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霖CPSS集  作者: 雨宮雪色
6/9

ひっつき虫キューピッド(妖霖)






「……霖之助さん。店の周りの草刈り、終わりました」

「ああ、ご苦労様。妖夢」


 心なしかしょんぼりとしながら店に戻ってきた妖夢を、霖之助はいつも通り、ぶっきらぼうな返事を送って迎え入れた。店の手伝いとして外の草刈りを頼んで、三十分ほどが経った頃だった。


「またなにか壊さなかったろうね?」

「こ、壊しませんよっ。私はそんなにドジじゃないですっ」

「そのドジじゃない君は、少し前にここでなにを壊したんだっけね」

「あうっ……」


 ……或いは、中の手伝いを頼んだら見事に置物を破壊されたので、適当な理由をつけて追い出していたともいう。背負った楼観剣の柄を実に器用に引っ掛けて、そのままガシャン。お気に入りの花瓶が砕け散る悪魔の音は、まだ記憶に新しい。


「本当に君は、物を壊すことにかけては天才的だね」

「ううっ……ち、違うんです霖之助さん。いつもは大丈夫なんですけど、なぜか霖之助さんのお手伝いをしてる時だけ上手く行かなくてっ……」

「どうあれ、弁償だ。お金はアルバイト代から差し引いておくよ」

「……はぁい」


 半霊と一緒になってしょぼくれた妖夢に、自業自得だよと、霖之助は躊躇いなく微笑んでやるのだった。


 魂魄妖夢は、もうかれこれ一年の間、この香霖堂でタダ働きをしている――と書くと要らない誤解を招きそうだが、要は今までに壊してしまった品の賠償金を、労働に従事することで払おうとしている、ということだ。発端は一年前、ひょんなことから、彼女が霖之助のお気に入りの骨董品を壊してしまったことにある。

 本来であれば、三ヶ月ほど働いてもらえば賠償は済むはずだった。しかしながら妖夢は、そうやって香霖堂のお手伝いをする中で立て続けに商品を破壊し、いっそわざとやっているんじゃないかと疑うほど清々しく、賠償金を増大させていった。

 そしてかれこれ一年が経ち、もう随分と働いてもらったものの、未だに返済は終了していない。

 霖之助は算盤を取り出し、妖夢が支払うべき残りの賠償金に、今回破壊された花瓶の金額をプラスする。それから、珠が弾かれる音を固唾を飲んで聞いていた彼女に、笑顔で告げた。


「あと六ヶ月は頑張ってもらうよ」

「ろっ……!? ううっ、いっぱい働いてるのに全然減らない、それどころかどんどん増えていくよう……」

「仕方ないだろう」


 よりにもよって高い品ばかり壊す妖夢が悪いのである。まあ、品の値段は霖之助の鑑定眼に基づいているので、必ずしも正当な賠償額ではないかもしれないが。

 ……ひょっとすると、ちょっとばかり高すぎるかもしれない。

 ともあれ。


「なんだったら、現金で払ってくれてもいいのだけど」

「そ、それはダメですっ!」


 霖之助が促すなり、妖夢は血相を変えて両腕で×印を作った。


「ウチは、あれで結構火の車なんですっ。今月も本当に余裕なくて……」

「……やれやれ、そっちもあいかわらずみたいだね」


 妖夢の主人である西行寺幽々子は、亡霊だからなのかなんなのか、底なしの胃袋を持つ健啖家として有名な女性だ。彼女が主に食事に費やす費用のせいで、白玉楼の懐事情は決して芳しくなく、その現状たるや、妖夢が自ら財布を握って必死にやりくりすることで、やっとこさ露命をつないでいるほどだという。

 妖夢が賠償に際して香霖堂でのタダ働きを選んだのは、単に手痛い出費を惜しんだからではない。あまりに手痛すぎてそのまま致命傷になってしまうからなんだと、いつかの妖夢は泣きながら語っていた。

