傍らの月見草(布都霖)
鶴の一声を発したのは、果たして誰だったのか。午後になって早々『とある問題』に直面し、このままではいけないと、三人頭を合わせて文殊の知恵を搾り出していた時のことだった。
「――決まりですね」
うららな日差しが道場を暖める昼下がり、凛と空気を震わせる声音は、それこそが鶴の一声であるかのよう。異を唱える者は一人としていない。誰しもが彼女の瞳を、賛同の色とともに見返していた。
その視線に、女性は一つ、大仰な頷きを以て応じる。そして今しがた導き出された結論を、紡ぐ唇鮮やかに音へと換えた。
「では、そういうわけで」
一息置いて、
「――今日のお夕飯は、宴会にしましょう」
とある問題。
すなわち、食事。
――特に食べたい物もないし、たまには、適当に酒呑んで騒いでもいいんじゃね?
そんな感じでこの日、幻想郷の霊廟から移転して間もない仙界の道場では、酒盛りが催されるようだった。
○
酒は静かに楽しむもの。その一言をささやかな処世訓とする霖之助にとって、宴会というのは、久しく縁のない催し物であった。
幻想郷における宴会は、得てして無礼講の性格が強い。妖怪も人も神ですらも関係なく、皆が等しく盃を呷り、酔って、ありのままの姿を曝け出す。必然、静けさとは無縁の馬鹿騒ぎ。
その、ある意味では幻想郷の在り方を最もよく体現しているといえる催し物が、しかし霖之助の肌には、とことんなまでに馴染まないのだった。
霖之助自身、曲がりなりにも道具屋の営業を通してそこそこの人や妖怪と触れ合っている――それが客であるかどうかはこの際問わない――のだし、顔が広いという自覚はある。ここ数ヶ月、知人から宴会に誘われた回数は、片手指を何度折っても数え切れるものではない。
それでも霖之助は、そのほとんどを――ごくごく少数人数の個人的な酒飲み以外は、すべて断ってきた。宴会と呼べるような規模の集まりに参加したのは、一体何年前が最後なのだろう。
霖之助は、本能的に人の多い場所を嫌う。その理由はさておいて、ついでに出不精だ。店の利益を追求するためならまだしも、なぜ好きでもない宴会に参加するためだけに、わざわざ香霖堂を出て行かなければならないのか。だったら一人、店の縁側で月を眺め、この美しい月が幻想郷の外の世界ではどう見えるのだろうか、なんて思いを馳せる方がよっぽど有意義というものだった。
だから霖之助は、例えどんなに親しい相手からであっても、基本的に宴会の誘いは受け入れない。必然、目の前の少女に返す答えは、考えるまでもなく決まっていた。
「悪いけど、遠慮させてもらうよ」
「えっ……なっ、なぜだっ!?」
言葉に、少女――物部布都は、まるで一生の親友から裏切りを受けたかのように派手に目を剥いて、声を荒らげた。体当たりするようにカウンターに詰め寄ってきたため、衝撃で用意していた湯呑みが倒れそうになる。
「危ないよ、布都」
霖之助はたしなめ、小さく息をついた。
布都とは、出会いから数えて一ヶ月程度の付き合いになる。少し前に巷を騒がせた神霊にまつわる異変を通して、この幻想郷に新しく顔を出すようになった少女だと聞いていた。
幻想郷をもっとよく知るための一環でこの古道具屋を訪れた彼女は、店の道具たちに非常に強い関心を示してくれた。霖之助としても初対面で道具に興味を持ってくれる“お客さん”は久し振りだったから、そんな布都につい熱心に道具の説明をしてしまったのは不可抗力だったろう。布都も、例えば魔理沙のように嫌な顔をしたりはせず、実に真面目に耳を傾けてくれた。
しかして話を交わし合う中ですっかり意気投合し、気がついた頃には名前で呼び合うくらいに親しくなっていたのだが――
「言った通りだよ。……仙界にある君の道場で開かれるという酒盛り。僕がお邪魔をするつもりはないよ」
「だ、だから、それがなぜなのかと訊いてるのだぞ!?」
バンバン、と布都がカウンターに容赦なく平手を落とし、それでまた湯呑みが倒れそうになる。霖之助はたまらずに湯呑みを背後に下げ、やれやれと物思いな吐息を落とした。
まさか布都から宴会の誘いを持ちかけられるとは、意外であった。なんでも今夜、彼女が暮らしている仙界の道場で酒盛りをすることになったので、霖之助にも是非来てほしいのだという。知り合ってまだひと月そこらの間柄なのに、宴会に誘うまでに気を許してもらえていたのには素直に驚いたし、嬉しくもあった。
しかし、それとこれとはまた別問題というもの。話の旨が宴会への誘いである以上、霖之助が二つ返事など返すわけがない。
「僕はね、人の多い場所が嫌いなんだ。だから宴会は嫌いだ。故に君の誘いは受けられない。そういうことだよ」
「どういうことだ!? ……え? 人が多い場所が嫌って、それだけの理由で?」
「それだけってわけでもないけど、まあ、大部分は」
それだけの理由。まあ、人見知りせず、誰にでも明るく接することができる布都からしてみれば、下らない理由なのかもしれないが。
霖之助の肯定に、布都は頬を膨らませてジト目になった。
「……我、知ってるぞ。お主みたいに家の中に閉じ込もってばかりいる者のことを、最近の言葉では“にーと”と言うのだろう? 永遠亭に筋金入りのにーとがいるって、魔理沙たちが言ってた」
「いや、輝夜と僕を一緒にするのはやめておくれよ」
不名誉も甚だしい。家に閉じ込もっているという部分は否定しないけれど、少なくとも霖之助は、古道具屋の店主として立派な労働に従事している。食っては寝てばかりいる輝夜と一緒にされるのは心外だった。
布都がまたカウンターをバシバシ叩く。俄然勢いづいて、
「た、太子様だって、霖之助に会ってみたいと仰られてるのだぞ!? 是非呼んできて頂戴と言って、我を見送ってくださった!」
「ふうん?」
布都の口から出たその名に、霖之助は片眉を持ち上げた。『太子様』――彼女が仕えているある聖人の呼び名だ。
曰く、『十の話を同時に聞き、理解することのできる聖人』。たった一ヶ月で人里で御意見番の地位を築いた才媛は、香霖堂にも噂の姿でやって来ている。主に霊夢と早苗が、人里の信仰を奪われて大変なんだと悲鳴を上げていた。
「僕と彼女は、まだ会ったことがないはずだけど」
「我がたくさん土産話を聞かせて差し上げたのだ!」
布都はえへんと胸を張って、
「そしたら、太子様もお主に興味を持ってくださったようでなっ。ほら、だから是非我らの道場に来てくれ! 一緒に宴会をしようではないか! それに人数だって、我と、太子様と、屠自古のたった三人だ! それなら大丈夫だろう?」
「そうだねえ……」
屠自古は、確か布都と同じく『太子様』に仕える人物だったか。霖之助はカウンターの上に腕組みをして考える。
「僕みたいなよそ者がお招きされていいのかい?」
聖人である『太子様』に、その部下である布都と屠自古という面子からして、普通の宴会とは違う個人的な集まりのようだ。
その霖之助の懸念を、布都は即座に首を振って否定する。
「霖之助はよそ者じゃないっ。だって、他でもない我の友人なんだから。太子様と屠自古とは初対面だろうけど、きっとすぐ仲良くなれるぞ!」
ほら、ほら!
