17 ドレスと蝶々
朝からアシュリー公爵は不在だ。
執事によると、昨夜から徹夜で書斎に篭っているらしい。引継ぎと繁忙期が重なったようだ。
昨晩の "甘えん坊" クマの件でーー。
エリンはしばらく眠れないほど興奮してしまったので、顔を合わせずに済んで安堵したが……あまりに忙しいアシュリー公爵の体調が心配になってしまう。
ティナが紅茶を淹れてくれた。
「アシュリー様は真面目な方ですから、レナルド様が適当にやった過去の仕事を遡って修正しているんですよ」
エリンにも、あのお兄様が適当こいて書類をいじる姿が安易に想像できる。
弟のアシュリー公爵は気の毒な役回りだ。
今朝は早くからレナルドお兄様がやって来て、大量の布やレースを届けてくれた上に、ノエルを連れて外出していた。
「ようやく父親らしいことをしていますが……」
ティナの冷めた顔に、エリンは苦笑いした。
レナルドお兄様を語るティナはいつも冷たい。
「ティナはレナルドお義兄様が嫌い?」
「レナルド様がというより、女性の趣味がちょっと……。私は三番目の奥様しか存じませんが、二番目も相当酷かったみたいですから。そのせいで、どれだけおぼっちゃまや使用人達が苦労したことか。アシュリー様だって……」
「アシュリー公爵が?」
ティナは言いにくそうに続けた。
「契約結婚を持ち出すなんて、アシュリー様もどうかと思いましたが……あんな強烈な女遍歴を間近で見ていたら、女性不審にもなります。女はみんな派手に着飾って散財して、浮気をする生き物だと思い込んでらっしゃいましたから」
エリンはアシュリー公爵の、頑なまでに慎重な理由に納得した。
「でも、アシュリー様も変わりました。お顔が明るくなって、雰囲気も柔らかくなって。奥様のおかげですね」
「いや〜、ははは」
照れるエリンに、ティナは笑顔で告げた。
「奥様。この後は広間にいらしてくださいね。ドレスが仕上がりましたので」
「へ? 私、ドレスなんか頼んでないわよ?」
……と応えた後で、エリンは結婚の契約を交わした当時を思い出した。
確か、公務に必要になるドレスを事前に何点か仕立てていたのだ。
エリンは毎日のご飯や遊びにつられて、すっかりドレスの存在を忘れていた。
だが、アシュリー公爵の重責と心労を知った今、自分に与えられた「最低限できる役割」なのだと自覚して、エリンはしおらしく頷いた。
ティナに案内された広間には、既に豪華なドレスが並んでいた。
まるで春の花畑が広がっていて、エリンは思わず、蝶々のようにドレスの間を回遊した。
「え、これ、私が着るんですか?」
と怯むほどに、贅を凝らしたドレスはどれも美しい。高価なドレスは窮屈で苦手……というしょうもない文句は霧散して、少女チックにときめいてしまった。
エリンが試着をしたドレスは、銀色と水色のグラデーションの生地に、散りばめられた星が輝くデザインだ。アイスブルーのリボンがポイントになっていて、清楚でとても可愛らしい。
そのドレスに合わせて、アイスブルーの豪華な宝石のイヤリングとネックレスも用意されている。
エリンは気づいた。
このアイスブルーはアシュリー公爵の瞳の色である、と。
仮にも妻役なのだから、社交の場で夫の瞳の色を身に着けるのは当たり前のことだが、実際にその色を見ると照れが半端ではない。
このドレスを着て、アシュリー公爵と一緒に夜会に出席するのだ。
ようやく契約妻らしい任務が出てきて、エリンは改めて気合を入れた。
「とにかくドジをやらないよう、無難に凌ぐわ」
その日はどんなに美味しそうな料理が並ぼうが、「がっつくまい」とエリンは心に誓った。
沢山のドレスのフィッティングを終えて、エリンは自分の部屋に向かった。
メイド達が先に「クマ作りの会」を開いているのだ。
エリンの脳内は、先ほどのあの美しい花畑のドレスでいっぱいだった。
足元は蝶々のように、ふわふわしている。
エリンが廊下を曲がると、大きな窓から入る日差しに照らされて、こちらに向かって歩いて来る長身の美男子……アシュリー公爵がいた。
まるで幻に出会ったように、エリンはまたもや見惚れた。
「あ……エリンさん」
アシュリー公爵はこちらに気づいて、爽やかな笑顔を向けた。
執事の言っていた通り、徹夜明けなのだろう。相変わらず美しいお顔だが、お疲れのご様子だ。
いつも整っている白銀の髪も少し乱れていて、なんだか余計に色っぽい。
眩しそうに潤んだアイスブルーの瞳も、より麗しくて……。
いやいや、徹夜明けの人に対して何を品評しているのかと、エリンは我に返って慌ててお礼をした。
「あの、素敵なドレスを沢山作っていただいて……ありがとうございました!」
「いえ。公務への出席をお願いしているのは、こちらですから。ドレスはお気に召していただけましたでしょうか」
「そ、それはもう、すっごく綺麗で、可愛くて……」
するとアシュリー公爵は珍しく、明るい声で反応した。
「良かった! あなたに可愛いと言ってもらえた」
エリンは目を丸くして、アシュリー公爵を見上げた。
アシュリー公爵も自分のテンションに驚いたようで、照れて目線を逸らしながら、言い訳をした。
「可愛いものが好きだと……おっしゃっていたので」
頬を染める公爵に、エリンは脳内で「可愛いのはそっちなんだが!?」と叫んだ。
そして立て続けに。
エリンは衝撃的な物を、アシュリー公爵の胸元に発見してしまった。
「あっ……!?」
ビックリしすぎて、思わず指を差した。
あの丸いガラスの瞳の、ちょっと困り眉で、お腹にハートのある "甘えん坊" クマのマスコットがーー。
なんと、アシュリー公爵の胸ポケットから、顔を覗かせていたのだ。
アシュリー公爵はエリンに指摘され、初めてそれに気づいたようだ。
慌ててクマの頭をポケットに押し込んだ。
「あ、こ、これは、なくしてはいけないと思って、昨晩から……いや、僕もすっかり忘れていて」
真っ赤になっている。
いつも完璧で隙のないアシュリー公爵は、徹夜明けの疲れで隙だらけで、それがまた色っぽくも可愛らしくて、エリンの情緒は再びパンクしていた。
「あ、そ、その子は甘えん坊なんで、あの、喜んでるかも……」
何を口走っているのか、よくわからなくなっていた。
アシュリー公爵は「そうですか」と真面目に応えながら、クマが入っているポケットに優しく触れた。
これから仮眠を取るアシュリー公爵を、エリンはぎこちなく見送った後に……。
力が抜けて、その場にふにゃふにゃと座り込んだ。
「いやいやいや……あれは私じゃないからね??」
自分に似ていると言われた "甘えん坊" クマを、妙に意識してしまう己を戒めた。