影狼、恋に堕つ
――伊賀・影の屋敷(深山の隠れ里)
薪が弾ける。
静けさを裂くのは、その音だけ。
蝋燭が一本。
冷えた土間に、ただ二人。
向かいに座すは、影組の頭領・鴉影。
老いたる鷹の眼が、闇を射抜く。
やがて──低く、声が落ちた。
「影狼、抹殺命令だ」
「幕府より内々の依頼。対象は……白沢 椿」
白沢。
聞き覚えがある。幕府の蘭方医、白沢仁蔵──
一年前、火事で焼死と聞いた。
「その娘か」
「ああ。十八。蘭方医を継ぎ、諸国を巡っている。
だが──父の残した書が、都合の悪い“何か”を孕んでいたらしい」
「……それを奪って、殺せと」
「その通り。証は残すな。誰にも気取られるな」
頷く。
刃に油を差し、装束を締める。
俺は忍。
影に生きる者。
娘一人の暗殺など造作もない。
⸻
――信濃・外れの宿場
月も隠れ、夜霧が路地を這う。
人影はない。
その先、朽ちた祠の脇に──いた。
女はしゃがみ、手元に瓶。
竹筆で液を掬い、自らの手首へ、ぽたりと。
……なにを──?
反応は、ない。
だが、女は構わず帳面を開き、筆を走らせた。
迷いも戸惑いもなく、手際よく。
──定められた手順。
懐の刃に手をかける。
間合いは充分。
ただ一閃、音も残さず終わらせる。
その時、風が吹いた。
女の髪が揺れ、顔が露わになる。
顔は小ぶりにして、目元やさしく涼しげなり。
眉は細く整い、口元は結ばれてもどこかほころぶ風情。
さながら春霞の中に咲く、野の花のごとき顔立ち。
──胸の奥で、なにかが爆ぜた。
呼吸が、ふと止まる。
刃を握る手がわずかに震えた。
……う、うるわしい──!!
なんだこの胸の痛みは?!
毒か? いや違う。
毒など効かぬ俺が、なぜ……苦しい……?
女が、ふいにこちらを見た。
「……あれ? あの、すみません、ちょっと聞いてもいいですか?」
笑った。
無邪気に、まっすぐに。
気づけば、刃から手が離れていた。
冷静になれ、影狼。任務だ。
お前は伊賀の忍。影に生き、影に死ぬ者だ。
女一人の暗殺など造作もない──
「このあたり、峠道ってどちらかご存知です?」
首をかしげ、また笑った。
目が合う。
笑う。
また笑う。
と、と、尊い──死す──いや、尊死……!!
俺は──
なぜか、逃げた。
瓦を蹴り、木の影へ飛ぶ。
心臓が焼けるように熱い。
夜風が冷たいはずなのに。
⸻
――伊賀・影の屋敷(翌朝)
朝の山霧がまだ残る頃、裏庭に抜けようとすると──
「よぉ、影狼。昨日の任務、どうだった?」
声の主は鴉羽。俺と同じ影組の刺客。
腕は悪くないが、口が軽いのが玉に瑕。
だが俺にとって、唯一“話すことを許せる”相手だった。
「それより、何故かその者を見ると胸が痛く、心の音が速くなり、冷静でいられなくなる。
そんな毒……知っているか」
「お前、それ恋じゃねえか」
こ、こ、恋だと?!?!
伊賀に生きる者が、“標的”に恋をするなど。
影組の恥、いや──忍としての死だ。
「そいつと団子食いたいと思うか?」
したい!! なんなら己の銭を出し「ありがとう」と礼を言われたい!
「そいつが困ってたら助けたいと思うか?」
助けたい!! やつの困っている顔など見とうない!
「そう思うなら、それは恋だ」
こ、恋なのか?!
だが俺は忍だ。標的に恋するなど……
いや、いっそ忍を辞め、やつに思いの丈を伝え恋仲に──
「まさか、あの影狼が恋とはな。相手は何処のくノ一だ?
ならひとつ忠言を授けよう。……好いたと知られた途端、相手の心は離れるやも知れぬぞ?」
い、いかんのか?!?!
恋とはかくも難儀なものか……!
好きを伝えてはならぬとは……なんと、なんと厄介な──!
俺は生まれた時から忍として育てられた。
おれに忍以外の道はない。
「まっ、また気が向いたら教えてくれよ」
こいつはいつも言いたいことだけ申して、去ってゆく。
──まあよい。とりあえず昨日の任務を報告しなければ。
⸻
――報告の間(深山の隠れ里)
薪が弾ける音が、やけに耳に残る。
昨夜と同じ部屋、同じ灯り。
だが今夜は、空気の密度が違っていた。
目の前に座すは、影狼。
我が影組が誇る最上の刺客──冷徹、沈着、完遂率百にして百。
その影狼が、なぜかいつもより息が深い。
……気のせいか。
「……して、任は果たせたか」
わずかに間があった。
薪がまたひとつ、弾けた。
「……標的は──生きております」
蝋燭の火が、ひときわ揺れた。
わずかな熱が頬を刺す。
儂の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた気がした。
「……任を落としたか?」
「はい。……左様でございます」
信じがたい。
だが、こいつの目は揺れていない。
静かで、真っすぐ。覚悟を宿していた。
「理由を、述べよ」
一瞬の沈黙。
そして──
「……拙者、標的に恋をした模様です」
…………………………。
「…………は?」
思わず声に出てしまった。
いや、出るだろう。常人なら十度聞き返す。
だが儂は忍の長。平常を装わねばならぬ。
「も、もう一度聞こう。任務は、失敗したのか?」
「はい。拙者、標的に恋をした模様です。
ゆえにこの影狼、伊賀を抜けさせていただきとう存じます」
…………。
いや待て。
落ち着け、頭領たるもの感情を揺らすな。
だが、こいつ……なにを言って──え、恋?抜け忍?
「……貴様、本気か?」
「本気でございます」
本気かぁぁ……。
いや、平静を保て。
“忍が女に恋して抜けたい”──そんな報告、十七年頭領やってて初めて聞いたぞ。
どうする? 止めるか?
いや、それよりも──
「……ならば、二度と伊賀の地を踏むな。お前の顔など見たくもない。今すぐ去れ」
よう言うた、儂。完璧な追放宣言じゃ。
「はっ。かたじけのうございます」
礼まで言われた!?
こいつ本当に行くのか……
いや、行ったぞ!? 屋根を駆けて──あいつ、もういないぞ!?
……
(……なにが正しかったんじゃ……)




