人間であることにどんな価値がありますか?
自分は人間であるという思い込みこそ、人間の価値なのか。
別に最近になって始まった議論ではないのだけれど、人工知能(Arificial Intelligence)と人間の関わり方について耳にすることが多くなった。生成AIの普及やら何やらで、広く一般の人がAIに触れる機会が増えたことが一因と思われるのだけれど、AI普及による危機の一つとして昔から言われていることがある。AIに人間の仕事が奪われるというものだ。私なんかは人間は仕事から解放された方が良いと思っているので、何が危機なのかピンと来なかったのだけれど、要は食い扶持が奪われることへの危機感のようだ。
社会から人件費が浮いた分だけ、人が働かなくても生きていけるようにベーシックインカムのような形で再分配すれば問題は解決されると考えたけれど、確かに現代の人間の性根を目の当たりにすると、浮いた分は偉い人たちの懐に収まって、仕事を奪われた人はそのまま放っておかれそうだ。少なくとも今後100年くらいは人間にとって受難の時代になる予感がある。
さて、近ごろ俎上に上げられているのが、AIの芸術方面への適用についてだ。絵や音楽にAIが活用されることへの拒否反応のようなものが出ているように思われる。人間ではない、機械のような存在が作り上げた絵や音楽が果たして芸術と呼べるのかという問題意識。
出来上がった作品に感動するかどうかが大事なのであって、それが人間の手によるものであろうが、AIが生成したものであろうが関係ないというのが個人的な感覚。大体、これまで生きてきた中で接してきた芸術作品にしても、それらが作り出されるところを自分で見たわけではないでしょうに。案外、昔から名作として多くの人を感動させている作品も、実は古代から存在する人ならざるものの手によるかもしれないわけで(SFチック!)。
何が言いたいかというと、何故、人間であることに価値を置いているだろうかということ。AIには魂がない、AIの作る作品には心が篭っていない、なんて言う使い古された、紋切り型のフレーズもありますが、それって、人間に魂や心があるのかという問題と同じだと思うわけです。存在するかどうかも分からないようなものを尺度にして、人間とAIを区別するっていうのはどうも座りが悪いと感じるのです。
ただ、確かに存在すると言えるものがあるとすれば、それは自分が人間であるという思い込みに他ならない。思い込みって人間に特有のものだと思うのです。事実の観察と理屈に基づいて思考するAIが持ち得ないもの、何の根拠もなく、自分の感情で物事を決めつける思い込み、これこそ人間の特権なのかもしれない。自分が人間であること、人工的に作られたものとは違う尊い存在であるという思い込み、これこそ人間が必死に守ろうとしている存在価値なのだとしたら、何だが悲しい話です。そんなものを守る必要があるのか、人間であることにどんな価値があるのか、それを考えることがこれからの人間の主要なテーマかもしれません。 終わり