「全部ちょうだい」と妹が言うので、全部あげて家を出ました
「お姉様のもの、全部ちょうだい」
大広間の真ん中で、妹のフローラは、そう言った。
四月十日。わたしの十八の誕生日の夜会だった。広間の大時計が八つ鳴り終えたところで、招待客たちは、まだわたしの左手首を見ていた。
八つ目の鐘と同時に、そこに、銀の印が浮かんだのだ。細い蔓が手首をひとめぐりしたような、腕輪のかたちの印。ヴァイスベルク伯爵家の長女に、十八の誕生日に現れるという印だった。
父が、わたしの手首を高く持ちあげて、招待客に見せた。
「家を継ぐ者の誉れだ」
拍手が起こった。その拍手がやまないうちに、妹が、桃色のドレスの裾をつまんで、一歩前に出たのだった。
「お姉様のもの、全部ちょうだい」
招待客が、ざわめいた。
母が、扇を口もとに当てて、笑った。
「まあ、フローラったら」
誰も、本気にはしていなかった。妹は十六で、愛らしくて、昔から、欲しいものは何でも口に出す子だったから。
わたしだけが、笑えなかった。
妹のドレスの裾が、小さく揺れていた。
*
「ヘレナ、あなたはお姉さんなのだから」
物心ついたときから、わたしは、そう言われて育った。
おもちゃは、妹が欲しがったら譲る。新しいドレスは、妹が先。誕生日の菓子のいちばん大きなひと切れも、妹の皿へ。
「長女は、家のために我慢するものだ」と父は言った。母は、何も言わずに、妹の髪を撫でていた。
両親は、わたしを叱ったことは、ほとんどない。けれど、抱きしめてくれたことも、ほとんどなかった。父も母も、わたしと目が合うと、少しだけ目をそらした。妹には、そんなことはなかった。
わたしを抱きしめてくれたのは、祖母だけだった。
三年前に亡くなった祖母ヒルデガルトは、十の誕生日に、白い絹のリボンをくれた。端に、青い糸でわたしの頭文字のHが刺繍してあった。十五の誕生日には、百合の彫られた銀の懐中時計をくれた。
「Hは、ヘレナのHよ」と、リボンをくれた日、祖母は言った。
「おばあさまの、ヒルデガルトのHでもあるわ」
「そうね。だから、二人のリボン」祖母は笑って、それから、わたしの顔をのぞきこんだ。「ねえ、ヘレナ。あなたは、何が好き?」
「フローラが好きなものが、好き」
十歳のわたしは、本当にそう思って答えた。祖母は、少しだけ悲しそうな顔をした。
「ヘレナ。あなたは、あなたのために生きていいのよ」
祖母は、そう言って、わたしの手を握った。その言葉の意味が、わたしには、まだよくわからなかった。
妹のことは、小さいころは好きだった。
雷の夜になると、妹は、枕を抱えて、わたしの寝台にもぐりこんできた。
「お姉様、手をつないで」
「怖いの?」
「怖くないけど、つないで」
わたしは、小さな手を握って、雷が遠くなるまで、子守歌を歌った。妹は、わたしの指をぎゅっと握ったまま眠った。
いつから、あの子は、わたしのものを欲しがるようになったのだろう。いつから、わたしは、あの子の手を握らなくなったのだろう。
*
「まず、そのリボン」
夜会の広間で、妹は、わたしの髪に結んだ白いリボンを指さした。祖母のリボンだった。
わたしは、皆の前で、首を横に振ることができなかった。「長女は我慢するもの」という声が、頭の中で鳴っていた。
「……どうぞ」
リボンをほどいて渡すと、妹は、それを髪ではなく、自分の左手首に、ぐるぐると巻きつけた。
招待客の誰かが、くすりと笑った。「お姉様のものなら、何でも欲しいのね」と、誰かが言った。
わたしは、空いた髪に手をやって、それから、手首の銀の印を、もう片方の手で隠した。
*
五月の雨の日、妹は、わたしの部屋の扉を開けて言った。
「お姉様の部屋も、ちょうだい」
南向きの、窓の大きな部屋だった。小さいころから、ずっとわたしの部屋だった。壁には、家紋の浮き彫りがある。長女の部屋の印だと、昔、祖母が言っていた。
父は、妹の願いを、いつものようにかなえた。わたしは、北の屋根裏の部屋へ移ることになった。
老侍女のオルガが、黙って、わたしの荷物を運んでくれた。祖母の代からいる、無口な侍女だ。オルガは、運びながら、一度だけ、妹のほうを見た。
屋根裏の部屋は、狭くて、天井が斜めだった。けれど、小さな窓を開けると、庭の薔薇園が見えた。祖母が植えた、白い薔薇の生け垣だ。
