後編
アポトーシスという言葉がある。
一応、学術用語の一種かもしれないが、この言葉を俺が知ったのは、生物学の教科書からでもなければ、そうした分野に詳しい友人の話からでもない。テレビで放映されていたロボットアニメの中で、出てきたのである。
そのアニメでは、主役ロボが発進する際に「アポトーシスのパーセンテージが‥‥‥」という台詞が頻出していた。まあ「エネルギー充填120%!」みたいなニュアンスに聞こえたものである。特に、作中では『ネクローシス』という言葉と併用されて、その対義語であるかのように扱われていたので、余計そう感じてしまった。
もちろん『ネクローシス』も、生物学に疎い身では聞き慣れない言葉であったが、ネクロマンサーの『ネクロ』である。ネクロマンサーならば娯楽小説や漫画でおなじみであり、何か『死』にまつわる言葉である、と理解できた。その反対であるならば、アポトーシスは『生』に関する肯定的な言葉のはずであり、だからアポトーシスの割合が上がると、主役ロボは発進できるのであろう、と俺は勝手に納得してしまったわけである。
ところが。
ちょうど同じ頃、ウイルスの研究をしていた友人――以前の話にも出てきた知り合い――と、この件について語る機会を得た。アポトーシスとは『生』に関する生産的な言葉であろう、と俺が嬉々として伝えると、まず一喝されてしまった。
馬鹿を言うな、と。
彼の説明によると、アポトーシスとは細胞死の一種であるという。
はてさて。
それでは、俺の理解とは逆ではないか。アポトーシスは、ネクローシスの対義語であるどころか、類義語ではないか。アポトーシスはネクローシスの仲間ではないか。
ああ、ロボットアニメで覚えた知識をひけらかした俺が間違っていた。しょせんロボットアニメはロボットアニメであり、それっぽい用語を適当に使った、子供騙しであった‥‥‥。
しかし、この俺の嘆きを耳にした友人は、先ほど以上の大声で俺を叱り飛ばした。
馬鹿を言うな、と。
あのアニメは良く出来ている、と。
少なくとも『アポトーシス』に関しては間違っていない、と。
ここから、彼のアポトーシス講座が始まってしまった。
以下は、あくまでも、彼から聞かされた当時の――件のロボットアニメが放映されていた当時の――話であるが‥‥‥。
なんでも、ちょうど生物系の研究者の間でも、アポトーシスはブームなのであるという。若い学生向けの平易な専門誌でも、アポトーシスの特集が頻繁に組まれているし、逆に偉い先生たちは「アポトーシス関連ならば今は研究費が申請しやすい」と言っているという。
ほう、そんな最先端の言葉をアニメに取り入れるとは、凄いではないか。「しょせんアニメ」とか「子供騙し」とか、そうした前言は撤回するべきであろう。
では、その専門家の間でも流行のアポトーシスとは、一体なんであるのか。
先ほど彼は『アポトーシスとは細胞死の一種』と述べたわけであるが、ここで彼は言い直した。
教科書的な定義としては、アポトーシスは計画的な細胞死である、と。
はて、計画的とは? では計画的ではない細胞死があるのであろうか? そう思ったところで、ふと気づいた。『細胞死』という言葉で誤魔化されそうになったが、そもそも『死』というものは『計画的ではない』方が一般的であろう。
その通り、と彼は言う。
細胞死においても、従来の一般的な細胞死の概念は、偶発的に引き起こされるものであった。いわゆる壊死である。これをネクローシスという。
おお!
この説明を聞いて、ようやく少しすっきりした。なるほど、確かに『死』というくくりで言えば、ネクローシスとアポトーシスは、仲間であろう。しかし片方は偶発的に死ぬものであり、もう片方は計画的に死ぬものである。つまり事故死と自殺である。ならば、ある意味では反対とも言えるわけである。
そうやって俺が考えている間に、彼はアポトーシスの具体例を提示していた。
例えば、人間でも母親のお腹に中にいる頃は、まるでアヒルのように、指と指の間に水かきが生えている。しかし人間には不要なため、水かき部分の細胞は計画的に殺されて除去される。これは、アポトーシスによるものである。
例えば、水の中を泳ぐオタマジャクシは、カエルの子であるが、親カエルとは違って尻尾が生えている。しかしカエルとなってピョンピョン飛び撥ねるには、尻尾は邪魔になるので、オタマジャクシからカエルに変態する過程で除去される。これも、アポトーシスによるものである。
おお!
前者の例はともかく、後者の例はイメージしやすいではないか!
変態という言葉は少し感じ悪いが、姿形が変わるのであるから、要するに『変身』である。
ならば、漫画や特撮に出てくる変身ヒーローも、変身の度に、不要部分をアポトーシスによって除去することで、その形態を変化させているのであろうか?
