5 契約妻の怒り
天井まである大きな窓のカーテンが開けられて、「奥様のお部屋」は爽やかな朝日で満たされた。
ベッドから起き上がったエリンが寝ぼけ眼のうちに、目前に綺麗な水が差し出され、柔らかなタオルが用意され、乱れたお髪が整えられて……。
エリンは何もしていないのに、全てが手際よく支度された。さすがの公爵家である。
昨晩、侍女のティナが用意してくれた "全力の湯" は、エリンの想像を超えた、贅沢なお風呂だった。
神殿のような柱に囲まれた大きな湯だまりには、公爵家の温室で育てられたという南国の花々が浮いていた。
良い香りで朦朧とするエリンを、湯番のメイド達が親切にお世話をしてくれたのだ。それこそ全身のマッサージから、荒れた髪のトリートメントまで……。
「イタタ。夢じゃないみたい」
全力で頬を抓ってみると痛いので、やはり現実だ。
ティナがニコニコとして、両手に抱えている華やかなドレスを広げて見せた。
「奥様。本日はどちらのお召し物になさいますか?」
エリンは部屋に備わっている、巨大なクローゼットを見上げた。
昨晩は豪華なディナーだの、新殿のお風呂だので情緒がいっぱいいっぱいになっていて、用意されていたこの「奥様のお部屋」の絢爛さを堪能する余裕がなかった。
「うわあぁぁ」
エリンはクローゼットに詰まったドレスの列に手を入れて、肌触りの良い高級な生地を撫でた。
「奥様。事前にご用意させていただいたのは部屋着ですので、外出用のドレスをオーダーする際は、いつでもお申し付けください」
ティナはふわふわしているエリンをドレッサーに座らせて、器用に髪を結っていった。
エリンの亜麻色の髪は香油で手入れをされて、これまでになく輝いていた。
そしてーー。
鏡の中の自分は、別人のように変身した。
サイドにクルリと纏めた髪に、ドレスと同じ水色のリボンが飾られて。
自分で言うのもなんだが、なかなか可愛いご令嬢に見える。
エリンだって、やればできるのだ。
このようにハッピーな気分で始まった契約妻の一日だったが……。
まさかこの後、災難続きになるとは。
エリンはこの時、思いもよらなかった。
事件の始まりは、直後の朝のお散歩で起こった。
隅々まで庭師によって手入れをされた広大なお庭を、エリンは清々しく見回した。
「うーん、見事な芝生! お花もいっぱい咲いてる!」
と、伸びをした瞬間だった。
ポフン! と音がして、頭上に何かが乗っかった。
続けてパラパラと顔面に落ちてくるのは、砂だろうか?
「お、奥様!?」
ティナが慌てて駆け寄った。
直立不動のエリンの頭からティナがそっと持ち上げたのは、植木の土と花だった。植木鉢から引っこ抜いたそれを、屋敷の二階あたりから、誰かが下に落としたのだろう。それがエリンの頭にジャストミートしたのだ。
屋敷を見上げると、バルコニーが見えるだけで誰もいない。
「悪戯ね。私の頭のど真ん中に落とすとは、良いコントロールだわ」
「お、奥様、これは何かの間違いというか、じ、事故です! 申し訳ございません!」
奥様の頭にいきなり花が咲いたのだから、ティナはさぞ驚いたことだろう。取り繕っているが、エリンには犯人がわかっていた。
あの少年ーー。ノエル君である。
昨晩のあの挑戦的な瞳は、悪戯の連続を予告していたのだ。
それからは、怒涛の事故。いや、悪戯の嵐だった。
庭を歩けば落とし穴に落ち、廊下を歩けば小麦粉を被った。バケツに足を突っ込み、続けて巨大なタライが頭に直撃する頃には、エリンの怒りは頂点に達していた。
自室のソファで頭のたんこぶをティナに冷やしてもらいながら、エリンは憮然としていた。
「ノエル君の悪戯は、なかなかバリエーションに富んでいるわね」
事故だと言い続けたティナも観念して、ノエルの悪戯癖を認めた。
「ノエルおぼっちゃまは成績優秀でお行儀も良くて、大人並に賢い子なのですが……悪戯が止まらなくて」
「ティナも悪戯されるの?」
「いいえ。どうやら人を選んでいるようで。告げ口をしない大人しい使用人や、新人のメイドがターゲットになります」
どうやら、ノエルはアシュリー公爵の契約妻であるエリンの立場をみくびって、悪戯を仕掛けているらしい。
「あの砂利っ子め……」
さすがに公爵家の長男のご令息を「ガキ」とは言えないので、エリンは抑え気味に呻いた。
ティナは申し訳なさそうに頭を下げた。
「あまりに酷いようでしたら、執事の方からおぼっちゃまに注意をしてもらいます」
「いいえ。倍返しよ」
「え?」
エリンは頭に氷嚢を乗せたまま立ち上がり、ティナに指令を下した。
「私のお小遣いから、購入して欲しいものができたわ」
契約妻からの初めてのおねだりに、ティナはビシッと背筋を伸ばした。
「はい! 仕立て屋でも、宝石商でも、すぐにお呼びできます!」
「肉屋よ。肉屋を呼んでちょうだい!」
目が据わったエリンの要求に、ティナは固まった。