わたしは、窓辺に座って、雨に濡れた薔薇を眺めた。
その夜、わたしは、一度だけ、父の書斎の扉をたたいた。
「お父様。どうして、フローラの言うことは、何でもかなえるのですか。わたしの部屋まで」
父は、書きものから顔を上げなかった。
「おまえは長女だ。我慢しなさい」
「わたしは、いつまで我慢すればいいのですか」
「長女とは、そういうものだ。印のある者は、家のためにある」
父は、それ以上、何も言わなかった。
書斎を出ると、廊下に、母が立っていた。母は、何か言いたそうに、唇を動かした。
「ヘレナ……ごめんなさいね」
それだけ言って、母は、わたしから目をそらして、自分の部屋へ戻っていった。何に謝ったのか、わたしには、わからなかった。
屋根裏に戻って、窓を開けた。
少しだけ、ほっとしている自分がいた。南の部屋にいると、なぜか、いつも息が苦しかった。誕生日のあとから、わたしは、ときどき咳が出るようになっていた。体も、だるかった。屋根裏の狭い部屋では、その咳が、少しだけ軽くなった気がした。
*
六月、妹は、わたしの胸もとの鎖を見て言った。
「その時計も」
祖母の懐中時計だった。
「おばあさまの形見よ」
「だから、ちょうだい」
わたしは、時計を握りしめた。祖母の手のぬくもりが、まだ残っている気がした。
わたしは、いつもの癖で、蓋を開けて、時刻を見た。三時十分。それから蓋を閉じて、鎖ごと、妹の手のひらにのせた。
妹も、蓋を開けて、時刻を見た。そして、すぐに閉じた。
「ありがとう、お姉様」
妹は、にっこり笑った。わたしは、その笑顔を、見ていられなかった。
*
六月の終わり、婚約者のディルク様が、屋根裏の部屋の前まで来たことがあった。
「ヘレナ嬢。印のお加減は、いかがですか」
「印の、お加減?」
「いえ。……お体の、ということです」
ディルク様は、わたしの左手首を見て、少しだけ眉をひそめた。それから、何も言わずに帰っていった。わたしの顔は、一度も見なかった。
七月、庭の白い薔薇の前で、わたしは、婚約者のディルク様と並んで歩いていた。
ディルク様は、父が決めた婚約者だった。わたしが十六のときから。いつも礼儀正しくて、いつも少しだけ冷たい人だった。わたしの顔より、わたしの手首のあたりを見ていることが多かった。
そこへ、妹が、日傘をくるくる回しながらやってきた。
「ディルク様も、ちょうだい」
さすがに、それは冗談だと思った。
けれど、ディルク様は、少しも驚かなかった。わたしの腕から、そっと自分の腕を抜いて、言った。
「……伯爵がよいとおっしゃるなら」
そして、ためらいもなく、妹の手を取った。ディルク様の目が、一瞬、妹の手首の白いリボンのあたりに落ちた。
二人が歩いていく後ろ姿を、わたしは、薔薇の前に立ったまま見送った。
わたしは、好かれてはいなかったのだ。わかっていたはずなのに、胸の奥が、ひやりと冷たくなった。
*
夏が過ぎるころ、わたしの体は、ふしぎと軽くなっていった。
咳は、ほとんど出なくなった。鏡を見ると、春には青白かった頬に、少しずつ色が戻っていた。手首の銀の印も、気のせいか、春より薄くなっていた。
きっと、心労が減ったからだ、と思った。奪われるものが、もう、あまり残っていないから。
八月のある朝、階段で、妹とすれちがった。妹は、わたしの顔をじっと見て言った。
「お姉様、顔色がよくなったわね」
「ええ。あなたのおかげでね」
皮肉のつもりだった。けれど、妹は、怒りもせずに、少しだけ目を細めた。
「そう。よかった」
そして、白いリボンを巻いた手首を背中に隠して、階段を上っていった。
九月の晩餐で、向かいの席の妹が、扇で口もとを隠して、小さく咳をした。
気のせいだろう。
わたしは、スープの皿に目を戻した。
*
十月一日、継承の儀が行われた。
伯爵家を継ぐ者に、父が、家紋の彫られた銀の指輪を渡す儀式だ。わたしは、手首に印のある長女として、広間の正面に立つはずだった。
けれど、父は、指輪を妹の指にはめた。
「家はフローラが継ぐ」
親族たちが、顔を見合わせた。母は、うつむいて、ハンカチを握りしめていた。
わたしは、自分の手首を見た。銀の印は、もう、ほとんど見えないくらいに薄くなっていた。家を継ぐ者の印なのだから、継ぐ者でなくなれば、消えていくのだろう。
