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霖CPSS集  作者: 雨宮雪色
2/9

増える魔法の油揚げ(藍霖)






 偏に、単なる好奇心だった。


 行かなければならない急用があったわけではないし、行かないという選択もできたのだが、主が食事の席で、また炬燵で暖まっている中で、事あるごとに「霖之助さんが~、霖之助さんが~」と話をしてくるのだ。否が応でも興味が湧く。

 はてさて、主がそこまで熱心になっている霖之助なる人物とは、一体どのような男なのか。

 それが、彼女――八雲藍が、『香霖堂』と看板の据えられた店舗を目の前にしている理由だった。






 ○



「――失礼するよ」


 粉雪舞い散る冬の幻想郷。森近霖之助は、雪化粧をこしらえた美女が店の戸を叩いたのを見た。

 人里で夕食の買い物を終えて店に戻り、程なくの頃だった。一見の客だと一目見た瞬間にわかった。店内の僅かな灯りすらも照り返し、きらびやかになびく黄金色――九尾が、鮮烈な輝きを持って霖之助の脳裏に飛び込んできた。


 今まで出会った女性とはどこか一線を画す、空前絶後の美貌。九尾と同じ柔らかい黄金の髪、妖艶に細まった切れ長の双眸、雪化粧の肌。その一つ一つは幻想郷でもさほど珍しくないパーツなのに、全てが絶妙の均整で保たれ、完成されている。霖之助ですらしばらくの間魅入って、目を離すことができなかった。

 やがて、夢から覚めるような奇妙な感覚を伴って意識が浮かび上がってくる。九尾の狐。大妖怪。久し振りにおかしな客が来たものだと、霖之助は小さな吐息を以て、浮かび上がってきた意識を掴み取った。


「……いらっしゃい。ようこそ、香霖堂へ」

「ああ」


 短いアルトの返答が、まるで鐘のように据えた芯で霖之助の耳朶を打つ。耳を通して頭を叩かれ、未だどこか夢見心地だった意識が完全に覚醒した気がした。

 女性はその場でふるふると尻尾を震わせて、雪化粧を払い落とす。けれど雪を被せたような肌の白妙だけはずっと変わらないままで、ああ、あの白は雪化粧でもなんでもなく元々の色だったんだな、と霖之助は気づいた。


「寒かったろう。ストーブで暖まったらどうだい?」


 どうやら彼女は、この粉雪が舞い散る中を傘も差さずにやって来たらしい。店内をほのかに暖めるストーブの隣を勧めると、女性は気遣い無用だとばかりに微笑んだ。


「大丈夫だよ。私は妖怪だ、これくらいの寒さどうってことない」

「そうかい?」


 ああ、と女性は頷く。それから店内をグルリと見回して、あちこち置かれる古道具たちを視界に入れては、物珍しそうに目を細めた。


「商品なら、好きに見てもらって構わないよ」


 霖之助は片手を水平に挙げて促すも、女性はすぐにすまなそうに眉を下げ、


「いや、悪いけど買い物に来たわけじゃないんだ」

「……道具の修理、というわけでもなさそうだね」


 女性は手ぶら。その霖之助の推測を、彼女は否定しなかった。


「すまないね」

「いや、大丈夫だよ。客が――」


 客が来ないのには慣れてるから。思わずそう言おうとしたところで、霖之助は口を噤んで渋面を浮かべた。……客が来ないことの何が大丈夫なのか。そんなこと、一古道具屋の店主として断じて認めるわけにはいかない。

 言い換える。


「――この時期は、どうしても客足が遠のくからね。ただストーブに当たりに来るだけの子もいるくらいだ。気にしなくていいさ」

「ふふ、そうか」


 そのクスリと音を鳴らした笑みは、恐らく失笑だったのだろう。どうやら霖之助の心中は完全に見透かされているようだ。

 それにしてもこの振る舞い、どことなく妖怪の賢者――八雲紫に似ている気がして、霖之助は眉をひそめた。そういえば彼女には『藍』という優秀な式神がいるのだと、何度か本人から聞かされていたが、まさか――


