聖なる夜に世界中を飛び回る君へ
彼女とクリスマスを過ごしたことがない。
そんな事を言うと驚かれるだろう。
クリスマスといえば、恋人たちと子供のためのお祭りではないか。少なくとも、キリスト教的宗教観がうすい日本ではそうだ。
なにも付き合ってから一ヶ月とか、想像上の彼女ですとか、そういうオチがあるわけではない。かれこれ、付き合ってから五年になる。
その五年間、ただの一度も彼女と聖なる夜を過ごしたことがないのだ。
僕だって楽しい夜を過ごしてみたい。そりゃ贅沢を言わなければいつだって楽しいが、クリスマスならではの雰囲気というものがあるだろう。でも、彼女はどうしても忙しいというのだ。十二月二十四日の夜から二十五日にかけて、彼女は目が回るほど忙しいらしい。
今年のクリスマスイブ。すなわち、二十四日の夕方から例年通り買い物袋をぶら下げて彼女の家を訪ねた。大寒波のせいで雪化粧された西洋風のこぢんまりとした可愛らしい一軒家である。
インターホンを鳴らしたものの、どうやら彼女はもうすでに出かけているようだった。例年どおりだが、クリスマスの浮かれムードもどこ吹く風で、相変わらず律儀な職業態度である。
いってらっしゃいも言えない彼氏なんてちょっぴり悲しい。思わず玄関でため息をひとつ。十二月の冷たい風が骨身にしみるので、とにかく合鍵で部屋に入る。
明日の朝、帰って来た彼女を慰労するために買い込んだ食材を、とりあえず冷蔵庫に放りこんで、リビングに向かう。
小さな炬燵がポツンと置かれた部屋だ。何時から彼女が居なかったのか、リビングは息が白くなるほどに冷え込んでいた。暖かそうだ、という理由で選んだはずのオレンジ色の炬燵布団が寒々としていて、どこか物悲しい。炬燵の上でみかんを掲げ持っている大黒様人形も寒そうだ。
手を擦り合わせながら炬燵のスイッチを入れて、そこに足を突っ込んだ。しばらく時間が経ち、足がじんわりと暖かくなって、ほう、とため息が出た。
たった一人の静かな時間がながれる。
世間のカップルたちはデートだ、待ち合わせだで、浮足立ったいい気分を味わっているに違いない。対して、僕は彼女の持ちの身でありながら、こうして一人で炬燵に入って、ぼーっとしている。
これは一体どういう事だ?
そもそも、彼女はなぜクリスマスの時期が忙しいのだろう?
長年疑問に――いや、五年の話なんだけど――思ってきたが、深くは考えないようにしてきた。突きつめて考えると、とんでもない結論に達しそうで怖かったからだ。
彼女に訊きたくもあったのだが「クリスマスは忙しいの、ごめんね」と困った顔で言われると、それ以上、突っ込んだ質問はできなかった。
しかし……いい機会かもしれない。
さしあたって今年こそは聞いてやろうと思ってはいるものの、どうして彼女が忙しいのか、じっくり考えてみるのも悪くない。
一人だし、彼女が帰ってくるまで時間はたっぷりある。
まず状況を整理しよう。
彼女が忙しいというのはクリスマスの時期だけだ。普段はあっちこっちでアルバイトをしているのだが、忙しいとは言ってない。僕は普段仕事が忙しいと言いまくってるが、彼女が忙しいと口に出す時間は計ったようにこの時期だ。仕事は基本的にイブの夕方からクリスマスの早朝まで。早朝というのはだいたい午前五時半ぐらい。
しかし、そんな特定の時期、時間が忙しい職業なんてあるだろうか? それ以外は比較的ヒマな職業……しかも割と高給な職業。いつだったか給料について訊ねたとき、夜勤帯の勤務であるにしてもケタが一つ違うのではないか、と思ったことがある。正直、短時間、高給なんて都合のいい仕事があれば、是非にでも代わってほしいものだ……って、そんな事考えてる場合か。
ただ、毎年の話だ。狙ったようにクリスマスの時期。僕だって仕事の都合によればクリスマスが忙しくなる年もあるが、流石に毎年ではない。年の瀬の忙しさはあるにしてもだ。
彼女がどんな職場にいるのかはわからない――聞いてもはぐらかされるだけなのだ――が、毎年毎年……だれか彼女と代わってくれる仲間はいないのだろうか?