しかし。
俺がこれを口にすると、彼は渋い表情を見せて嘆いた。
今は学術的な話をしているのであるから、フィクションの話は止めてくれ、と。
いやいや、彼は何を言っているのであろうか? そもそも、アニメ番組の中での『アポトーシス』という用語の扱いから始まった話であろうに‥‥‥。
こうやって彼の説明を聞くうちに、ふと、新たな疑問が湧いてきた。
アポトーシスが計画的な細胞の自殺であるというならば、彼の研究分野とは関係ないのであろうか。細胞がウイルスに感染するというのは、定められた計画書には記載されていない、偶発的な事態のように思われる。
これを俺が持ち出すと、今度は彼は、真面目に取り合ってくれた。
彼の説明によれば。
確かに、従来、ウイルス感染による細胞死はネクローシスであると考えられてきた。しかしアポトーシスの研究が盛んになって、そうした見地から調べてみると、死に方そのものはネクローシスではなくアポトーシスの場合もある、とわかってきた。
あくまでも「アポトーシスに見える死に方」という話である。しかしメカニズムを調べてみると、普通にアポトーシスを引き起こすタンパク質やら何やらが細胞内で頑張っていたので、やはりアポトーシスであるとしか言えない。
一見『計画的な細胞死』という定義とは矛盾しているように聞こえるかもしれないが‥‥‥。
こう考えてみては、どうであろうか?
ウイルス感染で細胞が死ぬ場合にも、あらかじめ「ウイルスに感染したら死ね!」という計画が細胞内に用意されていたのである、と。
ああ、彼のこの説明は、俺にも理解しやすい。つまり、フィクションにおける悪の組織が「裏切り者は死ね!」と厳命するのと同じであろう。ウイルスに冒された細胞は、どんどんウイルスを生み出すようになるのであるから、生体側から見れば、いわば裏切り者である。ほら、アニメや漫画でも、悪役が裏切って主人公側につくのは死亡フラグではないか。裏切ると死んでしまうとか爆発してしまうとか、そんなシステムが体に埋め込まれている場合が多いではないか。
なるほど、ウイルス感染細胞が死ぬのも、確かに『計画的な細胞死』であっても不思議ではない。
ただし、当時はまだ、特に彼の専攻しているウイルスに関しては、あくまでもアポトーシスは細胞死の一形態に過ぎないという捉え方が主流であった。それぞれの感染細胞の死に方から「これはアポトーシスであるか、あるいはネクローシスであるか」と判別する段階の研究であったという。
あまりポジティブなニュアンスでは研究されていないとか、アポトーシス関連の研究としては遅れている――まだ初期の初期――とか、彼は感じていたらしい。なお、数年後に彼から再び話を聞いた時には、すっかり状況も変わり、アポトーシスをポジティブに利用する方向性が――例えば故意にアポトーシスを用いてウイルス感染細胞を除去するような研究が――主流になっていたそうであるが‥‥‥。
ともかく。
だから当時の彼は、余計に、先ほど話題にしたアニメの中での『アポトーシス』の扱いを、最先端であると感じていたらしい。
最後に。
彼は、次のような持論を展開していた。
「多少なりとも専門知識を持つ者が見ても納得できるアニメは、それだけで素晴らしい。子供向けと子供騙しは、大きく違うのである。子供騙しではないというだけで、普段アニメを見ない大人の鑑賞にも耐えうるのである」
なるほど。
そもそも、当時の俺にしたところで、基本的にアニメを見る習慣などなかった。ここで話題にしているアニメも「世間で流行っているから見てみよう」という程度で、目にしただけである。その意味では、彼のいうところの『普段アニメを見ない大人の鑑賞にも耐えうる』アニメでなければ、俺は存在すら知らずに終わっていたであろう。
しかし‥‥‥。
この件に関してこれほど熱く語るということは、彼は、いわゆるアニメおたくであったのか。
俺は彼のことを、ウイルスおたくであると思っていたのに。
ちなみに。
この少し後で、同じアニメに関して、他の知り合いとも話す機会があった。こちらは、やはり先述の『彼』と同じく理系の人間であるが、今度は『彼』とは違って数学系の勉強をしている者である。
その数学系の友人は、アポトーシスとは別の部分を賞賛していた。
理論物理学的な見地から、面白いと思えるエピソードがあったという。その友人が語る内容は、俺には全く理解できなかったのであるが、どうやら俺が「何これ、意味わからん」と思ったエピソードこそ、理論物理学をかじった友人には、逆に納得できる話であったらしい。
このように、俺の広くはない交友関係の中だけでも、二つの例があるくらいである。他の専門分野の者が別の部分を「面白い!」と感じる例も、おそらく多発したのであろう。
ならば、あのアニメがブームになった――日頃アニメを見ない俺のような人間にも受け入れられた――のも理解できる、と思ったのであった。
