私だけの特別記事(文霖)
あくまで、ビジネスライクな付き合いのつもりだった。書き手と読み手。文が新聞を書いて、彼が読んで、たまに記事をよりよくするために意見を交わして。その程度の関係で始まり、その程度のままで続いていくのだと思っていた。
不満になったのは、一体いつからだったのだろうか。新聞のことだけじゃ物足りなくて、もっと下らない世間話とか、彼自身のことを、聞いてみたくて。書き手と読み手より先にある、もっと別の関係になりたくて。
だから文は、今日も丁寧に身支度をする。だらしないところのないように服をぴっしり着込み、髪もしっかり整えて、河童たちから手に入れた香水なんかも、ちょっとつけてみたりして。胸ポケットには文花帖、妖怪の賢者からもらった万年筆。姿見の前でクルリ、一回転して、うんと頷く。
「……よし、完璧っ」
最後ににこりと笑顔の確認をして、そこからはもう振り返りもせずに家を飛び出した。
行き先は、魔法の森の前に立つ古道具屋。
せっかく整えた髪が風で乱れるのも構わず、一直線に。
○
その古道具屋に飛び込むよりも先に、一度入口の前で乱れた髪を整えるのは、今や毎回の恒例になっている気がした。最初は手櫛で簡単に梳く程度だったけれど、今では櫛も手鏡も完全常備している。櫛の指を髪へと通しながら、私も変わったもんだなあ、と文は少しだけ照れくさく思う。
ともあれ、飛び跳ねていた髪が落ち着いたのを確認した文は、いそいそと道具をしまって、その古道具屋――香霖堂へと飛び込んだ。カランカラン、とドアベルが勢いのいい音を鳴らす。負けないように、文も元気に挨拶をした。
「こんにちは、霖之助さん! 清く正しい射命丸です!」
「……ああ、いらっしゃい」
「む」
返ってきた返事は、来客を迎える挨拶にしてはえらく無愛想だった。店内の帳場で、一人の男が顔を上げることもせず、手元でもそもそ、しきりになにかをいじくっている。
文は破顔一笑、足音を殺して男のもとへ忍び寄り、その脳天にズビシと手刀を落とした。驚いて手を止めた男は、亀のような動きで頭を持ち上げ、なんとも面倒くさそうにずれた眼鏡を掛け直した。作業を邪魔された不快感を隠そうともせず、眇められた目の奥で、金の瞳が鈍く光っている。
「……なんだ、君か」
「霖之助さーん? お客さんが来たんですから、せめて顔くらいは上げてお迎えしましょうねー?」
「客?」
彼――森近霖之助は一度店内を見回し、文以外に人影がないことを確認してから、口元に皮肉めいた冷笑を忍ばせた。
「どこに客がいるんだい?」
「うわーひどー! 霖之助さん、私をお客さんとして見てくれてないんですね!?」
「店に対する客とは、お金を払って品物を買ってくれる人のことさ。つまり、今まで何回もこの店に来ておきながら一度も商品を買ってくれていない君は、残念ながら客とはいえないんだ。世間一般では冷やかしという」
「仕方ないじゃないですか、センスのない商品しかないんですもん」
彼は文の言葉を無視し、目を伏せ、また何事か作業の世界に引きこもっていった。そんなんだから売れないんですよー、と文が口を尖らせても、もはや返事すら返ってこない。
「もう……」
このため息も、きっと耳に届いてはいないのだろう。一つの物事に集中できるひたむきさは素敵なものだが、同時に、一つの物事にしか意識を割けない視野の狭さは罰点だ。幻想郷の住人というのは、どうしてこう、極端に偏った者たちばかりなのだろうか。
文は前屈みになって、霖之助の手元を覗いてみる。
「なに作ってるんですか?」
「……」
「霖之助さーん?」
「…………」
ズビシ。
「……ちょっとした護身用のアイテムを作ってるんだよ。明日、無縁塚にアイテム蒐集に行ってくるからね」