「……僕は森近霖之助。名前を訊いても、構わないかな?」


 俄に嫌な予感がしてきて、どうか当たってくれるなと思いながら、恐る恐る名を問い掛ける。

 すると、女性は「そういえば」と手を打ち、


「私は八雲藍。あなたもご存知八雲紫様の――ちょっとちょっと、そんな露骨に嫌そうな顔しなくてもいいんじゃないか?」

「あ、ああ……すまない」


 どうやら顔に出てしまったらしい。霖之助はハッとして引きつっていた頬の筋肉をほぐした。

 ともあれ、八雲紫。その変に胡散臭い、人を弄ぶような振る舞いが好きになれなくて、霖之助がこの幻想郷で最もといっていいくらいに苦手としている相手だ。

 そんな彼女の式神が、買い物目的でもなくいきなり店にやって来たとなれば、お世辞にもあまりいい予感はしない。


「……店主は、紫様のことを良く思っていないのかな」


 女性――八雲藍の双眸が不快げにすうっと細まる。肯定したらどうなるかわかってるだろうな、という圧力が露骨に含まれた問い掛けだった。ここで霖之助がその通りに是を返せば、香霖堂はしばらくの間休業になってしまうだろう。

 背筋を冷や汗が伝うのを感じながら、霖之助は焦って眼鏡を持ち上げた。


「ま、待ってくれ、決して嫌っているわけじゃないぞ。ただ、こう……僕は彼女の雰囲気が、どうにも苦手なんだ」

「雰囲気、というと?」

「何を言ってものらりくらりと躱されて、気がついたら懐に入られているような掴みどころのなさというか……どうやって相手をすればいいのか、困ってしまうんだよ」


 舌を噛みそうになりながらもそこまで必死に答えたところで、藍は「ああ」と得心がいったように頷いて瞳から圧を抜いた。霖之助を圧迫していた息苦しさが消えてなくなる。

 藍は苦笑し、


「確かに、それは紛れもない事実だ。紫様の悪い癖だね。男を魅了するにはミステリアスな雰囲気を演出するのが一番だと、本気で信じているようだから」

「……、」


 ……今何か非常に恐ろしい言葉が聞こえた気がしたが、霖之助は全力で聞かなかったことにした。


「その点でいえば紫様もまだまだ子どもだね。異性を誘惑する時は、もっとこう――」

「す、すまないけど、結局君はなんの用でここに来たのかな?」


 なんだか話題が宜しくない内容に転がっている気がしたので、霖之助は藍の言葉を遮って強引に方向修正。結局、紫の式神である彼女はここに何をしにやって来たのか。その最も重要な問題が、なおも謎のままである。

 しかし腕を組んだ藍は、なんだそんなことか、とすまし顔。


「それはまあ、店主に会いに来たんだよ」

「……それはどうしてかな?」

「紫様に悪い虫がついているんじゃないかと」


 直球発言。霖之助は目を剥いて沈黙した。

 なるほど、こちらと紫の関係を疑ったわけか。それならば買い物目的でもなくここに来た理由は納得できるけれど、同時にそれは、霖之助と香霖堂の未来にぶ厚い暗雲が差したということも意味する。もし霖之助が『悪い虫』だと藍に判断されてしまった場合、さて、霖之助と香霖堂は一体どうなってしまうのだろう。少なくとも、明るい未来はとても見えそうにない。

 霖之助がそうやって己の未来を憂う中、しかし藍はやんわりと一笑した。


「心配しなくていいよ。こうして話をしてみた印象、悪い男ではなさそうだ」

「……それはどうも」

「まあ、あくまで『なさそうだ』という話だけど」

「……」


 ひく、ひく、と自分の頬が痙攣しているのがわかる。つい先ほどまで美女を店に迎えていたはずなのに、気がついたら己の一挙一動が命運を分ける崖っぷちに追いやられていたというこの状況。もはや笑いが込み上げてきそうだった。

 おかしい。今日は夕食に鍋を作ってのんびり体を温めて、そのあとはゆっくり読書をして、そしてなだらかに布団に入って一日を終えるはずだったのに。どうしてこうなった。

 ああ、未だカウンターに置きっぱなしになっている食材たち。一番上で光り輝いている油揚げが、なんだかどうしようもなく遠い世界の存在に感じて――


「――あ」

「……ん?」


 その時霖之助は、藍が茫然と声を漏らしたのを聞いた。今までの芯のある声音とは違い、だらしないというか、どことなく締まらない声だ。見やれば、藍がポカンと口を半開きにして、カウンターに置かれた袋――その中の油揚げ――を捉えていた。

