トランプマリアージュ(萃霖)
のっぴきならぬ真剣勝負である。
霧雨魔理沙曰く普段からよく閑古鳥が鳴くという香霖堂には、この日も静けさが満ちていた。ただし今回は、そんじょそこらの静けさとは訳が違う。息を殺し、神経を張り詰めらせ、まばたきすら惜しんで相手の出方を伺う、真剣勝負の中でのみ訪れる静寂だ。
「っ……」
勝負事になどほとほと縁のない霖之助にとっては、心臓が早鐘を打つほど息苦しい静寂でもある。だが、だからといって折れるわけにはいけない。理由はどうあれこうして真剣勝負を始めてしまった以上は、男のプライドとでもいおうか、やはり負けたくないというのが素直な本音だった。
それが例え、巷では酒呑童子として名を知らしめる、幻想郷最強格の大妖怪であっても。
「……どうしたのさ霖之助、早くしなよ」
酒呑童子――名を、伊吹萃香。大胆不敵に忍ばせた片笑みには、しかしわずかながら震えるものが見て取れる。どちらが勝ってもおかしくない、まさに互角同士の争いに、さすがの彼女も焦りを感じているようだった。
伊吹萃香はただその場でどっしりと構え、それ以上の動きを起こす様子はない。だが、たったそれだけでも風が吹き抜けるような威圧感を放つのだから、酒呑童子の名はやはり伊達ではないといったところか。
冷静に考え、相手の思惑を看破せねばならない。できることなら、この攻撃で勝負を決めてしまうのがベストだ。霖之助だって、相手の攻めをそう何度もやり過ごせるわけではないから、次に萃香に攻勢が移ってしまった時、無事でいられる保証はない。
故に、ここで決める。
「――!」
一度まぶたを下ろして深呼吸をし、霖之助は動いた。躊躇ってはいけない。恐れてはいけない。この判断を下した己を最大限に信頼し、霖之助は素早く右腕を振るい――
「……上がりだ。また僕の勝ちだね、萃香」
「うわあああああああああん!! また負けたああああああああああっ!!」
ため息とともに肩から力を抜いて、二枚揃った『A』の札を、見せつけるように萃香の目の前へ放る。
萃香は顔を真っ赤にして悔しがりながら、手の中に残った最後の『JOKER』を、めんこよろしくぺちーんと床に叩きつけるのだった。
○
香霖堂には、老若男女も種族も問わず、実に多種多様な者たちが訪れる。下は十歳間もない人間の女の子から、上は数億年の時を生き抜く不老不死まで。例え見た目が麗しい美女であっても、あくまで年齢という絶対的な数字にのみ着目すれば、ここまで老若の幅が広い客層を持つ道具屋というのも他に類を見ない――
――なにやら迷いの竹林の方から凄まじい殺気が飛んできたので、この話題はここまでとする。
ともかく、人間であったり妖怪であったり神であったり妖精であったり、色々な種族がやってくるのだ。当然、初めて香霖堂の戸を叩く一見の客だって、少なからずいる。もっとも、大半はそれっきり音沙汰がなくなってしまう一見限りの客で、常連にまでなってくれるのはほんの一握りなのだけれど。
そしてその一握りの常連の中でも、ちゃんとした金銭取引で商品を買ってくれる正当な客となれば、まさに親指と人差し指の一摘みとなるわけで――閑話休題。
さてこの日に香霖堂のドアベルを鳴らした一見さんは、頭から大きな二本角を生やした、けれど対照的に体は小さい鬼の女の子だった。
「いらっしゃい」
「おー。いらっしゃったあー」
本から目を上げて挨拶した霖之助に対し、少女は体を前後に揺らしながら、ふらふらと手を振って答えた。起き抜けのように締まりのない声音と、ほんのりと朱色に色づいた頬と、ついでに霖之助のところまでむっと強く香る酒の匂い。宴会明けの少女たちが冷やかしに戸を叩いてくるのも珍しくはない香霖堂だが、ここまで絵に描いたようにへべれけな客というのは初めてだった。
ふらふら揺れるその体が今にも商品を薙ぎ倒しそうだったので、霖之助は思わず椅子から腰を上げて言う。
「おいおい、大丈夫かい? 随分と酔っ払ってるみたいだけど」
「大丈夫大丈夫ー、こんなのまだまだ酔ったうちに入らないってー」
少女は即答したあと、よたよた危なっかしい千鳥足で、けれど決して商品を倒すようなことはなく、帳場を挟んで霖之助の向かい側に置かれた、来客用の椅子の上にすとんと収まった。
「ね? 大丈夫だったでしょ?」