布都は逸る気持ちを抑え切れないようで、輝いた目でカウンターに一層力強く拳を落とし始めた。カウンターが実に嫌な音を立てて軋んで、もうやめさせてくれと悲鳴を上げている。
布都がどうしてそんなに必死になっているのか、霖之助にはよくわからなかった。恐らく、『太子様』にこちらを連れてくるように頼まれたからだとは思うが。
霖之助は腕組みを頬杖に切り替え、再度問うた。
「そんなに僕を誘いたいのかい?」
「もちろんだ! きっと楽しい宴会になるぞ!」
恥ずかしがる様子もなくまっすぐに紡がれた言葉は、霖之助には少しばかり眩しい。返事に困ってしまって、どうしたものかな、と頬を掻いた。こんなにまっすぐな言葉で誘われたら、あまり意地を張り続けるわけにもいかなくなってくるような気がした。
「そう、だねえ……」
いっそ後先考えず一思いに頷ければどれほど楽だろうか。しかし霖之助の口から出てくるのは、どこまでも肯定を渋るへそ曲がりな返事だけだった。
それを聞いて、布都の期待に満ちあふれていた表情が俄に曇った。カウンターを叩く拳も不安そうに動きを止める。
「霖之助……そんなに宴会が嫌いなのか……?」
「……まあ、肌に合わないとは感じているよ」
霖之助は未だかつて、こういった宴会に参加して「よかった」と感じた試しがない。大抵酔って暴走したみんなに振り回されて、疲れ果てて、やっぱり家で大人しくしてるんだったと後悔するばかりなのだ。
布都の厚意には応えたいとも思うのだけど、一方で過去の苦い経験を拭い切れず、どうしても躊躇ってしまう。もはや気持ちの問題などではなく、体に染みついてしまっているのだろう。宴会恐怖症、とでも病名がつけられそうだ。
「り、霖之助は、我とお酒を呑むのが嫌かっ……?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ……」
――ただ、いつまでもこうして悩んでいる僕自身が悪いだけで。
と、そこまで考えたところでふと気づいた。今の布都の声、なんだか涙声になっていたような。
霖之助は布都を見た。そして続け様に息を呑んだ。こちらを見つめる布都の目元に、綺麗に澄んだ小さな水溜まりが二つ。ふるふる震えて、今にもこぼれ落ちてしまいそうになっていて――
「――ちょ、どうして泣いてるんだい!?」
「だ、だって……だってぇ……」
霖之助は焦った。どうして泣いた。まさか、僕が宴会の誘いを断ろうとしているからか。断られたから泣くのか。ちょっと待て、それは一体どこの子どもだ。いや、確かに布都は見た目だけなら僕の知り合いの中でも相当幼い部類だが、そうじゃなくて、ちょっと待て。
待て。
「ふ、布都っ、と、とにかく泣きやんで」
「我、霖之助が来てくれたらすごく楽しいって思って、すごく楽しみにしてて、でも霖之助、我とお酒呑みたくないって、すごく楽しみにしてたのにっ……!」
誰もそこまでは言っていない。というか、すすり泣く布都の言葉が文法的におかしくなってしまっている。マズい、これはマジだ。昔、幼い魔理沙の子守りをしていた時期があるからよくわかる。
これは、マジ泣きだ。
「ちょ、ちょっと……!」
焦るあまり頭の中が熱くなる感覚と、動揺するあまり頭から血の気が失せて冷たくなる感覚。二つの相反する感覚を、霖之助は同時に味わっていた。
つまるところ、軽いパニック状態である。それでも、動転した唇でなんとか声を出してみるが、
「布都、と、とにかく泣きやんでくれないかな。じゃないと」
「霖之助のばかっ、ばかぁっ……!」
霖之助の必死の呼び掛けなどちっとも聞かず、布都はすんすん鼻をすすって、目元を何度も何度も袖で拭う。けれどこぼれる涙は決して止まらなくて、彼女の頬にうっすらと濡れた軌跡を残していく。
霖之助の頭の中で警鐘が鳴り響く。早く布都を宥めないと大変なことになるぞと本能が叫んでいる。霖之助は知っているのだ。大体こういう、他人に見られたくない状況に陥った時に限って、狙いすましたかのように第三者が乱入してくるということを。
背筋がすうっと冷える。香霖堂の戸が、今にも第三者によって開け放たれるかのような錯覚。飛び込んでくるのは魔理沙か、霊夢か、それとも文か。だが誰が入ってきたとしても、その瞬間に霖之助の世間体は地の底まで失墜するだろう。
――結局。
「我、霖之助と一緒に、お酒呑みたいよぅ……っ」
「……」
寂しくて今にも死んでしまいそうな兎みたいに、ふるふる震えて。意識しているのかいないのか、完璧な上目遣いでこちらを見上げる布都に、霖之助が返すことのできる答えは、たった一つ。
どうか面倒なことにだけはならないといいな、と心配で気が気でなかったけれど。
頬に涙のあとを残しながらも打って変わって大喜びする布都を見ていたら、そんな心配はいつしか、どこかに溶けてなくなってしまっていた。
○
布都が懇意にしている男がいるというのは、蘇我屠自古にとってとうに既知のことであった。香霖堂とかいう古道具屋に行って帰ってきた日には、決まって『彼』についての土産話を、まるで自分のことのように得意げに話すのだ。その時の笑顔を見ていれば、布都が彼に好意を寄せている、或いは極端なまでに懐いているのだと、否応なく理解させられる。
彼――森近霖之助。
魔法の森の近くで古道具屋を構えているという、半人半妖の男。
「まさか布都が男を誑し込むようになるなんて、意外ですよねえ」
「言葉が悪いわよ、屠自古。布都は彼のことを騙してなんていません」
軽く冗談を言うと、すぐに隣の神子にたしなめられた。相変わらず冗談の通じない人だ、と屠自古は内心低く笑う。
屠自古と神子が料理の支度を整えている間、布都は件の古道具屋へ霖之助を誘いに向かっていた。是非屠自古たちにも紹介したいから、なんとしても連れてくると張り切っていた。
屠自古にだってよくわかっている。布都は掛け値なしのアホだから、男を誑かすなんて器用な真似、できるはずもない。そうでなくとも霖之助のことを話す彼女の笑顔には、こちらの邪推を跳ね除けるだけの純粋さがあった。
「ねえ。彼――森近さんは、いい人なのかしらね?」
何気なしに、そう問い掛けられる。まな板の上で包丁を操るままに、屠自古は「はあ」と実のない相槌を打った。
「どうでしょうね。私は会ったことないですし、ましてや太子様みたいに神霊の声も聞けませんから、まったく想像できませんよ」
でもまあ、とつなげ、
「布都の話を聞く限りじゃあ、面倒見がよさそうな感じはしますけど。あの道具はこの道具はって質問攻めにする布都に、嫌な顔一つしないで付き合ってやってるんでしたっけ? 普通だったら『この客ウザいなあ』ってしかめっ面するところでしょ」
「ウザい……?」
不意に疑問顔になった神子に、ああ、と屠自古は料理の手を止めた。
「太子様は、わからないかもしれませんね」
