7章 橘の危機
俺はもう橘とは関わっていない。
いつもの学校生活に戻っただけだ。
俺はモノクロの水晶テレビの中のような世界で過ごしている。
帰り道、いつものように帰っていると、真っ直ぐな道の向こう側に太陽が眩しく輝いている。
その太陽から誰かが走ってきている。
髪の長さ的に女なのだろうが、遠すぎて、眩しくてよく見えない。
だんだん近づいてきて、ようやくわかった。
橘だ。
だが、様子がおかしい。
いつも前を堂々と向いて笑顔を絶やさずにいるのに、今は下を俯いて全力で走っている。
色は深海のようにとても深い青だ。
今、橘は悲しみの底にいる。
いつも感情を見せたとしてもとても薄い感情だったのが、今は悲しい感情で溢れかえっている。
橘は俺に気づいておらず、走ったまま俺の横を通り過ぎていった。
そこから、公園に入っていった。
あのベンチがある公園だ。
何があったのだろう。
俺は橘に関わってはいけない。
けれど、放っておいたら橘は本当に感情を無くしてしまうかもしれない。
俺と同じモノクロの世界に入ってしまうかもしれない。
それはいけない。
モノクロの世界には感情が全くない。
社会的に過ごしにくくなる。
将来にも関わってきてしまう。
俺は、来た道を再び歩き出し、公園に向かった。
今日は風が強い。
痛くはないが、締め付けられるような圧迫感を感じる風だ。
その風に吹かれて公園の木々が大いに揺れ、葉と葉の擦れる音が大きくなっている。
その大きな音の中、橘の出す深い悲しみの青がかすかに残っていた。
その感情の残り香を沿って歩くようにあのベンチに向かった。
木々と葉をかき分け、ベンチについた。
そこには、膝を抱え込んで顔を伏せている橘がいた。
それに、泣いているのか、鼻をすすっている音が聞こえる。
かれこれ、橘とは1年とちょっとほど同じクラスではあるが、こんなに悲しみのどん底にいるような所を見たことはない。
このような時、どんな声をかければいいのか。
俺はアニメを思い出して話しかけた。
「どうしたの?大丈夫?」
俺は常備している綺麗なハンカチを差し出した。
このセリフは確か恋愛もののアニメのものだった気がする。
話しかけたことで、橘は俺がいることに気づき、驚いたのか、すすり声を止めた。
そして、俺の手にあるハンカチをとった。
橘はずっと顔を上げずに黙っている。
これは、俺が話さないといけないのか?
やはりよくわからない。
だが、こんな雰囲気の小説を前に見たことがある気がする。
でも、その小説の真似をするのは何か違う気がする。
俺は橘の隣に静かに座って橘が話せるようになるまで待とうと思った。
俺が橘の隣に座ってから30分ほどたった。
俺はその間、何もせずただただ座って待っていた。
そして、橘は少し落ち着いたのか、声を出した。
「どうして、放っておいてくれないの?」
放っておかないのか。
それは、橘がモノクロの世界に浸りそうだったからだ。
橘は俺のようになってはいけない。
もちろん、俺もいつかはモノクロの世界から抜け出せるといいが、そうでなくても感情があるように見せればいい。
「橘の感情が完全に無くなりそうだったから」
あの時の橘は悲しみのどん底にいた。
悲しみは募りすぎると絶望や復讐心に変わってしまうことがある。
もし絶望に変わってしまったなら、モノクロの世界に浸ってしまう可能性が高い。
それを防ぐために俺が来たのだ。
絶望など、暗い感情の時は一人になると思い詰めてしまう。
人が他に近くにいると、そちらに意識がいって思い詰めることがなくなる。
ただそれだけだ。
「余計なお世話」
余計なお世話か、。
橘はそういうが、もしモノクロの世界に潜り込んでしまったら、猫を被ることも難しくなる。
そうなってしまうと社会で過ごしにくくなる。
それは橘にとっても困ってしまうことであろう。
「余計なお世話だとしても、無視はできなかった」
そう、無視はできなかったのだ。
モノクロの世界に入ってしまうのは俺だけでいいのだ。
普通の状態が一番いいのだから。
「…………っ、」
橘は何かを我慢するような感じに歯を食いしばった。
「それで、何があったか話してくれるのか?」
いつもどんなことがあっても他では猫を被っている橘が全力で走って泣き、身だしなみは崩れている。
おそらく、橘に大きな辛い出来事があったのだろう。
そのため、今の橘は精神がむき出しになっている状態だ。
いつもなら、精神は金庫に入っているのかというくらいに頑丈にしまわれている。
そんな金庫のように頑丈な精神を安定するための壁を一瞬で崩すなんてどれほど辛かったのだろうか。
わからない。
橘は俺の質問に頷きで返答した。
普段の橘ではあり得ないことだった。
もし、いつも通りならば、何も話さないだろう。
そして、話し始めた。
「私が今日、学校から帰ってきたら____________________」
今日、学校から帰ってきたら、一台の車が止まっていた。
一眼見てすぐにわかるような高級車だった。
嫌な予感がした。
私はすぐに玄関に向かった。
玄関の鍵は開いていた。今朝、絶対に鍵を閉めた。
泥棒の可能性も考えて、音を立てずに家に入った。
家に入ると、リビングから話し声が聞こえた。
リビングに入るドアを少し開けて中を除いた。
そこには、全てをハイブランドで身につけている親子がいた。
子供はまだ3歳くらいの男の子だ。
その男の子の親には見覚えがあった。
この無駄に広い家にだだっ広く飾ってある肖像画。
私の両親だった。
私が生まれてすぐに海外に行ってしまった両親、もう何年も帰ってきてなかったのにどうして、。
しかも、放っておいた私とは裏腹に両親は小さな男の子をすごく愛しているように見えた。
とても笑顔で幸せな家族という雰囲気が見ているだけで伝わってくる。
まるで、私がいないかのように。
だが、両親が帰ってきたら文句を言ってやると覚悟していた。
私はドアを開いてリビングに入った。
「誰?」
すごく若々しい見た目の女性、私の母親が最初に放った言葉だった。
「なっ」
信じられなかった。
何年も会っていないとはいえ、自分の子供だ。
その自分の子供に対する最初の言葉が「誰?」って。
「はは、こいつは一応娘だぞ。まあ忘れるのも仕方ないか」
どこからどう見ても偉そうに見える男性、私の父親は私自身を馬鹿にするように鼻で笑いながら言った。
金だけ与えて、家に放っておいた自分の娘に対する言葉がそれか?