「わたしには、何も残らない」
小さな声だった。誰にも聞こえなかったと思う。
*
十月の末の、霧の深い朝。
わたしは、茶色の小さな鞄ひとつを持って、屋敷の門の前に立っていた。鞄の中には、着替えが二枚と、祖母の手紙が一通と、少しのお金。それだけだった。
母の故郷の、南のリンデンという町に、母の遠い親戚がいると聞いていた。そこへ行くつもりだった。
裏口で、オルガが待っていた。オルガは、紙に包んだ黒パンを、わたしの鞄に押しこんだ。
「お嬢さま。どうか、お体を大事になさってください」
「ありがとう、オルガ」
わたしは、少し迷ってから、言った。
「……フローラは、季節の変わり目に、よく熱を出すの。気をつけてあげて」
なぜ、そんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。オルガは、何か言いかけて、唇をかんで、深く頭を下げた。
門の前に、妹が立っていた。淡い水色のショールを肩にかけて、左手首には、まだ、わたしの白いリボンを巻いていた。
「お姉様の名前も、ちょうだい。この家の長女は、今日から、わたくしよ」
わたしは、妹の顔を見た。
この子は、わたしから、本当に全部、持っていくのだ。リボンも、部屋も、時計も、婚約者も、家も。そして最後に、名前まで。
怒りよりも先に、疲れが来た。もう、どうでもよかった。
「……全部、あげるわ。もう、いらない」
その瞬間、左手首が、ふっと軽くなった。見ると、銀の印は、跡形もなく消えていた。
妹は、自分の左手首を、右手で強く押さえていた。
「二度と、戻ってこないで」
妹の声が、途中でかすれた。よほど、わたしが憎かったのだろう。
わたしは、門を出た。一度も、振り返らなかった。
*
南へ向かう乗合馬車には、わたしのほかに、籠を抱えたお婆さんがひとり乗っていた。
「お嬢さん、どこまで行くの」
「リンデンまで」
「何をしに?」
わたしは、答えに詰まった。
「……わかりません。何も、決めていないんです」
お婆さんは、しわだらけの顔で笑った。
「わからないなら、何でもできるねえ。わたしは、六十になってから、はじめて自分で行き先を決めたよ。遅くはなかったさ」
馬車の窓の外で、霧が、少しずつ晴れていった。
*
リンデンは、薬草の町だった。
なだらかな丘の斜面に、薬草の畑が段々に広がっていて、風が吹くと、町じゅうに、ハッカとカミツレの匂いがした。
母の遠い親戚は、もう亡くなっていた。途方に暮れていたわたしに声をかけてくれたのが、丘の上の薬草園の主、ルドルフさんだった。
「住みこみで、手伝ってくれる人を探していたんです。薬草の名前は、少しずつ覚えればいい」
二十七歳の、日に焼けた、穏やかな人だった。
「お名前は?」
「……ヘレナです」
名乗るとき、少しだけ迷った。名前まで、置いてきたつもりだったから。
「ヘレナさん。よろしく」
ルドルフさんは、わたしの名前を、大事なものみたいに呼んだ。それから、わたしの足もとの、茶色の鞄を見た。
「荷物は、それだけですか」
「はい。全部、置いてきました」
「身軽で、いいですね」とルドルフさんは言った。「ここでは、薬草を入れる籠のほうが、よっぽど重たいですよ」
そんなふうに言われたのは、はじめてだった。何も持っていないことを、からかわずに、いいと言ってくれた人は。
*
薬草園の仕事は、朝が早かった。夜明けとともに畑に出て、露のついた葉を摘む。昼は、干し場で葉を広げる。夕方は、乾いた葉を刻んで、瓶に詰める。
はじめてのことばかりだった。けれど、誰も、わたしに「我慢しなさい」とは言わなかった。
「ヘレナさんは、何が好きですか」
ある日、干し場で、ルドルフさんが聞いた。
「好き、ですか」
「好きな薬草でも、好きな仕事でも。好きな色でも」
わたしは、答えられなかった。十八年、何かを好きだと言ったことがなかった。好きなものは、いつも、妹に先に渡してきたから。
「……わかりません」
「じゃあ、これから見つけましょう」とルドルフさんは笑った。
ひと月ほどたったころ、わたしは、薬草の瓶に貼る札を書く仕事を任された。字を書くのは、得意だった。札の隅に、小さく葉の模様を刺繍した布を貼ってみた。
「これ、ヘレナさんが?」
ルドルフさんが、札を一枚手に取って、目を丸くした。