 正直、あそこで妖夢の涙に同情してしまったのが間違いだったと、霖之助は今になって思う。


「まさかここまで品を壊されるとは思ってなかったからなあ。正直、さっさと現金で払ってほしいんだけど」

「そ、そんなご無体なっ。そんなことしたら、私たちが明日から食べるご飯がなくなっちゃって、私が幽々子様に怒られるんですよ!?」

「知らないよ、そんなの」


 部下の不手際は、即ち主人の不手際だ。人の上に立つとはそういうことなのだと――まあ、あのお気楽な亡霊姫に期待しても、無駄なのだろうが。


「じゃあ、頑張って払いますから、霖之助さんが幽々子様を説得してくださいよおっ……。幽々子様があのままじゃあ、お金なんてとてもとても」

「……」


 妖夢に涙ながらに訴えられ、霖之助は答えにつかえた。実を言えば、西行寺幽々子は、霖之助ができる限り関わり合いになりたくない女性の一人だったりする。

 決して嫌いなタイプというわけでは、ないのだけれど。しかし彼女は、あの八雲紫と特に親しい友人だ。八雲紫との接点は、間接的なものであれなるべく持ちたくないというのが、霖之助の素直な気持ちだった。

 故に霖之助は首を振って、


「いや、遠慮しておこう。……じゃあ今のままでいいから、とりあえず物を壊さないようにだけ注意してくれないかい。さすがにこれ以上は目に余るからね」

「ご、ごめんなさい……」

「ほら、店の扉が開きっぱなしだよ。ちゃんと閉めてくれ」

「あ、はい」


 閉まり切らなかった扉の隙間から、ひょうひょうと隙間風が吹き込んできている。……そういえばあの扉は最近締まりが悪い気がするし、そのうち妖夢に修理させてみようか。

 ……。

 ……やめておこう。

 などと考えながら、扉を閉めに行った妖夢の背を眺めていると、霖之助はふと、そこになにか丸い物体がくっついているのに気づいた。


「? ……妖夢」

「はい、なんですか?」

「背中になにかついているよ」


 遠目なのでよくわからないが、あの小さくずんぐりとしたフォルムは、


「虫じゃないかい?」

「うえええっ!? む、むむむっ虫ですか!?」


 告げた瞬間、妖夢が真上に飛び跳ねて大慌てした。


「り、りりりっ霖之助さんととと取って取ってくださいっ!」


 彼女は顔を真っ青にして、両手をぶんぶんさせながら、その場を右へ左へ行ったり来たりする。そのいかにもな反応に、霖之助はおやと首を傾げた。


「君、虫が苦手なのかい?」


 虫が苦手な庭師というのは、どうなのだろうか。

 妖夢は香霖堂のあちこちを踏み荒らしながら、


「そそそそそっそんなことはないんですけど背中にいるってのがダメで霖之助さんだって例えば背中に蜘蛛がくっついてたら慌てるでしょう!?」

「ああ……なるほど」


 一理あるね、と霖之助は頷いた。蜘蛛なんてとうの昔に見慣れたし苦手意識もないが、確かに背中を這い回られたら鳥肌が立つだろう。正体の知れない生き物が背中にくっついているというのは、考えてみれば意外と恐ろしい状態なのかもしれない。

 妖夢が涙目になりながら叫んだ。


「あの、のんびり頷いてないで取ってくれませんか!?」

「ああ、そうだね」


 このまま妖夢を暴れさせておくと、またなにかを壊されてしまいそうだ。なので霖之助は速やかに席を立ち、彼女を手招きした。


「どれ、こっちにおいで」

「はははっはいいぃ!」


 さて、これで霖之助に助けてもらって一件落着――とはいかないのが、魂魄妖夢という少女が半人前である由縁の一つだ。焦り焦って猛ダッシュでこちらに向かってきた妖夢が、なにもない床の上で躓いたのはその時だった。


「あっ――」


 平べったい床の上で、なにをどうやればここまで綺麗に躓くことができるのか。よりにもよって猛ダッシュ中だったのが災いした。妖夢の体はあっという間に慣性に支配権を奪われ、そのまま前へと投げ出される。


「――!」


 霖之助の行動は反射だった。単純に妖夢の身を案じたのかもしれないし、転んだ勢いでまたなにかを壊されるんじゃないかと危ぶんだからかもしれない。とかく霖之助は、近年でもまれに見るほどの素早い動きで、妖夢の前に身を割り込ませて――


「――っと」

「えっ……」


 飛び込んできた妖夢の体を、しっかりと両腕で受け止めた。

 水を打ったような静寂が香霖堂を包む。霖之助は周囲の商品の安否を確認し、これといった被害がないのを確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。

