4 公爵様の宣言
エリンはソファに撃沈した。
公爵家による渾身のディナーの美味しさに昇天し、爆上がりした血糖値と満腹感によって、もう一歩も動けなかった。
「肉……あんな分厚くて、柔らかい肉がこの世にあるなんて……」
「奥様、大丈夫ですか? 胃薬をお持ちしましょうか?」
侍女のティナは健気にエリンの面倒を見てくれる。
こんな食い意地の張った奴なんか、ほっといていいのに……。と申し訳ない気持ちで室内を見回すと、他のメイド達もティナと同じように、同情の目でエリンを見守っていた。悲痛な空気である。
そもそもこの公爵家、空気が異常に重いのだ。
屋敷の内装がもともと重厚な雰囲気というのもあるけれど、使用人達も公爵本人も家督の混乱に翻弄されて、全体的に滅入っている様子だ。
そう考えると、さっきの少年……ノエル君の悪戯も、両親が不在でかまってもらえない寂しさからかもしれない……。
とはいえ、尻を強打したのでムカついてるけど。
侍女のティナは、仰向けで倒れたままのエリンに遠慮がちに伝えた。
「奥様。お疲れのところ大変申し訳ないのですが、アシュリー公爵が客間で奥様をお待ちしておりまして……」
エリンはソファーから飛び起きた。
そういえば、先ほどお会いした時にアシュリー公爵は「確認がしたいので、後ほど」と言っていた。
「契約結婚の確認をするのね?」
エリンの発言にティナは表情を硬くし、メイド達も一様に肩を竦めた。
なるほどーー。
この屋敷の女性達から見たら、エリンは没落貴族の援助と引き換えに売られた花嫁であって、かわいそうな子に見られているのかもしれない。
かわいそうどころか、本人は高待遇に最高の気分なのだが……。
エリンはティナに案内されて、公爵が待つ客室に向かって廊下を歩いた。
これまでの人生で一番の満腹状態だが、何とか人並みに動けそうだ。
エリンはほくそ笑んでいる。
さっきの初対面で喰らった美男子の衝撃を、もう一度確かめてみたい、という好奇心と下心があった。
二度目ましてのアシュリー公爵は、小さな明かりを灯した薄暗い客室の中で、書類を手に着席していた。
暖色の明かりが白銀の髪を照らし、アイスブルーの瞳が色濃く揺れている。先ほどよりさらに、大人の色気が増して見えた。
だが、その感情のない冷たい眼差しが、エリンへの拒絶にも近い壁を作っている。
侍女のティナが客室から去って、エリンは公爵と二人きりで、テーブルを挟んで対面した。
エリンは手に汗を握る。
無言で書類に目を落としているアシュリー公爵を好きなだけ観察して、改めて美を堪能していた。
やはり、とにかく顔が良い。
見ているだけで、頬が緩む悦びがある。
エリンの熱い視線から敢えて目を逸らしているのか、アシュリー公爵はこちらを見ることなく、事務的な口調で確認を始めた。
「契約書の内容はご承知だと思いますが……」
「はいっ! 全部読んで、サインしましたっ!」
エリンは食い気味に応えた。
ここで返品、とならないよう、契約相手としてスムーズな人間であると、印象付けたかった。
アシュリー公爵は一呼吸置いて続けた。
「……契約書には書かれていない事項を、口頭でお伝えすべきかと」
「はいっ! 何でしょう!」
「……この結婚はあくまで契約なので、僕が君の寝室を訪れることはありません」
エリンはキョトンとした。
遠回しな表現が通じないと悟ったアシュリー公爵は、さらにわかりやすく噛み砕いてくれた。
「僕が君を愛することはない」
「はいっ! わかりましたっ!」
即答の上に「重々承知ですよ」というエリンの前向きな目の輝きに、アシュリー公爵は気圧された。
だがすぐに冷静な表情に戻ると、事務的に会話を締めた。
「確認は以上です。何か質問は?」
質問など何もないが、エリンは今、自分がすっかりと笑顔を忘れていたのに気がついた。
(いけない、無愛想な契約妻だと思われちゃう。笑顔よ、エリン)
鏡で練習した最上級の笑顔……あくまで品良く、乙女らしさが満開な笑みを向けると、アシュリー公爵は固まった。
「……では、これで。失礼します」
しばしの沈黙の後。アシュリー公爵は席を立ち、サッサと扉に向かってしまった。焦っているように見えるので、やはりお忙しいのだろう。
エリンは慌てて立ち上がり、大きな声を掛けた。
「あのっ! ありがとうございました!」
アシュリー公爵は立ち止まったが、こちらを振り返らない。
「こちらこそ……」
小さな声を残して、扉はバタンと閉められた。
シンとした客室で、エリンは一人、佇んだ。
アシュリー公爵はどうやら、無口でお堅い人のようだ。
女嫌いというのも本当なのだろう。殆ど目も合わせてくれなかったし、塩の塊のようなお方だった。
いやしかし、それにしても、顔が良い。
二度目はじっくりと美を堪能できたので、エリンは満足していた。
公爵家でグータラしながら、たまに美男子を見物できるなんて、二重に美味しい契約ではないだろうか……。
などと旨みを噛み締めていると、目前にはいつの間にか、侍女のティナが立っていた。
まるで自分が傷ついたみたいな顔をして、毅然とエリンを見つめている。
もしかして、さっきの「愛さない」という契約の会話を、廊下で立ち聞きしていたのではなかろうか。
ティナはエリンの手を両手で取ると、水仕事で荒れたエリンの指を労るように包んだ。
「奥様。湯浴みにいたしましょう。奥様の疲れがしっかり取れるよう、我が公爵家の湯番が、全力で癒しますので!」
「ぜ、全力の湯……?」
いったいどんなお風呂なんだろうか。
ティナは精一杯のおもてなしをして、傷心のエリンを慰めてくれているようだ。
自分を甘やかしてくれる優しいご褒美の連続に、エリンはグータラな喜びが抑えきれなかった。