神子たちが神霊廟で復活を遂げるより以前から、屠自古は何度か幻想郷の散策を行なっていた。この言葉は、妖怪の山で出会った、清く正しいなんとか丸とかいう鴉天狗が使っていたものだ。なんでも、『目障りだ』とか『鬱陶しい』とか、そんな感じの意味を持つ言葉らしい。
そのことを屠自古が口にするより先に、神子が神妙とした様子でひとり頷く。
「……なるほど。妖怪の山の天狗が使っていた言葉なのね」
屠自古はただ、ええ、と苦笑。心中を完全に見透かされたことに、今更驚いたりはしない。
神子は、周囲に漂う神霊の言葉に耳を傾け、そこから様々な情報を引き出す能力を持つ。なので屠自古がわざわざ口にする必要もなく、神霊から勝手に答えを読み取ってくるのだ。
それはほとんど、心の中を読まれるようなもの。落ち着かないが、会話がスムーズに進むという点では実に都合がいいとも、屠自古は思っていた。
「不思議な言葉。やっぱり千年以上も経ってしまうと、言葉も変わるのね」
「他にも、とりまとかワンチャンとか言ってましたよ。こっちは私もわかりませんけど」
「わんちゃん?」
一方で、神子が能力で引き出すことができるのは、あくまで神霊が持っている情報だけに限られる。故に、神霊が持っていない情報はどうやっても聞き出せない。今この場にいるのは、『ワンチャン』の意味を知らない屠自古と神子の神霊だけだから、神子がその中でどんなに神霊の声に耳を傾けたとしても、答えを知ることは敵わないのだ。
神霊廟にて神子が復活した際には、幻想郷中の神霊がこぞって彼女のもとに集まったものだから、まるでアカシックレコードを覗くかの如く膨大な情報量になったというが、肝心の神霊が少なければ、神子の能力も真価を発揮できないのである。
しばらく小首をひねり続けた神子は、やがてやんわりと微笑んでこう言った。
「なんだか、子犬を呼んでいるみたい」
「いや、わんちゃんじゃなくてワンチャンですよ」
「ふふ、可愛い」
「聞いてねえし……」
「聞いてますよ。でも、わんちゃんの方が可愛くないかしら」
「いや、そういう話じゃないですから……。そもそも、天狗たちが使ってる新言語の話でもないですから。そういう太子様こそどう思うんですか?」
森近霖之助のこと。神霊の声を聞ける太子様なら、私よりわかるでしょう? ――そう思っての問い掛けだったが、
「私は、可愛いと思いますよ?」
「聞けよ」
「ちょっ、危ないわよ屠自古っ。包丁を人に向けたらいけませんっ」
これだよ、と屠自古は大きな大きなため息を落とした。千年以上の眠りから目覚めたばかりで寝惚けているのか知らないが、どういうわけか神子は、ぽやぽやしたというか、どこか抜けたような性格になってしまった。もともとバカだった布都に加え神子までおかしくなってしまって、もうまともなのは私だけなのか、と泣きたくなってくる。
ダン! ダン! と包丁を勢いよく振り下ろしながら乱暴に料理を進める屠自古に、神子は引きつった笑顔を浮かべながら胸を張った。
「だ、大丈夫よ。私は至って正常だから」
「へえ。今のが冗談じゃなかったってんなら、太子様の食事は抜きでいいですか?」
「ああっ、私がお手伝いくらいしかできないと知っての暴言ねっ? ダメよ、せっかくお客様が来るというのに、私の席にだけご飯がないなんてっ」
「じゃあほら、こっちの料理は既にできてるんで、運んで名誉挽回して下さい」
「わかりました、任せてっ」
既にできあがっていた料理をいそいそとお盆に載せて、盛りつけを崩さないように、抜き足差し足で座敷の方へと向かっていく。その神子の背を見送りながら、屠自古はもう一度だけため息を落とした。どうしてこうなっちゃったんかなあと思いながら手元に視線を戻すと、ふと神子から声が掛かった。
「ちなみに、森近さんのことですけど」
屠自古はハッと振り返った。あいかわらず抜き足差し足を続けたまま、それでも意識だけをこちらに向けて、微笑んでいる神子の姿がある。
――ちゃんと、聞いてたんじゃないですか……。
ということは、先ほどまでの言動は本当に冗談だったのか。もしそうだとしたら、寝ぼけているくせに喰えないものだ。
眉根を寄せる屠自古の目の先で、神子は悠然と笑みを深める。
「それを知るために、私は今日の宴会を――あっ、」
そして、コケた。
なにもないところで器用に足をもつらせて、コケた。
屠自古が丹誠込めて作った料理ごと、コケた。
ドシャア。
グチャア。
「うわああああああああああ!? 太子様、あんた人の料理になにしてくれてんですかああああああああ!!」
「ご、ごごごっごめんなさいっ! 躓いてしまって……」
「いやいやいや、そんななにもない場所でなにに躓いたっていうんですか!? どうしてくれんですか私がせっかく作った料理いいいいい!!」
「ほっ、本当にごめんなさいっ! だから後生なので、」
「ダメですよ許しませんいや許してたまるかやっぱりあんた食事抜きだああああああああ!!」
「うわーん!?」
もうヤダ、この聖人。
昔は本当に真面目でカリスマのある御方だったのに、どうしてこうなった。
1400年の時を経て変わり果てた上司の姿に、屠自古は結構本気で、泣きたくなった。
○
人里での評判から察するに、布都の主人である豊聡耳神子は名のある大妖怪にも引けを取らない才媛なのだと、霖之助は予想していた。聖人という肩書きからして尋常ではない。なので、布都に仙界の道場へと案内してもらう傍ら、霖之助は柄にもなく緊張していた。
気持ち、いつもよりも着物をぴっしり着込んで。神子が持つ人里への影響力は恐らく絶大なものだろうから、失礼だけは避けなければならない。ここで悪印象を与えてしまうと、巡り巡って人里での香霖堂の評判が落ち込む……なんてことも、ありえないとは言い切れない。
――と思っていたのが、今から十分ほど前のことで。
さて繰り返すが、霖之助は神子のことを、優れたカリスマを持つ才媛だと予想していた。まさに聖人と呼ぶにふさわしい、そんな威光を見せつけられることになるのだろうと覚悟していた。
しかして今、道場内の座敷で神子と面会した霖之助は、
「――ですからひどいんですよ森近さんっ。確かに私だって不注意でした、非はありました、ちゃんと謝りましたっ。なのに、よりにもよってお客様を招く宴会の場でご飯抜きだなんてっ、ひどいと思いません!?」
「え、ええ……そ、そうかもしれませんね」
さめざめ涙を流す神子に、なにやら愚痴をぶつけられていた。
狭い座敷だ。恐らくは来客が来た際に寝室として開くような部屋なのだろう、部屋をあしらう装飾具は、幻想郷ではなかなかお目にかかれない珍しい品ばかり。似たような道具を、かつて比那名居天子という少女と知り合う中で見せてもらったことがある。ここが『仙界』という幻想郷と異なる世界であることを考えれば、地上で作られた道具ではないのだろう。
