3 麗しき小悪魔
食堂の中には、こちらを見上げて佇む、美少年がいた。
エリンは緊張のあまり目がおかしくなったのかと擦ったが、やはりそこにいるのは、紛れもなく美少年だった。
美しい白銀の髪が肩まであって、アイスブルーの瞳が煌めいている。ツンと整った表情に、陶器のようなお肌と赤い唇は、少女と見まごうほどだ。
年頃はどう見ても、23歳には見えない。9〜10歳くらいではないだろうか。
「えっと、あの、はじめまして、公爵様! 私が契約妻のエリン・カーティスです!」
しばらく混乱で時を止めた後に、エリンはようやく挨拶ができた。
訳ありの契約結婚とはいえ、まさか夫になる公爵がこんなに小さな子供とは、さすがのエリンも狼狽た。
カーテシーから顔を上げると、少年はジッとこちらを見つめながら、お上品に微笑んだ。
「はじめまして。僕はノエル・オルグレン。この公爵家の長男の息子です」
「え?」
「公爵であるアシュリー叔父様の、甥にあたります」
エリンは契約の際に聞いた、公爵家の家族構成を思い出した。
数年前に公爵家を出て失踪してしまった長男は、前々々妻との実の息子である幼いノエル君を屋敷に置いて行ってしまったらしい。なんてひどいお父様だろうか。
侍女のティナは、ノエルが手にしている楽器のケースを受け取った。
「ノエルおぼっちゃま。レッスンからお戻りになられていたのですね」
「はい。今到着したばかりです。今日は先生にご予定があるので、いつもより早めに終わりました」
まるで大人同士の会話を聞いているようで、エリンは感心した。まだ少年とはいえ、さすが公爵家の令息である。中身は貴公子のように品があって、とても賢い。
エリンは初対面のこの少年と何とか仲良くなろうと、ポンと手を叩いた。
「ノエル君はバイオリンを弾くのね! 私も聞いてみたいわぁ」
「グランドピアノが広間にあるので、よろしければエリンさんの演奏に合わせて二重奏ができますよ。ソナタなんて如何でしょう?」
「うぐっ」
世間話のつもりが、エリンは墓穴を掘ってしまった。
令嬢はほぼ全員、と言っていいほどにピアノが弾けて当たり前のこの貴族の世界で、エリンはレッスン料が払えないので、まともにピアノに触れたことなどなかった。
「お、おほほほ! 二重奏の其方……って、どちら様かしら?」
ナチュラルに聞き返したつもりが、少年は固まってしまった。何かが間違っていたようだ。
互いに動揺しているうちに不意打ちで、真後ろから聞いたことのない、心地よい低音が……正確には、男性の低い声が響いた。
「遅れて申し訳ございません」
エリンが慌てて振り返ると、見上げるほどに背の高い男性が、身なりの良い格好で立っていた。
ノエルと同じ白銀の髪を無造作に後ろに束ねていて、逞しい肩や端正な顔に、気怠く髪がかかる様が妙に色っぽい。アイスブルーの瞳は氷の宝石のように冴えていて、こちらを冷たく見下ろしていた。
「うぉわっ」
エリンはこれまで見たことのない類の美男子を目の当たりにして、思わぬ声を上げた。慌てて口に手を当てる。
「ああ。エリン・カーティス伯爵令嬢。はじめまして、アシュリー・オルグレンです。契約について確認がありますので、後ほど伺います。では、ごゆっくり」
聞き惚れるほど良い声で、それだけ述べた後、アシュリー公爵はそっけなく振り返って、去ってしまった。
「へ?」
てっきり一緒に食事を取るかと思いきや、公爵はお付きの者達を連れて仕事に戻ってしまったようだ。噂通り、家督の引き継ぎで混乱している様子が伺える。
とはいえ、花嫁を何時間も待たせておいて、なかなかの塩対応だ。
いや、それにしても、なんたる美男子だろうか。あれで女嫌いなどと、変な趣味があるのではないかと疑ってしまうほど、良い顔であった。
侍女のティナは惚けているエリンを促して、食事の席に案内した。
エリンは我に返って、いったん、待ち望んでいた公爵家のディナーに集中することにした。
テーブルには真っ白な大きなお皿、整然と並んだ無数のカトラリー。
中央には果物の山が積まれていて、膨らむ期待は抑えきれなかった。
既に前菜のお皿を手にしたメイドが室内に入ってきており、ノエルも対面の席に着席した。
侍女に引いてもらった椅子に、エリンが腰をかけた、その時だった。
ツルンッ!
エリンは一瞬、宙に浮いたかと思うと、椅子の座面から大きく前に滑り出し、テーブルクロスを暖簾のように被ったまま床に落下して、尻餅をついた。
ドシーーン!!
……優雅なお食事の席に、ありえないことが起きた。
この公爵家にやってきた契約妻は、椅子に着いた途端に忽然と消えたのだ。
焦った侍女がクロスを捲って手を差し伸べて、エリンはようやくテーブルの下から戻ってきた。
「奥様! お怪我はありませんか!?」
何が起きたのかわからないまま、エリンは自分が座ったはずの椅子を見た。そこにはツルツルのクッションが、不自然に斜めの状態で設置されていた。このツルツルの面と、シルクのスカートの面が触れた瞬間に摩擦がゼロになって、エリンは前方に飛び出したのだった。
食堂の中にいる沢山の使用人達は、全員が唖然としてエリンを見ていた。
だが、さすがの公爵家である。こんな面白い現象を目撃したのに、誰も笑っていない。
エリンが照れ笑いをしながら室内を見回すと、お行儀良く正面の席に座っているノエルだけが、口の端を小さく上げて笑っていた。
その瞳は挑戦的にこちらを射抜いていて、エリンはすぐに直感した。
(このお子様……やってくれたわね?)
エリンの大人げない負けん気に、火が着いていた。