■《1》泣いていた子供
泣いている子供がいた。あまりにもその泣き顔が可愛かったから、もっと泣かせたいと思った。後になって思えば、好きな子ほど虐めたいという感情に近かったのかもしれない――と、サンジェルマンは、考える事がある。
五・六歳のその子供は、その日、サンジェルマンが通り掛かった、非公開学園都市の片隅で、膝を抱えて泣いていた。非常階段の一番下に座っていた事を、覚えている。何故、泣いているのか。聞いてみようと思ったのは、フォンスを読み解こうとした時に、不思議な声が聞こえたからだ。――大丈夫、梓は何も悪くない。
結城梓という子供の名前を脳裏にメモしてから、サンジェルマンは容姿を変えた。同世代の少年の姿を取り、出現させたサッカーボールを宙で蹴る。目的である少年の目の前に、無事にボールは転がった。
「――結城?」
さも知っているという風に声をかけた。
「泣いてるのか?」
「……」
「俺の事、分かる?」
「……」
「同じクラスの青海だよ」
そうサンジェルマンが口にした時、それは事実になった。新たな戸籍が自動的に生まれ、在学が決まり、世界貴族使用人連盟が認める所の、新しい日本国籍を得た。その敷地内にいた人々の記憶も、自然とフォンスで塗り替えられた。青海という名は、たまたまその時、学園内に備品の届けに来たトラックの車体に描かれていた言葉であり、サンジェルマンにとって、特に意味のある名では無かった。そのように作った戸籍を、彼は山のように保持している。
実を言えば青海は、誰よりも世界貴族らしい貴族だった。貴族だからこその配慮で、貴族同士の付き合いの中では、そうとは気づかせない事も多々あるが。
「どうして泣いてるんだ?」
「……泣いてない」
「ふぅん。じゃあ寝てたのか? 寝言で『凛』『凛』って言ってたぞ」
「っ」
青海が読み取った響いてきた声の主の名前――それが、凛だった。
名前を出すと、結城梓の思考が読み取れた。双子の兄であり、天使の声――亡くなっている。そんな理解だった。実際には、生きていると何度口にしてはいても、この頃の結城は、兄の死を受け止めようとしていたのだろう。
「そろそろ昼休みは終わりだし、教室に行くぞ!」
努めて明るく、陽気で快活な少年を装い、青海は手を伸ばした。梓が驚いた顔をしたが、気にしない。静かに伸びてきた小さな手を見て、青海は愉快な気分になりながら、その手首を握って、強引に立たせた。
これが出会いだ。その後、結城梓という子供は、中学生になり、少し大人びた顔をするようになった。暇な授業中、近隣の席で、もっぱら青海は、梓を眺めていた。柔らかそうな髪の毛をたまに触ってみたいと感じている。
昼休みになると、梓は決まって屋上へと向かう。そこで、『凛』と話しながら、簡素な昼食を一人で口にしている。何度も青海はそれを見に行き、梓が落ち着いた所を見計らっては、顔を出した。そして……虐めるのだ。
「凛ていうお兄さんは、死んだんだろ?」
「――凛は、生きてる」
「心の中で、か? 俺はそれを、生きてるとは言わないと思う。心臓は止まってるんだ」
屁理屈を唱える。本心としては、誰か一人にでも覚えてもらえているならば、それはあるいは死では無いだろうと、青海は考えていたが、口には出さない。泣きそうな顔になった梓は、拳を握って震えていた。もっと虐めたくなる顔をしている。
――この頃には、青海は、凛が実際に生きていると把握していた。
深い深い海の中の、鳥籠のような場所にいるらしい。ギルベルトが、その少年に、何らかの用があるらしい事も聞いていた。そのため、都合が良いからそのまま『監視』しろと言われた。結城梓は、想像していたよりも、多くの人間の観察対象だったらしい。