けれど、それを見た霖之助が道具屋としての血を騒がす暇もなく、座敷に駆け込んできてむせび泣いたのが彼女だった。
神子の愚痴を適度に聞き流しながら、さて、と霖之助は内心腕組みをする。人里で人気になっているというカリスマあふれる聖人は一体どこにいるのだろう。霖之助には、目の前の神子の泣き顔が、少し前の布都と重なって仕方がないのだが。
「こんなのってあんまりですよー!」
神子が指差した先、座敷の中央に、互いに向かい合う形で据え置かれた膳が二組ある。内の一つ、料理が一切なく酒しか置かれていない物寂しい膳が、どうやら神子のものであるらしかった。
「こら屠自古っ、太子様の料理がないとは一体どういうことなのだ!? せっかくの宴会だというのに!」
澄まし顔で料理を配膳していた蘇我屠自古に、布都が頬を膨らませながら食ってかかる。屠自古は、その目差しをハッと鼻であしらいながら答えた。
「知らないよ。私はちゃんと、太子様の分は用意してたんだけどねえ……。太子様がここまで運ぶ間に、どっかに行っちまったらしい」
「どっかって……」
「さあ。――ゴミ箱の中とかじゃね?」
「と、屠自古っ……。私、何度も謝ったじゃないのっ」
「あっははは、そうでしたっけ。すみません、亡霊になってからどうにも耳が遠くて」
「う、ううっ……」
「いやあ、まさかなにもない場所でずっこけるなんて、太子様も器用ですよねー。私にゃあ逆立ちしてもできない芸当ですわあ」
そう笑ってふわりと浮き上がり、自分の脚――妖夢の半霊を彷彿とさせる、二本の尾を引く白いふよふよ――を見せつけた。その屠自古の言葉からして、神子が膳を運ぶ途中ですっ転んで、料理をダメにしたということでいいのだろうか。
……神子が口を真一文字に引き結んでぷるぷる震えているので、間違いないのだろう。
震える神子を見て、布都が慌てた面持ちで屠自古の袖を引っ張った。
「と、とにかく屠自古っ。せっかく霖之助を呼んでの宴会なのだから、ちゃんと太子様の料理も用意してくれっ」
「といってもねえ」
けれど屠自古は鼻で一笑に付し、
「肝心の材料がもうないんだわ。いや、ほんと残念」
残念のざの字も見えない清々しい笑顔に、神子がいよいよ、すんすんと鼻をすすり始めた。
その音を極力意識しないようにしながら、霖之助は思う。一体僕はどうすればいいんだ、と。聖人の前で失礼のないようにと気を引き締めていたのに、その相手が聖人とはまったく縁のなさそうな普通の少女だったのだから、途方に暮れてしまっていた。
「よし、こんなもんかな。……あー森近さん、どうぞ好きな席に座ってくれていいですよ。ただしそこのなにも置いてない膳は太子様のなんで、それ以外で」
「あ、ああ……」
笑顔の屠自古に促され、とりあえず霖之助は一番近い膳の前に腰を下ろす。
「ほら、布都も」
「う、うむ……」
布都も、腑に落ちない様子でしばし神子を見つめてから、霖之助の向かい側の席へ。そして、屠自古は布都の隣。最後に霖之助の隣、料理が載っていない空の膳の前に、めそめそと神子が腰を下ろした。
――正直、ものすごく居心地が悪い。これからご飯を食べようというのに隣で少女がすんすん泣いているのだ。朴念仁という不名誉なレッテルを貼られて久しい霖之助といえど、気が気でなかった。
「……あの、豊聡耳さん」
「すん、すん……。……あ、はい。なんですか? いいですよ、私のことは気にしなくて」
何気なしを装って声を掛けてみるが、若干拗ねた様子で言い返され、言葉につかえてしまう。
しかしながら、気にしなくていいと言われて本当に気にしないわけにもいかない。
「いいんですよおー森近さん。太子様の自業自得なんで」
抜けるような笑顔で屠自古にそう言われたとしても、頷くわけにはいかないのである。……ああ、神子の犬耳みたいな髪の毛がへんにゃりと垂れた。
なので霖之助は、少しの間だけ顎に手を当てて考え、
「豊聡耳さん」
「ぐすっ……。いいですよーだ、自業自得な私のことなんて放っておいてくださいよ」
「いえ、そうじゃなくて」
完全に拗ねている神子を両手を見せて宥めつつ、なるべく穏やかな声で。
「実はボ……私、昼食を食べ過ぎてしまいまして。一人でこの量は、少しばかり多い」
もちろん嘘だ。食べ過ぎてなんていないし、一般男性の霖之助からしてみれば、膳の上の料理だってむしろ少ないくらい。
けれど霖之助は、ご飯抜きを食らった少女の隣でいけしゃあしゃあと箸を動かせるほど、決して図太くはなかったから。
「……よろしければ、半分いかがでしょう?」
「ッ――! も、森近さぁん!」
「お、おお! それは名案だぞ霖之助!」
布都もどうやら同じところを感じていたようで、霖之助がそう言うなり、立ち上がって膳ごと神子の方へと身を寄せた。
「ふ、布都までっ……!」
神子は悲しみの涙から一転、今度は感涙にすんすんと鼻をすすり始めた。霖之助と布都は互いを見合って苦笑し、最後に彼女――屠自古へと視線を向ける。
いいだろう? と言外に問い掛ける。
「屠自古。やはり宴会は、みんなで仲良くご飯を食べてこそだぞっ」
「……」
布都の言葉に屠自古はすぐに応じず、しばし目を丸くして絶句してから、呆れ果てたように白い歯を見せて苦笑した。
「……随分とまあ、お優しいこって」
観念したように、両手を挙げて。
「あーはいはいわかりましたよ。……じゃあもうビュッフェ的な感じでいいですか? 料理中央にまとめて、みんな好き勝手に摘む感じで」
「と、屠自古っ……! ありがとうございますっ!」
「まあ、ご飯抜きはまた後日ってことで」
「えっ……」
神子が捨てられた子犬みたいな目でこちらを見てきた……が、さすがにそこまではどうしようもない。霖之助は軽く肩を竦めながら、自分の膳を神子の方へと寄せた。
「まあ、今はこの宴会を楽しむとしましょう」
「……そ、そうですね。せっかく、わざわざお越し頂いたんだもの」
あはは、と水分のない顔で神子が笑うが、それ以上は布都も助け船を出さなかった。むしろ布都は、待ちに待った宴会の始まりにすっかり浮き足立っていて、気づいていなかったのかもしれない。
「あ、そうそう! 太子様、霖之助はどうやら騒がしい宴会が苦手なようなのです! なので今宵は、お淑やかで上品な宴会にしましょうぞ!」
「あら、そうなの? ……わかりました。じゃあ、あまり羽目を外しすぎないようにね?」
「はい!」
なんとか食事にありつけるとなって、神子も幾分か心を持ち直したのだろう。あの不甲斐ない泣き顔は綺麗さっぱりと消え、今では、布都の保護者さながらに慈愛にあふれた微笑をたたえていた。
それにしても、布都は本当に嬉しそうだった。舞い上がるあまり席に座ることも忘れて、隣の屠自古に行儀が悪いとたしなめられている。しかし一向に聞く耳を持たず、徳利を一本、手に取って声を上げた。