「おお、それは美味しい話を聞かせて頂きましたよ?」
霖之助がなにを作っているのか、彼の手元にある小道具類がなにを作るための物なのか、もっぱら文系の文にはわからない。帳場の片隅に、なにか薬草をすり潰して作ったような緑色の怪しい粉があることから、本当に護身用のアイテムなのかと疑ってしまうくらいだった。アイテム作りなんてのは嘘で、その実、永遠亭の薬師みたいにマッドな道に目覚めたのではなかろうか。
まあ、そんなのはどうでもいいことだ。それよりも、今の霖之助の話は、一新聞記者として決して聞き逃せない。
文と霖之助は、知り合ってからもうそれなりに長い間柄になるが、文は未だに、霖之助が普段なにをしているのかをよく知らない。この帳場に座って、やる必要があるのかどうかもわからない店番をする。読書をする。道具をいじくる。……文が知っている霖之助の顔なんて、その程度だ。
故に霖之助が無縁塚に向かうとなれば、是非ともついていきたい。新聞のネタにもなるし、彼の新しい一面を見つけることだって、できるかもしれないから。
文はその場で片手を挙げ、声高に叫んだ。
「霖之助さん、是非私に取材させてください!」
「やだよ」
「ちょっ」
とても面倒くさそうに一蹴された。
頭の上に挙げていた腕を、よろよろと胸の前まで下ろす。
「な、なんでですかっ。私がこのことを記事にすれば、香霖堂の世間体アップのチャンスですよ? 香霖堂の店主はちゃんと仕事をしてるんだって!」
「……」
霖之助は顔をしかめて作業の手を止めると、ため息とともに背もたれに深く身を預けた。
「……仕事は、ちゃんと普段からしてるだろう?」
「自分の胸に手を当ててよく考えてみてください。もう一度、同じセリフを言えますか?」
霖之助は胸に手を当て、真顔で、
「仕事は、ちゃんと普段からしているよ」
「チッ……」
「……」
「霖之助さん、無縁塚には凶暴な妖怪も多くいますよ? 一人で大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ」
とても煩わしそうな、無感動な声だった。
「無縁塚には昔から何度も行ってるからね。自分の身は自分で守れるよ」
「霖之助さんって、お強いんでしたっけ」
香霖堂の店主が武闘派だという噂はてんで聞いたことがないし、こうして目の前で観察してみても、とても強そうには見えない。文のように爪を隠しているという可能性は、否定できないが。
と、そこまで考えたところで、そういえばおかしいじゃないですかと文は気づいた。無縁塚といえば幻想郷で最も危険とされる場所で、妖怪にも人間にも見境なく襲い掛かるような獣ばかりが生息しているのだ。よほど腕に覚えがある者以外は、近づこうとすら、決して思わないほど。
つまり逆を言えば、好んで無縁塚に出入りするような者は、皆それ相応の実力を持っているということ。
ならば必然、霖之助も――。
「……」
文はなんとなく、想像してみた。店の奥で埃を被っている草薙剣か、はたまたなんらかのマジックアイテムか、それとも男らしく己の拳か。ともかくそのあたりを使って、強く、勇ましく、敵を退ける霖之助の姿を――
(……似合わねー)
彼には申し訳ないが、とても、違和感があった。
やはりこの甲斐性なしな店主は、薄暗い店の中で道具をいじくっている姿の方が、様になっている気がする。
「……君、なにか失礼なことを考えてないかい」
「え? やーですねそんなことないじゃないですか。ただ、お世辞にも強そうには見えない霖之助さんがどうやって無縁塚に出入りしてるのか、一新聞記者として気になるだけです」
