わくわく悪役令嬢ディストピア
コポポ、とコーヒーが注がれる音がする。
ここは特等市民の居住区、私ことダリア・ミスティアに与えられた私室だ。
ホームアシスタントが用意してくれた朝食を口にする。両親はいない。
「パン少なくない?」
『ダリア様は昨日娯楽食を基準量を超えて喫食されました。健康管理の面から、本日の朝食から炭水化物を減量させていただきました』
「なるほど」
やけ食いくらい許してほしい。
だって、昨日私は、突然ダリア・ミスティアに「なった」ようなものなのだ。
かいつまんで説明させていただくと。
過労で倒れて、気がついたらディストピア系乙女ゲー「管理社会で恋をして」のライバルキャラ、若き特等市民ダリア・ミスティアになっていたのだ。
ディストピア系乙女ゲーに悪役令嬢転生って、それありかよ。
『昨日ダリア様に起こった出来事は、決してダリア様のせいではございません。ヤケは起こしませんよう、申し上げます』
「でも今までのダリアは、たぶん、昨日、死んだよ」
『部分的に承認されております。ダリア様のアイデンティティについて、過去の情報と同一性が保たれていないことを確認済みです』
「……特等市民ですらなくなってしまうかな」
『ご安心ください。ダリア様は昨日帰宅後のテストで951点を獲得されております。特等市民権は保証され、保障されます』
「そう? ありがと」
ダリアの全てが失われたわけではない。その知識、才能、記憶については十分な状態にある。ただ、そこにたまたま、過労で死んだらしい有田未智が入り込んだせいで、アイデンティティの保存性が失われているんだそうだ。
玄関先で鏡を見る。結い上げられたストロベリーブロンドのシニヨン、アーモンド型の凛々しくも美しいビターチョコレートのような瞳。昨日までのダリアと寸分違わぬようにしか見えない、私。
『行ってらっしゃいませ』
「いってきます」
——そんなダリアが、唯一本当に失ったもの。
ルイ・リーンゲルトとの婚約関係、だ。
一等以上の市民は配偶者選択権すらある。一等以上の市民同士であれば、自由に交際し、マザーシステムに推奨された相手以外を選ぶことも可能なのだ。
ダリアはシステムから交際相手の推奨を受ける前に、互いの両親が配偶者を決めてしまった。ダリアはそれでよかった。
そもそもルイは優秀な人材だ。頭脳明晰、成績優秀、身体のバランスも良い。外見も評判が高く、申し分ない相手だ。誰にも話していなかったが、彼の外見……美しい黄金の頭髪に、とても美しい緑色の瞳も、好ましく思っていた。
良き相手、よく見知った者と結婚し、一緒に子をデザイニングし、仲良く暮らす。ダリアにとってはそれでよかった。それは理想の人生ですらあった。
ルイは、そうでなかったというだけだ。
——思えば、以前からおかしなところは多々あった。
数ヶ月前のある日、若年市民教育局のラウンジで、ダリアはルイが二等市民のヘレナ・フランベルジュに手ずから特等市民用娯楽食を与えているのを見た。
特等市民の間で話題の、体内ナノマシンに作用して美容効果を発揮するという成分が配合された、果物の味がするという触れ込みの菓子だ。
ヘレナは愛らしいふわふわのダークブロンドを揺らし、青い瞳を喜びに潤ませながら、とても幸せそうに食している。
「ルイ様。何故フランベルジュ二等市民は、特等市民用娯楽食を召し上がっておられるのですか?」
「我々の関係に口を挟まないでくれ、ダリア嬢」
「お言葉ですがルイ様」
二等市民は、申請なく一等以上の市民用食物を食べると、ペナルティとして体内のナノマシンが人為的に体調不良を引き起こす。
ダリアは、ただ、それを黙って見ていられなかった。そういう性分だった。
「申請なくして、特等市民用娯楽食を二等市民が喫食することはできません」
「君は差別的な人間なのだな」
「差別ではありません。ただ、許可なくしては、」
「許可だと。そんなものは不要に決まっているだろう」
「ふ、フランベルジュ二等市民がどうなってもよろしいとおっしゃるのですかっ」
「っ……君という人間は、」
ダリアにとっては常識だ。今考えると私にとっても常識だった。だから、ルイがそれを知らないなんて考えもしなかった。
「ルイ様、わたし、怖いです」
「私が守ってやろう。恐れることはないよ」
「お守りになりたいのでしたら、一刻も早く申請をなさってください」
「君は愚かだな」
「……忠告は致しましたので」
そう、きっと、二人とも知らなかったのだろう。