 それからふと思い出したように、腕の中の妖夢を見遣って、


「大丈夫かい?」

「え? ええ、お陰様で……やっ、そうじゃなくてあの、そのあの、あのっ……」


 そこでは頭の先まで真っ赤になった妖夢が、とても恥ずかしそうにもぞもぞと身じろぎをしていた。震える唇で、「あの、あのっ……」とそればっかりを量産している。

 霖之助はしばらくの間考え、ああ、と思い至った。


「そういえば背中のを取るんだったね。ちょっと待っててくれ、このまま取れそうだ」

「このまま取るんですか!? あっいやいやそれはとても嬉しい展開なんですけどうわちょっと待ってくださいまだ心の準備ががががが」


 なにやら妖夢が腕の中で喚いているのは、きっと早く背中の虫を取ってほしいからなのだろう。だがそんな風にじたばたされると、取れるものも取れなくなってしまう。


「どれ、じっとしてるんだ」

「ひゃい!?」


 暴れられないように左手で妖夢の肩を押さえ、右手をその背中へ。己の記憶を掘り返し、確かこのあたりだったはずだ、と思う場所に触れてみるのだが、


「ん? おや、どこに行ったんだろう」

「うひゃあああああ!? 待っ、やあっ、さすらないでくださいよおっ!」

「ああ、ごめん。くすぐったかったかい?」

「いやそれはそうなんですけどそうじゃなくって霖之助さんひょっとして私を殺すつもりですか!?」

「失礼な」


 せっかく善意で助けてあげようとしているのに、ひどい言い草ではないか。


「ともかくじっとしててくれないかい? そんなに暴れられたら上手く取れないからね」

「ひ、ひいいぃー……」


 蚊の鳴くような悲鳴とともに、妖夢が体中をガチガチに固めて動かなくなった。並々ならぬ緊張感が、押さえた肩を通して伝わってくる。

 よほど背中の虫を怖がっているらしい。早いところ取ってあげよう、と霖之助は妖夢の背中をまさぐった。


「ふあっ、あっ、やああっ」

「んん? ……おかしいな、どこにもいない」

「ふ、んんっ……ひああっ」


 一通り探し回ってみたが、やはり手応えがなかった。もしかして、慌てる妖夢に驚いて既に飛び降りてしまったのだろうか。

 そう思って床に目をやってみると、案の定、妖夢が躓いたちょうどそのあたりに、見覚えのある丸い物体が落ちていた。


「ああ、どうやら君が慌ててる間に落ちたみたいだね」

「ひぅ、あっ……んんっ」

「……」


 霖之助は妖夢を胸から押し離した。「あっ……」というなぜか残念そうな声が上がったのを無視して、件の丸い物体を拾い上げてみる。全身にトゲトゲを生やした緑の塊は、その小ささ故に初めは虫かと思ったが、どうやら違ったらしい。


「これは……ひっつき虫だね」

「え?」


 ひっつき虫。先端にかぎ針のような棘を持ち、それで人の衣服などに引っ掛かったりする、植物の種子や果実の俗称だ。このずんぐりとした若葉色の種子は、なるほど遠目では虫にも見えるだろう。


「さっき、庭仕事を頼んだ時にくっつけてきたんじゃないかい?」

「……」


 妖夢は目を丸くしたままひっつき虫を受け取って、親指と人差し指で挟んで目の前まで持っていくと、何度か自分の服にくっつけたり取ったりを繰り返してから、やがてため息とともにがっくりと項垂れた。


「ああ、そういうことだったんですかぁ……」

「よかったね、虫じゃなくて」

「ほんとですよ。もう、寿命が縮みました……」


 二度目のため息は完全に擦り切れている。虫でなかったことを安堵する余裕もないらしい。

 霖之助は妖夢からひっつき虫を受け取り、近くの窓を開けて外に放り投げてやった。


「それにしても、よりにもよって背中にくっつけるなんて……。気をつけるんだよ。それだと、主人にまた『半人前だ』と笑われてしまうだろうからね」

「うう、そうですね。気をつけないと――」


 そこまで言ったところで、妖夢が不意に言葉を止めた。霖之助の顔をじっと見つめたまま、何事か真剣に考え込んでいる。


「……どうかしたかい?」

「えっ? ああいえ、なんでもないです!」


 妖夢は顔を赤くしてわたわたと両手を振ったが、そんなに目に見えて動揺されると、とてもなんでもないとは思えなかった。だというのに妖夢は「大丈夫ですから!」の一点張りで、まるで聞く耳を持ってくれなかったので、霖之助も諦めた。