 藍はこちらの視線に気づいておらず、油揚げに釘付けだ。霖之助は、ああそういえば狐は油揚げが好きだって言い伝えがあったっけ、とぼんやりと思い出す。元々の好物とされていた鼠の油揚げが、殺生を禁じた仏教の影響を受けて、代わりに豆腐の油揚げとなって――いやいや、そんなことより。


「……」

「……」


 一つ二つと静寂が時を刻む中、やがて藍の九尾がパタパタと上下に揺れ始めた。


「………」

「………」


 霖之助は無言のままで袋を漁り、油揚げを取り出してみる。

 ぐぐぐっ、と藍の体が前のめりになった。


「…………」

「…………」


 霖之助は油揚げを右へ。

 それに釣られて、ふらふら、と藍も右へ。


「……………」

「……………」


 油揚げを左へ。

 ふらふらふらふら、と藍も左へ。


「………………」

「………………、ハッ」


 ふと、藍が我を取り戻した。

 視線が、交差する。


「――――――あ、」


 途端、熱湯を被ったタコのように、みるみると。

 その顔に紅が差して、差して、差して――






 ○



「――はい。出来上がったよ」

「あ、ああ。……ありがとう」


 一緒に夕飯を食べることになった。

 なんてことはない。霖之助としてはあそこまで油揚げに興味を示されてしまったら「食べていくかい?」と訊かないわけにも行かないし、訊いたら訊いたで、藍が顔を真っ赤にしながらもコクリと頷いたからだ。恥ずかしさよりも、食欲が勝ったのである。


「それじゃあ……」


 香霖堂奥の居間、普段は一人で寂しく囲むことも珍しくない食卓に、この日は一見の客が一人。藍を向かって右の席に迎えた霖之助は、そう言ってゆっくりと鍋の蓋を開けた。

 もう、と一瞬の湯気が周囲に立ち込め、あっという間に眼鏡が曇って何も見えなくなる。するとすぐに藍が腰を上げて、こちらから蓋を代わりに受け取ってくれた。……式神として人に仕えているだけあって、やはり気配りが上手い。

 霖之助は一度眼鏡を外して曇りを拭う。そして掛け直すと、既に蓋をテーブルの端に置いた藍が、ぽやーっとした表情で鍋の中身――グツグツと揺れる油揚げを見つめていた。

 その尻尾は、ふるふると、まるで犬のように元気いっぱいだ。


「……藍?」

「――ハッ。あっ、す、すまない……」


 こちらの呼び掛けに我を取り戻した藍は、じわじわと顔を赤くしてその場で萎縮。恥ずかしさからか、先ほどまで元気に揺れていた九尾はしょんぼりと項垂れてしまった。

 霖之助は苦笑し、用意したお椀に手早く具をよそう。藍の分は、もちろん油揚げ多めだ。


「はい、どうぞ」

「! あ、ああ!」


 そのお椀を差し出すと、縮こまっていた藍の背筋がぴんと伸びた。尻尾も、まるで天井を突き破るかの勢いで直立する。『怒髪天を衝く』ならぬ、喜尾天を衝く、とでも言おうか。

 藍は自分のお椀に油揚げが多めに入っていることに気づいて、にへら、とだらしない笑みを浮かべていた。弛緩した唇端からは今にもよだれがあふれてきそうだ。そうなってしまう前に霖之助は己の胸の前で両手を合わせ、それに気づいた藍も、ハッとしてわたわた両手を合わせた。


「それじゃあ、いただきます」

「い、いただきます」


 これだけ油揚げに心躍らせているのだ。てっきりすぐにがっつくのかと思っていたが、その霖之助の予想に反し、藍はすぐに食べ始めようとはしなかった。箸を持ってその木肌を撫でながら、チラチラと横目でこちらの様子を気にしている。さしずめ、自分はごちそうされる立場だから先に食べ始めてしまうのもどうか、けど早く食べたいなあ、と煩悶しながらこちらが食べ始めるのを待っているのだろう。

 霖之助は苦笑し、適当に摘んだ人参を口に運ぶ。それが合図だった。藍はパッと表情を明るくして、そそくさ箸を動かして油揚げの欠片を頬張った。


「~~♪」


 途端、藍の表情が弛緩する。目元が弛み、口元が垂れ下がり、ふにゃふにゃふにゃ~と。……なんともまあ、初め会った時に見せていた嬌笑とはうってかわって、子どもらしいというかだらしないというか、そんな笑みであった。