ダリアは彼らと別れた後、自分の名前でそれを申請した。ペナルティが発動する前に、薬が間に合えば良かったのだが。
そう簡単に行く問題でもないらしかった。
翌日、ダリアはラウンジでルイに呼び止められた。
「ダリア嬢。ヘレナの元に君の名義でカプセルが届いたと聞いた」
「ああ、よかった。フランベルジュ二等市民のお身体の調子はどうです」
「おかしなことを」
ルイはふ、と鼻で笑っていた。綺麗な顔が侮蔑と嘲笑で美しく歪む。うむ、今思い出しても顔がひたすらに良い。凄くいい。ずるい。
「君が毒を盛ったのだろう」
「盛るわけございません。私の名義で申請いたしましたから、私の名で抑制剤が届いたまでです」
「抑制剤?」
怪訝な顔。本当にペナルティのことを知らなかったとしか思えない反応だった。
「ははあ、君も女ということか。自分以外の女が美しくなるのは相当嫌と見える」
「何をおっしゃっておられるのかわかりかねます。カプセルはきちんとお飲みになられたのですか?」
「ホームアシスタントに強く勧められて、渋々飲んだと言っていた」
侮蔑が強くなる。睨みつけるように彼は話す。ダリアはどうして睨まれているのか、多分わからなかっただろう。
今ならわかる。ルイの「おやつイベント」だ。
主人公が貰ったおやつを食べた夜に、ライバルのダリアからカプセルが届いて、飲んだ後、体調が悪くなる。ルイは主人公をとても労ってくれて、急速に仲が良くなる。ってやつだ。
「飲んですぐ、一時的に体調が悪くなったそうだ。まあ、直ぐよくなったと言っていたよ」
「直ぐですか、抑制剤が効いてよかったです。今は?」
「君にとっては悲しいことだと思うが、幸いにしてとても元気だよ」
「なぜ悲しく思わなければならないのです。すべての市民の幸福は、上級市民の共通の幸福です。あなたもそうでしょう」
「自分でわからずやっているのなら、君は本当に愚かだよ」
侮蔑の色がさらに濃くなる。美しい緑の瞳を縁取る瞼が歪む。
「本当の愛を知らないというのは、哀れなことだね」
本当に愛する相手を、わがままで傷つけてばかりで、守ることすらできないのですか。と、言えたらどんなによかったか。
私は今、愛していたつもりの相手に蔑まれて、とても辛いです。と、言えたらどんなによかったか。
それでもダリアは放って置けなかった。
ヘレナに「同じご飯を食べよう」と言い出したルイの代わりに抑制剤を申請しては同じように蔑まれ。
ヘレナが「夜空を見たい」と言い出して二人で勝手に上に出てしまった時も、裏から手を回してヘレナの分の宇宙線被害の治療システムを用意しては、またお前のせいで体を悪くしたと言われ。
私は心から思った。ヘレナの自業自得じゃねーかと。
それでもダリアは昨日まで、ルイを好きでいたのだ。ヘレナを愛しているルイでも、ちゃんと、好きだったのだ。
だからルイに愛されているヘレナを守りたくて八方手を尽くし——なぜかルイに勘違いされてばかりいた。
今なら、私なら分かる。ゲーム内で見覚えのある言動は全て、全くの逆の意味を持って発せられていたのだと。
だから昨日、あんなことになった。
ラウンジで、皆の前で、「お前にはほとほと失望した。お前との婚約関係を解消するよう両親に伝えておく」と言われた。「私が愛するのはこのヘレナだけだ。私はヘレナと結婚する。貴様とは二度と関わりたくない」とも。
——ヘレナを守れないくせに。
ダリアは失意の中、有田未智を思い出した。
有田未智は、私は、急速にダリアであったことになり、ダリアは急速に有田未智だったことになった。
ああ。もっと早く思い出せていれば、もっと上手く立ち回れたかもしれないのに。全て後の祭りだった。
通常ルイのルートシナリオでは、ルイがダリアをこっぴどくフり、ダリアはショックでテストで失敗し、三等市民になり、ふたりとは離れた人生を送ることになるというオチだった。
ところが私は私になり、私は昨晩のテストを無事パス。今日も今日とて教育局に向かっている。
ラウンジに座る少女の青い瞳が見開かれた。ヘレナがたいそう驚いている。
「ど、どうして」
「どうして、とは?」
「その、……どうしてテストを失敗していないんですか?」
「失敗する方が嬉しかったですか?」
「い、いえその、それは……今まで嫌がらせを受けていましたので、失脚を望むのは当然ではないかと……」
「ルイ様からの嫌がらせのことですか?」
驚いて問いを向けるヘレナに、しれっと回答を示す。お前に嫌がらせをしていたのはルイの方だぞと暗に示しながら。
「ど、どうしてルイ様が嫌がらせをしていることになるんですか?!」