犬歯を見せて笑う少女に、霖之助は小さく肩を竦めて、浮いていた腰を静かに椅子へと戻した。
かなり、珍しい来客だった。少女が日本三大妖怪に数えられる鬼という名の妖怪であることくらいは、側頭部あたりから伸びた二本の捻れた角を見れば容易にわかる。けれど幻想郷で鬼を見るというのは、霖之助にも未だ経験がない程度には珍しい話だった。
さて霖之助の知識が正しければ、鬼は幻想郷ではなく、幻想郷の地下にある『地底』と呼ばれる世界の住人だったはず。そして幻想郷と地底世界は、互いに不可侵の約定を結び、往来を禁止しているはずではなかったか。そんな地底世界の住人が、約定を破ってまでどうしてわざわざ香霖堂を訪ねてくるのか。
疑問に思い、それからふと霖之助は思い出す。そういえば春の半ばまで雪が降り続いた異変のすぐあとに、幻想郷中で宴会が流行するという奇妙な出来事が起こった。霖之助も毎日のように知人に誘いを持ちかけられ、断る口実を考えるのに苦労した。
後々霊夢が話していたところによれば、あれも立派な異変の一つだったようで、首謀者は――名前は忘れてしまったけれど――鬼だったのだと、聞かされた気がする。あの時は読んでいた小説がちょうど佳境に差し掛かったところだったので、半分以上聞き流してしまっていたけれど。
霖之助が品定めするような目で少女を見ていると、少女もまた同じ目線で、霖之助を見返してきた。
口端を曲げ、不敵に笑う。
「お前が、森近霖之助?」
「……いかにも」
初対面にしては高圧的な物言いに、霖之助が表情を変えずに済んだのは、紅魔館のお嬢様の相手で慣れてしまったからだろう。鬼相手に反抗的な態度を見せたところで痛い目に遭うのは霖之助なのだから、そういう意味では彼女がそこそこの常連客でよかったと思う。
「そういう君は、少し前に幻想郷中で宴会を流行らせた鬼かな」
「おーそうだよ。伊吹萃香ってんだ。よろしくね」
そうそう、霊夢が言っていたのも確かそんな名前だった。
初めの不遜な口振りから一転し、今度は人懐こい笑顔で右手を差し出してきた萃香に、霖之助も同じ方の手を出して応える。
剛力無双の誉れ高き鬼とは思えないほど華奢な手と、握手をすると、
「それで、ちょっといきなりで悪いんだけどさ――」
剣呑に光った萃香の瞳に、霖之助の肌がさっと粟立ち、
「――お前、私と勝負してみない?」
「……」
息を殺した霖之助が萃香を見返せば、彼女は犬歯とともに大きく笑った。
「魔理沙の八卦炉を作ったのは、お前なんだってね。いやあ、あれは大層な品だったさ。あの火力にはさすがの私も脱帽したよ。聞いた話じゃあ、山の一つも焼き払えるんだって?」
「……」
「霊夢の幣を作ったのもお前だってね。ただの安い木の棒に見えて、あれはちゃんとした妖怪を祓う力を持った正当な神具だ。しかもこの私すら負かすようなやつとなれば、ちょっとした程度の仕事で作れるようなもんじゃない」
「…………」
「そうすると当然、そういうものを作れるお前も、普通の半人半妖じゃないってことになるよね? どう?」
どうもなにも、
「ちょっと待ってくれ、話が見えない」
乾いた唇で答えて、霖之助は大きく深呼吸をした。あまりに突拍子もない、そして霖之助にとって限りなく好ましくない展開に、思考が現実についていくのを放棄していた。
まさか、まさかとは思うが。
もしかして自分は今、喧嘩を売られているのか。
目の前の少女に――鬼、に。
「ああ、ごめんごめん。確かに単刀直入に言い過ぎたね」
萃香が軽く笑って瞳から力を抜けば、途端に張り詰めていた場の空気も弛緩する。そこになってようやく、霖之助は己の背にうっすらと脂汗がにじんでいることに気づく。
まあ、無理もない。万が一鬼と拳を交えるような事態になってしまえば、霖之助が永遠亭に担ぎ込まれるのは必至なのだから。
今までの圧力を白昼夢さながらに、「うんとねー」と口元に指を当てて考える萃香の姿は可愛らしい。
「さっきまで、魔理沙とか霊夢とかと宴会やってたんだよ。んで、そこでちょっと、お前の話を聞く機会があってね。まあ、無愛想だとか引きこもりだとか朴念仁だとか、話というよりかは愚痴みたいな感じだったけど」
霖之助の耳には愚痴というよりかはただの悪口に聞こえるのだけれど、それは、現状では気にしないこととする。
萃香は続ける。