「霖之助、霖之助! 我が酌をしてやるぞ!」
「ああ、ありがとう」
布都に酒を注いでもらい、霖之助もまた彼女の猪口へ注ぎ返す。そして隣で神子と屠自古が同じようにして酒を注ぎ合ったのを確認してから、準備はいいよと布都に目配せをした。
「うむ!」
爛々輝く瞳で頷いた布都は、もう居ても立ってもいられないのか、姿勢を正して猪口を浅く掲げた。そわそわと忙しなく揺れる体に、猪口から酒がこぼれ落ちそうだ。
そうして布都は一息、
「では、さっそく始めましょうぞ! ――乾杯!」
……こうして誰かとともに猪口を傾けるのも、久し振りだ。
聖人であるはずの神子がのっけから泣き出すという幸先の悪い出だしだったが、どうかこれ以上は、何事もなく穏やかな宴会になりますようにと。
そう祈りつつ、かちん、霖之助は布都と猪口を鳴らして――
○
「――ほら、りんのすけ、りんのすけぇ! 手が止まっておるぞ、もっとのもう? な、な?」
「……」
そしてその希望的観測は、二刻としないうちに泥船の如くあっさりと難破した。
――ああ、わかっていた。わかっていたさ。
いつか必ず誰かが酔って、騒ぎ出して、お世辞にも静かな宴会とは言えなくなるのだと、なんとなく覚悟だけはしていた。そして、まさにその通りの結果になった。それだけなのだ。
だから、僕が頭を痛めるようなことはなにもない。そう、霖之助は努めて自分に言い聞かせる。そうでもしないと、やってやれなかった。
ところで、一つだけ予想外だったことがある。霖之助はひとしきり長いため息を落とし、己のすぐ顎の先を見下ろして、力のない声で言った。
「……どうして君は、僕の膝の上なんかに座ってるのかな」
「えへー」
答えらしい答えはなく、ただ布都の笑んだ声だけが返ってきた。……まさか酒に酔った布都が絡み上戸になるとは、予想外だった。
一種の躁状態なのだろうか。霖之助の胡座を座布団代わりに、更に胸板を背もたれ代わりにした布都は、きゃっきゃっと暇なく笑い声を上げては、浴びるように酒を呑み続けていた。いつも被っている烏帽子を明後日の方向に放り投げ、銀の髪をきらきら揺らして、実に楽しげなご様子だ。
霖之助の膳の上は、布都が呑み干した徳利であふれかえって料理を摘むことすらままならなくなっている。まるで伊吹萃香を彷彿とさせるその呑みっぷりに、さすがの霖之助も呆れ果てずにはいられなかった。
「ちょっと、呑み過ぎなんじゃないかい?」
「へいき、へいきぃー。われはぁ、こう見えても、お酒にはつよいのだぞぉー?」
でろんでろんになった猫撫で声でそんなことを言われても、説得力などかけらもありはしない。布都はもはや猪口すらも明後日に放り投げ、徳利から直接酒を呷っていた。まるでジュースを飲んでいるかのように、ごくごくと惜しげなく喉が鳴っている。
「……布都」
「……ぅ? りんのすけも呑むか?」
霖之助の胸に体を預けて見上げる瞳は、微妙に焦点が合っていなくて、夢を見ているようにふわふわしていた。
霖之助は吐息とともにかぶりを振って、差し出された布都の徳利を押し返した。
「それよりも布都。君にここにいられたら、料理を食べられないのだけどね」
「ぅー? われが食べさせてあげるから心配ないぞー。どれが食べたいのだぁ?」
「……」
遠回しにどけてくれと言ったつもりだったのだが、今の布都には通じなかった。彼女は鼻歌混じりでしばしの間迷い箸をして、しかし結局なにも取らないままもぞもぞと回れ右。にぱーっと笑顔を咲かせ、そのまま霖之助の胸に抱きついた。
「……布都」
「えへー、りんのすけぇー」
すりすり、布都が頬ずりしてくるくすぐったさを胸に覚えつつ、霖之助はもう何度目かもわからないため息を吐き出した。
さっきからずっと、こんな調子なのだ。女の子に膝の上に座られるというのは、正直なところ霖之助にとっては既に慣れたものなのだが、ここまで密着されるとさすがに勝手が違った。布都とはまだ一ヶ月そこらの間柄なこともあってか、少しばかり気恥ずかしい。
「……すみません、豊聡耳さん。あなたからも布都に離れるように言って――」
なので霖之助は、傍らの神子に助けを求めた。霖之助の言葉が届かずとも、上司である彼女の声ならば、布都もきっと聞き分けてくれるだろうと。
そう、思ったのだが。
「――だあから、そういうところがダメだっつってんですよ私は!!」
鼓膜を突き抜けるほどの屠自古の大喝。霖之助は思わず耳を押さえ、目を白黒させながら、声が上がった方を見遣った。
隣で幸せそうに食事を摘んでいた神子の姿がいつの間にか消えている。彼女はなぜか座敷の隅っこで泣く泣く正座し、なぜか怒髪天を衝いている屠自古に説教を食らっていた。
「なんであんたがそんなのんびり屋になっちゃったのかは知りませんし、それ自体悪いなんて言いません。ですけどね、せめて私らの上司として最低限の品格は持ってくださいよ! 一体どこの世界に、子犬みたいな目ぇして客に助け求める聖人がいるんですか! プライドはないんですか!? なんですか、もしかしてあの『わんちゃん』ってこの伏線だったんですか!? 全っ然面白くもなんともねえよ!!」
「と、とととっ屠自古、あなたもしかして酔」
「ああそうですね、酔ってますよ。酔いたくもなりますよ、酔ってなにもかも忘れたくなりますよっ! 太子様と出会う前の私に戻りたいですよ、昔のカリスマあふれるあんたはどこに行ったあああああ!!」
「あっ、あっ、屠自古、雷はダメっあうあうあう!?」
比喩などではなく、屠自古は本当に火花を散らして激怒していた。どこぞの龍宮の使いのように、雷を生み出す能力でも持っているのだろうか。逆立った髪がバチバチと空中放電を起こし、そのたびに神子の体がビクビク飛び跳ねる。
「い、いたいいたい! と、屠自っ、お、落ち着いってってぅ!?」
「あはははははなに変なこと言ってるんですか太子様。てってぅーてってぅー。うはははははそぉれそれビリビリですよー」
「やあああああ助けて森近さあああああん!」
「ぼ、僕ですか!?」
まさかここで名前を呼ばれるとは夢にも思っていなかったので、霖之助は慌てた。神子がすっかり涙目になりながら這う這うの体で逃げてくる。
「森近さんは店主さんですから、こ、交渉事は得意でしょう!? とととっとにかく屠自古を宥めてくださいっ」
「な、宥めてって」
確かにある程度の交渉事には心得があるけれど、さすがに火花を散らして怒る少女の宥め方など知る由もない。
「太子様ぁ……あんた、この後に及んで恥も外聞もなく森近さんに助けを求めるたあ、いい度胸してんなぁ……」
「ひやあああああ!?」
ゆらぁり、幽鬼の如く――実際、彼女は幽霊なのだが――体を揺らした屠自古が、青筋を浮かべながら神子のあとを追った。……あとを追ったということは、すなわち、霖之助の方に来たということであって。