「とりあえず、今日はお疲れ様。もう帰ってくれて大丈夫だよ」

「え……もうおしまいなんですか?」


 妖夢が物足りなそうに表情を曇らせたけれど、おしまいなものはおしまいだ。この香霖堂は、もともと誰かの人手を必要とするほど、営業に手を焼いているわけではない。店内外の掃除――それさえ終われば、あとはひたすら店番をしながら無聊を紛らわすのみだ。

 妖夢だって、決して暇な身の上ではない。今日も今日とてわがままな主人の面倒を見なければならないのだから、さして、香霖堂のために大きな時間を割くわけにもいかないだろう。

 霖之助は静かに窓を閉め、


「それに、あまりやらせるとまたなにかを壊されそうだからね。今日は大人しく屋敷に戻って、頭を冷やしておいで」

「あうっ……」


 胸を押さえて俯いた妖夢の肩を、苦笑しながら叩いた。


「庭の方は、随分綺麗になっていたね」


 ひっつき虫を捨てる際につと確認してみたが、庭の雑草は綺麗さっぱり取り除かれていた。さすが本職だけあって、庭仕事に関しては素晴らしい働きぶりを見せてくれる。


「ご苦労様。助かったよ」

「へっ……」


 妖夢は一瞬、意表を衝かれた顔をしたが、すぐに色の薄い頬をほんのりと桜色にした。きゅっと身を縮め、目線を右往左往させながら、


「い、いえそんな……私は当然のことをしただけで」

「まあ、それはそうだけどね」

「うわー現実叩きつけられたー! そこはもっと優しい返し方をするところでしょう!?」


 霖之助は無視し、さっさと帳場へと戻っていった。

 妖夢はしょげた。


「うう、せっかく褒めてもらえたと思ったのに」

「助かったのは、嘘じゃないよ」

「褒められた気がしませんよー……」


 ぼやく彼女を更に無視し、霖之助はいつもの椅子に座ってお茶を一口含んでから、躊躇いのない笑顔で、


「ご苦労様、妖夢」

「……はぁい。なんだか釈然としませんけど、まあいいです。……いいことも、ありましたし」

「ふうん?」


 項垂れ、それでも最後に妖夢が見せた微笑みは柔らかい。桜が花を咲かすような、淡い幸せの笑顔だった。

 店の置物を破壊しては賠償額を増やし、庭仕事を終えてはひっつき虫に寿命を縮められたことのなにが幸せだったのか、霖之助には甚だ理解しがたかったが。

 ふふ、なんて小さく鼻息をこぼし両手の指先を重ねる妖夢は、なにやら本当に幸せそうだったので、邪魔をするのも野暮だろうかと霖之助は思った。


 後日、これがきっかけで妖夢が謎の奇行を始めるようになるとは――この時はまだ、露も知らないままで。






 ○



「こんにちは、霖之助さん」

「ああ、こんにちは」


 後日も妖夢は、香霖堂へお手伝いをしにやってきた。前回の一件で懲りたのか、店に入って早々背中の楼観剣を降ろした彼女を、霖之助は大変殊勝に思った。


「そうだね。君がまず店に入ってやることは、その長い刀を背中から降ろすことだ」

「……はぁい」


 霖之助が笑顔で言えば、妖夢は対照的に渋い顔をして、楼観剣を近くの壁に立て掛けた。


「はい、お次は扉をしっかり閉めること」

「わ、わかってますよお」


 香霖堂の入口は自動で閉まる仕掛けになっているはずなのだが、今回も隙間風を生んでいるところを見るに、すっかり壊れてしまったらしい。魔理沙や霊夢が、毎回毎回蹴飛ばすように扉を開けてくれるからなのだろう。