 藍はすぐに新しい欠片を掴みにかかる。今度は一気に三欠片だ。

 摘み、頬張る。


「♪」


 どうやら彼女は、“大”を付けても過言でないほどに油揚げが好物らしかった。一つ食べてぽやぽや、二つ食べてふにゃふにゃ、三つ食べてほにゃほにゃ、他の具など初めから目に入っていないかのように、油揚げばかりを先に頬張っていく。

 けれども、油揚げの数は有限だ。そんなに一気に食べてしまえば、


「~~♪」

(……あ)


 霖之助は、今藍が口に運んだ欠片を最後に、彼女のお椀から油揚げがなくなってしまったことに気づいた。一方の藍はあいかわらず夢と現実の境界線をほにゃほにゃ彷徨っていて、そのことにまったく気づいていない。


(……)


 その時、霖之助の脳裏にある考えが過ぎる。藍が油揚げを咀嚼する幸せに浸って目を瞑っている隙に、自分のお椀から油揚げの欠片を一つ、彼女のお椀に移し替えた。

 我ながら少しばかりらしくない閃きだと思ったが、不思議と実行するのに躊躇いはなかった。藍のために一気によそった影響でもう鍋の中に油揚げは残っていないし、何より油揚げを食べる藍があんまりにも幸せそうだから、もう少し見ていたかったのだ。五分の好奇心と、五分の悪戯心である。


「♪」


 油揚げを飲み込んだ藍は満面の笑みでお椀に視線を落とし、そこにある欠片を、微塵も訝しむ様子なくまた口に運んでいった。どうやら、霖之助が移し替えた欠片であることには気づかなかったようだ。


「……」


 霖之助は藍の隙を見て、更に一欠片、油揚げを彼女のお椀に。

 藍はまた気づかないまま、あいもかわらずだらしない笑顔でそれを頬張った。対し、霖之助はまたまた自分の油揚げを藍のお椀に移し替えた。

 そうして、食べる、移す、食べる、移すと、そんなやり取りを数回繰り返して、


「……?」


 不意に、藍が箸の動きを止めて大きく首を傾げた。視線の先には油揚げ。自分の油揚げがいつまで経ってもなくならないことに、ようやく気づき始めたようだ。


「どうかしたかい?」

「え? ああ、いや……」


 要領の得ない返答。藍は油揚げを箸で摘んで己の目の前まで持って行くと、頭上にたくさんの疑問符を浮かべながら睨めっこをし始めた。

 霖之助は、いつだったか八雲紫が「自分の式神が自分より頭がいいものだから呆れている」と小言を漏らしていたのを思い出す。ということは八雲藍は、己の主人すらも凌ぐとんでもなく聡明な女性なのだと推測できる。

 なのに、こうやって油揚げとしきりに睨めっこをする彼女は、どうやら霖之助が悪戯している事実に未だに気づいていないらしかった。こう見えて意外と抜けているのだろうか。


「♪」


 しかも、結局食欲が勝ったのか、またにへらと破顔してそのまま頬張ってしまう。

 ――まさか、本当に気づいていないのか?

 藍の予想外の行動に、霖之助はもう一度だけ自分の油揚げを移し替えて確かめてみることにした。さすがに、ここまで来ればさすがに気づくはずだ、と。


「……!?」


 果たして、藍の表情が驚愕に染まった。食べても食べてもなくならない油揚げ、そんなものありえるはずがない。今この部屋にいるのは霖之助と藍の二人だけなのだから、どういう絡繰りなのかは一瞬で見抜けるはず。そう、答えは一つだけなのだ。