霖之助の背筋を冷や汗が流れ落ちた。――いけない、巻き込まれた。
「も、森近さんっ! ほら、出番ですよ!」
「いや、巻き込まないでください」
霖之助はぶっきらぼうに首を横に振ったが、神子は取り合ってくれない。
「そんなこと言わずに! ええと、ほ、ほら、屠自古を宥めてくれたら、今日の夜、一緒に寝ちゃってもいいですよ! 嬉しいですよね! 嬉しいですよね!?」
この少女、本当に聖人なのだろうか。
「と、とにかく、助けてくださあい!」
「ちょ、」
神子が霖之助の袖を掴んで必死に引っ張ると、その少女らしからぬ怪力に、霖之助はあわや屠自古の目の前に放り出されそうになってしまう。
すると、どこからともなく飛んできたアッパーカットが神子の顎をカチ上げた。
「!?」
布都だ。霖之助の胸に抱きついた体勢のまま、神子を一瞥ともすることなく放った一撃は、彼女の体を数センチほど畳から浮き上がらせた。
後ろに尻餅をついた神子は、目元をますます涙で潤ませながら、驚愕の表情でわなないていた。
「ふ、布都!? あ、あなたいきなりなにを」
「悪い虫――」
ぽつり、一言。無感情で、しかしそれ故に、聞く者の肌を粟立たせる声だった。
布都が霖之助の胸元に埋めていた顔を持ち上げる。あいかわらずふわふわ焦点の合わない目を、けれどこの上なく不愉快げに歪めて、彼女は神子を睨みつけた。
「我の霖之助れーだーが反応しました。霖之助に悪い虫がつきそうだと」
「……、」
なにやら聞き捨てならない単語が聞こえた気がして、霖之助は己の耳を疑った。酒の量はきちんと調節していたつもりだったが、気がつかないうちに酔っていたのだろうか。なんだか、『霖之助れーだー』とかいう、この世界の辞書には存在しない新言語が聞こえたような。
「ふ、布都、『霖之助れーだー』ってなに!?」
「霖之助に変な女がくっつきそうになると反応します。さーち&ですとろいです」
霖之助の疑問を代弁した神子への返答は、ひどく淡々としている。『変な女』呼ばわりされた聖人は、胸を押さえてその場にうずくまっていた。
布都は構わずに続ける。今まででろんでろんに酔っていたのが嘘であるかのように、実に生真面目な顔で人差し指を立てて、
「太子様、霖之助は我のです。故に霖之助にくっついていいのは我だけです。おーけー?」
「ちょっと待ってくれ、布都」
さすがにおーけーじゃなかったので、霖之助は口を挟んだ。霖之助は、一体いつから布都の所有物になったのだろうか。
しかし布都はその疑問には答えてくれず、頬をぷっくりと膨らませながらこちらの胸をぺちぺちと叩いてきた。
「霖之助には訊いてないの! 黙ってるの!」
「……、」
つまり、お前の意見はどうでもいい、というわけで。
霖之助の脳裏に、ふと、こちらの人権を無視しては勝手な話を捏造していく二人の古馴染の顔が浮かぶ。ああ布都、お前もか。
「ま、待って布都。あなた、森近さんといつの間にそこまでの関係に」
「話を逸らさないでください太子様っ!」
またも神子が霖之助の疑問を代弁してくれたが、やはり、布都からの返答は素気なかった。
「ともかく霖之助にひっつくの禁止っ! よろしいですか!?」
「ま、待って、今だけでいいから森近さんを貸して頂戴! 主に私の未来のために!」
「ダメですダメですっ、そうやって霖之助を独り占めするつもりでしょう!? 認めませんぞ我は!」
「あ、あなただって現在進行形で独り占めにしてるじゃないの!」
「我はいいのです、だって霖之助は我のなんですから! あ、コラ、だから霖之助にひっつくなあああああ!」
布都に右腕を、神子に左腕を取られ、右へ左へと引っ張られながら、霖之助は明後日の方向を眺めて深いため息を落とした。……お淑やかで上品な宴会にしようという布都の宣言は、一体どこに行ってしまったのだろうか。
ああ、帰りたい。
「やあ、両手に花ですなあ。店主殿」
「……屠自古」
声の方を見れば、屠自古が神子の背後でニヤニヤと含み笑いをしていた。
ひ、と神子が顔を真っ青にして固まる。
「なんだったら、私も仲間に入ってあげましょうかあー? これで持ち切れなくなりますよお」
「い、今また霖之助れーだーが反応したっ! 屠自古、貴様もかあああああ!」
布都がいきり立って喚き出すが、屠自古はひらひら片手を振って、
「大丈夫だって、ほんの冗談さ。……私は太子様をシバけりゃそれでいいしね」
「シバく!? シバくってなんですか屠自古!?」
「まあわかりやすく言やあ、ビリビリしてやんよ! ってことですよ」
「いやー!?」
むんずと屠自古に襟首を掴まれ、当然ながら神子は猛抵抗した。霖之助の腕にしがみついて、駄々っ子のようにいやいやと首を振る。
霖之助は顔に愛想笑いを貼りつけつつ、心の中で小さく舌打ちした。いやいやと首を振りたいのはこちらの方だ。
「お、落ち着いてください、豊聡耳さん」
「これが落ち着いていられますかっ。いやですいやですビリビリはいやなんです助けてくださいよ森近さあああん!」
いや、霖之助もいい加減迷惑なことこの上ないのでなんとかしたいのだけど、このままでは、主に霖之助の腕をぽよぽよ挟み込む二つの柔らかいお饅頭的な意味で非常に危
「豪族アッパアアアアア!!」
「きゃうん!?」
本日二度目、布都の渾身のアッパーカットが神子の顎を打ち抜いた。あまりの威力にもんどりを打った神子に対し、布都はもう興奮の針が振り切れたのか、「我の霖之助れーだーが、我の霖之助れーだーが太子様をですとろいしろと叫んでるっ!」と畳を叩きながら喚き散らしていた。
「あ、あの、布都、だからね」
いじめられた子犬みたいに小さくなりながら、それでも必死に訴えを続けようとする神子に、布都が送った言葉は死刑執行。
「屠自古、連れていくのじゃー!」
「よっしゃ任せろー!」
「うわーん!?」
ずるずるずる。襟首を掴まれ哀れ引きずられていく神子を、霖之助はもはや一瞥もしなかった。
これが、人里で名高く人気になっている聖人の真の姿。なんというか、彼女を聖人だと信じて信仰している里の人間たちが、不憫でならないような気がした。
霊夢と早苗が神子に里の信仰を奪われて大変なんだと嘆いていたことを、思い出すが。
正直、そこまで心配することでもないのではなかろうか。
「霖之助! 我、邪魔者を追い払ったぞ! 偉いか? 偉いかっ?」
酔っているとはいえ、腹心の部下から邪魔者扱いされる始末で。
「と、屠自古、あの、なんで私の顔を鷲掴みに」
「脳に直接電流流せば太子様も元に戻るんじゃねえかなって」
「いやあああああちょっと待って屠自古、あ、あっ、ふきゃああああああああ!?」
更には部屋の隅っこで、同じく腹心の部下から電流でお仕置きされる始末。
霖之助は、電流を流されビクビク震える神子の醜態を見て、心の奥底にえも言えぬ寂寥を抱きながら、隣の布都を見下ろした。