 近いうちに修理しないとな、などと考えていると。


「……」


 扉を閉める妖夢の背中に、大変見覚えのある物体が一つ、くっついていた。小さな、若葉色の、ずんぐりとした。ああまたかと、霖之助は顔に手をやってため息を落とした。


「……妖夢。背中にまた、ついてるよ」

「えっ!? な、なにがですか!?」


 わざとらしい驚き方だった。こちらを振り返った妖夢の瞳は、その言葉を待ってました、と言わんばかりに輝いている。

 ……ひょっとして、余計なことに気づいてしまったのだろうか。だが今更話をはぐらかすこともできなくて、霖之助は躊躇いがちに答えた。


「……その、ひっつき虫が」

「え、ええー!? 本当ですか、気づかなかったなあー!」


 ひどい棒読みを聞いた。

 ああ、ひっつき虫の存在に気づいてしまった数秒前の自分を、なんだか全力で殴り飛ばしてやりたい。


「あ、あの、霖之助さん。申し訳ないですけど、また取ってくれませんか?」

「構わないけど……」


 霖之助は半目になって、


「どうして君、そんなに嬉しそうなんだい」

「え!? い、いやいや全然そんなこと!」


 背中にひっつき虫をくっつけて、妖夢はなにをそんなに喜んでいるのだろうか。両手を振ってまで否定するのだったら、まずはその変ににやついた笑顔を、どうにかするべきだと霖之助は思う。


「……まあ、いいや」


 だが妖夢の真意はさておき、ひっつき虫を取ってしまえばそれで済む話だ。ならばさっさと終わらせてなかったことにしよう、と思って、


「とにかくこっちに来てくれるかい? 取ってあげるから」

「は、はい」

「今度は走らないでね」

「はいっ」


 妖夢がそわそわとした様子でこちらに歩いてくるので、霖之助も椅子から立ち上がった――

 が。


「……」

「……」

「……妖夢」

「は、はい」

「…………」

「な、なんですかっ?」


 霖之助の目の前までやってきた妖夢は、体を固めて直立不動になり、霖之助をまっすぐに見つめていた。言うまでもないがこの状態では、彼女の背のひっつき虫まで手が届かない。


「……背中を見せてくれないと、取れないじゃないか」


 なぜこんな当たり前のことをいちいち言わなければならないのか。しかも妖夢は、その言葉を聞いてなお、霖之助に背中を見せてくれなかった。頬を桜色に染め、迷うようにその場でもじもじしていた。

 一体なんなんだ、と霖之助は椅子に深く腰を預けたくなる。

 呼吸三つ分ほど、沈黙があった。このままでは埒が明かないので、霖之助はいい加減、妖夢の後ろに回り込もうとして――


「え、えいっ」


 そんな、意を決した小さな声とともに。

 ぽふっ、と、妖夢が霖之助の胸に飛び込んできた。


「……」

「……」


 また、呼吸三つ分の沈黙があった。妖夢がこちらの襟元を掴んでいる感触を感じながら、霖之助は長く、ゆっくりとため息を落として、


「……なにをやっているんだい、君は?」

「え、ええと……その」

「いい加減にはっきりしてくれないかい? 君がなにをしようとしてるのか、僕にはさっぱりわからないんだけどね」


 なんだか色々と億劫になりすぎて、妖夢を胸から引き剥がす気力も湧いてこない。魂魄妖夢という少女が、少しだけ遠い世界の存在になってしまったような気がした。

 霖之助の襟元を掴む妖夢の指に、きゅっとかすかな力がこもる。赤く熟れた表情で霖之助を見上げ、胸に支えた想いを吐き出すように、彼女が切々と紡いだ言葉は以下の通りだった。


「ひ、ひっつき虫、取ってください……っ!」

「はい、取ったよ」

「あーそんなにあっさりと!? ま、まままっ待ってください、もう一回! リテイクしましょう、リテイク!」


 霖之助は今度こそ妖夢を胸から引き剥がした。

 あーん、妖夢が悲しそうな顔をした。


「さてこれでいいだろう。じゃあ仕事をしてもらうけど構わないかな?」

「ううー……」


 妖夢はとても不満そうに口をへの字にしていて、「もうちょっとくらい……」と未練でたっぷり呟いていた。しかしそれでも最後には、ふふ、と小さく笑って、指先に残ったなにかを慈しむように、互いの手を絡めるので。


「……妖夢」


 だから、霖之助は言う。

 別に妖夢の奇行は今に始まったことでもないが、やっぱり君は時々おかしいと、再確認する意味を込めて。


「――僕は君のことが、よくわからないよ」






 ○



 それからというもの、香霖堂へやってくるたび、妖夢は背中にひっつき虫をくっつけてくるようになった。そしてそのことを霖之助が指摘しようがしまいが、妖夢は問答無用でこちらの胸に飛び込んで、決まってこう言った。