一応は男としてのプライドみたいなものがあるのか、『強そうには見えない』の部分を聞いて、彼はあからさまにむっとしたようだった。
「……確かに、腕っ節に自信があるわけではないけどね」
「じゃあどうやってるんです? 教えてくださいよー」
「……」
ねだる文を爪弾きするように、仏頂面のまま腕を組んで、黙り込んでしまう。怒らせちゃったかな、と文はちょっとだけ不安になった。少しばかり、無遠慮が過ぎたかもしれない。
「霖之助さぁん」
「……」
猫撫で声で名を呼んでも、彼は押し黙ったままなんの動きも見せてくれない。そのまま数呼吸分の沈黙が続いて、仕方ないからちょっと謝ろうか、と文が根負けするように思った時だった。
霖之助が、どこか諦観した面持ちで顔を上げた。
「どうせ君のことだ。ついてくるなと言っても、ついてくるんだろう?」
「え? ええ……できれば」
答えてから、文はハッと両手を振る。
「あ、いえその、霖之助さんがどうしても嫌なら、私も無理には……」
「言っておくけどね」
しかし文の言葉を遮って、霖之助が浮かべたのは苦笑だった。自らの負けを認める歯切れの悪い笑顔で、帳場の上に頬杖をつく。
「君が期待してるようなものじゃないよ。なんてったって行き先が無縁塚なんだからね。……それでもいいんだったら、新聞記者らしく、自分の足を使って確かめてみるといい」
「……じゃあ」
それは、取材の許可が降りたということでいいのだろうか。
今までの不安はどこへやら、むくむくと嬉しくなってくる文に対し、霖之助はいつも通り、ぶっきらぼうな声で答えた。
「明日の正午に出発だよ。遅れた時は、遠慮なく置いていくからね」
「っ、はいっ!」
興奮のあまりつい大声で頷いてしまって、霖之助に「うるさいよ」とたしなめられた。けれど、そんなのちっとも気にならなかった。
よくよく思い返してみれば、この時自分がここまで嬉しくなった理由は、取材の許可が降りたからではなかったように思う。
ただ純粋に、ついてきてもいいよと、言ってもらえたから。
たったそれだけのことが、どうしようもないくらいに、嬉しかったのだ。
○
「――ほらほら霖之助さん、早くしてください! もう正午ですよほら行きますよっ!」
「ちょっと待ってくれ、……ああもう、どうしてそんなに張り切ってるんだい?」
翌日、文は正午の二時間前から香霖堂に飛び込んで、霖之助の支度が整うのを待っていた。そして店内の時計が正午を跨げば、霖之助の背中を叩きながらすぐに外へと飛び出した。
見上げれば、空は快晴で眩しすぎるほど。
絶好の取材日和だった。未だ店主が出てこない古道具屋に向けて、元気よく呼び掛ける。
「霖之助さん、もう正午過ぎてますよ! 置いてっちゃいますよーっ?」
「まったく……誰かさんが正午前から店に居座ってくれたせいで、準備が終わってないんだよ――っと」
ぼやきながら店から出てきた霖之助は、背に見慣れない革のバッグを引っ掛けていた。彼の能力によれば、名称は『ワンショルダーバッグ』。何ヶ月か前に無縁塚で拾った物で、持ち運びしやすいとの理由から、以来アイテム蒐集の際に重用しているらしい。だが黒革によるシックなデザインは、失礼ではあるが、霖之助にはちっとも似合っていなかった。
無縁塚は、魔法の森を山奥の方へ抜け、再思の道を進んだ先にある幻想郷の端の端。外の世界から流れ着いた道具、そして同様に流れ着いた外来人たちの死体であふれかえる、ある種の無法地帯ともいえる危険区域だ。
幻想郷の過去を切り取った世界だと、文は思う。山に棲んでのんびり新聞を書く日々ばかりを送っていると忘れてしまいがちだが、かつての幻想郷は無縁塚のように治安の悪い世界だった。八雲紫と博麗の巫女の尽力がなければ、今の楽園は決して生まれていなかったろう。