「……布都」
「ん? どうした、霖之助?」
「君の主人たちは、いつもあんな感じなのかい?」
段々と無抵抗になってきた神子と、満面の笑顔で火花を振りまき続ける屠自古。布都はそんな彼女らの姿をしばらくの間ポカンと眺めてから、やがてにぱーっと笑った。
「今日はいつもより控えめだな! きっと霖之助がいるからであろう、屠自古も大人しい方だぞ!」
「……」
あれで普段よりマシな方とは、これいかに。
「そ、それじゃあ普段は一体どんなことを……」
「ううんと……雷が落ちて、太子様が黒コゲになる」
「…………」
嗚呼、と霖之助は豁然と悟った。聖人と呼び讃えられる才媛が管理する道場だから大丈夫だろうとわけもなく妄信していたが、違った。
咲夜が執り仕切る紅魔館然り。
妖夢が財布を管理する白玉楼然り。
永琳が支配する永遠亭然り。
そしてここの道場もまた、本来ならば管理される側であるはずの屠自古によって管理されているのだ。
布都はいそいそと霖之助の膝の上に戻って、屈託のない笑顔を咲かせて言う。
「大丈夫! もし流れ弾が飛んできても、我が霖之助を守るから!」
「……ああ、うん。そうだね」
ありがたいけど、でもなんかズレてる――そんな微妙な布都の気遣いを感じながら、霖之助は酒を一気に呷った。
なんだか霖之助も、酔って全部を忘れたい気分だった。
○
一体いつまで続くのかとも知れなかった騒ぎは、けれど霖之助が酒に酔うよりも先に、驚くくらいにあっさりと収束した。まず、屠自古の電流攻めで神子が気を失う。それを見て興醒めしたのか、屠自古が座布団を枕にして寝る。そして最後に、布都が霖之助の膝を枕にして寝る。それで終わりだった。ここが宴会の会場だとは信じられないくらいの静寂が、霖之助の耳を打っていた。
どうして布都がわざわざこちらの膝を枕にしたのかということについては、とりあえず置いておくとして。
「……僕は一体、どうすればいいのかな」
誰に向けるでもなく、霖之助は悄然と独りごつ。料理は片付いた。酒もなくなった。騒ぎも静まった。そろそろお開きにすべきだと時間も告げている。明日も店の営業があることだし、帰って休みたい。宴会をおしまいにする理由がこれほど揃っているのに、霖之助は未だそこを動けないままだった。
「……」
霖之助は己の膝元に視線を下ろす。布都。霖之助が作った胡座に顎を乗せて、更に霖之助の膝を抱き締めるようにして。決して眠りやすい体勢ではないはずなのに、彼女はとても幸せそうに寝息を立てていた。
「布都……ちょっと、起きてくれないかな」
控えめに布都の体を揺すってみるが、案の定返事はない。それどころか、まだ帰らないでと言うように、膝に一層強くすりつかれてしまう。
ううん、と霖之助は苦い声で呻いた。
「本当に、どうすればいいんだい……」
付け加えれば段々と足が痺れてきていて辛くもあるのだが、助けを求めようにも神子は気絶、屠自古は夢の中。さて、本当にどうしたものだろうか。口からこぼれ落ちたため息が畳を撫でる。
「う、う~ん……」
光明が差したのは、ちょうどその時だった。
神子だ。腕を杖にして、ゆるゆると体を起こしている。屠自古の執拗な電流攻めのせいで髪がすっかり逆立って、なかなかすごいことになってしまっていた。
それが正視に耐えない有様だったので、霖之助はやや躊躇いがちに、
「豊聡耳さん」
「あっ、森近さん……ごめんなさい、私ったらすっかり気を失って」
「その……髪が乱れているようなので、鏡を見てきてはどうでしょう」
「えっ!?」
神子は顔を赤くして頭に手をやり、それから、青くした。
「ちょ、ちょっと行ってきますね!」
懸命の愛想笑いでそう言い残し、バタバタと騒がしく部屋を飛び出していく。それから遠くの方で、ひや、だか、へゃ、だか、何事か短い悲鳴を上げていた。
「……」
霖之助は、ぼんやりと天井を仰いで吐息した。もしかすると、神子は敬語を使うほどの相手でもないんじゃないかと、思い始めていた。だって聖人なんてのは名ばかりで、彼女はごくごく普通の少女だったのだから。
印象的には、早苗を相手にしているのと似ている。
「ご、ごめんなさい……みっともないところを」
「ああ……おかえり」
やがてそろそろと戻ってきた神子の髪は、あの獣耳みたいなところを除いてはすっかり元通りになっていた。
獣耳については、恐らく癖っ毛なのだろう、直そうとした跡もないようだ。そのせいで神子のことが先ほどから子犬に見えて仕方ないのだが……それはさておき。
神子は座敷に入ってすぐのところで正座し、なおも髪を手櫛で何度も梳きながら、恥ずかしそうに身を竦めた。
「あの、その……ふ、普段は大丈夫なんですよっ? ただ今回は、ちょっと失敗をしてしまっただけで」
「……うん、聞いたよ」
自然と出た返事から、敬語は消えていた。それをわざわざ言い直そうとも、もはや思わなかった。霖之助は目を細めて天井の木目を振り仰ぎ、
「普段はもっとひどいんだってね」
「えっ……あっ、ふ、布都ですね!?」
「うん、まあ」
「う、ううっ……」
神子ががくりと項垂れると、やはりあの癖っ毛がへんにゃりと垂れ下がった。まさしく子犬よろしく、神子の感情と連動しているらしい。
彼女は聖人じゃなくて犬なんじゃないだろうか、などと勘繰りながら、霖之助は神子に問うた。
「昔の君は、今とは随分違っていたらしいね?」
屠自古が「昔のカリスマあふれるあんたはどこに行った」と神子に説教していたのを思い出す。つまり神子は、恐らく以前の神霊異変で復活を果たすよりも前は、間違いなく聖人と呼んで差し支えないほどの才媛だったのだろう。
はい、と神子はしょんぼりしたまま頷いた。
「昔の私がどんなだったのかは、あんまり覚えていないんです……。きっと、尸解仙の法に不具合があったんだとは思いますけど」
「もしかして、布都もそれでこんな性格になったのかな」
閃くように、霖之助は唐突にそう思った。きっと布都も、昔はもっとしっかりとした性格で、尸解仙の法の不具合でこんな子どもっぽい少女になってしまったのではないか。
間違いない、と確信する。聖徳王と呼ばれた神子の腹心なのだから、そうであって然るべきだと
「いえ、布都は昔からそうでしたよ?」
「……」
どうして神子は、こんな子どもを部下になんてしたのだろう。
「あっ、そうです、布都といえばっ! 森近さん、君は布都と一体どういう関係なのっ?」
「どうって……」
霖之助は膝元を一瞥し、
「しばしば僕の店にやって来て、店の道具について話を」
「そういうことじゃなくって! ほ、ほら、『霖之助は我のです』とか言ってたじゃないっ!」
「……それは僕も与り知らぬところで」
霖之助は肩を竦め、布都の寝顔を見下ろしながら静かに言った。