「取ってください」


 なぜ妖夢がこの取り方にこだわるのか、霖之助にはわからなかったし、わかろうとする気力もなかった。最初のうちこそ疑問に思ったが、五度目にもなればその気も起こらなくなるほど呆れ果ててしまって、一種の社交辞令のように淡々とひっつき虫を取り除いた。

 そうして霖之助がひっつき虫を取ってやれば、妖夢は決まって幸せそうな顔をする。本当に幸せそうな笑顔で意気揚々と仕事に取り掛かる、その姿が、霖之助の目にはとてもとても奇妙に映っていた。


「妖夢。君のことが、僕にはさっぱりわからない」


 今年の秋の間は、それが霖之助の口癖だった。

 だがほどなくして、この謎の社交辞令も終わりを迎える。季節は移ろい、訪れるは冬。ひっつき虫はすべて地に落ち、その姿を雪の中に隠すだろう。

 新しい季節を、迎えるために。






 ○



 半ば予想していたことだが、その日の妖夢は元気がなかった。店にやってきた彼女はまず背中から楼観剣を降ろし、挨拶の代わりに、しょぼくれたため息を一つ。霖之助が修理したことで、店の扉はひとりでにパタンと閉じた。

 季節は冬へと替わり、妖夢の背中に、もはやひっつき虫の姿はない。


「……おはようございます、霖之助さん」

「ああ、おはよう」


 ため息に近いような挨拶だった。どうかしたのかい、とは尋ねない。さすがの霖之助とはいえ、季節が冬になれば妖夢はこうなってしまうのだろうと、なんとなくではあるが予感していたのだから。

 釈然とはしないが、ひっつき虫を取り除くあのやり取りが、妖夢の元気の一端を担っていたのだと。幻想郷の少女たちを以てして『救いようのない朴念仁』と評される霖之助といえ、さすがに、理解していたのだ。

 ああ、と霖之助は浅く天を振り仰ぐ。やっぱり霖之助には、妖夢のことがさっぱりわからない。妖夢に限らず、霊夢、魔理沙、咲夜、早苗、慧音、文、紫――以下省略――など、彼女らが皆等しく持っているという『乙女心』なるものは、恐らくは霖之助にとって、この世で最も不可解な謎の一つだろう。


「……」


 そう、霖之助は『乙女心』なんてものはちっともわからないし、とりわけわかるようになりたいとも思わない。

 だから霖之助には、妖夢のことがわからない。どうしてひっつき虫を失った妖夢がこんなにもしょぼくれているのかなんて、ちっとも、理解できやしない。


「…………」


 理解できないったら、できないのだ。






 ○



 そりゃあ、我ながらバカなことをしていたとは思う。けれど、思っていてもやめられなかったのだから仕方がない。それは妖夢にとって、一種の麻薬とも呼べるほどに、甘美な愉悦を秘めていたのだ。

 霖之助に抱き締めてもらえるという、愉悦。

 それは錯覚であったはずだ。彼は妖夢を抱き締めているのではなく、あくまで背中のひっつき虫を取っているだけ。ひっつき虫を取ろうとして妖夢の背に手を回す、その行動が、ほんの一瞬だけ妖夢を抱き締めているように見える。それだけのことだったはずだ。

 でも、嬉しかった。そりゃあそうだ。例え錯覚とはいえ、大好きな人にあんなことをしてもらえて、嬉しくならないはずがない。

 それに奥手な妖夢でも、『ひっつき虫を取ってもらう』という口実があれば、彼に思い切って抱きついていくことができたから。

 彼の胸の感触を、指先が覚えている。初めは緊張のせいでなにがなんだかわかっていなかったが、何回目かになって慣れてみれば、まず感じたのは「硬いな」ということだった。でもそれは石や金属のような冷たい硬さではなく、確かなぬくもりを持った、命の硬さだった。

 着物越しでも伝わる彼の体温と鼓動は、そのぶっきらぼうな人柄からは想像できないくらいに暖かくて、優しくて。妖夢の中の色々なものを、それはもう、一瞬でおかしくした。

 だから妖夢は、毎回毎回ひっつき虫をせっせと探し回ってまでして、背中にそれをつけ続けた。そして香霖堂へ赴き、彼の胸へと飛び込んだ。

 謂わばひっつき虫は、妖夢が自分の欲望に少しだけ素直になれる、免罪符。

 その年の秋は、妖夢にとって間違いなく、今までで一番幸せな秋だった。


 そしてその幸せは、季節の移ろいとともに終わりを迎えた。冬の木枯らしによって地に落ち、雪の中に消えたひっつき虫。雪を両手でかき分けてまで、拾うつもりにはなれなかった。

