝かせるのは抵抗があるが――慧音なら、まあ。
左腕は、慧音の背に。右腕は、腿の裏に。そうやって彼女の体を横抱きにして、よっと一息で立ち上がる。
ふらつくことはなかった。
「……君は随分と、軽くなったね」
いや、霖之助の腕っ節が強くなったのだ。昔、転んで怪我をした慧音を負ぶったことがあったが、あの頃はもやしみたいな少年だったせいで両脚がぷるぷる震えていた。「霖くん、私、ひとりで歩けるから……」と心配そうに何度も言う慧音に、「いいから! 大丈夫だから!」とぷるぷるしながら何度も意地を貫いた。家に辿り着くなり力尽きてしまって、本来介抱すべき慧音に介抱されてしまったのは、今でも心底情けなかったと思っている。
本当に、よく覚えている。
寝室に向かうまでの間、霖之助はずっと、慧音からぶつけられた言葉のことを考えていた。慧音は、酔っ払っていた。それも、こうして失神してぶっ倒れてしまうくらいにだ。ならばあの言葉は、あの涙は、酒が生み出したただの幻だったのか、それとも紛れもなく彼女の本心からこぼれ落ちたものだったのか。
――酔っ払っていたんだ。それでつい正気じゃなくなって、おかしなことを言ってしまっただけだろう。気にしない方がいい。変に意識して、それでもしただの思い過ごしだったら、恰好悪いじゃないか。
――確かに彼女は酔っ払っていた。だがいくら酔っていたとはいえ、あんなことをまるっきりの嘘で言えると思うか? いい加減に気づいてやったらどうだい。本当はわかってるんだろう?
二人の自分の声が、聞こえる。
そうこう腐心しているうちに寝室の前までやってきたので、足を使って四苦八苦しながら襖を開けた。月明かりによって青白く照らされた室内では、朝起きた状態からなにも変わっていない布団が、薄闇の中でぽっかりと浮かび上がっている。
花を生けるように丁寧な手つきで、起こしてしまわないよう、慧音をそっと布団に寝かせる。
「……」
そこでふと、慧音の寝顔がまじまじと目に入ってきた。ぐるぐる巻きになっていた両目はすっかり落ち着いて、酔いで色づいた赤ら顔のまま、彼女は穏やかな寝息を立てている。
音もなく、ため息が出た。
「……好き、か」
言葉の真偽はさておいて。
あんなにもはっきりと、かつ真正面から言われてしまえば、さすがの霖之助にも響くものがある。
「……慧音。僕はね」
この声は、彼女に届いているのだろうか。僕は彼女に語りかけているのだろうか。それとも独り言を言っているのだろうか。
どちらでも、構いはしなかった。
言った。
「僕もね、君のことが好きだったんだよ」
慧音はなんの反応もなく、静かに眠り続けている。霖之助はひとつ深呼吸をして、また続ける。
「当時は自覚していなかったけど、今になって思えば、あれは恋というやつだったんだろう。初恋だった」
気づいていなかっただろう、朴念仁め。慧音に言われた言葉を、そっくりそのままお返しした。
「大体鈍感とかね、君に言われたくはないんだよ。今となっては昔のことだが、自分が周りの少年たちからどんな目で見られていたか、君はまったく気づいていなかったじゃないか。あの頃君に恋をしていたのは、一人や二人どころの話じゃない」
みんなが慧音に恋をしていた。半妖だとか種族の壁だとか、まったく関係なかった。みんなが慧音に惹きつけられていた。
霖之助だって、その中の一人だった。ただ同じ半妖である分、純粋無垢な恋というよりかは、ある種の尊敬を交えた感情ではあったが。
どの道、紛れもない初恋だった。
「こういうのもなんだけどね――太陽みたいだと、思っていたよ」