「でも、どうやらあの二人がお前を認めてるってことは、なんとなくわかったわけさ。……私を負かしたあの二人が認める相手だ。そうすると当然、ただの無愛想で引きこもりな朴念仁とは思えないじゃん? やっぱり私も鬼だからね。そういう話を聞くと、どうにも血がね、騒いじゃうんだよ」
「……」
再び剣呑さの増した萃香の瞳をなるべく見ないようにしながら、霖之助は細く長くため息をついた。なるほど、それで彼女は宴会帰りにわざわざここまでやってきて、霖之助との真剣勝負を所望しているわけか。
事の経緯はわかった。
わかった、けれども。
「……お生憎だけれど、僕は荒事が苦手なんだよ。道具屋故に、道具の修理や改造は得意だけどね」
この少女が霖之助の腕っ節に期待しているのであれば、それはまったくの皮算用だ。無縁塚に出入りできる程度の護身術には心得があるが、本格的な戦いとなればまるで門外漢。鬼と拳を交えるのはもちろんのこと、スペルカードルールに則った弾幕ごっこすらできるかどうか疑わしいのが、森近霖之助という男なのだ。
しかし萃香は、そんなの最初から予想通りだと言うように、呵々と喉を鳴らして答えた。
「なあに、別に喧嘩をしようって言ってるわけじゃないさ。喧嘩以外にも、勝負の仕方なんてごまんとあるでしょ?」
例えば、こことかね――そう言って萃香は、自分の頭を人差し指で叩く。
「鬼が喧嘩ばっかしてると思ったら大間違いだよ。むしろ昔の人間とは、こっちで勝負することの方が多かったくらいさ」
昔の記憶が脳裏を掠めるのか、萃香の面差しにわずかに追懐の色が浮かぶ。
それを否定するように、苦笑し、首を振って、膝を手で打ち。
「さあ、丁半でも将棋でも構わないよ。ずっとここで引きこもってるんだ。なにか一つくらい、得意なのがあるでしょ?」
「……」
霖之助が緩く息を吐いたのは、恐らく、胸を撫で下ろしたからなのだろう。当然だ。喧嘩を売られているのが事実だったとはいえ、必ずしも、拳を交えて永遠亭に運ばれる必要はないのだとわかったのだから。
さてどうしようかな、と静かに考える。丁半も将棋も一応の心得はあるし、香霖堂には一式の道具も揃っていたはずだ。だが随分と長らく使っていないので、どこにしまったのか忘れてしまった。正直、探しに行くのが面倒くさい。
かといってこの申し出を断ってしまえば、じゃあ道具なしですぐにできる喧嘩でーなんて流れになって気がついたら永遠亭の白い天井を見上げている、という可能性も大いに起こりうる。己の身の可愛さを思えば、ここで勝負を受けるのが吉だ。かつ、道具を探しに物置をひっくり返すことなく、すぐに準備できるものがよい。
「……ああ。だったら僕も、ちょうど試してみたいことがあったんだった」
「へえ?」
萃香の片眉が俄に興味で持ち上がる。霖之助は椅子を立って近くの引き出しを開けると、中から紙製のケースを取り出す。
中に収められているのは、複雑な幾何学模様が描かれたカードの山であり。
「なんだいこれ。花札?」
「いや、外の世界で広く普及しているカードだよ。トランプ、というらしい」
少し前に、無縁塚から拾ってきたものだ。霖之助の能力で解析したところによれば、花札のように勝負事を行うのはもちろん、占いをしたり、手品を披露したりするのにも用いられる、大変汎用性の高いアイテムである。
「ちょうど、これでどういうことができるのか試してみたかったところでね。これなら僕も初めてだから、お互いフェアだろう」
「ふーん……フェアなのはいいんだけど、私、やり方とか全然知らないよ」
「一応、ケースの裏に簡単なルールが書かれているよ」
霖之助はケースを裏返し、それを萃香の目の前に置いた。
書かれているゲームは二つ。
「ババ抜き……と、神経衰弱?」
「どうやらこのトランプでは、二種類のゲームができるらしいね」
このトランプの札は、四種類のマークにそれぞれ十三の数字記号を割り当てた五十二枚と、『JOKER』と呼ばれる特殊な二枚の、計五十四枚で構成されている。
「この二つは、『同じ数字の札を揃える』という意味で、似通ったゲームだといえるね」
ざっくばらんにいえば、神経衰弱は裏返しにして並べたすべての札から、同じ数字のペアを見つけ出すゲーム。ババ抜きは、JOKERを一枚除いた五十三枚の札を参加者に分配したのち、互いの手札を一枚ずつ引き合いペアを作り出し、かつペアのいないJOKERを押しつけ合うゲーム……といったところだろうか。
