2 様子がおかしい子
伯爵家の長女エリンは、幼い頃から「様子がおかしい子」だった。
街道で馬車を見るたび「ブーブ!」と謎の言葉を叫んだり、鳩を指しては「ポッポッポ♪」と、未知の歌を披露したり。両親と兄は首を傾げていたが……。
それもそのはず、エリンにはうっすらと、生まれる前の記憶があったのだ。
誰もが「この子はちょっと変わってる」と言うけれど、エリンにとってはこの世界が "二度目の人生” なのである。
「とは言っても、覚えているのは断片的で、自分がどんな人物だったのかもわからないのよね。この馬車より早い乗り物に乗ってたのは確かなんだけど……」
揺れる馬車の対面に座る兄は、こめかみを押さえて呻いた。
「頼むからエリン。おかしな発言や奇行は……」
「わかってるわ。これでも伯爵家の令嬢として、マナーや社交を心得ているつもりよ? まあ、社交と言っても、宮廷なんて一回しか行ったことないけどね」
伯母のお下がりのドレスを手直しして、無理して舞踏会でデビュタントした日を思い出し、エリンは身震いした。
普段、エリンは王都で開かれるお茶会なんぞ参加したことがなかったので、令嬢の友達が一人もいなかった。舞踏会では、王族の男性に群がる彼女達の勢いついて行けず、エリンはボッチでテーブルに齧り付いていたのだ。……痛すぎる。
「見たことないご馳走が並ぶものだから、目的を履き違えちゃったわ。舞踏会って、男女の狩場だったのね」
過去の勘違いを反省するエリンをよそに……。
兄は馬車の中から王都の景色を眺めて、眉を顰めていた。
「アシュリー公爵は、花嫁に迎えの馬車も寄越さなかった」
「あら、お兄様。これは契約結婚でしてよ?」
本来は相手側が馬車でエリンを迎えに来るのが常識だが、アシュリー・オルグレン公爵は本日、宮廷で行われる大事な会議に出席しているらしい。
なので自家用車……ならぬ伯爵家の馬車に乗って、エリンは護衛役を兼ねた兄に付き添ってもらっていた。
契約婚なのだから、こんなものだろうとエリンは納得していた。
結納式もなし、結婚式もなし、迎えもなしの、ないないだらけ。だが、婚約指輪と結婚指輪は送られてきたので、エリンはそれを身に着けている。大層大きなダイヤモンドなので、見るたびに目眩がする代物だ。
馬車が王都の中心である公爵家の敷地に近付いて、兄は珍しく、感傷的な顔になっていた。
「エリン。辛かったら、いつでも帰って来て大丈夫だから」
兄はエリンと違ってしっかりした青年で、幼い頃から「様子がおかしい」妹を正しく躾けてくれた。
自分を心から心配してくれているが、どこか肩の荷が降りたような、ホッとした顔にも見える。
この縁談によって、兄が伯爵家の負債を継ぐ運命から逃れられたのなら、エリンにとっては兄孝行として上出来だった。
「お兄様、ご安心ください! 私、公爵家で華麗にグータラしてみせますわ!」
ガクリと項垂れる兄と、舞い上がるエリンを乗せて、馬車は公爵家の屋敷に到着した。
想像を上回る豪邸を目の当たりにして、エリンは仰け反った。
(うおぉぉー!!)
とは、もちろん令嬢なので叫ばないが、叫び出したいほどに、豪華なお屋敷と立派なお庭だ。
大きな玄関の前には、一同に揃った使用人達……メイドや侍女や執事やその他大勢の者が、美しい礼をしてエリンを迎えた。
「はじめまして。エリン・カーティスと申します」
エリンは習った通りに、淑女の挨拶をした。
すると、二つほど年上だろうか。きちんと髪を編み込んだお上品なご令嬢が、しずしずとこちらにやってきた。
「奥様のお部屋付きの侍女になります。ティナ・ケアリーと申します」
エリンは驚いた。花嫁の自分よりもよっぽど肌つやが良く、髪も艶々に見える。さすが、公爵家の侍女である。
侍女のティナも、少し驚いた様子でこちらを見回している。
公爵家に到着したのは、エリンと付き添いの兄だけだからだ。
通常は輿入れに自分の侍女を連れて行くものらしいが、うちには掃除も料理も全部賄ってくれる "ばあや" しかいないので、大事なばあやをここに連れて来るわけにはいかなかった。
「公務中のアシュリー公爵に代わって、屋敷をご案内するよう申しつかっております」
侍女のティナは深く突っ込まずに、スマートにエリンと兄を屋敷の中に案内した。
一歩中に入ってみれば、天井が無いのかと思うほど、シャンデリアは空高くにあった。我が家のリビングよりも、玄関が広い。
重厚な内装に絢爛な模様が描かれ、あちらこちらに高価そうな美術品が並んでいる。
エリンは何かの間違いで壊さぬよう、それらから遠く離れながら、侍女の後ろを恐る恐る、ついていった。後ろに続く兄も、押し黙って緊張しているのがわかる。
通された客間はこれまた豪華な仕様で、まるで宮廷の一室のようだ。
太陽が燦々と差し込む明るい部屋で、エリンと兄は美味しい紅茶をいただきながら、公爵が公務から帰ってくるの待つことにした。
が……。ここからが長かった。
太陽が傾き、空が夕焼け色になっても、公爵は帰ってこなかった。
このまま待ち続けるとエリンの兄は今夜中に自宅に戻れなくなるので、兄は心配顔のまま馬車で帰ることになった。
「申し訳ございません。公爵様はまだお戻りにならなくて……」
何度目だろうか。侍女のティナは客室を訪れると、申し訳なさそうにエリンに伝えた。
エリンは一向に構わなかった。
なぜならこのテーブルの上に、ケーキだのクッキーだのチョコレートだのが、次々と出てくるのだ。エリンはそれを食べるのに夢中だった。伯爵家で食べていたあの素朴なクッキーとは、天と地の差がある美味しさだ。
「ばあやったら、高価な砂糖をケチって代わりに塩を入れていたのね」
それでもエリンにとっては、おやつは特別なご馳走だった。伯爵家の節約飯が懐かしい。
結局、公爵のお帰りは夕食時になるそうなので、エリンは食堂に案内されて、そこで顔合わせの挨拶をすることになった。
さっきまでスイーツを無双していたエリンだったが、こんな立派な屋敷の主に、しかも契約とはいえ、自分の夫となる人と初対面するのは、さすがに緊張した。
(最初が肝心だわ。淑女らしくご挨拶をして、笑顔、笑顔よ、エリン)
笑顔の練習をしているうちに、ティナが食堂の扉を開けて、エリンは蝋燭で明るく飾られた室内に踏み入った。
「……えっ!?」
エリンは練習していた挨拶も笑顔も、すべてがぶっ飛んだ。
そこには、予想だにしていなかった公爵の意外な姿があったのだ。