その中でどういうわけか、無縁塚だけが時間の流れから切り離されている。
幻想郷の闇の部分だ、とも思う。幻想郷と冥界の二つを仕切る結界と、博霊大結界が重なる場所。本来なら交わってはいけないはずのその境界線を、しかし妖怪の賢者は坐視している。幻想になりかけた人間が外から迷い込む――それが妖怪たちにとって都合がいいから。
(……死の臭い)
彼岸花が再思の道を真っ赤に染める、その香りに混じって、死肉の臭いが文の鼻をつく。この道を歩き始めた頃はなにも感じなかったが、無縁塚に近づくにつれて、段々と強くなっているようだ。腐臭を抱えた生暖かい風に吹かれて、彼岸花たちが、血溜まりのように不気味に揺れた。
「……」
「……気が進まないんだったら、帰ってもいいんだよ」
足を重くした文の隣で、霖之助が静かに苦笑した。
「無縁塚まで入ると、もう少しキツくなるからね」
「……」
霖之助が引く荷車には、シャベルが一本、載せられている。無縁塚に転がる死体を弔うための道具なのだと言っていた。
「霖之助さんは」
鼻をつく腐臭を意識しないで済むように、文は霖之助に声を掛けた。荷車の速度に足を合わせながら、
「こうやってアイテム蒐集に来るたびに、死体の弔いを?」
「毎回毎回とは言えないけどね。見かけたらなるべく、やるようにはしてる」
「どうしてそんなことを?」
「さあ、どうしてかな」
微苦笑一つ、話を逸らされる。追及しようかとも思ったが、また強さを増した腐臭のせいでその気も失せてしまった。
(不思議なもんね。死肉漁りなんて、私も昔はやってたはずなのに)
大妖怪になって人を喰うことをやめてからは、性格も随分と丸くなった。取材のために誰かに頭を下げたり、新聞を宣伝するために人里に近づいたり。そういうことが平気でできるようになった。
そして――こうして誰かの傍にいたいと、思ったり。
文は霖之助の横顔を盗み見た。彼は荷車を押しながら、妖怪を警戒してか、鹿爪らしい顔で周囲に意識を配っていた。文の方なんて、見向きもしてくれない。
――例え妖怪が襲ってきたって、私がなんとでもしてあげるのに。
けれど、だからもっと話をしましょうよ、なんて言えるはずもなく。
「……はあ」
文は、霖之助に聞こえないように小さくため息を落とした。出発前にあれほど高ぶっていた心が、今は面白いくらいに沈み切っている。
まったく、ほんとに。
デートみたいだ、とか。
そんなことをちょっとでも期待していた自分が、馬鹿みたいではないか。
雰囲気もなにもあったもんじゃない。
もしも向かう場所が、無縁塚でさえなければ。
少しくらいはいい雰囲気になったり、したのだろうか。
「……はあ」
こぼした二度目のため息は風に吹かれ、葉擦れの音とともにどこかへ消えていく。真っ赤に染まった彼岸花を八つ当たり気味に踏み潰し、文はぶらぶらと、霖之助の背中についていく。
「……霖之助さぁん」
「……なんだい?」
「つまんないです」
「そんなの知らないよ。ついていくと言ったのは君だろう」
「……ぶー」
にべもない返事だ。こちらが退屈しないようにと、なにか話題を振ってくれてもいいのに。
まあ、そんな甲斐性を彼に期待するだけ無駄なのだろう。
我ながら、まったくもって。
奇妙な男に、惚れてしまったものだ。
彼岸花の道を歩き切り無縁塚に着く頃には、文の鼻はすっかり腐臭に慣れてしまっていた。元々嗅ぎ慣れた臭いだっただけに、体が思い出したのかもしれない。
まだ昼間だけあってか、思っていたよりも無縁塚は明るかった。だからこそ、文がこの場所を幻想郷の闇だと思う由縁が、はっきりと見て取れた。