「勝手なことをして、すみません。すぐにはがします」
「はがさないでください。きれいです。お客さんが、瓶を手に取りたくなる」
ルドルフさんは、札を光にかざして、もう一度言った。
「きれいです、本当に」
薬草園の隣に住む、薬師のヴィルマ婆さんが、それを見て笑った。
「ルドルフ坊やが、ひとさまの仕事を三回も褒めるのは、はじめて見たよ」
「二回です」
「三回だよ」
わたしは、顔が熱くなって、うつむいた。褒められたのは、祖母が亡くなってから、はじめてだった。
ある日、薬草園に、咳止めを買いに、小さな姉妹が来た。十くらいの姉と、五つくらいの妹。妹のほうが、こん、こん、と咳をしていた。
「咳止めの飴を、ひとつください」
姉が、握りしめていた銅貨を差し出した。飴は、ひとつぶんのお金しかなかった。
姉は、飴を受けとると、すぐに包みを開いて、妹の口に入れた。
「お姉ちゃんは?」と妹が聞いた。
「お姉ちゃんは、いいの。お姉ちゃんだから」
わたしは、思わず、飴の瓶から、もうひとつ取り出していた。
「これは、お姉ちゃんのぶん。お代は、いらないわ」
姉は、目を丸くして、それから、恥ずかしそうに飴を受けとった。二人が手をつないで帰っていくのを、わたしは、干し場から見送った。
「ヘレナさん」とルドルフさんが言った。「今、少し、泣きそうな顔をしていましたよ」
「……昔の自分を、見たような気がして」
どちらの「自分」なのか、わたしには、わからなかった。お姉ちゃんだから、と言った姉なのか。お姉ちゃんの手を握っていた、小さな妹のほうなのか。
*
冬のはじめ、ルドルフさんは、わたしの手のひらに、二枚の葉をのせた。
「どっちが薬草で、どっちが毒草か、わかりますか」
二枚は、そっくりだった。同じ緑色、同じ形、同じぎざぎざ。
「……同じに見えます」
「よく見て。葉の裏の筋が、こっちは三本、こっちは五本」
言われて見ると、本当だった。
「見分けがつかないのは、目が悪いからじゃないんです。違いがあると思って、見ていないからです」とルドルフさんは言った。「違いがあると思って見れば、見えるようになる」
わたしは、二枚の葉を、長いあいだ見つめていた。
なぜだか、胸の奥が、少しだけざわついた。何かを見落としているような気がした。けれど、それが何なのかは、わからなかった。
その晩、ヴィルマ婆さんが、薬草茶を飲みながら、わたしに聞いた。
「あんた、北の家には、もう帰らないのかい」
「帰りません。あの家に、わたしのものは、もう何もありませんから」
「ふうん」婆さんは、茶をすすった。「人の家ってのはね、外から見るのと、中から見るのとじゃ、まるで違うものさ。中にいたときに見えなかったものが、出てきてから見えることもある」
「……見えなかったもの、ですか」
「年寄りの独り言だよ。気にしなさんな」
婆さんは、そう言って笑った。わたしは、湯気の向こうの婆さんの顔を、しばらく見ていた。
初雪の夜、干し場の小さなストーブの前で、ルドルフさんが聞いた。
「ヘレナさんのおばあさんは、どんな方だったんですか」
「やさしい人でした。わたしを抱きしめてくれたのは、祖母だけでした」わたしは、ストーブの火を見ながら言った。「十五の誕生日に、銀の懐中時計をくれたんです。蓋に百合が彫ってあって」
「その時計は?」
「妹に、取られました」
わたしは、膝の上で、指を組んだ。
「蓋を開けると、内側にも、細かい蔓の模様が彫ってあったんです。毎日、何度も開けていたのに、わたし、時刻しか見ていませんでした。どんな模様だったか、もう、よく思い出せません」
「毎日見ているものほど、見えなくなるものですね」とルドルフさんは言った。「薬草の葉と、同じだ」
「……そうですね」
ストーブの中で、薪が、ぱちんとはぜた。
*
ひと月に一度、わたしは、伯爵家に手紙を書いた。
元気でいること。薬草園で働いていること。それだけの、短い手紙だった。
宛名に、妹の名前を書くかどうか、毎月迷った。そして、毎月、「母上と、フローラへ」と書いた。自分でも、なぜそうするのか、わからなかった。
ある晩、手紙を書いていると、ルドルフさんが、温めた牛乳を持ってきてくれた。
「ご家族に?」
「はい。母と……妹に」
「妹さんと、仲がいいんですね」