 ……なのに。


「ま、まさか――」


 彼女は震える手で自らのお椀を引っ掴み、驚愕に剥かれた目線で油揚げを見下ろして、


「ふっ……」


 それでもどこか爛々と光り輝く瞳で、こう宣ったのだった。




「増える、魔法の油揚げ……?」




 口の中の物を全部噴き出すかと思った。

 むせる。


「ど、どうしたんだい店主。大丈夫か?」

「ゲホ、ゲフ……あ、ああ、変なところに入って行きそうになって。でも大丈夫だよ」


 もちろん嘘だ。失礼な笑いが今にも口の端から漏れてしまいそうで、全然大丈夫じゃない。腹筋も痙攣している。

 だがそれでも、霖之助は気合と根性で誤魔化した。


「僕は平気だよ。だからほら、冷める前に食べてしまおう」

「あ、ああ……そうだね」


 八雲紫が誇る式神、八雲藍。主を以てして優秀と言わしめる鬼才である一方で、なくならない油揚げを魔法の仕業だと思い込む、何やらメルヘンチックな一面もあるらしい。そのあまりに意外な一面に、霖之助の腹筋は落ち着くことを知らない。

 しかして彼女、その魔法の油揚げをどうするつもりなのか。こちらの返答に腑に落ちない様子だった表情も、一度油揚げに目を戻すとすぐにキラキラとした輝きを取り戻す。


「増える油揚げ……♪」


 心頭滅却。霖之助は未だかつてないほどに精神を集中・統一させ、彼女のその陶然とした呟きを全身全霊を以て聞き流した。そうでもしないと腹がよじれてしまいそうだった。

 はむ、と油揚げを頬張る幸せそうな音。藍があいかわらず目を閉じてその味を堪能している隙に、霖之助は必死に笑いを堪えながら、新たに自分の油揚げを――


(……おっと)


 そこで、ふと気づいた。自分の油揚げがすっかりなくなっている。藍の反応に夢中になるあまり、いつの間にか、全てを渡し切ってしまっていたようだ。

 こうなってしまっては、もう藍の油揚げが増えることもない。増える油揚げの魔法は、遂に失われてしまったのだ。霖之助はやれやれと内心で吐息しながら、あとはただ藍の反応を見守ることにした。

 藍は未だ油揚げが増えてくれることを確信して疑っていないようで、咀嚼を終えると嬉々とした笑顔でお椀を覗き込むけれど、そこにはもはや油揚げなどありはしない。

 瞬間、


「ぁ……」


 絶望。零れたか細い声とともに藍の眉が大きくハの字に歪み、ぱたぱた揺れていた尻尾があっという間に力を失って床に垂れた。増える魔法の油揚げ。その存在がまやかしだったことを、ようやく理解したのだろう。

 しかしその落ち込み様たるや、今にも体中から暗澹(あんたん)とした黒いもやが立ち上がってきそうなほどで、お気に入りのおもちゃを取り上げられてしょぼくれる子どもとよく似ていた。あまりに不憫なその様に、霖之助の心にふっと罪悪感が込み上がってくる。


「ら、藍。大丈夫かい?」

「えっ。あ、ああいや、なんでもないよ。なんでも……」


 こちらの問い掛けに藍は一瞬だけ気丈に答えたが、言い終わる頃にはまたがくりと首を折ってしょぼくれていた。

 つぶやきが零れる。


「増えなかったぁ……」


 その声音があまりに切々としすぎていて、霖之助の頬が引きつった。彼女は、あれが増える油揚げだと本気で信じていたのだ。なぜだ。現実的に考えれば増える油揚げなどありえないだろう。ちょっと考えればわかることだろう。


 無論、だからといって本当のことを打ち明けられるはずもない。この落ち込み様だ、真実を知れば怒りやら恥ずかしさやらで間違いなく暴走し、霖之助が次に目覚めるのは永遠亭のベッドの上だ。霊夢や魔理沙と付き合う中で磨かれた危険回避能力は伊達じゃない。世の中を平穏無事に生きていくためには、事実を偽ることも必要なのである。


 しばらくすれば藍も諦めたようで、「帰りに油揚げを……」などとぶつぶつ言いながら、八つ当たり気味に他の具たちを消化していく。

 一方霖之助は、面白いものが見れたという満足感と悪いことをしたかもしれないという罪悪感、その二つの感情に板挟みにされなんともいえない気持ちになってしまって、おかわりをよそうふりをしながら、鍋の中から油揚げを探して回ったのだった。






 ○



「……すまなかったね、すっかりご馳走になってしまって」

「いや、気にしなくていいよ」


 食事を終えて藍を見送る頃合いになると、彼女の機嫌もすっかり持ち直したようだった。油揚げを前に見せていたあの童顔はすっかり消え、初め出会った時のように流麗な微笑をたたえている。


