↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「全部ちょうだい」と妹が言うので、全部あげて家を出ました

作者: 年商1億
掲載日:2026/11/07

「お姉様のもの、全部ちょうだい」


 大広間の真ん中で、妹のフローラは、そう言った。


 四月十日。わたしの十八の誕生日の夜会だった。広間の大時計が八つ鳴り終えたところで、招待客たちは、まだわたしの左手首を見ていた。


 八つ目の鐘と同時に、そこに、銀の印が浮かんだのだ。細い蔓が手首をひとめぐりしたような、腕輪のかたちの印。ヴァイスベルク伯爵家の長女に、十八の誕生日に現れるという印だった。


 父が、わたしの手首を高く持ちあげて、招待客に見せた。


「家を継ぐ者の誉れだ」


 拍手が起こった。その拍手がやまないうちに、妹が、桃色のドレスの裾をつまんで、一歩前に出たのだった。


「お姉様のもの、全部ちょうだい」


 招待客が、ざわめいた。


 母が、扇を口もとに当てて、笑った。


「まあ、フローラったら」


 誰も、本気にはしていなかった。妹は十六で、愛らしくて、昔から、欲しいものは何でも口に出す子だったから。


 わたしだけが、笑えなかった。


 妹のドレスの裾が、小さく揺れていた。


*


「ヘレナ、あなたはお姉さんなのだから」


 物心ついたときから、わたしは、そう言われて育った。


 おもちゃは、妹が欲しがったら譲る。新しいドレスは、妹が先。誕生日の菓子のいちばん大きなひと切れも、妹の皿へ。


「長女は、家のために我慢するものだ」と父は言った。母は、何も言わずに、妹の髪を撫でていた。


 両親は、わたしを叱ったことは、ほとんどない。けれど、抱きしめてくれたことも、ほとんどなかった。父も母も、わたしと目が合うと、少しだけ目をそらした。妹には、そんなことはなかった。


 わたしを抱きしめてくれたのは、祖母だけだった。


 三年前に亡くなった祖母ヒルデガルトは、十の誕生日に、白い絹のリボンをくれた。端に、青い糸でわたしの頭文字のHが刺繍してあった。十五の誕生日には、百合の彫られた銀の懐中時計をくれた。