「特等市民用娯楽食を喫食させてペナルティを誘発して、貴方を害そうとしていたじゃありませんか」
「そんなはずありません! そんな……そんな設定、」
設定。設定ときたか。
つまるところこの子も転生なのだろう。確かにそんな設定はなかった。そんな設定は。
とはいえ彼女はこちらが転生だということは知らないだろう。適当にダリア視点としての話を終わらせて教育室に行こう。
「ルイ様に婚約を破棄され、今後関わらないようにと申しつけられましたので、代理申請は今後一切できません。辛いかとは思いますが、きちんと行動前に申請をしたり、早めに一等市民になるなどして、頑張って生き延びてくださいね」
「……は、はい……」
不可解そうな顔のヘレナを置いて去る。
ペナルティの設定は、確かになかった。
ヘレナになった誰かは知らないのかもしれない——「管理社会で恋をして2」では、一作目から数年しか経っていないにも関わらず、ヘレナはこの世の人ではなくなっているという事実に。
今やペナルティの存在を知っている私は、ヘレナの死因がわかる。ほぼ間違いなく、ペナルティによる遠回しな死刑だ。回避するためには、特等市民に許されているあれこれを無許可で行うことをやめるか、一等以上の市民になるかどっちかしかない。
「貴様」
「どうしましたか、ルイ様」
廊下を移動中、昨日ダリアをフったばかりのルイが話しかけてくる。その顔には怒りが滲んでいる。
「昨日あれだけ言ったにもかかわらず、またしてもヘレナに差別的な発言をしたそうだな」
「差別? 私は彼女に身を守れと言ったまでですが」
「申請をしろ、さもなくば一等市民になれと言ったそうじゃないか」
「そうですね。勿論私は今後一切お二人のお邪魔も手助けもいたしませんからご安心ください。では、私はこれで」
「逃げる気か」
「いいえ。私は昨日、ルイ様がおっしゃったことを守っているだけですよ。では、お元気で……さようなら」
私はダリアになったのだ。
ダリアが信じたルイを信じよう。「その程度のことすらわからないお人ではないのだから」という、ダリアの信じたルイを、いい意味でも悪い意味でも、最後まで信じよう。
例えそのせいでヘレナが死んだとしても、私のせいではない。私は関わっていない。私の知ったことではない。
どんなに心苦しくても。ダリアは最後までルイを信じているのだから。
翌年。
『未智様』
ホームアシスタントが、コーヒーを机の上に運搬しながら神妙そうな声で話しかけてきた。
「ダリアで構いません」
『いえ、ダリア様ではなく、未智様への報告になります』
「……なに?」
『ヘレナ・フランベルジュ二等市民がお亡くなりになりました』
コーヒーを飲もうと持ち上げた手が止まる。
「そう……念のため聞きたいんだけど、原因は?」
『ペナルティによる死刑です』
「そう。ルイ氏は?」
『ルイ・リーンゲルト特等市民個人の行動としては、一連の刑執行プロセスをダリア様の陰謀であると吹聴し、市民の皆様から非難の声を受けておりました』
「そう」
改めてコーヒーを啜る。香ばしくやや甘酸っぱい香りが鼻を通り抜けて行く。
「葬式があるなら出席入れといて」
『畏まりました』
コーヒーの香りの溜息を、そっと、かつゆっくりと吐く。
関係ない、私の知ったことではない——とはいえ、少しだけ鼻の奥にツンとした痛みが走った。目も少しだけ潤んでいる気がする。
柔らかく毛の生えそろったねこの手アームが天井から降りてきて、ポフポフと優しく頭部を撫でた。
前を向き、コーヒーをもうひとくち啜って問う。
「ところで、さっきの話さ。私の市民生活に影響ありそう?」
『ご安心ください』
上ずったような、人間ならばドヤ顔をしていそうな声でアシスタントが話す。人間の感情活動に協力的な特等市民向けアシスタントらしい振る舞いだ。
『ヘレナ・フランベルジュ二等市民の共犯者としてルイ・リーンゲルト特等市民が挙げられており、彼は近々特等階級の剥奪となる予定です。既に彼との婚約関係は切れておりますので、ダリア様には全く問題ございません』
「……そう」
コーヒーを置いた。見通せない深い黒を見つめる。
「私の結婚、どうなるのかな」
『ご安心ください。システムからの推薦人材は未婚のままダリア様をお待ちでしたので』
「ほんと? それは、まあ、嬉しいかも」
『お会いになりますか?』
「うん、テキトーに会食予定いれといて」
『畏まりました』
ストーリー期間が終了して。
私の人生は、まだまだこれから、ってところだ。