「いいえ」わたしは、ペンを置いた。「全部、取られました。リボンも、部屋も、婚約者も、家も」
ルドルフさんは、しばらく黙っていた。
「それでも、宛名に、妹さんの名前を書くんですね」
「……どうしてでしょう。自分でも、わからないんです」
ルドルフさんは、それ以上は聞かなかった。ただ、牛乳の杯を、わたしの手のそばに置いた。
返事は、一度も来なかった。当たり前だ、と思った。
*
春のはじめ、町に来た行商人が、北の話をしていた。
「ヴァイスベルク伯爵家の妹君が、冬から寝ついているそうだよ。家の中はぎすぎすして、婚約者の男は、見舞いより、遺産の勘定ばかりしているとか」
わたしは、薬草を刻む手を止めなかった。
全部、欲しがったからだ。わたしから奪ったものの重さで、つぶれたのだ。
そう思った。そう思おうとした。
けれど、その夜、寝台の中で、ふと、九月の晩餐を思い出した。扇の陰の、小さな咳。
気のせいだ、と、わたしはもう一度思って、目を閉じた。
次の朝、ルドルフさんが、干し場で言った。
「ゆうべの行商人の話。妹さんのこと、気になりますか」
「いいえ」とわたしは言った。「あの子は、欲しいものを、全部手に入れたんです。それで寝ついたのなら、わたしには、関係のないことです」
言いながら、自分の声が、少しだけ硬いのがわかった。ルドルフさんは、それ以上、何も聞かなかった。
*
三月の半ば、伯爵家の紋の入った封筒が、薬草園に届いた。
はじめての返事だった。手が、震えた。
封を切ると、便箋が二枚入っていた。一枚目には、見覚えのある妹の字で、たった一行だけ書いてあった。
――もう、戻ってこないで。
わたしは、しばらく、その一行を見つめていた。
二枚目は、小さく折りたたまれたままだった。開く気には、なれなかった。一枚目で、もう、十分だった。
「その手紙」と、干し場から戻ってきたルドルフさんが言った。「紙から、薬の匂いがしますね。苦艾と、咳止めの」
「……そうですか」
「二枚目は、読まないんですか」
「一枚目で、十分です」とわたしは言った。「あの子は、昔から、言いたいことは一行で言う子でしたから」
ルドルフさんは、何か言いかけて、やめた。
わたしは、二枚の便箋を封筒に戻して、机の引き出しの奥にしまった。
*
四月。丘の薬草畑が、いっせいに花を咲かせた。
町の市で、わたしは、リボン売りの屋台の前で、長いあいだ立ちつくしていた。
「お嬢さん、どれにするね」と、屋台のおかみさんが言った。
「……どれでも、いいんです」
「どれでもいいなら、何も買わなくていいんだよ」とおかみさんは笑った。「欲しいのは、どれだい」
わたしは、並んだリボンを、一本ずつ見た。白、桃色、黄色、緑、青。白いリボンは、祖母のリボンを思い出させた。桃色は、妹の色だった。
わたしの指は、青いリボンの上で止まった。
「これを、ください」
わたしは、はじめて、自分でリボンを一本買った。青い、細いリボンだった。
「その色が、好きなんですか」とルドルフさんが聞いた。
「はい」
わたしは、言った。
「好きです。わたし、この色が好きです」
声に出してみると、胸の奥が、すうっと軽くなった。自分のために、何かを好きだと言ったのは、生まれてはじめてだった。
薬草園に戻って、わたしは、鏡の前で、髪に青いリボンを結んだ。祖母のリボンほど上等ではない。Hの刺繍もない。けれど、それは、わたしが、わたしのために選んだものだった。
その夜、ルドルフさんが、干し場の灯りの下で、言った。
「ヘレナさん。来年の春も、その次の春も、ここにいてくれませんか。……薬草園の手伝いとしてではなく」
わたしは、青いリボンに手をふれた。
「わたしは、何も持っていません。家も、名前も、置いてきました」
「ヘレナさんがいれば、それでいいんです」とルドルフさんは言った。「名前なら、もう、ここで呼ばれているでしょう。ヘレナさん、と」
わたしは、笑ってしまった。笑いながら、少しだけ泣いた。
「はい」
あの家を出たとき、わたしの手には、鞄ひとつしかなかった。リボンも、部屋も、時計も、婚約者も、家も、名前さえも、置いてきた。
引き出しの奥では、妹の手紙が、二枚目を折りたたんだまま眠っている。
――全部あげたら、わたしの手の中に、やっと、わたしのものが残った。