「Hは、ヘレナのHよ」と、リボンをくれた日、祖母は言った。


「おばあさまの、ヒルデガルトのHでもあるわ」


「そうね。だから、二人のリボン」祖母は笑って、それから、わたしの顔をのぞきこんだ。「ねえ、ヘレナ。あなたは、何が好き?」


「フローラが好きなものが、好き」


 十歳のわたしは、本当にそう思って答えた。祖母は、少しだけ悲しそうな顔をした。


「ヘレナ。あなたは、あなたのために生きていいのよ」


 祖母は、そう言って、わたしの手を握った。その言葉の意味が、わたしには、まだよくわからなかった。


 妹のことは、小さいころは好きだった。


 雷の夜になると、妹は、枕を抱えて、わたしの寝台にもぐりこんできた。


「お姉様、手をつないで」


「怖いの?」


「怖くないけど、つないで」


 わたしは、小さな手を握って、雷が遠くなるまで、子守歌を歌った。妹は、わたしの指をぎゅっと握ったまま眠った。


 いつから、あの子は、わたしのものを欲しがるようになったのだろう。いつから、わたしは、あの子の手を握らなくなったのだろう。


*


「まず、そのリボン」


 夜会の広間で、妹は、わたしの髪に結んだ白いリボンを指さした。祖母のリボンだった。


 わたしは、皆の前で、首を横に振ることができなかった。「長女は我慢するもの」という声が、頭の中で鳴っていた。


「……どうぞ」


 リボンをほどいて渡すと、妹は、それを髪ではなく、自分の左手首に、ぐるぐると巻きつけた。


 招待客の誰かが、くすりと笑った。「お姉様のものなら、何でも欲しいのね」と、誰かが言った。


 わたしは、空いた髪に手をやって、それから、手首の銀の印を、もう片方の手で隠した。


*


 五月の雨の日、妹は、わたしの部屋の扉を開けて言った。


「お姉様の部屋も、ちょうだい」


 南向きの、窓の大きな部屋だった。小さいころから、ずっとわたしの部屋だった。壁には、家紋の浮き彫りがある。長女の部屋の印だと、昔、祖母が言っていた。


 父は、妹の願いを、いつものようにかなえた。わたしは、北の屋根裏の部屋へ移ることになった。


 老侍女のオルガが、黙って、わたしの荷物を運んでくれた。祖母の代からいる、無口な侍女だ。オルガは、運びながら、一度だけ、妹のほうを見た。


 屋根裏の部屋は、狭くて、天井が斜めだった。けれど、小さな窓を開けると、庭の薔薇園が見えた。祖母が植えた、白い薔薇の生け垣だ。


 わたしは、窓辺に座って、雨に濡れた薔薇を眺めた。


 その夜、わたしは、一度だけ、父の書斎の扉をたたいた。


「お父様。どうして、フローラの言うことは、何でもかなえるのですか。わたしの部屋まで」


 父は、書きものから顔を上げなかった。


「おまえは長女だ。我慢しなさい」


「わたしは、いつまで我慢すればいいのですか」


「長女とは、そういうものだ。印のある者は、家のためにある」


 父は、それ以上、何も言わなかった。


 書斎を出ると、廊下に、母が立っていた。母は、何か言いたそうに、唇を動かした。


「ヘレナ……ごめんなさいね」


 それだけ言って、母は、わたしから目をそらして、自分の部屋へ戻っていった。何に謝ったのか、わたしには、わからなかった。


 屋根裏に戻って、窓を開けた。


 少しだけ、ほっとしている自分がいた。南の部屋にいると、なぜか、いつも息が苦しかった。誕生日のあとから、わたしは、ときどき咳が出るようになっていた。体も、だるかった。屋根裏の狭い部屋では、その咳が、少しだけ軽くなった気がした。


*


 六月、妹は、わたしの胸もとの鎖を見て言った。


「その時計も」


 祖母の懐中時計だった。


「おばあさまの形見よ」


「だから、ちょうだい」


 わたしは、時計を握りしめた。祖母の手のぬくもりが、まだ残っている気がした。


 わたしは、いつもの癖で、蓋を開けて、時刻を見た。三時十分。それから蓋を閉じて、鎖ごと、妹の手のひらにのせた。


 妹も、蓋を開けて、時刻を見た。そして、すぐに閉じた。


「ありがとう、お姉様」


 妹は、にっこり笑った。わたしは、その笑顔を、見ていられなかった。


*


 六月の終わり、婚約者のディルク様が、屋根裏の部屋の前まで来たことがあった。


「ヘレナ嬢。印のお加減は、いかがですか」


「印の、お加減?」


「いえ。……お体の、ということです」


 ディルク様は、わたしの左手首を見て、少しだけ眉をひそめた。それから、何も言わずに帰っていった。わたしの顔は、一度も見なかった。


 七月、庭の白い薔薇の前で、わたしは、婚約者のディルク様と並んで歩いていた。


 ディルク様は、父が決めた婚約者だった。わたしが十六のときから。いつも礼儀正しくて、いつも少しだけ冷たい人だった。わたしの顔より、わたしの手首のあたりを見ていることが多かった。