興味深げに頷き、萃香は強く両手を叩き合わせた。
「へえー、面白そうじゃん。じゃあ早速やってみようよ!」
「おや、ルールは読まなくていいのかい?」
霖之助が見ていた限り、萃香は書かれたルールに入念に目を通したわけではないようだった。
いいのいいの、と萃香はヒラヒラ片手を振る。
「大して難しそうじゃないし、やりながら覚えりゃ充分だよ」
「そうか。……じゃあ、どっちで勝負しようか。ババ抜きか、神経衰弱か」
「どっちもやってみようよ。まずはこの、ババ抜きってやつ」
「いいだろう」
霖之助はケースからトランプを取り出し、JOKERのカードを一枚、ケースに戻してゲームから除外する。それからケース裏に書かれたルールを確認しつつ、自分と萃香にカードを均等に分配する。
「まずは互いの手札を確認して、既に同じ数字記号のペアがあったら手札から除外していいそうだ」
「ふむふむ。……三枚あるやつは?」
「二枚を除外して、一枚は手札に残すようだね」
手札が二十枚以上あるので少し手間取ったけれど、一分ほどして、互いのペアをすべて出し終える。
結果、霖之助の手札は五枚、萃香は四枚となった。
「あとはお互いに相手の手札から一枚ずつ引き合って、先にすべてをペアにし手札をなくした者が勝ち。ペアのないJOKERを最後まで持っていた者が負け、だそうだ」
「なるほどね。今はお前がその『じょーかー』ってのを持ってるから、私がカードを引く時、もしかしたらそれを引かされる可能性があるわけだ」
「JOKERをいかにして相手に引かせるかが、このゲームの肝のようだね」
「ふうん、結構面白そうじゃないか。――んじゃ早速」
「あっ、こら」
萃香が椅子から大きく身を乗り出し、不意打ちであっという間に霖之助から一枚をかっさらっていくのだけれど、
「……」
「……勝負的には、引いてくれてありがとうと言うべきかな?」
「ふ、ふふん。まあ、このくらいのハンデは必要だよね」
確率的には五分の一のところを見事に引き当てるのだから、運がいいのか悪いのか。萃香はちょっと口端を引きつらせながら、手札の右端にJOKERを入れて、それをすぐに霖之助の前へと掲げた。
「さあ、今度はお前の番だよ!」
「……萃香、JOKERを入れたら手札をちゃんと切らないと。じゃないと、JOKERが右端にあるのが僕には丸わかりだよ?」
「え? ……あっ!」
この鬼の少女、酔っているせいもあるのだろうが、意外に頭が弱いらしい。己の重大な過ちに気づいた彼女は慌てて両手を引っ込め、酔いとは別の理由で頬を赤らめながら、素早い手つきで念入りに手札を切り始めた。
また引きつった笑顔で、
「ふ、ふふん。よかったのかい、わざわざ教えちゃって。黙ってれば勝てたかもしれないのに」
「……勝負はあくまで公平であるべきだよ」
それに、わかっていて黙っていたら、バレた時のことが怖い。せっかく荒事とは無縁の平和な勝負ができそうなのだから、永遠亭に搬送されるのは御免である。
「見上げた心懸けだけど、後悔するよ?」
不敵に言って、萃香が再び手札を目の前に掲げてくる。霖之助は迸る彼女の戦意を肩を竦めて受け流し、何気ない手つきで右端のカードを引き抜く。
意外に抜けている、鬼にしては情けない一面を垣間見たからだろうか。ババ抜きをするのは初めてだし、鬼と勝負するのも初めてだけれど、不思議と負ける気がしない。
引いたカードはもちろんJOKERではなく、萃香がふぬぬと悔しそうな顔で震えた。
○
「――ああああああああまた負けたあああああああああ!?」
ぺちーん。
JOKERのカードが香霖堂の床に容赦なく叩きつけられるのも、これでもう十八回目である。
伊吹萃香は、ババ抜きが恐ろしく弱かった。とにかくよくJOKERを引く。霖之助の倍以上の頻度で引く。引くだけでもう涙目になってしまうほどに引く。傍から見ていて哀れになるほどに引く。
そんなわけで見事な十八連敗を喫した彼女は、両腕と腰につけた三本の鎖をじゃらんじゃらんと振り乱して地団駄を踏むのだった。鎖の先にはそれぞれ四角、三角、丸の錘がついており、それらが鬼の怪力で振り回されるあまりいつ商品を粉砕するかと思うと、霖之助は気が気でなかった。