そびえる木々はみな骸骨のように細く、しなだれる枝葉は幽鬼を思わせる。女がすすり泣くような葉擦れの音に包まれ、石を重ねて簡素に弔われた無数の塚と、今なお弔われていない仏たちが散らばっていた。枯れた木の枝と、彼岸花と、死肉の臭い。淀んだ空気が作り出す空は、薄い紫紺色をしている。
「……久し振りに来ましたけど、やっぱりヤな場所ですね」
紫紺の空を見上げると、まるで呑み込まれそうな心地になる。以前ここに来た時はこの空の下を縦横無尽に飛び回ったのだから、我ながら大胆なことをしたものだ。
霖之助はまず無縁塚をある程度進んで、周囲の骸骨のような木々とは明らかに違う、空に向けて力強く枝葉を伸ばした巨木の下で荷車を停めた。花は咲いていないが、どうやら桜の木らしい。無縁塚にだけ咲く妖怪桜、紫の桜だ。
「周囲の探索はここを中心に行うんだ。いい目印になるからね」
「なるほど」
道に迷うというのは空を自由に飛べる文からしてみれば馴染みの薄い概念だが、歩きながら散策をするには、確かに無縁塚は殺風景すぎるかもしれない。この桜の木にも、一目でそれとわかるだけの偉容があった。
仕方がないから、真面目に取材をすることにした。デートだとかいい雰囲気だとか、そんなのは高望みだ。ありもしない幻想だ。だったらせめて、もう一つの目的だけは果たさなければ。
しかし文のその意気込みに反し、取材は実に中身のないものと終わった。そもそも道具が一つも落ちていなかったのだ。あったのは精々、道具とはお世辞にも呼べないガタクタだけ。
「まあ、いつもいい道具が見つかるとは限らないからね」
無縁塚を一通り回り終えた頃にはすっかりむくれ面になっていた文に、霖之助は宥めるような苦笑を向けた。
「こういうことも、往々にしてよくあるものだよ」
「……つまんないです」
「だから、ついていくと言ったのは君だろうに」
霖之助は、どうにもガラクタにしか見えない道具の成れの果てを、半ば放り投げるようにしながら荷車に積み込んでいっていた。まさかとは思っていたが、本当に持って帰るらしい。
「……そんなのでも持って帰るんですね。香霖堂、そのうち古道具屋じゃなくてガラクタ屋敷になっちゃうんじゃないですか?」
半目を利かせ皮肉がましく言っても、霖之助は飄々と肩を竦めただけ。君にはわからないだろうけどと、そんなかすかな優越感を瞳の奥に見せながら、また一つ、道具の欠片を荷車に積み上げた。
「ガラクタなんかじゃないさ。道具を修理したりするのに充分役に立つからね」
「へーへーそれはよかったですねー。霖之助さんがとっても楽しそうでなによりです」
文はため息をつきながら、次の新聞の記事はどうしようかなあと考えた。せっかく腐肉の臭いを思い出してまで無縁塚にやって来たのだから、なんとか形にして役立てたいとは思うのだけど。
「……『香霖堂店主の日課はガラクタ集め』」
「おいおい、お得意様を貶すような記事はやめてくれよ?」
何気なしに思いついた見出しを呟くと、すぐに外野から野次が飛んできた。
文は笑顔で、
「でも、それくらいしか収穫がなかったんですよねー」
「無理に記事にする必要はないだろうに。下らない記事だと、お仲間から色々と言われるんじゃないかい?」
「……むぅ」
一理ある反論を食らい、文は思わず口を曲げた。確かに霖之助へのささやかな仕返しのためとはいえ、あまりしょうもない記事を書いてしまっては、仲間の失笑を買うのは避けられないだろうか。
『文々。新聞』の評価を貶めてまですることでは、ないかもしれない。
「それに、まだやることはあるからね。もう少し取材を続けてみたらどうだい」
「え、まだなにかあるんですか?」