 そこへ、妹が、日傘をくるくる回しながらやってきた。


「ディルク様も、ちょうだい」


 さすがに、それは冗談だと思った。


 けれど、ディルク様は、少しも驚かなかった。わたしの腕から、そっと自分の腕を抜いて、言った。


「……伯爵がよいとおっしゃるなら」


 そして、ためらいもなく、妹の手を取った。ディルク様の目が、一瞬、妹の手首の白いリボンのあたりに落ちた。


 二人が歩いていく後ろ姿を、わたしは、薔薇の前に立ったまま見送った。


 わたしは、好かれてはいなかったのだ。わかっていたはずなのに、胸の奥が、ひやりと冷たくなった。


*


 夏が過ぎるころ、わたしの体は、ふしぎと軽くなっていった。


 咳は、ほとんど出なくなった。鏡を見ると、春には青白かった頬に、少しずつ色が戻っていた。手首の銀の印も、気のせいか、春より薄くなっていた。


 きっと、心労が減ったからだ、と思った。奪われるものが、もう、あまり残っていないから。


 八月のある朝、階段で、妹とすれちがった。妹は、わたしの顔をじっと見て言った。


「お姉様、顔色がよくなったわね」


「ええ。あなたのおかげでね」


 皮肉のつもりだった。けれど、妹は、怒りもせずに、少しだけ目を細めた。


「そう。よかった」


 そして、白いリボンを巻いた手首を背中に隠して、階段を上っていった。


 九月の晩餐で、向かいの席の妹が、扇で口もとを隠して、小さく咳をした。


 気のせいだろう。


 わたしは、スープの皿に目を戻した。


*


 十月一日、継承の儀が行われた。


 伯爵家を継ぐ者に、父が、家紋の彫られた銀の指輪を渡す儀式だ。わたしは、手首に印のある長女として、広間の正面に立つはずだった。


 けれど、父は、指輪を妹の指にはめた。


「家はフローラが継ぐ」


 親族たちが、顔を見合わせた。母は、うつむいて、ハンカチを握りしめていた。


 わたしは、自分の手首を見た。銀の印は、もう、ほとんど見えないくらいに薄くなっていた。家を継ぐ者の印なのだから、継ぐ者でなくなれば、消えていくのだろう。


「わたしには、何も残らない」


 小さな声だった。誰にも聞こえなかったと思う。


*


 十月の末の、霧の深い朝。


 わたしは、茶色の小さな鞄ひとつを持って、屋敷の門の前に立っていた。鞄の中には、着替えが二枚と、祖母の手紙が一通と、少しのお金。それだけだった。


 母の故郷の、南のリンデンという町に、母の遠い親戚がいると聞いていた。そこへ行くつもりだった。


 裏口で、オルガが待っていた。オルガは、紙に包んだ黒パンを、わたしの鞄に押しこんだ。


「お嬢さま。どうか、お体を大事になさってください」


「ありがとう、オルガ」


 わたしは、少し迷ってから、言った。


「……フローラは、季節の変わり目に、よく熱を出すの。気をつけてあげて」


 なぜ、そんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。オルガは、何か言いかけて、唇をかんで、深く頭を下げた。