「まあ、彼女も酔っていたみたいだしね。そのせいじゃないかい? 少なくとも僕は、彼女の所有物になった覚えはないよ」
「そ、それはそうかもしれませんけど……」
「それよりもこの状況、どうにかしてもらえないかな。夜も遅いし、そろそろ帰りたいんだけど」
縁側を通して外を臨むと、月が南の高い位置でひっそり夜を照らしていた。
脚の痺れも、そろそろ限界になりつつある。
「ああ、そうですね……」
頷いた神子はゆっくりとこちらに歩み寄り、布都の寝顔を覗き込んで苦笑を一つ。
「まったく布都ったら、そんなに森近さんが好きなのかしら」
何気ない様子で口を出た神子の言葉を、霖之助は努めて聞かなかったふりをした。緩く首を振って、
「揺すっても起きてくれなくてね」
「んー……布都、早く起きないと私が森近さんと一緒にゃふ!?」
布都が飛び起きて、その頭が真上にあった神子の顎をカチ上げた。
霖之助が思わず顔をしかめてしまうくらい、痛そうな音がした。
「~~~~っ!?」
神子が声にならない悲鳴を上げて畳に転がる。一方の布都は自分がなにをしたのかわかっていないのか、寝惚け眼をこすりながら霖之助を見上げた。
「むぅ……いままた、われのりんのすけれーだーがはんのーした……」
「……」
霖之助は、顎を押さえてぷるぷる震えている神子をとりあえず放置しつつ、
「その妖怪みたいな能力、なんなんだい?」
「だから、りんのすけにわるいむしがつきそうになるとはんのーするの……さーちあんどですとろいなの……」
「ね、ねえ布都。あのね、私、あなたに言いたいことがあるんだけど」
「んー……」
神子が涙目で抗議をしようとするが、布都は無視。倒れるように霖之助の胸にしなだれかかって、また静かな寝息を立て始めた。
「こ、こら、布都……」
「ううっ……布都が、布都が最近私の話を聞いてくれない……」
いじけて畳をいじくり始めた神子を役に立たないものと早々に見限り、霖之助は半ば強引に布都を胸元から引き離した。「んんぅー……」と布都がいやいやするが、霖之助ももうなあなあにしたりはしない。ここではっきり意思表示をして帰ろうと、強く心に決めていた。
「布都。悪いけど、僕はもうそろそろ帰るよ」
「ぅー……りんのすけ、かえっちゃうの?」
「そうだよ。明日も店の仕事があるからね」
「とまってってもいいのに……」
いや、それは布都がよくても霖之助がよくない。既に予想していた提案だけあって、霖之助の返答は速かった。
「こうして宴会に招いてもらった上に、そこまでお世話にはなれないよ」
もっともらしい建前を並べながら、首を横に振る。霖之助だって男なのだから、今日知り合ったばかりの神子や屠自古と同じ屋根の下で夜を明かすというのは、実に落ち着かないものがあった。
それになんとなく、そんなことをしたら、布都が朝まで離れてくれなくなるような気がして。
布都は納得行かない様子で駄々をこねていたが、ここで助け舟を出してくれたのが、役立たずだと思われた神子だった。
「こら、布都。あんまりわがままを言っちゃダメよ?」
顎の痛みは治まったらしい。布都を後ろから優しく抱き締め、諭すように柔らかな声で彼女は言った。
「今日は一緒にお酒を呑めて、いっぱいお話できて、もう充分じゃない。これ以上は、森近さんの迷惑になっちゃうから」
「……」
布都はなおも不満顔を浮かべていたけれど、これ以上神子を無視したり、その顎をカチ上げたりするような真似はしなかった。
それはもはや上司と部下ではなく、一人の母と、小さな子ども。
「一緒にお見送りしましょう。ね?」
「……ん」
根負けしたように力なく、布都が頷く。
幻想郷のそれと比べても遜色ない、痛く賑やかな宴会は、霖之助と神子の微苦笑とともに終わりを迎えた。
○
月は、白くくゆる雲の中で、淡く朧に光を放つ。ほのかに青白い、幻想を色にしたその光の中では、古ぼけた香霖堂でさえ確かな美しさを宿すようだった。
別次元にある仙界から、転移の術法でほんの一瞬。たった数時間ぶりに見る我が家の姿は、霖之助の心をひどく懐かしくした。宴会から帰ってきた時、霖之助の心は例に漏れずこんな有様になる。宴会という行事が、それだけ霖之助にとって負担になっている証明だった。
傍らの神子が、香霖堂を店構えを一望し、意外そうに眉を持ち上げた。
「あら、思ってたよりもずっと……質素なお店ですね」
『質素』の前にやや言葉を迷う間があったのを、霖之助は聞き逃さない。その上で、特に訂正できるほどの店構えでもないからと、聞かなかったことにした。
「道具はもちろん、衣服の修繕まで受け付けてるよ。お困りの際には是非」
答える神子の笑顔は柔らかだった。
「布都が懇意にしてるお店ですものね。今度機会があったら、是非寄らせ――きゃふん!?」
突然、ゴチンと嫌な音。神子におんぶされていた布都が、神子の後頭部に頭突きをかました音だった。宴会がお開きになって以降、眠気に抗えず神子の背ですっかり寝息を立てていたはずの少女は、しかし神子の言葉を聞き逃さなかった。
うぐぐと呻く神子の背中で、布都は赤くなった額をさすりながら、寝惚け眼を半分だけ持ち上げる。
「……いま、われのりんのすけれーだーが」
「え、ええと……じゃあ、僕はもう戻るよ。今日はありがとう」
霖之助は布都の呟きを無視しつつ、早々に会話を打ち切って家に戻ることにした。霖之助レーダーは、周囲の人間――主に神子――に不幸をもたらすのである。
神子もいい加減に学習したようで、目を涙で潤ませながら、しきりにこくこくと頷いていた。
「ほら、布都。お見送りは?」
「んんー……りんのすけえー……」
既に香霖堂の扉に手を掛けていた霖之助の背が、霧が掛かったようにはっきりとしない布都の声を聞く。
振り返れば、布都はなかなか持ち上がらないまぶたを何度もこすって。
それでも最後に、月の下で、
「――また、一緒に宴会しようね」
月見草みたいに、笑うのだ。
その笑顔を、霖之助はとても厄介だと思った。
思い返せば、布都に宴会の誘いを持ち掛けられた時もそうだった。半ば押し切られる形でその誘いを受けた時、布都が咲かせた満面の笑顔に、霖之助は一時の間、宴会を憂う気持ちを忘れた。
そして、今。霖之助は、宴会の騒ぎで溜まった疲れを、忘れている。
あれだけため息をついたはずなのに。あれだけ家で大人しくしていればよかったと後悔したはずなのに。
なのに、この宴会に出たのも、まあ、悪くはなかったかなと。
布都のその笑顔を見ただけで、すべてが容易く覆ってしまう。
「……やれやれ」
本当に、厄介だ。
君の笑顔は、こうも簡単に僕を狂わせる。
それが一体なぜなのか、答えなんてわからなかったけれど。
「――そうだね。また、いつか」
月の光の中に浮かべた、子どものように拙い笑顔は。
思っていた以上に清々しくて、決して悪い気分じゃないなと、霖之助は思った。