文は期待を孕んだ目で霖之助を見た。集めたガラクタを一通り荷車に積み終えた彼は、「うん」と頷き襟元を正してから、文の背後を指差した。
その先にあるのは、
「……ああ」
文は顔をしかめながら小さく呻いた。そして、再思の道を通る中で霖之助から聞かされた話を思い出す。
彼がこの無縁塚に来る目的は大きく二つ。一つは、外の世界から流れ着いた道具の蒐集。そしてもう一つは――
「……その仏様を、弔わないとね」
原型を留めているものは一つとしてない。骨だけ。脚だけ。腕だけ。或いは指先だけ。もしくは――どこの部分とも知れない肉片だけ。
この無縁塚に迷い込み、そして喰われた人間たちの成れの果て。
霖之助が拾ってきたガラクタたちに比べればもちろん少ないけれど、それでも小さな山を作る程度には量があった。
「哀れなもんですねえ」
貪り食われた、という表現が頭に浮かぶ。
霖之助はかすかに眉根を詰め、「そうだね」と短くそれだけ言った。
「骨を見るに……まだ若い女の子もいたようだね。可哀想に」
「わかるんですか?」
「うん。……慣れ、だね。恐ろしいことに」
その声は自嘲するようであり、同時に悲しげでもあった。
ふと、文は周囲を見渡した。この眩暈がするほどに夥しい無縁塚の、果たしてどれほどが、霖之助の手によって作られたものなのだろうか。
文が霖之助に視線を戻した時、彼は手近な枯れ木の下から落ち葉を一掬い持ってきていた。それを仏の上に被せていく。
「火葬ですか?」
「ただ埋めるだけだと、臭いを嗅ぎつけた妖怪に掘り返されることがあるんだよ。……それじゃあ彼女らも報われないからね」
人間の死生観はわからないけれど、こうして妖怪に喰われた時点できっと報われなんてしないのだろうと文は思う。だが口には出さなかった。少なくとも今の彼の前では、口に出してはいけないと思った。
霖之助は、落ち葉の他に乾いた枝も集めて仏の上に落とすと、背負っていたバッグからミニ八卦炉を取り出した。魔理沙がいつも振り回している物よりも、二回りほど小さい。
「ミニミニ八卦炉、とでも言おうかな。ミニ八卦炉の劣化版だし僕は魔法使いでもないけど、火葬をする程度の火なら起こせる」
霖之助がわずかなりとも霊力を解放する瞬間を見たのは、文にとってはこれが初めてだったろう。すぐに彼の背丈に届くほどの火が上がり、仏は赤の中に溶けて見えなくなる。
無縁塚に咲く炎の花。有り体を言えばただの焚き火なのに、なんだかひどく浮世離れしたものを見ている気がして、文は思わず目を細めた。
パチパチと木の枝が弾ける音。揺れる紅蓮の花。そしてその傍らで静かに祈る、彼の姿は。
一体どうしてなのか、文の目を引きつけて、離そうとしてくれない。
「……」
カメラを取り出したのは、完全に無意識だった。決して記事に使おうと思ったのではない。ただ、今この一瞬の光景を、形に残しておきたいと思った。
カメラを構える。ファインダー越しの視界。ピントがずれて、少し炎の色でぼやけている。慣れた手つきでフォーカスを調整する。視界がはっきり見えるようになると、彼がこちらを見て困り顔をしていた。
「こんなところを撮るのかい?」
「……いい写真になると思ったんですよ」
果たして本当にそう感じたのかは、自分でもわからない。でまかせだったし、それでもいいと思った。
「だからほら、もう一度……祈ってください」
「やれやれ……」
彼は苦笑して、もう一度、燃える緋色の花に目を戻そうとした――その動きが途中で止まる。ファインダーという小さな世界の中で、文は彼が表情を凍らせる瞬間を見た。
収縮し、驚愕と焦燥の色を宿した瞳が捉えるのは文の背後。