 門の前に、妹が立っていた。淡い水色のショールを肩にかけて、左手首には、まだ、わたしの白いリボンを巻いていた。


「お姉様の名前も、ちょうだい。この家の長女は、今日から、わたくしよ」


 わたしは、妹の顔を見た。


 この子は、わたしから、本当に全部、持っていくのだ。リボンも、部屋も、時計も、婚約者も、家も。そして最後に、名前まで。


 怒りよりも先に、疲れが来た。もう、どうでもよかった。


「……全部、あげるわ。もう、いらない」


 その瞬間、左手首が、ふっと軽くなった。見ると、銀の印は、跡形もなく消えていた。


 妹は、自分の左手首を、右手で強く押さえていた。


「二度と、戻ってこないで」


 妹の声が、途中でかすれた。よほど、わたしが憎かったのだろう。


 わたしは、門を出た。一度も、振り返らなかった。


*


 南へ向かう乗合馬車には、わたしのほかに、籠を抱えたお婆さんがひとり乗っていた。


「お嬢さん、どこまで行くの」


「リンデンまで」


「何をしに?」


 わたしは、答えに詰まった。


「……わかりません。何も、決めていないんです」


 お婆さんは、しわだらけの顔で笑った。


「わからないなら、何でもできるねえ。わたしは、六十になってから、はじめて自分で行き先を決めたよ。遅くはなかったさ」


 馬車の窓の外で、霧が、少しずつ晴れていった。


*


 リンデンは、薬草の町だった。


 なだらかな丘の斜面に、薬草の畑が段々に広がっていて、風が吹くと、町じゅうに、ハッカとカミツレの匂いがした。


 母の遠い親戚は、もう亡くなっていた。途方に暮れていたわたしに声をかけてくれたのが、丘の上の薬草園の主、ルドルフさんだった。


「住みこみで、手伝ってくれる人を探していたんです。薬草の名前は、少しずつ覚えればいい」


 二十七歳の、日に焼けた、穏やかな人だった。


「お名前は?」


「……ヘレナです」


 名乗るとき、少しだけ迷った。名前まで、置いてきたつもりだったから。


「ヘレナさん。よろしく」


 ルドルフさんは、わたしの名前を、大事なものみたいに呼んだ。それから、わたしの足もとの、茶色の鞄を見た。


「荷物は、それだけですか」


「はい。全部、置いてきました」


「身軽で、いいですね」とルドルフさんは言った。「ここでは、薬草を入れる籠のほうが、よっぽど重たいですよ」


 そんなふうに言われたのは、はじめてだった。何も持っていないことを、からかわずに、いいと言ってくれた人は。


*


 薬草園の仕事は、朝が早かった。夜明けとともに畑に出て、露のついた葉を摘む。昼は、干し場で葉を広げる。夕方は、乾いた葉を刻んで、瓶に詰める。


 はじめてのことばかりだった。けれど、誰も、わたしに「我慢しなさい」とは言わなかった。


「ヘレナさんは、何が好きですか」


 ある日、干し場で、ルドルフさんが聞いた。


「好き、ですか」


「好きな薬草でも、好きな仕事でも。好きな色でも」


 わたしは、答えられなかった。十八年、何かを好きだと言ったことがなかった。好きなものは、いつも、妹に先に渡してきたから。


「……わかりません」


「じゃあ、これから見つけましょう」とルドルフさんは笑った。


 ひと月ほどたったころ、わたしは、薬草の瓶に貼る札を書く仕事を任された。字を書くのは、得意だった。札の隅に、小さく葉の模様を刺繍した布を貼ってみた。


「これ、ヘレナさんが?」


 ルドルフさんが、札を一枚手に取って、目を丸くした。


「勝手なことをして、すみません。すぐにはがします」