眩しい人だった。半妖だからといじめられたりすると、相手が男だろうが複数だろうが関係なく、勇猛果敢に立ち向かっていった。そしてお互いの心を言葉でぶつけ合い、時には拳まで交えているうちに、気がつけばすっかり和解して、それどころか慕われるようにすらなっていた。
まるで魔法使いだ。
そんな慧音の姿が、当時の霖之助には、あまりにも眩しかった。
「そう、太陽だった。……だからこそ、見上げていることしかできなかった」
昔の霖之助は、自分でも笑えるくらいに根暗でシニックな少年だった。半妖の子どもなんてそんなものだ。むしろ、半妖でありながらも誰よりも明るく、誰よりも強く、誰よりも眩しい慧音の方が異常だった。
明るすぎる光は、一方で影の色を濃くする。
霖之助は、人に溶け込んで生きる半妖の少女に恋をし――それ以上に、嫉妬した。
「隣に立つのなんて、絶対に無理だと思ったよ」
今でこそ冷静に分析できるようになったものの、恋と嫉妬という相反する感情を一人の少女に抱えた当時の自分が、果たしてどれほど狼狽えたかは言うまでもない。
「……理由はそれだけなのかと、君は訊いたね。ご指摘の通り、僕が里を離れたのにはもうひとつ、決定的な理由があった。慧音、君だ」
だから霖之助は、人里から――慧音から離れることを決めた。
「お恥ずかしながら、里で君の姿を見ている限り、自分の気持ちに整理をつけられそうになくてね。だから一旦距離を置いて、どこかひとり落ち着ける場所で、冷静に考え直してみようと思ったんだ。
もちろん、それだけが理由だったわけではない。君がいなければ僕は里に居続けたかといえば、そうでもない。独り立ちしたかったのも、この場所が気に入っていたのも本当だ。いくつかの理由がタイミングよく重なったから、僕は里を離れると決めた」
ひょっとするとそれは、逃避だったのかもしれない。今口にしているこの言葉だって、恋心に翻弄させるばかりだった当時の自分に対する言い訳なのかもしれない。
「そしてしばらくここで頭を冷やしていたら、君が好きだったことに気づいた。……でも先ほど言った通り、僕は君を見上げるばかりだったからね。戻ろうとは、思わなかったよ」
慧音という少女は、霖之助如きが人生を縛っていい相手ではない。慧音には、人のために生きるという道を歩き続けてほしい。それは、霖之助には選べなかった道だから。
なんていうのは、恰好つけた言い訳。どんなにそれらしい理由を重ねても、結局は霖之助に勇気がなかっただけであり、勇気を出そうとも思わなかっただけの話だ。
自分に嘘を、つき続けた。
「そうしているうちに、いつしか君への感情は落ち着いていた。今でも同じ半妖として尊敬してはいるが、もうあの時のように、君の姿を目で追いかけることはない。不思議な感じだったけど、その方がいいんだと思ったよ」
慧音が眠る枕元で、正座をして。
窓の向こう側で青白い、月を見上げて。
ぽつりと言う。
「……僕は、間違えていたんだろうか」
霖之助は慧音が好きだった。慧音は霖之助が好きだった。霖之助は恋を捨てた。慧音は捨てなかった。
ほんの少しの勇気を出して、歩み寄れば、きっと傍にいられたはずなのに。
なのに自分に嘘をついた霖之助は、愚かだったのだろうか。
「あの頃の気持ちを思い出してもいいのかと……そう考えてしまう僕は、卑怯だろうか」
ひょっとすると、それはひどく浅ましいことなのかもしれない。自分から諦めたことなのに、自分で望んだことなのに、慧音の気持ちを知った瞬間、安全なのだとわかった瞬間、掌を返して、また恋をしようだなんて。
例えそうしても、慧音は霖之助を笑って許すだろう。だが慧音に許される自分を、自分は果たして許せるだろうか。そんなやり方で慧音の隣に立った自分は、なにも後ろめたいものを持つことなく、心から彼女の恋人を名乗れるのだろうか。