その変化を目の当たりにして、文の脳裏を一瞬の疑問が掠めた時には。
「――文ッ!!」
叫び、彼は飛び出していた。
他でもない――文に、手を伸ばして。
「――え?」
ファインダーの中の彼は、文が今まで見たことのない表情をしていた。時間の流れがとてもゆっくりに感じて、ああ、霖之助さんってこんな表情もできたんだ、と文はぼんやりと思った。
だから、文は――
「文ッ……!!」
もう一度、名前を呼ばれた。腕を取られ、抱き寄せられる。
それからほんの一瞬遅れて、背後で空気が鋭く切り裂かれる流れを感じた。それが一体なんだったのか、考えるような余裕はなかった。
ファインダー越しに見た彼の表情が頭から離れなくて、彼の胸の中で、ただ呆然とするだけだった。
○
正直なところ、助けなんて要らなかったのかもしれない。射命丸文は、こんな少女のなりでも大妖怪。例え不意を突かれて背後から妖怪に襲われたとしても、きっと鮮やかにその攻撃をいなし、反撃してみせただろう。
けれど、反して体が反射的に動いてしまったのだから仕方がない。霖之助は無我夢中で文の腕を掴んで、強引に胸の中に引き寄せていた。
つい先ほどまで文が立っていた空間を、妖怪の鋭い爪が切り裂いていく。外見は狼に似ていた。闇色の深い体毛に覆われ、その中で紅い瞳と黄ばんだ歯牙が刃のように光っている。このあたりでは既に見慣れた種の妖怪とはいえ、こうして目の前で対峙すると背筋が凍るようだった。
恐らく炎に誘われてきたのだろうが、まさか昼間のうちから襲われるとは予想外だった。
「ッ……!」
とはいえ霖之助とて、無縁塚の散策に関してはベテランを自負する身だ。この妖怪の弱点は、既に過去の経験から知り尽くしている。
バッグの中から、掌大の小さな玉を一つ、取り出す。名称は『水風船』。用途は、『水を入れて膨らませる』こと。
それを目の前の妖怪に向けて投げつけた。針のむしろを思わせる黒の体毛にぶつかった水風船は、パシャンと軽い音を立てて弾け、中の液体を周囲にばら撒いた。
水ではない。あれは昨日、霖之助が文に作業を妨害される傍らで製作した、特別製の薬。
直後、強烈な薬味の香りが霖之助の鼻を刺す。
『――……!』
地に響く長い呻き声を上げ、妖怪が地面を転がりながら後退する。あの液体の中に煎じた薬味は、この妖怪が大の苦手とするものだ。
それを直接体に掛けられた妖怪は、まるで炎に巻かれたようにその場を激しくのたうち回り、
『――ッ!!』
やがておぞましい悲鳴を上げながら、遠い薄闇の奥へと走り去っていった。
そうして妖怪の姿が消え、更に数秒。霖之助がゆっくりと緊張の糸を解くと、周囲に不気味な葉擦れの音が戻ってくる。辺りには、他の妖怪の姿も気配もない。
軽い吐息とともに、霖之助は肩から力を抜いた。
「……怪我はないかい、文?」
腕の中にいる文の体は、小さく震えていた。もしかすると、霖之助が余計なことをしたばかりに、どこか怪我をしてしまったのかもしれない。
膝を折り、文の顔を下から覗き込んでみる。彼女は、この上ないくらい渋い面持ちで目元を皺くちゃにし、口を真横に引き結んでいた。
「りんのふけはん……」
息を殺しているのか、鼻が詰まった声で、
「……わたひ、このにおひ、だめでふ」
瞳はうるうる、体はふるふる。鼻を押さえ、顔を霖之助の肩に押しつけて、
「うあぁ~ん……」
しおらしく泣くその様が、まるで生まれたての雛鳥みたいな有様だったので。
どうやら本当に余計なことをしてしまったらしいと、霖之助は苦笑いを浮かべながら、彼女の背中を優しくさすった。
○
