No.2
よろしくお願いします。
「サレン…」
何の気負いもなく隣にやってきた義弟に、思わず安堵の溜息が漏れそうになった。だが、今は緩んだ表情を見せていい場面ではない。必死に表情を取り繕うと静かに焦る私に気づいたのか、サレンは可笑しそうに片眉を上げた。流石、学園に入学する前からの仲だけあり、サレンにはこれくらいお見通しのようだ。
「随分お疲れだね」
そう言って、髪型が崩れないように配慮をしながらも、労わるように髪を撫ぜてきた自分よりも大きな手。出会った当初は、手の大きさは勿論、身長も、立場も何も違いはなかったというのに。人生というのはままならない。
「姉さん、大丈夫?」
サレンが私のことを「姉さん」と呼ぶとき、いつも少しだけ声が揺れる。最早、癖にでもなってしまっているのだろう。カルマス家に養子として入ってきたときからの小さな違和感が、今では耳慣れたものになっている。本人さえも知らない、サレンの癖。
「おい、サレンヴァーノ・・・ッ!ルアリナは、僕と話しているのだ!!邪魔をするな…ッ!!」
アルマス達の存在も、大広間の異様な空気も。全てを華麗に無視して私に話しかけるサレンの態度は、当然アルマスの怒りに触れたようだ。
「で、姉さん。アルマスと婚約破棄するの?」
サレンの背後で怒りのあまり顔を真っ赤にして、怒りに震えるアルマスの様子が見える。そんなアルマスの様子などものともせず、サレンは私に返事を促すかのように小さく首を傾げた。サレンが来てくれたことで安心したのも本当だが、見事に火に油を注ぐ結果になってしまっているのだ。ため息が堪えきれなかったのも仕方がないと言えるだろう。
「私に決定権はないわ」
その言葉に不愉快そうに顔を顰める義弟。アルマスはと言うと、私の言葉が殊勝に婚約破棄を受け入れる同意の言葉に聞こえたのか、ニヤニヤと得意げな顔を隠そうともしない。
「ご存知だとは思いますが、勿論殿下にも決定権はありませんよ?」
「は……?」
「何を今更驚いていらっしゃるのですか?私達の婚約は王命。婚約破棄をするならば、それ相応の理由で国王陛下を納得させなければなりません」
「だ、だが、ルアリナの悪事を知れば、きっと国王陛下もこの婚約破棄に同意してくれるに違いない…!」
隣のサレンがアルマスの発言に半眼になった。折角の端正な顔が勿体ない。とは言っても、今の表情でさえ顔立ちの良さを消すことが出来ないのだから羨ましい限りだ。
「アルマス、姉さんの発言を聞いてた?姉さんは、一切そこの女に手を出していない」
「なッ・・・!?メアリーを疑うというのか!?」
「いや、疑うも何も…。分かった。そこまで言うなら、勿論姉さんの悪事の証拠はあるんだよね。国王陛下をも納得させるだけの、決定的な証拠が」
呆れを隠そうともしない態度から一変、何処か苛立ちの滲んだ声でサレンが問う。そんなサレンに対して、誇らしげに指を突きつけるアルマス。
「当たり前だ!先程もメアリーが言ってくれていただろう!彼女の証言こそが、ルアリナの悪事の動かぬ証拠だ!!」
そして、更に静まり返る大広間。アルマスの態度を見る限り、きっと本気で言っているのだろう。本気で、対して身分も高くなければ、最低限の礼儀すらなっていない令嬢の発言が、王命に敵うと思っているのだ。この男は、私自身が思っていたよりも遥かに
「馬鹿なの……?」
ビックリした。心の声が漏れたのかと思った。幸いにもサレンの呟きはアルマスの耳には拾われなかったようで、誇らしげにこちらを睨みつけている。
「姉さん、これじゃあ埒が明かない。さっさと婚約破棄しな?」
「……そういうわけにはいけないわよ」
婚約破棄したいのは山々だが、自分たちの気持ちだけで破棄出来るほどこの婚約は軽くない。だが、苛立ちが滲んでしまった私とは反対に、サレンは柔らかな笑みを溢した。
「大丈夫。ほら、これ読んでみて」
サレンが胸元から取り出したのは一枚の封書。封蝋の印は王家のものだ。訝しみながらも中の手紙を取り出し読み進める。
「……えっ」
書かれていた内容に、頭が真っ白になった。小さく震え出した手から抜き取られた手紙は、再びサレンの手に戻る。
「アルマス、婚約破棄に必要な書類はこちらで用意してある。迅速な記入をお願いしても?」
「あ、ああ!もちろんだ!頭でっかちで高慢な悪女から解放されるなら、これくらい喜んで記入してやるさ!」
アルマスの暴言に眉を寄せたものの、何も言い返すこともなく書類の記入を急かすサレン。書類の記入を終えたアルマスは、嬉しそうにメアリーを引き寄せる。その様子を、私は回らない頭でぼんやりと眺めることしかできなかった。
「姉さん?ほら、大丈夫?」
アルマスが記入した書類を差し出されても動くことが出来ない私。サレンは何かを言いかけた口を閉じると、苦しそうに微笑んだ。
「さっきの手紙の内容、気にしなくてもいいから」
ほら、そう言って差し出されたペンに、ようやく手を伸ばした。記入漏れがないことを確認した書類は、いつの間にか近くに控えていた王家付きの騎士に渡された。今日中に婚約が破棄されるよう、サレンが控えておくように頼んでいたそうだ。
「アルマス様、メアリー様。別室に移動願います」
別の騎士がアルマスたちに声を掛ける。警戒を滲ませる二人に、サレンが笑顔で大広間の扉を示した。
「婚約の手続きなどがあるんじゃないですか?お二人の門出に幸多からんことを」
上手く煽て挙げられたアルマスたちは、騎士の後を何の疑いもなくついていく。その様子を、サレンは歪んだ笑みで見送っていた。
「ざまぁない。姉さんを、……ルアを蔑ろにした罰だ」