首を振った。
「……僕も、寝るかな」
慧音に比べれば呑んだ量など十分の一程度だが、存外、霖之助も酔っているのかもしれない。
立ち上がる。なるべく余計な音を立てないような、そして後ろ髪を引かれるような足運びで、部屋をあとにしようとする。
「……霖くん」
名を呼ばれた。
「間違えたら、」
振り返った。慧音は、眠っていた。霖之助に背を向ける方へ寝返りを打って、聞き逃してしまいそうなほどに小さく、ぼんやりとした声だった。
「――間違えたら……また、やり直せば、いいんだよ」
そして最後に、もう一度だけ、
「霖くん」
……霖之助と慧音が、今でいうちょうど寺子屋を卒業するくらいの歳になった頃の話だ。近所の子どもから、「お前らそんな風に呼び合って、付き合ってんのか~?」とからかわれた。彼もまた慧音に恋する少年の一人だったから、霖之助と慧音の関係に嫉妬して茶々を入れたのだろうと今になれば思う。
しかし当時はその茶々が、どういうわけか並々ならぬほどに恥ずかしくて、その日を境にして霖之助と慧音は、互いの名前を呼び捨てし合うようになった。
昔の話だ。
月夜に溶かすように、笑った。
「おやすみ。……慧ちゃん」
とりあえずの方向性は決まった。あとは明日、慧音が目を覚ました時に、どんな言葉で直談判するか――それは、布団の中でひとり静かに考えるとしよう。
寝室をあとにし、縁側の酒を片付けてから、香霖堂唯一の空き部屋に向かう。半分以上物置と化していた部屋を適当に掃除して、布団を敷いて、寝転がって、慧音のことを考えて。
意識が途切れる間際まで、慧音のことを考え続けた。
いつ意識が途切れたのかは、覚えていない。
○
「――ほあああああああああああああああっ!?」
その日の鶏は、かなり珍妙な鳴き声だった。耳をつんざく甲高さは一緒だが、鳥というよりかはまるで少女の絶叫のような
「……慧音っ!?」
飛び起きた。鶏なわけがあるか。今の絶叫は、他でもない慧音の声ではないか。
慧音のことを考えているうちにいつの間にか寝落ちていたらしく、外はもう完璧に明るくなっていた。朝日の差し込み具合からして、かなり朝寝坊のようだ。泥酔した慧音が目を覚ましてもおかしくない時間ではあるが、だとすればなぜ鶏みたいな声をあげるに至るのか。
よくない想像が脳裏を過る。跳ね起きた霖之助はぐしゃぐしゃな布団もそのままに、部屋を飛び出し廊下をけたたましく鳴らし、一直線に慧音を寝かせた寝室へと、
「――慧音っ!!」
「ひゃわああああああああっ!?」
襖を開けた瞬間、真上に飛び跳ねた慧音がバランスを崩し、顔面から布団に突撃した。そしてそのまま布団を被って、『頭隠して尻隠さず』の図として国語の教科書に載せたくなるような恰好をした。
布団の中から、くぐもった慧音の声が聞こえる。
「霖之助か!? ひ、人の部屋にいきなり入ってくるなばかっ!!」
霖之助は慧音の尻を半目で見ながら、
「いや、ここは僕の部屋だけど」
「……や、やっぱり!? あああっあれって夢じゃなくて現実だったのか――っていうことはこれって霖之助の布団じゃないかあああああっ!?」
道理で霖之助の匂いがすると思ったぁ! と叫んで、しばーん! と布団を明後日の方向に放り投げる。それからすぐに両手で頭を抱えて、あああああとその場に蹲って丸くなる。
元気だなあ、と霖之助は思う。
なにがなんだかさっぱりわからないが、とりあえず緊急事態ではなさそうなので、安心した。
「まったく、なんでもないのに突然叫ばないでくれるかい。心臓に悪い」
「なんでもないわけがあるかぁっ! だって、私、昨日、というか、お前がぁ!」
