10 仮病のエリン
エリンはアシュリー公爵との予想外の再会に衝撃を受けて、戯けた勢いのままつんのめって、あろうことか、アシュリー公爵の胸に飛び込んでいた。
(あ、思ってた以上に逞しい……それに良い香りが……)
という煩悩とともに、再び心臓が爆上げしていた。
「っちょわっ、すっ、すみません!」
慌てて胸板から離れて見上げると、アシュリー公爵も驚いてこちらを見下ろしている。
いつも距離が数メートルは離れていたので、こんなに間近で見つめ合ったのは初めてのことだった。
エリンの心拍は急上昇し、顔面は真っ赤になっていた。
するとアシュリー公爵の冷たいお顔は、いつもと違って憂いを見せた。
「顔が赤い……やはり熱があるようだ。ノエルから、エリン令嬢の体調が良くないと聞いた」
なんと。
ノエルは心配のあまり、自室に戻る前に公爵の書斎に立ち寄り、エリンの様子を伝えたらしい。
なんて優しい子だろうか。
アシュリー公爵がエリンの熱を計ろうとしたので、エリンは驚きのあまり、絨毯の上に散らばっていた折り紙を踏んでしまった。
後ろに引っくり返るエリンに素早く手を伸ばし、アシュリー公爵はダンスの決めポーズのように、背中と腕を支えて助けてくれた。
「危ない! 高熱でフラフラしている!」
「あ、いや、これはモンスター折り紙を踏んで……」
「意識が混濁しているじゃないか。ティナ。すぐにベッドの用意をしてくれ」
アシュリー公爵はそのまま力強くエリンの腰を持ち上げると、軽々と抱きかかえてしまった。
エリンはアシュリー公爵の体温とやたら高貴な香りに包まれたので、頭が沸騰してしまった。
(こ、こここれは、異世界のお姫様抱っこ!!)
間近で自分を見下ろすアイスブルーの瞳と目が合って、エリンは鼻血が吹き出しそうなほど、のぼせ上がっていた。
「病気ではなく、羞恥である」
と言い出せないまま……エリンはそっと、ベッドに寝かされた。
ティナは全部を見ていたはずなのに、しれっと看病の用意をしている。
さらに事もあろうか、アシュリー公爵にこんな告げ口をしたのだ。
「奥様は可愛いクマのぬいぐるみをご所望なのです」
エリンの(それ言うー!?)の無言のツッコミも虚しく、アシュリー公爵は目を見開いた。
「可愛い……クマのぬいぐるみ?」
そして、ソファーの上に置かれたクマのぬいぐるみに目が行ったので、ティナはさらに説明した。
「奥様はスン、としたお顔よりも、キュルン、とした可愛いお顔のクマをお望みなのです」
もう誤魔化しようのない、おかしな会話から隠れるように、エリンは掛け布団を深く被った。
実のところ、「お姫様抱っこ」だなんて刺激的なシチュエーションを喰らったために、エリンの脳はバグっていた。
てっきりそのまま、手でも握ってくれるのかと期待してしまったが……。
アシュリー公爵はエリンをベッドに置くと、律儀に数メートルの距離を取り、エリンの体に決して触れないよう、節度を守って会話をした。
(仮病のくせに、近くで看病してほしいなんて……甘えすぎよ)
エリンは己を嗜めながら、胸の奥に甘苦さが芽生える感覚があった。
思わず両手で胸を抑えるとーー。
アシュリー公爵は、血相を変えて声を上げた。
「胸が苦しいのか!? すぐに医者を……!」
ティナがピシャリと言った。
「恋煩いのようなものですよ」
絶妙に核心を突かれて、エリンはカーッと紅潮した。
アシュリー公爵は戸惑いながら、答えを導き出した。
「可愛いクマへの恋煩いか……」
何をどう解釈して納得したのか、アシュリー公爵は凛々しいお顔を毅然とさせると、こう提案してきた。
「君が望む可愛いクマが手に入るように、ぬいぐるみをゼロから作る。腕の立つ職人を呼び寄せて、どのデザインが君の好みなのか審査しよう」
(貧乏シンデレラの下克上か!!)
エリンは頭がクラクラした。貴族の贅沢な遊びにも、ほどがある。
この人はきっと、とても真面目で誠実な人なのだろう。
愛の無い契約結婚の義務を果たそうと、エリンの希望を全て飲む気のようだ。
アシュリー公爵はさらに内容を詰めている。
「上質な生地と糸……目の部分には黒曜石、いやブラックダイヤモンドか……」
「いやいやいや」とエリンは焦って、アシュリー公爵の壮大な計画を遮った。
「あの、まずは自分で作ってみようと思うので、茶色の安い布をひと巻きと、使い古した黒いボタンを何個かください」
アシュリー公爵は質素な要求に一瞬、抵抗を見せたが、エリンの目が強めに圧を掛けたので、ぎこちなく頷いた。
「わかった……。要望通りの物を、すぐに用意しよう」
アシュリー公爵は女性の部屋に長居しないよう、気を遣っているのだろうか。必要な会話だけ済ませると、エリンの部屋から出て行ってしまった。
ーー成りゆきとはいえ、クマのぬいぐるみを作る準備が整ってしまった。
エリンは感情のジェットコースターでぐったりしつつも、アシュリー公爵との思いがけない触れ合いと、クマ作りの楽しい予感にニヤけていた。
*・*・*
アシュリー公爵は珍しく、ひとり中庭で佇んでいた。
ここしばらく公爵家の引き継ぎで睡眠時間もろくに取れないような激務が続き、薔薇の花などまともに見たのは久しぶりな気がした。
「おや、アシュリー様。珍しいですね、お散歩ですか? あまり根詰めるとお体に悪いですから、良い事ですな」
執事が後ろから話しかけながら、近づいた。
だが、アシュリー公爵は一輪のバラに見惚れるように呆然としているので、執事は心配して隣に並んだ。
するとアシュリー公爵は、小さな声で呟いた。
「安い茶色の布に、中古のボタン……どう思う?」
「はて。なぞなぞでしょうか?」
「違う。あの契約妻が、俺に直接所望したものだ」
「それはそれは。また楽しい遊びの発明をしてくれるんでしょうね。ぼっちゃまも喜びます」
「侍女から、ドレスや宝石のために用意した生活費を全く使っていないと聞いている」
「はい。羊の胃袋と、色紙を購入しましたね」
「……いったい、何なんだこれは。……意味がわからない」
冷たく言い放つアシュリー公爵に、執事はつい、物を申そうと顔を見上げた。
すると公爵は、今まで見たことがない顔をしていた。
冷たかった顔は憂いを含んで、耳が赤くなっている。
アシュリー公爵が見つめる薔薇は、エリンと同じドレスの色をして、優雅に風に揺れていた。