8 契約妻の乱入
「あれはいったい……何をしているんだ?」
公爵家の書斎で。
アシュリー公爵は、窓の外から目が離せなかった。
なんだか騒がしく盛り上がっているかと思いきや、あの甥っ子のノエルが楽しそうにスキップをして、庭を駆け周っていたのだ。
「あの子がまさか、あんな明るい笑顔で……」
そしてそれを眺める、自分の妻……あの契約妻が、武将のような仁王立ちで笑っている。
「エリン令嬢……どうやってあの子を笑わせたんだ。まさか命令して? いや、あの子が他者の命令なんて聞くはずがない」
独り言が暴走する中でノックが鳴り、執事が書斎に入ってきた。
アシュリー公爵は慌てて机に戻って、仕事をしているふりをした。
いつもは青白く不健康な顔の執事が、今日は艶々としている。
「ぼっちゃまが私に、可愛らしい笑顔でご挨拶してくださいまして! こんなことは初めてです!」
自慢のような報告に、アシュリー公爵は狼狽えた。
「ノエルはまた、よからぬ悪戯でも考えているんじゃ?」
「いえいえ。ぼっちゃまは奥様と親しくされて、本気で遊んでらっしゃいますよ」
「本気で……遊ぶ?」
「ぼっちゃまはレナルド様が出て行かれてから、笑うことも、本気で遊ぶこともありませんでしたから。私はもう嬉しくて……」
アシュリー公爵は目を伏せた。
甥であるノエルに対し、養育の責任をできる限り果たしているつもりだったが……。
「公務を理由に、僕はノエルの気持ちと向き合えていなかったかもしれないな……」
そんなシリアスな空気の中。
書斎の扉のノックが鳴った。
「……はい」
返事に被せてドアが開き、入って来た人物にーー。
アシュリー公爵は驚いて、ガタと席を立った。
「き、君は!」
隣の執事も「奥様!?」と叫んで、目を見開いている。
堅い空気の書斎の中に、まるで春風が吹いたように、ピンク色のドレスを纏ったエリンが現れた。
しかし……。
自ら大胆に書斎を訪ねておきながら、なぜだかモジモジとしている。
「あ、あのぅ……」
暫く見入っていたアシュリー公爵は我に返って、おかしな様子の契約妻に警戒の色を見せた。
「何か不満でも? 充分な生活費を与えているはずですが……」
先日の奇妙な雄叫びの抗議を聞く限り、契約妻に不満があるのは確かだった。
「あ、いえいえ、その、充分すぎて最高なので、お礼が言いたいな〜、なんて……」
しどろもどろとしながら、エリンの脳内は混乱していた。
自分でも「これはダサい」と幻滅する。
きっと窓から覗いているノエル君も、思っているはず。
「こんなの漢じゃない」と。
あの過激なすごろくのコマーー。
「アシュリー公爵の書斎に乱入して、一発ギャグ」
それを当ててしまったエリンは、言い出しっぺの責任者として、どうしても任務を遂行しなければならなかった。
ーーだけど、この部屋に入った途端に。
明るい窓を背景にしたアシュリー公爵の、白銀の髪も、アイスブルーの瞳も、異世界の神秘のように輝いていて、思わず見惚れて呑まれてしまったのだ。
(いや、やっぱりいい顔だわ……)
美男子を前に心臓がバックンバックンとして、喉が震えている。
一発ギャグでやるはずだった「公爵家の妖精登場!」が、どうしても出てこない。後ろ手で隠している小枝も震えていた。魔法の小枝なのだ。
アシュリー公爵は固まっているエリンの不自然な後ろ手を指して、声を上げた。
「後ろに何を隠している!」
すわ、「武器を持っての突撃」と勘違いされたと焦ったエリンは、素早く小枝を出して見せた。
「こ、小枝です! 庭で拾ったやつ!」
「……」
書斎は奇妙な沈黙に包まれて、エリンは頭が爆発しそうに赤面した。そして思わぬ言葉が出た。
「お、お疲れのアシュリー公爵に、元気の魔法をですね」
もう、意味がわからない。
自分の言葉に追い詰められて、それを誤魔化すように、さらに奇行を重ねてしまう。
大きく腕を伸ばしてーー。
クルン、と。
空中に、ハートを描いたのである。
公爵がハッとしたように、こちらを見つめている。
隣にいる執事は満面の笑みになっていた。
「し、失礼しました! お仕事がんばってください!」
エリンは逃げ出すように書斎を飛び出して、裏庭の藪の中に隠れると、苦悶の顔で転げ回った。
「ウギャーー!!」
駆けつけたノエルが薮を覗き込んで、逸るように質問した。
「ねえ! 外には声まで聞こえなかったんですけど、何て言ったんですか!? 叔父様は何て!?」
エリンが妖精をやり遂げたと判断して、ノエルは興奮していた。
「こ、子供には聞かせられないわよっ! 大人の高度なギャグなんだからっ……うぐぅ〜」
エリンの苦しみぶりに、ノエルは偉大なる勇気を見て、尊敬の眼差しになっていた。