 終わっちゃったなあ、と妖夢は思う。なんだか夢みたいだった。あんまりにも幸せだったから、終わった途端に弾けて消えて、寂しすぎるくらいで。その寂しさが、夢を見たあとの心地に似ていた。


「妖夢、具合でも悪いのかい?」

「あ、いえ……」


 霖之助からの問い掛けを、妖夢は少なからず意外だと思った。どうやら自分は、傍から見れば体調を疑うほどに落ち込んでいるらしい。


「な、なんでもないですよ! 大丈夫です!」


 精一杯の空元気で、首を横に振って返す。今まで散々彼の善意を利用したのだ。これ以上迷惑を掛けるわけにはいかないと思った。


「そ、それで今日のお手伝いはどうしますか? お掃除ですか? それとも雪かき?」


 愛想笑いを貼りつけて、まくし立てるように。きっと、それほど上手く笑えてはいなかったろう。けれど霖之助は追及してこなかった。なにも言わないままため息をついて、静かに帳場の席を立った。


(あ……)


 ふと、今までのやり取りが頭の中で甦った。そう、背中にひっつき虫さえあれば、彼はこうして面倒くさそうに席を立って。そしてそんな彼に向けて、妖夢は勇気を振り絞って抱きつくのだ。

 こんな風に段々と近づいてくる彼の胸に、両の指を伸ばして――


「――え?」


 なにかがおかしい――と、そう思って、小さく声を漏らした直後。

 なんの断りを入れられることもなく、唐突に。

 ただ、――ぎゅうっ、と。


「――……」


 また――硬いな、と思う。衣服というクッションを挟んでなお、布の柔らかさよりも奥に隠れる硬さが先に立つ。今回の彼の胸は、いつもよりも硬くて、熱くなっているようだった。肌越しに聞こえる彼の心の音が、珍しく大暴れしている。どくん、どくん、まるで自分の鼓動を聞いているみたい。

 そして背中に回された彼の腕が、情けないくらいに震えていたから。

 ああ、私は抱き締められてるんだ――と、

 思ったその瞬間、体を包むすべての感覚が消えた。あの硬さも、暖かさも、腕の震えも、全部が溶けてなくなった。

 あとに残ったのは、霖之助の背中だった。妖夢の目の前で、彼はなにかこみ上げる感情を必死に抑えるように、その大きな背を一度だけ震わせた。

 妖夢は、そんな霖之助の背をひどく呆然としながら見つめていた。彼の行動があんまりにも唐突だったから、驚くあまり、驚くという感情そのものが頭から抜け落ちてしまっていた。


「……霖之助さん、」


 名を呼べば、彼は深呼吸をするように、長い長いため息を吐き出して。

 それから背の向こう側で、ゆっくりと、ずれた眼鏡を整える仕草をした。


「……さて、今日もしっかり働いてもらうからね」


 あいもかわらず冷たくて、ぶっきらぼうな物言いだったけれど。

 けれどその声は、もう揚げ足を取るのも可哀想になるくらいに、恥ずかしそうで。

 背中の向こう側にある彼の顔は、きっと、真っ赤なんだろうと――そう思うと、妖夢は泉が湧くように嬉しくなった。

 あの、霖之助さんが。

 恥ずかしさを押し殺して、私を、抱き締めてくれた。


「――霖之助さんっ!」

「な、なんだい」


 大声で名を呼んでも、彼は振り返りもしない。それでもいいと思った。それでいいんだと妖夢は思った。

 だって、今振り返られてしまうと、ちょっと困る。

 妖夢の顔だって、西で燃えるあの夕日よりも真っ赤に、燃えているのだから。


「霖之助さん! なんだか私、いきなり元気になってきました!」


 彼からもらった熱を体中に取り込んで、妖夢は笑う。

 己が胸を焼くほどに、熱く、熱く。


「――今日は私、めちゃくちゃ頑張りますから!!」


 冗談でもなんでもなく、今の自分なら、霖之助のためになんだってできてしまうような。

 そんな、気がしたのだ。






 ○



「……二ヶ月増しで、あと八ヶ月。まあ、頑張ってね」

「……ぐすっ」


 もちろんそんなのは、ただの気のせいだった。











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