「うううううっ、なんで私ばっかりこんなにじょーかー引くの!? さてはお前、なにかイカサマしてるでしょ!?」
「人聞きが悪い。僕がそんなことをするような男に見えるかい?」
「見えないこともないっ!」
「……」
やれやれ、と霖之助はため息をついた。十八連敗もするのなんて生まれて初めてなのだろう、萃香は悔しがるあまり半ベソをかいていて、ちょっとしたヒステリー状態になっていた。うがー! と変な声を上げて腰に下げていた瓢箪の中身を一気に呷り、にゃー! と叫びながら口を離して、すんすん鼻をすすりながら、床に叩きつけたJOKERを拾う。そしてそれを今度は帳場に叩きつけて、倒れ込むように椅子に腰を戻す。とても不機嫌そうな萃香の涙目と目が合って、霖之助はつと視線を逸らした。
萃香が両足をバタバタさせて暴れる。
「ちくしょー! もうババ抜きはやめだつまんないっ!! 霖之助、今度はもう一つの『神経衰弱』とかいうので勝負だよ!!」
「……まだやるのかい?」
「こんなボロボロのままで終われるかってんだ!! 次こそ私が勝ってやるからねっ、鬼の意地を見せてあげるよ!!」
やけくそに叫んで、また瓢箪を呷る。どうやら中身は相当強い酒のようで、霖之助は漂う香りだけで顔をしかめたくなった。口をつけてもいないのに、まるで酒を全身に浴びせかけられた心地だ。それをさながら水を飲むような勢いで傾けるのだから、鬼とはまこと末恐ろしい妖怪だと思う。
「ほら、早く準備しなっ!」
「わかったよ」
萃香に急かされ、霖之助はトランプを切り始めた。ババ抜きはもう飽きるほど充分にやったので、ここで神経衰弱に切り替えるのは賛成だった。
「さて、こっちのルールは簡単みたいだよ。カードを全部裏返しで並べて、そこから数字記号の同じペアを見つけるだけだ」
途中、ケースの中にJOKERを一枚入れていたことを思い出したので、それを山札に加えてもう一度切り直す。
「これも交代制で、一度に表にできるカードは二枚まで。見事ペアを見つければ続けて更に二枚を表にすることができるが、はずれたら裏に戻す」
切り終わったカードを、裏のまま帳場に並べていく。一枚一枚が重ならないように間を取ると、帳場は五十四枚のカードですっかり埋め尽くされた。
「裏返しのカードがなくなるまでそれを続けて、より多くのペアを見つけられた方が勝ち。……これはババ抜きとは違って、記憶力がモノを言うゲームみたいだね」
「……わかった」
初めババ抜きをやった時のような元気は、もう今の萃香にはない。椅子にしっかり腰を据え、涙を消し、呼吸を整え、まっすぐにカードを睨みつける彼女は真剣そのもの。
その声もまた、低く鋭く、まるでこれから本当の喧嘩を始めるかのよう。
「言っとくけど、手加減なんてしないでよ。そんなことしたら一発でわかるんだからね」
「……わかったよ」
已むなく、霖之助は肩を竦めて了承した。手加減するべきだろうかと悩んではいたが、どうやらそんなことをしてしまうと、霖之助はプライドを傷つけられ怒り狂った萃香に永遠亭送りにされると見える。己の護身のために、ここは本気で相手をするしかなさそうだ。
「では、始めようか。……先手は僕がもらうよ?」
「どうぞ」
五十四枚のカードの中から、適当に二枚をめくる。無論、ババ抜きで十八連勝した霖之助とていきなりペアを引き当てるような強運はなく、はずれである。
めくったカードを裏返しに戻しながら、さてどうなることやらと、霖之助は内心でため息をついた。
「――ふむ、はずれか。じゃあそっちの番だよ」
「うん。……『5』。あっ、これは前に別のをめくったよ! ここでしょ! いただきーっ!」
「……はずれだね」
「……」
「じゃあ僕の番だ。……ちなみに『5』はここだよ。惜しかったね」
「…………」
「続けさせてもらうよ。……次は『9』か。これは前に君がめくっていたね。ここだ」
「あっ、」
「次……は、『Q』。これはゲームを始めてすぐに僕が一度めくった。ここだ」
「……えっ、」
「次は……『A』か。これは初めてだね。じゃあ適当に……おや、これは運がいい」
「………………ひっ、」
「さて、次は……『3』か。これも前に君が」
「うわああああああああああん!!」
○