慧音は混乱の極みにいるようだった。焦るあまり言葉が文として意味を成していないし、なによりその、霖之助に尻を向けた体勢はどうにかならないのかと云々。
吐息。
「昨日は、随分と呑んだじゃないか」
「えっ、あっ、そうだな! ほんと呑みすぎちゃって……」
「昨日のこと、どこまで覚えてる?」
びくりと、慧音の体が震えた。頭を上げた彼女は恐る恐る振り返ろうとしたが、寸前で思い留まって、霖之助に寝癖で飛び跳ねた後ろ髪を向けたまま、蚊の鳴くような声で言った。
「……ぜんぶ」
「……そうか」
薄々覚悟していたので、動揺はしなかった。『ぜんぶ』とは、言葉のまま『全部』なのだろう。酔う前のことも、酔ってからのことも、気を失ってからのことも、本当に全部。
あの時の慧音は実は気を失ってなどいなくて、霖之助が一人で喋っていたことをすべて、夢じゃないかと思うほどおぼろげに覚えていて。そして目が覚めたら霖之助の布団で寝ていたものだから、夢じゃなかったのだと気づいて――その結果生まれたのが、あの鶏も驚かす大絶叫だったのだろう。
「……君は大分、酔っていたね」
「そ、そうなんだ! 本当に酔っていて、つい勢いで」
「僕は、酔っていなかったよ」
慧音が振り返った。慧音は、霖之助があまり見たことのない表情をしていた。驚き、戸惑い、焦り、喜び、悲しみ、苦しみ、幸福、不幸、そのすべてが入り混じりながらも、そのどれからも遠い、とても中途半端な表情だった。きっと慧音自身、どういう顔をするべきなのかわからなかったのだと思う。
霖之助は続ける。
「君が好きだったのも。今は少し変わってしまったのも。……また、あの気持ちを思い出してもいいのかと、迷っているのも。全部、酒に酔って出た戯言なんかじゃないよ」
「……」
「君は、どうだったのだろうか」
慧音が、噛むように唇を引き結んだ。まぶたを下ろし、ひとしきり逡巡してから、掠れた声で、搾り出すように言った。
「酔っていたさ」
顔を上げ、立ち上がり、霖之助の襟に掴み掛かった。
「でも! ……でも、嘘なんかじゃない。好きなんだ。昔も、今も」
霖之助の胸に、顔を押しつけた。きっと慧音は、なにかを言おうとしていたのだと思う。喉の奥から様々な言葉があふれてきて、けれど辛うじて残っていた理性がそれを押し留めて――結局、震える肩で何度も息をする音だけが響いた。
「……なあ、霖之助」
やがて震えが収まった頃に、慧音はふとそう言った。
「どうして、もっと早く言ってくれなかった。……どうして私は、もっと早く言えなかったのだろう」
「……どうしてだろうね」
わかっている。中途半端だったのだ。昔の霖之助も慧音も、恋という感情を素直に受け入れられるほど幼くなかった。お互い中途半端に大人びていたから、普通の子どもなら気にも留めない色々なものが見えてしまって、そのせいで霖之助は本当の気持ちを言わず、慧音は言えなかった。
そしてようやく恋と向き合えるようになった頃には、もう昔の関係ではなくなっていた。
もしもあの時の自分たちが、恋を恐れぬ幼子であったなら。もしくは恋を受け入れられるほど、大人であったなら。
そう夢想することに、意味などないけれど。
「霖之助。お前は、もし……」
「慧音」
その先を言わせてはいけない気がして、霖之助は慧音の名を呼んだ。襟元を掴んでいた華奢な指先に、そっと自分の手を重ねる。驚いて顔を上げた慧音の、少し涙で潤んだ瞳をまっすぐに見返す。
布団の中で考えては消えていった言葉たちが、完全にまとまっているわけではなかった。というか、途中で寝落ちたせいでほとんど忘れた。考えなしのアドリブもいいところだったけれど、今なら言えるような気がしたし、言わなければならないのだと思った。