もしかして彼女は職場で孤立しているのか、といらない心配が頭をよぎった。でも、彼女は人あたりもいいし、職場の愚痴すら聞いたことないので、まさかそんな事はあるまい。
ふむ……どういうことだろう? じっくり考えるとますます分からなくなるぞ。
あれだろうか、本当はクリスマスが嫌いで遊びたくないのだろうか。
厳格な仏教系の家系とか? そんな話、彼女から聞いたことがないけれど……。
いや、それは少しおかしいか。その他のイベントは積極的に仕掛けてくるもんな……。ハロウィンとかバレンタインとかは全然オッケーな感じだったし。
あれこれ考えながらも僕はキッチンに向かい、料理の下ごしらえを始める。少し早いがあんまり遅くにやるのも体力的にしんどい。さっさとすませてのんびり考え事をしながら彼女の帰りを待とう。
冷蔵庫に放り込んだ食材を取り出す。彼女は料理が苦手なので、付き合うまでは大したことがなかった僕の料理の腕は飛躍的に上がった。
寒い外から帰ってくる彼女のために、二十五日の朝は暖かい料理を食べるのが僕らの習慣なのだ。今年は鍋。朝から食べるには少し重いが、まぁいいだろう。
昆布とカツオ節で出汁を取り、魚を捌き、鶏肉の脂肪をそぎ落とし、鶏豚の合い挽き肉を肉だんごにまるめ、野菜をざく切りに、豆腐を四つ切りに。てきぱきと下ごしらえを続け、後は鍋に入れて火にかけるだけだ。
気が付くと外はすっかり暗くなっていた。
おお、料理に集中するあまり時間の経過がわからなかった。それに料理のことしか考えていなかった。やれやれ。
リビングに戻って炬燵に入る。台所作業で冷え切った足元がじんわり暖かくていい気持ちだ。ふと窓の外を見ると雪がちらつき始めていた。暗いからよく見えないが、けっこう降りそうだ。もしかしたら、さらに積もるかもしれない。
今年はホワイトクリスマスになりそうだ。
そこで、僕は天啓的な閃きを得た。
……待てよ。あるぞ、イブの夜と当日の早朝が忙しい職業が。いや、職業と言っていいのかよくわからないが、子供達に夢を与えるあの仕事がある。
ありえない思いつきだ。幻想的な雪の光景と彼女がいない寂しさが僕の脳をふらつかせているに違いない。
しかし、そんな事を思う僕の常識とは裏腹に、妄想は広がる。
いつだったか、彼女は木で作られた『何か』を磨いていたよな……何をやっているのかは気になったが彼女が必死で隠そうとするので――全く隠せていなかったけれど――僕は追及をやめたが、あれはもしかすると『そり』ではなかったか。本格的な木製のそりなんてお目にかかったことがないから、あの時はよくわからなかったが、あの流線的なフォルムはやはり『そり』なのでは?
それに彼女は大黒様が好きだ。この炬燵の上でみかん置きになっている大黒様人形だって彼女の趣味なのだ。若い女の子が大黒様って、という気がするが、彼女は「親近感がわくの」と言って、この人形を大事にしている。大黒様といえば大きな白い袋を背負っている姿で有名ではないか。もちろんこの人形も白くて大きな袋を背負っている。
極めつけに彼女は赤い服を着ない。しばらく前、買い物に行った時、彼女に似合いそうな赤いニット帽を見つけ、それを勧めて見たのだが彼女は微妙な顔でそれを断り、無難な茶色い帽子を選んだのだった。もしかして赤は仕事着なのでは?
……まさか、そんな馬鹿な。ありえないだろう。いくらなんでもそれはない。クリスマスが忙しい彼女がいるからってそれはない。
クリスマスに彼女のいない部屋で一人で考え込んでいる、さみしい彼氏のおかしな妄想だ。
そうに違いない。
玄関の方から物音が聞こえてきて、ハッと目が覚めた。炬燵の天板にくっついていたほっぺたがめちゃくちゃ冷たくなっている。長々と考えごとをしていて、いつの間にか眠りこんでしまったらしい。
腕時計をみると午前五時だ。今年は帰りが少し早い。
「おかえりー」
僕は欠伸を噛み殺し、玄関に向かって間のびした声をかける。
「あれ? 起きてたの? いや、起こしちゃったのかな」
リビングに入って来た彼女は僕を見て申し訳なさそうに笑った。
そして、僕は……。
僕は彼女の正体を知った。
「……どうしたの? なんか、驚いた顔してるけど」
彼女は首を傾げながら問いかけてくる。
僕は驚きを飲みこんで、彼女に教えてあげた。
「角……しまい忘れてるんじゃないかい」
マフラーとコートを脱ぎかけていた彼女はハッとした表情で自分の頭上に手をやった。そこには立派な枝角が生えている。どう見ても作り物ではない、迫力のある角が。
「あ、う、これは……!」
後ずさってバタバタ手を振りながら慌てふためく彼女を見て、微笑ましく思う。
「ち、違うの! これはその……!」
「寒かったんじゃない? 鍋の用意するから、とりあえず炬燵で温もりなよ」
僕は笑う。そんな僕のようすを見て、緊張でこわばっていた彼女もゆっくりと安心したかのように微笑んだ。頭の角に手をやってもじもじと照れる彼女は可愛い。
炬燵から出て、キッチンに向かう。途中で彼女の肩に手を置いて炬燵へと促した。
彼女の鼻は寒さのせいか、恥ずかしいのか、薄らと赤くなっている。
僕はクリスマスに世界を飛び回るという大仕事を終えた彼女をねぎらった。
「お疲れさま、赤鼻のトナカイさん」