「霖之助のばかああああああああああっ!! うわああああああああああん!!」
泣かれた。
「……一応言っておけば、手加減するなと啖呵を切ったのは君だよ」
「そうだけど! そうだけどっ! うううっ、うううううううう~~~~ッ!!」
まあ、全二十七ペアのうち二十四ペアを制圧して完勝したのは、さすがに大人げなかったかもしれない。
ババ抜きに引き続き見事な一九連敗目を喫した萃香は、もう鬼のプライドなどかなぐり捨ててわんわん大泣きだった。どんなに頑張っても一矢報いることすらできない、いってしまえば弱者という立場を思い知らされるのは、鬼の彼女にとっては間違いなく初めてだったのだろう。彼女が手加減を望まなかった結果とはいえ、少し悪いことをしてしまったかもしれない。
だが一方で、神経衰弱の勝負結果には顎を撫でるものがあった。記憶力には自信があると自負している身だけに、鬼が相手だろうと完勝できたのは素直に嬉しい。
もちろん口に出せば萃香のヒステリーに拍車を掛けるだけなので、心の中だけに留めておくけれど。
萃香がえぐえぐとしゃっくりをしている。
「なんでだよぅ、なんで一回も勝てないんだよううぅぅぅ……! こんなに強い相手なんて生まれて初めてだっ……!」
「……お褒めの言葉どうもありがとう、と言っておくよ」
もっとも、霖之助が強いのかどうかは甚だ疑問だ。ひょっとしなくても、萃香が弱いだけではなかろうか。
しかし当の本人は、まさか自分が弱いんじゃないかとは夢にも思わず。
「くうううっ……! 霖之助っ、もう一回だけババ抜きで勝負して! これで勝てなかったら諦めるから! こうなったら背水の陣だッ!」
「おや、神経衰弱はもういいのかい?」
「あんなん二度とやるかッ!!」
唾でも吐き捨てるような声音だった。どうやらトラウマを植えつけてしまったらしい。
「とらんぷ貸して! 今度は私が切って配るから!」
「どうぞ」
JOKERを一枚抜いて、トランプを萃香に手渡す。萃香は小さな手で何度もこぼしそうになりながら、頑張って山札を切って、やっとの思いで自分と霖之助にカードを分配していく。
それが終わったところで、霖之助は自分の手札を手に取り、
「絶対勝つ絶対勝つ絶対勝つ絶対勝つ……」
「……」
呪いでもかけるような雰囲気を醸し出している萃香を、なるべく気にしないようにしながら、手札に目を通していく。JOKERはない。手札を整理していた萃香が、ある一枚を見た瞬間に、とても悲しそうな顔をしていた。
ほどなく、互いの準備が終わる。
「さあ、勝負だよ!」
「お手柔らかに」
「手加減なんてするかばーか!!」
「……」
ぐるるるるると犬歯を抜き出しにして威嚇する萃香は、鬼というよりかは、子犬みたいだった。
途中、霖之助がJOKERを引いて、萃香がとても嬉しそうに飛び跳ねた。そして「これはもう私の勝ちだね!」と元気よく霖之助から引いたカードがJOKERだった時、彼女は涙目になってふるふる震えていた。
そんなこんなで、勝負も大詰めである。
「……」
「……」
霖之助の手札は一枚、萃香は二枚で、今は霖之助が萃香から引く番。つまりここで見事JOKERを引き当てなければ、晴れて霖之助の二十連勝となる勝負所。
「……」
「……ぅ、」
萃香は震えていた。ひょっとしたらこれで二十連敗を喫してしまうかもしれない瀬戸際で、プレッシャーに耐えられず泣きそうになっていた。すべてを決めるのは、どちらのカードを引くかという霖之助の意思のみ。彼女はただ、霖之助がJOKERを引くことを切に祈り続ける他ない。
香霖堂は静まり返っている。部屋中に満ち満ちた緊張の塊に気圧され、埃すら舞うのをやめている。窓の向こう側で吹く、ちょっとしたそよ風の音すら聞き取れそうだ。ここで誰かがいきなり香霖堂の扉を開けたら、霖之助も萃香も飛び上がりながら驚くだろう。
(……よし)
腹は決まった。霖之助は小さく深呼吸をして、萃香がこちらの前で掲げる、『右』側のカードに手を伸ばし――
――指を掛けた瞬間に萃香の顔がぱああっと輝いたので、左のカードを引くことにした。
「ああああああああっ!? ちょちょちょっ、ちょっと待ったああああああああ!!」
途端、血相を変えた萃香が大慌てで手札を引っ込めようとする。霖之助は反射的な動きで身を乗り出し、彼女の右腕を掴んで引き留める。