「慧音。こんな僕だけれど、散々君を待たせてしまった僕だけれど。もしも――もしも許されるのなら、あと少しだけ、もう少しだけ、僕に時間をくれないだろうか」
「……それって、どういう」
どういうと訊かれても、果たしてどう答えたものか。
耐え切れず、目を逸らした。
「あー……その、なんだ。今度はちゃんと、僕の口から、僕自身の意思で、君に……きちんと言えるようにだね……」
「……」
頬に感じる温度がぐっと冷え込んだ気がした。恐る恐る一瞥してみれば、さっきまで涙目だったはずの慧音が、呆れ果てたような半目で霖之助を睨んでいた。
はあ~……と、これ見よがしに大きなため息までオマケでつけて。
「お前なあ……この期に及んでなお、私に待っていろというのか? 今まで散々無視してきたくせに? 一体どれだけ待ち続ければいいんだ私は」
「……すまない。でも今この場で、なまじっか雰囲気に流されて言ってしまいたくはないんだ。ちゃんと自分の心に整理をつけて、その上で自分の言葉で伝えられたなら」
睨まれるのも怯まずに、もう一度慧音の瞳を見つめた。
もう、逃げない。
「僕は今度こそ、自分の意思で……君に、歩み寄っていけると思う」
「……」
「待っていて、くれるだろうか」
慧音の指先に重ねた己の手が、情けなくも震えているのを感じた。今からこの調子では、いつか彼女に『言う』時がやってきたら一体どうなってしまうのか、我ながら先が思いやられる。
まあそもそも、その時まで慧音が待ってくれている保証自体、どこにもないのだけれど――
「――っと」
襟を引かれた。それでついバランスを崩した瞬間、首の後ろに慧音の腕が回って、襟と一緒に頭を斜め下に引っ張られて、突然なんだと思っているうちに、
頬に、
「――……」
正直なところ、その一部始終を脳が正常に認識できた自信はない。目の前で慧音の蒼い髪が揺れていて、首に慧音のしがみつく重みがあって、すぐ傍で慧音の匂いがして、頬に――小さく柔らかい熱があって。
自分のすべてが、慧音という少女に埋め尽くされていると、未だ理解が追いつかない頭でぼんやりと思う。
思った時には、すべてが夢だったように終わっていた。呆然として言葉も出ない霖之助の目の前で、慧音は赤くなった頬とともに、朝日を弾き返すほど力強く笑っていた。
「霖之助。これでも私は、待ちくたびれてるんだ」
「……うん」
まだぼうっとしている。慧音の言葉が右から左に抜けていく。
「まあ、今更もう少し待ってろと言われたところで大して変わりないから、ま、待ってやらないこともないが」
しかし、段々と頭が冷静になってきたところでふと気づいた。ただでさえ赤かった慧音の顔が、更に輪をかけて真っ赤になってきている気がする。それにあんなに力強かった笑顔も、段々とひくひくしてきておかしな感じだ。
「た、ただし。い、いいな、よく聞け」
言葉が痙攣していた。
「わ、私にこっ、ここまでやらせたんだから、さ、ささっ、さっさと、いっいい加減にかっ、甲斐っ、かか、かいしょお」
そこまでだった。人の顔とはここまで赤くなるのだというささやかな発見。もうこれ以上行ったら爆発するんじゃないかというくらい、首の付根から頭の先まで真っ赤っ赤になった慧音は、
「……ぃぁぁ~~……」
ぷしー。
そんな感じで湯気を上げながら、へろへろと、霖之助の足元にへたり込んだのだった。
そこでようやく頭の理解が追いついたので、霖之助はぷっと小さく吹き出した。
「……自分からやっておいてそれは、どうかと思うよ」