結局、その後三日の間、鼻にこべりついた臭いはまったく落ちてくれず、文は河童から買った香水をすべてフル稼働させる羽目になった。普段通りに呼吸ができるようになったのは五日目の話だったのだから、断末魔のような悲鳴を上げながら走り去ったあの妖怪にも、少なからず同情できるというものだった。
「本当に辛かったんですよ」
「仕方ないだろう。まさか君まであの匂いがダメだとは思わなかったんだ」
真昼間なのにどこか薄暗い香霖堂の店内で、適当に商品の棚を物色しながら、文は霖之助に毒づいた。置物を一つ手に取り、
「まあ、助けてくれたことは礼を言いますけど。それを鑑みてもひどい取材だったと思います」
「だから、君が望んでついてきたんだろうに……」
霖之助に反省の色は見えない。いつも通りに帳場で店番をしながら、文が持ってきた『文々。新聞』の最新号に目を通していた。
結局文は、無縁塚での取材(とはお世辞にも言えないなにか)を記事にはしなかった。記事にできるほど実りがあるものではなかったし、なによりあの薬味の臭いを思い出してしまいそうで嫌だったから。
霖之助もそれに気づいたようで、「おや」と拍子抜けした声を上げてから新聞を畳んだ。
「結局、記事にはしなかったのかい?」
「するほど価値がある内容でもなかったですしー」
文が嫌味たっぷりに言い返すと、霖之助は肩を竦めて新聞を近くの棚へ。
「てっきり、なにか嫌がらせの記事を書かれると思ってたんだけど」
「お望みなら書いてあげますよ? 幸い、それだったらネタには困りませんからね」
「まさか。結構だよ」
彼の苦笑を背で聞きながら、文は取った置物を棚へと戻した。そして隣の置物へ目を移し、
「――本当は、ちゃんと記事にしたんですよ」
なるべく何気なく。けれど出し抜けに。
後ろ手を組んで、独り言のように。
「『文々。新聞』には載せませんでしたけど」
「……なんだって?」
背後で霖之助が眉をひそめた気配が伝わってくるが、文は振り返らない。気を引くように、澄まし顔で小さく鼻歌を歌った。
霖之助はしばし沈黙してから、おもむろに口を開く。
「……変なことは書かなかったろうね?」
「さあ、どうでしょう?」
「……どこの新聞に載せたんだい?」
「ふふ、秘密です」
鼻がねじ曲がるような体験をさせてくれた、せめてものお礼のつもりだった。つと後ろを一瞥してみれば、果たして霖之助は不安げなしかめっ面を浮かべてこちらを睨みつけている。
そのことにささやかな優越感を覚えながら、文は続けた。
「でも安心してください。別に、誰かの目についたりはしないと思いますから」
「はあ……? 新聞じゃないのかい?」
「ええ、新聞ではないです」
胸ポケットから写真を一枚、取り出す。それは、あの日家に戻ってフィルムの確認をしてから初めて気づいた、偶然と奇跡の産物。
写っているのは――まるで陳腐な表現だけれど、お姫様に必死に救いの手を差し伸べる王子様のような――そんな精悍な顔つきで文に手を伸ばす、霖之助。
どうやらあの時、文は無意識のうちにカメラのシャッターを切っていたらしい。恐らく二度と目の当たりにはできないであろう奇跡の光景を、文のパートナーはしっかりと形に残してくれていたのだ。
もちろん、霖之助には見せていない。それどころか、自分以外の誰にも教えてはいない。
それは文だけが知っている、霖之助の隠された顔。
「じゃあ、一体……」
「そうですね、強いて言えば――」
戸惑う霖之助をよそに、文はその写真を眺めながらだらしなく頬を綻ばせた。
誰かを守ろうとする凛々しい姿なんて彼には似合わないと、そう思っていたけれど。
「――私だけの、特別記事ですかねっ」
――でも案外、こういうのも悪くないじゃないですか。
文はその写真を、そっと慈しむように、己の胸の中へと抱き締めた。