「はがさないでください。きれいです。お客さんが、瓶を手に取りたくなる」


 ルドルフさんは、札を光にかざして、もう一度言った。


「きれいです、本当に」


 薬草園の隣に住む、薬師のヴィルマ婆さんが、それを見て笑った。


「ルドルフ坊やが、ひとさまの仕事を三回も褒めるのは、はじめて見たよ」


「二回です」


「三回だよ」


 わたしは、顔が熱くなって、うつむいた。褒められたのは、祖母が亡くなってから、はじめてだった。


 ある日、薬草園に、咳止めを買いに、小さな姉妹が来た。十くらいの姉と、五つくらいの妹。妹のほうが、こん、こん、と咳をしていた。


「咳止めの飴を、ひとつください」


 姉が、握りしめていた銅貨を差し出した。飴は、ひとつぶんのお金しかなかった。


 姉は、飴を受けとると、すぐに包みを開いて、妹の口に入れた。


「お姉ちゃんは?」と妹が聞いた。


「お姉ちゃんは、いいの。お姉ちゃんだから」


 わたしは、思わず、飴の瓶から、もうひとつ取り出していた。


「これは、お姉ちゃんのぶん。お代は、いらないわ」


 姉は、目を丸くして、それから、恥ずかしそうに飴を受けとった。二人が手をつないで帰っていくのを、わたしは、干し場から見送った。


「ヘレナさん」とルドルフさんが言った。「今、少し、泣きそうな顔をしていましたよ」


「……昔の自分を、見たような気がして」


 どちらの「自分」なのか、わたしには、わからなかった。お姉ちゃんだから、と言った姉なのか。お姉ちゃんの手を握っていた、小さな妹のほうなのか。


*


 冬のはじめ、ルドルフさんは、わたしの手のひらに、二枚の葉をのせた。


「どっちが薬草で、どっちが毒草か、わかりますか」


 二枚は、そっくりだった。同じ緑色、同じ形、同じぎざぎざ。


「……同じに見えます」


「よく見て。葉の裏の筋が、こっちは三本、こっちは五本」


 言われて見ると、本当だった。


「見分けがつかないのは、目が悪いからじゃないんです。違いがあると思って、見ていないからです」とルドルフさんは言った。「違いがあると思って見れば、見えるようになる」


 わたしは、二枚の葉を、長いあいだ見つめていた。


 なぜだか、胸の奥が、少しだけざわついた。何かを見落としているような気がした。けれど、それが何なのかは、わからなかった。


 その晩、ヴィルマ婆さんが、薬草茶を飲みながら、わたしに聞いた。


「あんた、北の家には、もう帰らないのかい」


「帰りません。あの家に、わたしのものは、もう何もありませんから」


「ふうん」婆さんは、茶をすすった。「人の家ってのはね、外から見るのと、中から見るのとじゃ、まるで違うものさ。中にいたときに見えなかったものが、出てきてから見えることもある」


「……見えなかったもの、ですか」


「年寄りの独り言だよ。気にしなさんな」


 婆さんは、そう言って笑った。わたしは、湯気の向こうの婆さんの顔を、しばらく見ていた。


 初雪の夜、干し場の小さなストーブの前で、ルドルフさんが聞いた。


「ヘレナさんのおばあさんは、どんな方だったんですか」


「やさしい人でした。わたしを抱きしめてくれたのは、祖母だけでした」わたしは、ストーブの火を見ながら言った。「十五の誕生日に、銀の懐中時計をくれたんです。蓋に百合が彫ってあって」


「その時計は?」


「妹に、取られました」


 わたしは、膝の上で、指を組んだ。


「蓋を開けると、内側にも、細かい蔓の模様が彫ってあったんです。毎日、何度も開けていたのに、わたし、時刻しか見ていませんでした。どんな模様だったか、もう、よく思い出せません」