「っ……と、どうしたんだい萃香。そんなことをされたら『左』のカードを引けないじゃないか」
「だっ、だだだっだめえええええ!! こっちは絶対にだめっ! だめったらだめっ!」
こちらの腕を振り解こうと萃香が暴れれば、あまりの怪力に霖之助の体が椅子から浮き上がる。しかし霖之助も、近年稀に見る渾身の力を発揮して逆の手で帳場の縁を掴み、全力で食い下がる。
「鬼の君がっ、随分と往生際が悪いじゃないか……!」
「往生際も悪くなるよ! だってこれで負けたら二十連敗だよ!? 最後くらい私に花を持たせてくれたっていいじゃないかばかばかぁ!!」
「おや、手加減されるのは嫌なんじゃなかったかい……っ?」
「もうどうでもいいよそんなのー! とにかく負けるのは嫌なのっ、絶対勝つの――――ッ!!」
萃香は追い詰められるあまり精神が幼児退行を起こし、もはやただの駄々っ子になってしまっていた。懸命にカードを隠しいやいやして、両手を上下左右にがむしゃらに振り回し、とにかく霖之助の腕を振り解こうとする。
結果からいえば、この時霖之助は、さっさと諦めて手を離してしまうべきだった。しかしながら自分でもよくわからない意地を張り、鬼相手に力勝負なぞを挑んでしまったばかりに、
「だから離してよばかああああああああっ!!」
「おっ――」
萃香が一本釣りをするように大きく腕を後ろに振った瞬間、霖之助の体が完全に宙に浮いて、
「――と、」
一瞬の滞空ののち、あっと言う間に萃香の真上に落下した。
「へ? みぎゃあああっ!?」
霖之助が最後に認識したのは萃香の悲鳴だった。あとは視界が転がるわなにかけたたましい物音に鼓膜を叩かれるわ体の節々に痛みが走るわで、気がついた時には萃香が座っていた椅子ごと彼女を押し潰して、香霖堂の埃っぽい床にうつ伏せで倒れていた。
「いっ……つつ……」
呻きながら体を起こす。それからすぐ、自分の下に萃香がいることに気づき、
「っと、すまない」
傍目から見れば、霖之助が萃香を押し倒したような構図。霖之助は痛む体を押して立ち上がって、やれやれと思いながらずれた眼鏡の位置を整えた。
まさか投げ飛ばされかけるとは思ってもいなかった。幸い落ちた先が萃香だったからよかったものの、もし棚や長机の商品たちを巻き込んでしまっていたら、ただ痛みに呻くだけでは済まなかったろう。
肝が冷えるのを感じながら、床に倒れたままの萃香を見下ろす。
「大丈夫かい?」
まあ半人半妖のこちらが無事だったのだから、鬼の彼女が無事ではないはずはないだろう――と踏んでいたのだけれど、予想に反して反応が返ってこない。萃香は床で大の字になったまままばたきもせず、糸が切れた人形みたいに、ぼけーっと霖之助を見上げていた。
「……もしかして、どこか打ったのかい?」
膝を折って真上から萃香を覗き込むと、彼女の肩がぴくりと震え、
「あっ……だいじょうぶ……どこも打ってない……」
「? ならいいんだが……」
頬をほんのり赤くしながら体を起こす、その動きが、打って変わって妙にしおらしかったので霖之助は眉をひそめた。こちらを投げ飛ばしかけたあの元気は、一体どこに行ってしまったのだろうか。
少しの間考え、ああ、と思い至る。苦笑し、
「押し倒してしまったのは悪かったね」
そう言った瞬間、萃香の全身に雷の如き衝撃が走った……ように、霖之助には見えた。
張り詰めた表情をして石になった彼女は、やがてゆるゆると崩れ落ちて床に両手をつくと、
「……や、やっぱりおしたおされたんだ……」
「でも、あれは往生際が悪い君も悪かったよ?」
「おしたおされた……」
聞いちゃいない。
「どうしよう……こんなの初めて……」
「……君、本当に大丈夫なのかい?」
どうにも萃香の様子がおかしい。顔中を熱っぽくして、両手をこすり合わせながらもじもじして、これではまるで人見知りの女の子だ。
「こ、こんないきなりなんて心のじゅんびが……」
萃香の独り言は続く。
「……でも、わたしだって鬼の女だし……やっぱりこういうときは、いさぎよく腹をくくらないと……」
「……?」
一体なんの話をしているのだろうか。一瞬はババ抜きの話に戻っているのかとも思ったけれど、だとしたらこのしおらしい態度はどういうことだろう。
萃香、と小さく名を呼んで手を伸ばしかけた瞬間、彼女が勢いよく顔を上げた。