「どうせ独り寂しく食べる予定だったんだしね。むしろ、相席してもらえたことに礼を言うべきだ」

「そんな、礼なんて」

「願わくは、僕が悪い虫じゃないことを祈るばかりだけど……」


 言うと、藍は力強く頷きを返してきた。


「それはもちろん。油揚げをご馳走してくれる人に悪人はいない」

「……」


 その判断基準に対し思わず喉から言葉が出かけるも、それで善人だとしてもらえるなら願ったりだと思い直し、霖之助は閉口した。


「そ、それでだね、店主。一つ、訊きたいことがあるんだが」

「なんだい?」


 と、藍がちょっとだけ恥ずかしそうに体を萎縮させる。恥ずかしそうにするということはそれだけおかしな質問をしようとしているわけで、商談ではないんだろうな、と霖之助は内心で嘆息した。

 やがて藍は意を決したと一度強く口を引き結び、それからこう問うてきた。


「その、鍋に入っていた油揚げは、どこで買ったんだい?」

「……うん?」

「いや、変な意味じゃないんだ。美味しい油揚げだったから、私も買ってみたいと思って」


 ――そういえば、「帰りに油揚げを」って言ってたっけ。

 なるほど、どうやら同じ油揚げを買って帰ろうとしているらしい。悪戯した手前もあるし、断る理由はなかった。簡単な地図を添えて、店の場所を教えてやる。


「あ、ありがとう。助かるよ……」


 地図を受け取った藍の様子は、気後れするようにぎこちない。体はあいかわらず縮こまったままだ。


「別にそんなに恥ずかしがらなくても。好物なんだろう?」

「いや、好物だからこそ恥ずかしいというか……」


 そんなものだろうか、と霖之助は首を傾げる。確かに九尾の大妖怪という風格にはそぐわないかもしれないが、


「それでもいいんじゃないかい? むしろ一般人の僕からしてみれば、親しみやすくてありがたいよ」

「そ、そうかな」


 親しみやすいところが何一つないと、八雲紫みたいに付き合いづらい相手になってしまうのだし。そんなのが知り合いで二人も三人もいるのは、個人的に御免被りたいところだ。


「ともあれ……また機会があったら、今度は客として来てくれると嬉しいよ」

「え? あ、ああ……」


 藍はギクリとした様子で一度辺りの商品を見回し、もう一度見回し、おまけにもう一度見回してから、


「う、うん……まあ、何かしら買っていくようにするよ」

「……大した商品も置いてなくて、すまないね」

「や、そ、そんなことはないぞ!? ただ、そう、たくさん売れ残ってるみたいだから迷うなあ、と!」

「……」


 微妙に、フォローになっていない。まあ、売り残っているのは立派な事実なので仕方ないのだが。

 霖之助は吐息し、


「確かに、在庫は豊富にある状態だからね。……もし次に来た時は、良ければ」

「はは、わかったよ。……じゃあ、私はこれで」

「ああ。またのご来店を」


 会釈。九尾が揺れるその背を見送ると、香霖堂にしばらく振りの静寂が戻ってきた。

 その静けさに身を浸しながら、霖之助は思う。彼女が紫の式神だと聞いた時はどうなることかと思ったが、至って普通に親しみやすい妖怪だった。特に油揚げを前にした時の様子を思い返すと、自然と笑みが零れそうだ。

 願わくは主人である紫にも、ああいう風に馴染みやすいところがあればいいのに。そう思いながら霖之助は、


「……これからは、日頃から油揚げを準備しておいてもいいかもしれないね」


 小さく独りごち、苦笑したのだった。






 ○



 だから、霖之助は知らない。

 香霖堂を去った藍が、ほのかに注ぐ粉雪を全身で切りながら空を行く中で、


「これで、増える魔法の油揚げがっ……!」


 なんて、意気込んでいたことを。

 霖之助に店の場所を尋ねたのは、そこならまた増える油揚げを食べることができるんじゃないかと――そんなメルヘンな理由からだったなど、一体誰が知ろう。


 増える油揚げの存在を信じて疑わない藍。その瞳は大妖怪から遠く離れ、まるで子どものようにあどけなく輝いていた。


 そしてその輝きは、そう遠くない未来の内に、再度の絶望で失われたのだった。












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