だが、ここで怒ってしまえば終わりだ。
「ママー、はやくあそぼーよ」
男の子が我慢しきれずに遊びたくなったらしい。
「そうね、遊びましょうか。えーっと、話は後にしてくれる?この子が我慢できないらしいから」
母親は、初対面の子供に対するような態度で話した。
しかも、名前すら思い出せないらしい。
「そうだな。話は後にしよう。この子が優先だ」
私は生まれてすぐに放っておいたくせに、その子は何事よりも優先するのか。
「その子は大事にするのに、娘である私はどうでもいいの?」
なぜ、そいつを大事にするんだ。
私と同じように放っておいたらいいじゃないか。
「金は渡してあるだろう?どっかに行っといてくれ」
父親は私を厄介者扱いした。
金を渡したから大事にしてるって言えるのか?
「なら、なんでその子と私の扱いが違うの?その子が男だから?タイミングが良かったから?」
私も男だったら愛されたのか?
私は、俯きながら話した。
「扱いが違うのは当たり前だろう?この子は橘家次期当主なのだから。金をやるからどっか行ってくれ。鬱陶しい」
当主ではないというだけで、この扱いの差。
私は、家族ではないのか?
他人なのか?
「そいつがいなかったら私を愛してくれたの?違うでしょ?子供は物じゃないんだ!!」
私は柄にもなく大きな声を出してしまった。
あまりのクズさについつい理性の制御装置が緩んでしまった。
「ママ、あの人怖い」
男の子は涙目になりながら怯えている。
「大丈夫よ。パパがどうにかしてくれるから。私たちは違う部屋にいきましょうね」
母親は男の子を連れてどこかに行ってしまった。
その時、鞭が打たれたような音が聞こえて、顔が左に向いた。
少したってから何が起こったかがわかった。
父親が私の頬を叩いたのだ。
「お前はただ大人しくしていればいいんだ!あの子を怯えさせるような真似は2度とするな!」
そう言うと、父親はリビングから出ていった。
私はどこか、親がいつか大事だと言ってくれるかもしれない、自分の子供を放っておく理由がどこかにあるかもしれないと、心の奥底で考えていたのかもしれない。
私の心は思ったよりも弱いのかもしれない。
そうでなければ、この目から出ている液体の説明ができない。
私はここにいたくなかった。
泣いているところを誰にも見られたくなくて俯いて走った。
そして、あの鳥籠のような唯一安心できるベンチへと向かった。
夕日に照らされて濃く、長い自分の影をひたすらに見ながら走った。
「もしかしたら私を家族として愛してくれるかもしれない。そう思っていたのかも」
打たれたところを見られたくないのか、涙を見せたくないのか、橘はずっと顔を伏せている。
橘の話しはとても痛々しいような内容だった。
同情はできないが、橘にとってまだいる家族は大切なものの中に入っていたのだろう。
それにしても、橘の両親は世間一般でいう、やばい親というやつなのかもな。
「そうか、それは辛かっただろうな」
俺には辛いという感情がわからなかった。
想像で作るしかなかった。
「ひたすら家に届く企業の書類を書いて、送って、企業を保たせたりもしたんだけどな。もう家に帰りたくもない」
橘がこんな弱気になってしまった。
このままでは感情をなくした方が楽とか思ってしまいそうだ。
「なら、俺の家にくればいい。一緒にこれからを考えよう」
あいにく、俺の家には誰もいない。
橘一人くらいなら泊めることはできるだろう。
そして、落ち着いたらこれからどう動いていくかを考えればいい。
「はは、あんた本当に言葉が足らない。でも、今回は甘えさせてもらう」
橘が笑った。
猫かぶりじゃない。
本当の笑顔だ。
やはり、橘は感情を1つも失ってなどいなかった。
橘が自分の感情を失っていないと理解できるまでは付き合おう。
「それじゃあ、行こうか」
俺は橘に手を差し出した。
橘は俺の手をとって立ち上がった。
そして、二人で俺の家に向かった。