「り、霖之助っ!」
「な、なんだい」
予想外の剣幕に霖之助が怯んだのも束の間、彼女はまたしおらしくなって、両の人差し指同士をつんつん合わせながら、
「ほ、ほんとに私なんかでいいの? まだお互い出会ったばっかだし……それに私、その、お酒呑んでばっかであんまり、女として、色々と自信ないというか……いやいや、決してお前の気持ちを否定するわけじゃないよ!? お前がいいって言うなら、私も鬼の女として真正面から応えてやるさ!」
「……ちょっと待ってくれ」
ここに来てようやく、霖之助の背筋に薄ら寒いものが走った。いくら魔理沙を以てして『救いようのない朴念仁』の酷評をいただく霖之助とて、ここまで来てしまえばさすがにわかる。左で平手を作って萃香の言葉を遮り、右で目頭を押さえて息だけで呻く。
――もしかしてこの少女、わけのわからないとんでもない誤解をしてやいないか。
霖之助は足を踏み入れてはいけない魔界へ踏み出す心地になりながら、恐る恐る問う。
「……君は一体、なんの話をしているんだい?」
「えっ……そ、それを私に言わせるの? いじわるだなあ霖之助は……」
どうか杞憂であってほしい。けれど何度ありえないと自分に言い聞かせても、悪い想像はすっかり心に根を張ってしまって、一瞬足りとて消え去ってくれない。
「さ、さすがに私だって知ってるんだよ?」
頬の赤みをじわじわと濃くした萃香は、その場で恥ずかしそうにももぞもぞして、潤んだ上目遣いで、霖之助が恐れていた想像をそのまま言葉にしたのだった。
告白でもするみたいに。
「男が女を押し倒すのは、遠回しに『結婚しよう』って意味だって……」
「――」
貧血を起こしそうになった。冗談抜きで、目の前が真っ暗になりかけた。右手で顔を覆ってすべての現実から目を逸し、足元からわけのわからない感情が頭まで突き上がってくるのを感じながら、ただ声なき声でひとしきり呻いた。
まったく理解できないわけではない。男が女を押し倒す行為を、遠回しに――本当に馬鹿馬鹿しくなるくらいに遠回しに解釈すれば、結婚につながらないことも、ないのかもしれない。
とはいえ。
「……あのね。君がどこでそんな誤解を吹き込まれたのかは知らないけど」
「えっ……鬼の女の子は、みんなこう教えられて育つんだよ?」
「……」
とは、いえ。
「さっきのは事故みたいなものだろう? 君がカードを引かれるのを嫌がって暴れて、それで僕が投げ飛ばされかけただけだ」
「そ、そんなっ……! 私、初めてだったんだよ!? まさか遊びだったっていうの!?」
香霖堂に他の客が来ていなくてよかったと、つくづく思う。
「それに、そうでなくたって君が言った通り、僕らは知り合ってからまだほんの数時間だ。真正面から応えるなんて言ってたけど、正気かい?」
「えっ……と、」
霖之助は敢えて、本気か、ではなく、正気か、と問うた。それは遠回しに、君は物凄くおかしいことを言っているんだよ、と教え諭したつもりでもあった。
けれど萃香は少し考えてから、ぎこちない口振りで訥々と答えた。
「私は……ま、まあ、悪くはないのかなっては、思うよ? 霖之助は、私が全然歯が立たないくらいに強かったわけだし……そういう人とだったら、一緒になってみるのも、吝かじゃないかなって……」
「……、」
照れくさそうに頬を掻いた目の前の少女に、霖之助はなんてコメントしてやればいいのだろう。まさかトランプ勝負から結婚云々にまで話が飛躍しようとは夢にも思わず、できることといえば精々低い呻き声を上げるだけで、霖之助は完全に萃香のペースに呑まれてしまっていた。
「確かにあれは、事故だったのかもしれないけど。……でも私にとってはそんなんじゃ片付かないくらいに大きなことで、今だって、すごくドキドキしておかしくなっちゃいそうなんだから……」
抱き締めるように胸に手を当てた萃香が、
「――だから、それなりの責任は、取ってください」
慣れない仕草で衣服を正し、正座をして、重ねた両手をちょこんと前について。
嫁入りのように、
「これから、よろしくね。……末永く」
そして夢を見るように笑うのだけれど、霖之助は、一体僕にどうしろっていうんだと、叫んでしまいたくて。
なんだかどうしようもないほど無性に、酒を飲みたい、気分なのだった。