「毎日見ているものほど、見えなくなるものですね」とルドルフさんは言った。「薬草の葉と、同じだ」


「……そうですね」


 ストーブの中で、薪が、ぱちんとはぜた。


*


 ひと月に一度、わたしは、伯爵家に手紙を書いた。


 元気でいること。薬草園で働いていること。それだけの、短い手紙だった。


 宛名に、妹の名前を書くかどうか、毎月迷った。そして、毎月、「母上と、フローラへ」と書いた。自分でも、なぜそうするのか、わからなかった。


 ある晩、手紙を書いていると、ルドルフさんが、温めた牛乳を持ってきてくれた。


「ご家族に?」


「はい。母と……妹に」


「妹さんと、仲がいいんですね」


「いいえ」わたしは、ペンを置いた。「全部、取られました。リボンも、部屋も、婚約者も、家も」


 ルドルフさんは、しばらく黙っていた。


「それでも、宛名に、妹さんの名前を書くんですね」


「……どうしてでしょう。自分でも、わからないんです」


 ルドルフさんは、それ以上は聞かなかった。ただ、牛乳の杯を、わたしの手のそばに置いた。


 返事は、一度も来なかった。当たり前だ、と思った。


*


 春のはじめ、町に来た行商人が、北の話をしていた。


「ヴァイスベルク伯爵家の妹君が、冬から寝ついているそうだよ。家の中はぎすぎすして、婚約者の男は、見舞いより、遺産の勘定ばかりしているとか」


 わたしは、薬草を刻む手を止めなかった。


 全部、欲しがったからだ。わたしから奪ったものの重さで、つぶれたのだ。


 そう思った。そう思おうとした。


 けれど、その夜、寝台の中で、ふと、九月の晩餐を思い出した。扇の陰の、小さな咳。


 気のせいだ、と、わたしはもう一度思って、目を閉じた。


 次の朝、ルドルフさんが、干し場で言った。


「ゆうべの行商人の話。妹さんのこと、気になりますか」


「いいえ」とわたしは言った。「あの子は、欲しいものを、全部手に入れたんです。それで寝ついたのなら、わたしには、関係のないことです」


 言いながら、自分の声が、少しだけ硬いのがわかった。ルドルフさんは、それ以上、何も聞かなかった。


*


 三月の半ば、伯爵家の紋の入った封筒が、薬草園に届いた。


 はじめての返事だった。手が、震えた。


 封を切ると、便箋が二枚入っていた。一枚目には、見覚えのある妹の字で、たった一行だけ書いてあった。


 ――もう、戻ってこないで。


 わたしは、しばらく、その一行を見つめていた。


 二枚目は、小さく折りたたまれたままだった。開く気には、なれなかった。一枚目で、もう、十分だった。


「その手紙」と、干し場から戻ってきたルドルフさんが言った。「紙から、薬の匂いがしますね。苦艾と、咳止めの」


「……そうですか」


「二枚目は、読まないんですか」


「一枚目で、十分です」とわたしは言った。「あの子は、昔から、言いたいことは一行で言う子でしたから」


 ルドルフさんは、何か言いかけて、やめた。


 わたしは、二枚の便箋を封筒に戻して、机の引き出しの奥にしまった。


*


 四月。丘の薬草畑が、いっせいに花を咲かせた。


 町の市で、わたしは、リボン売りの屋台の前で、長いあいだ立ちつくしていた。


「お嬢さん、どれにするね」と、屋台のおかみさんが言った。


「……どれでも、いいんです」


「どれでもいいなら、何も買わなくていいんだよ」とおかみさんは笑った。「欲しいのは、どれだい」


 わたしは、並んだリボンを、一本ずつ見た。白、桃色、黄色、緑、青。白いリボンは、祖母のリボンを思い出させた。桃色は、妹の色だった。


 わたしの指は、青いリボンの上で止まった。


「これを、ください」


 わたしは、はじめて、自分でリボンを一本買った。青い、細いリボンだった。


「その色が、好きなんですか」とルドルフさんが聞いた。


「はい」


 わたしは、言った。


「好きです。わたし、この色が好きです」


 声に出してみると、胸の奥が、すうっと軽くなった。自分のために、何かを好きだと言ったのは、生まれてはじめてだった。


 薬草園に戻って、わたしは、鏡の前で、髪に青いリボンを結んだ。祖母のリボンほど上等ではない。Hの刺繍もない。けれど、それは、わたしが、わたしのために選んだものだった。


 その夜、ルドルフさんが、干し場の灯りの下で、言った。


「ヘレナさん。来年の春も、その次の春も、ここにいてくれませんか。……薬草園の手伝いとしてではなく」


 わたしは、青いリボンに手をふれた。


「わたしは、何も持っていません。家も、名前も、置いてきました」


「ヘレナさんがいれば、それでいいんです」とルドルフさんは言った。「名前なら、もう、ここで呼ばれているでしょう。ヘレナさん、と」


 わたしは、笑ってしまった。笑いながら、少しだけ泣いた。


「はい」


 あの家を出たとき、わたしの手には、鞄ひとつしかなかった。リボンも、部屋も、時計も、婚約者も、家も、名前さえも、置いてきた。


 引き出しの奥では、妹の手紙が、二枚目を折りたたんだまま眠っている。


 ――全部あげたら、わたしの手の中に、やっと、わたしのものが残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。