「う、うるさいっ!? どーしようもないヘタレ相手にせっかく勇気を出したのに、なんて言い草だ! 本当に甲斐性ナシだなお前は!?」
初めてだったんだぞっ!? とぽかぽか涙目で霖之助の膝を叩く慧音が、たまらなく愛おしく思える。
その感情を、今はまだ、口にはできないけれど。
「というか、なんでそんなに涼しい顔してるんだっ。ああそうか、私なんかのキッ、キ……とにかく私なんかのじゃあ、大して嬉しくもないか! 恥ずかしいのは私だけか! ああそうかい!」
「君がいきなりするもんだから、あんまり実感がないんだよ。せめて一言言ってくれてれば」
「言えるわけないだろそんなの!?」
「いやなんというか、初めてだったなら余計に、断りくらい入れるべきだったと思うけど」
「ほ、ほおお。ということは、仮にお前がやる側になったらちゃんと言えるんだな? ちゃんと言ってからできるんだな?」
「逆に、言わずにやる度胸がないよ」
「よ、よし。じゃあお前、いつか私にやる時はちゃんと言うこと言うんだぞ? 絶対だぞ? そしたら一言一句脳髄に刻み込んで、あの時こいつはこんなことを言ってな~ってずうっと笑い話にしてやるからな!?」
「……慧音。それってつまり、その……僕の方からしてもいい、ということかい?」
「………………………………ぁ、」
でもいつか、必ず言えるようになろうと思う。しっかり自分の気持ちと向き合って、今度は嘘をつかずに、逃げずに、ありのままを彼女に伝えよう。
そ、そーだよ悪いか!? 仕方ないだろう好きなんだもん!! と顔中真っ赤で開き直っている彼女を、腕いっぱい抱き締めたいと思う――
この身を焼くような、感情を。
○
まいどありぃ、と馴染みの店主の声を背で聞きながら、妹紅は団子屋をあとにした。からっと晴れた日差しにそよ風が心地よい、団子を食べ歩くには打ってつけの昼下がりだった。
慧音が霖之助を酒に誘ってから、早いものでひとつ季節が変わった。当時見事な朝帰りを決めた慧音のやけにそわそわとした様子を見て、やべーほんとに階段一段飛ばしで駆け上がっちゃったかーとニヤニヤ思ったのも束の間、真実を聞かされた時には心の底から呆れ返ったものだ。いやいやモリチカさん、この期に及んで時間をくれとか冗談でしょ? と、その場に霖之助もいないのに思わず口走ってしまったのを覚えている。
まあ、今となっては笑い話だ。
団子屋の通りから少し離れた、たくさんのお店が並ぶ大通りを、とある二人の男女が歩いている。
――ほら、次はあの店に行くぞっ。早くしないと日が暮れてしまう。
――ま、待った、まだ買うのかい? さすがにもういいんじゃ。
――ダメだっ。一緒に生活する人が一人増えるだけで、必要な道具は結構増えるんだぞ? 私は今まで一人暮らしだったから、余計にな。
長かったなあと――本当に長かったなあと、妹紅は思う。噛み締めるように思う。実を結び花を咲かせるまで、ここまで時間の掛かった恋も他にないだろう。
感動を通り越して、もはや呆れるばかりだ。
もうお前らさっさと付き合っちまえよと、散々妹紅をやきもきさせてきた二人組は。
ひとたび一緒になってしまえば、なんかもう、とにかくもう、「どうしてこんなに時間が掛かったの?」と理解不能になるほど仲睦まじかったので。
「……あー、やめやめ。あっちでひとりで食べよ」
あの二人を見ていると、団子が甘くて甘くてしょうがない。
回れ右をした妹紅は、けれど最後に振り返って、腕引く少女と引かれる青年へ、家族の門出を祝うように微笑んだ。
「おめっとさん」
ちなみに、霖之助がようやく自分の気持ちを伝えた日。
慧音は終始上の空で、感想を聞きに来た妹紅にこう言ったらしい。
まさか口にされるとは思わなかった――と。