青海には、監視をしているつもりは無かったが、都合が良い隠れ蓑であるから、二つ返事で引き受けた。ただ後に、ギルベルトが凛を会わせたいと言ってきた時には、徹底的に邪魔をした。会わせてしまえば、兄を思って泣く顔が、見られなくなってしまうと思ったからだ。だから時を経てからギルベルトは、琉唯に打診したのだが、その際は、青海も止めなかった。理由は純粋に、琉唯の爵位が自分よりも上だからである。
転校する事が決まった時、一度離れるタイミングが訪れた。しかしながら、青海は離別の選択をする事をせず、二次性徴を始めたばかりの体を形作っては、梓について新しい学校へと出かけた。
梓は、決して青海を好きではないようだったが、心細さからなのか、初日は何度も青海を見た。しかし青海は、級友達とすぐに打ち解けて見せた。打ち解ける相手は、選んでいたが――そう、世界貴族や華族に無関係の独立派ばかりと話していた。それは青海自身が、今後貴族や華族を任命するにも丁度良かったからでもあったが、一番は、梓の泣き顔を見たかったからだ。既に名のある華族として扱われている梓は、青海達の輪には入ってこられない。さて、今度はどこで泣くのだろうか。そう考えながら、青海は梓を眺めていた。
しかし子供は少しだけ大人になったらしく、泣くのではなく環境に適応した。次第に日本華族という概念が確固たるものとなり、誰もが傅くように変わった社会において、梓は結城家の時期当主として、堂々と前に出たのである。
心を少しだけ閉ざし、優しさを少しだけ捨てて、時に非情に、冷酷に、梓は生活を送るようになっていった。青海は、ただそれを眺めていた。既にクラスにも学校にも、二人が過去にも、同じ学び舎にあった事を知る者は、教師しかいなくなっていた。それが面白くて、ある日の放課後、わざと人前で、青海は声をかけた。
「結城、帰りに出かけないか?」
華族派が騒然となった。青海の前に立ち、梓を守るようにしながら、糾弾の声を上げる。誰ひとりとして、青海が世界貴族だと気づいている者はいない。誰かが青海の首元のシャツを握った。殴られようとしている――そう理解し、青海は相手の力量を観察する。結果、大した被害にはならないだろうと判断し、後でその家は取り潰せば良いと考えた。
「止めろ」
しかし――梓が静止した。この頃には、まだ頭角を表す前であり、梓は周囲に守られていたのだが、この時は、明確に『命令』をしていた。華族の少年の動きが止まる。
「青海、俺に近づくな」
すれ違いざまに、梓はそう口にして、その場から歩き去った。それが不快だからではなく、青海の事を思っての言葉である事は明確で、見送りながら青海は思わず俯いた。守られる事を望んでいた子供に、守られた感覚だった。弱者が強者を守ってならない理由は無いが、この時の青海には、梓の優しさが何故なのかあまり面白くなかった。
「近づくな、か」
ならば、最大限に距離を取ろう。そう決めて、世界貴族と名乗らぬままで、独立派のリーダーまで上り詰めた。簡単だった。頭で念じるだけで良い。熱血的な正義感に溢れた、若き天才。実力でここまで来た――呼吸した瞬間には、周囲がそう認識するようになった。その立ち位置を楽しみながら、青海は梓を見ていた。梓は、ゆっくりと、だが着実に華族派をまとめ上げようとしていた。
これもまた、あまり面白くはない。成功しそうになるのを見計らい、間接的に日本華族を動かして、華族派で反乱を起こさせる。すると失敗した梓が、時々苦しそうな顔をした。常に見たいと考えている泣き顔に近い。他にも、梓が独立派に歩み寄ろうとした時には、暴行事件を起こさせた。何もかも、上手くいかない――結城梓は、そう思ったはずだ。
いつ挫けるか、楽しみにしていた頃――フォンスを感じ取った。隣のクラスに、厄介な事に世界貴族がやって来た。高杉蓮と名乗っている。あちらは青海には気づいていない様子だ。それだけ、青海の隠蔽は、完璧だった。