‥‥‥とまあ、かなり大きく話が逸れてしまったが。
アポトーシスのように、本来マイナスと思える『死』も、不要な細胞や害悪となる細胞を取り除くのに利用することで、プラスとなるのである。このように、一見マイナスでもプラスに転じてしまうという話が、生体内のメカニズムとしては、結構あるのであった。
その意味では、炎症反応も、アポトーシスの話と同じである。『赤くなったり、熱を帯びたり、腫れ上がったり、痛くなったり』という部分だけ着目すれば、どう見てもマイナスであろう。しかし、そのような症状を引き起こすことで、細胞の中では「もうダメ!」という信号を発しているのである。そこから、プラスに転じるのである。
ただし。
この『信号』は、救難信号とは少し違う。信号を発することで、その細胞が助け出されるわけではない。似て非なるものである。広い意味では『救難信号』と言えるかもしれないが‥‥‥。
ちょうど、昔々のゾンビ映画の中で出てくる『救難信号』と同じかもしれない。ゾンビの群れの中に取り残され、逃げ惑う生存者が――数少ない生存者が――、映画のクライマックスで、ようやく『救難信号』を発信できる装置に辿り着く。その信号が、どこか遠くの偉い人たちのところまで届くシーンが描写されて、視聴者は「ああ、主人公たちは助かった!」と胸を撫でおろすのである。ところが次の瞬間、物語の舞台となった街へ目掛けてミサイルが発射されて、主人公たちもゾンビも共々、辺り一帯が消滅して物語は幕を閉じる‥‥‥。
この場合、主人公たちは助からなかったが、発生したゾンビを焼き尽くしたことで、パンデミックは防げたのである。つまり、世界全体は助かったのである。その意味では、確かに『救われた』のである。
炎症反応の場合も、これと同じであろう。炎症を起こした細胞は助からないとしても、それを排除することで、被害が全身に広がることはなく、その体の持ち主は助かるのである。まあ、アポトーシスで感染細胞を殺して取り除くのと、似たようなものである。実際、アポトーシスの機構が炎症に関与する場合もあるらしいが‥‥‥。
基本的に炎症反応の場合、赤くなったり腫れ上がったりして血流が活発になるのであるから、血液中の白血球が、また頑張るのであろう。炎症の原因や問題の発生した部位を、白血球が取り除くのであろう。
つまり。
この組換えウイルスが大量に作り出すタンパク質――炎症性サイトカイン――は、一連のイベントを引き起こし、白血球を呼び寄せるものであった! ウイルス感染細胞を排除するためのものであった!
今回改造されたウイルスは「そうやって感染細胞を通常の感染細胞以上に排除されやすくする」という目的で設計された、組換えウイルスであった!
ああ、あの忌まわしき白血球が、再び俺の前にやってくる。上述のゾンビ映画の中で、目前に迫ったミサイルを見上げた主人公たちも、こんな心境であったのかもしれない‥‥‥。
こうして。
白血球の働きにより、俺の意識が宿った組換えウイルスは、感染細胞ごとやられてしまった。
ゾンビ映画の登場人物たちと同じである。ただ彼らと違うのは、俺の場合、次のウイルスに転生できるということであった。
予定通り、次のウイルスの中で意識が目覚めた俺は、まず、新しい体を確認した。
うん、大丈夫。今度は、ちゃんと正常な『俺』ウイルスである。悪の手先となった組換えウイルスではない。そして、いつも通り、次の細胞に感染して‥‥‥。
感染した細胞の中でも確認する。見た感じ、例の組換えウイルスは、この細胞にはいないようであった。
あの組換えウイルスは、この宿主の体内で、どれほど増え続けるのであろうか。
基本的に、問題の組換えウイルスに感染した細胞は、炎症性サイトカインを過剰に作り出すことで炎症反応を引き起こし、排除されやすいはずである。炎症反応で細胞がやられてしまうのであれば、それ以上は組換えウイルスも増殖できないであろう。
もちろん、俺の意識が一度は組換えウイルスの中で覚醒したように、まだ細胞が生きているうちに作り出された分もあるのであろうが、その産出量は少ないと考えて構わないのではないか。
そもそも、正常な『俺』ウイルスであっても、細胞に迷惑をかけるから、毒性とか病原体とか言われるわけである。組換えウイルスとは無関係に、炎症やらアポトーシスやらを引き起こして、感染細胞がダメになる場合もあるであろう。それでも、組換えウイルスによってそうした現象を加速させた場合と比べれば感染細胞が生き残る可能性は高く、結果的に作り出される正常な『俺』ウイルスも、組換えウイルスよりは桁違いに多いはずである。
そう。
組換えウイルスの割合なんて、全体で考えれば、微々たるものなのである。気にするほどの存在ではない。
まあ、組換えウイルスによって呼び寄せられた白血球が周囲を徘徊しているのであれば、感染細胞の除去云々は別にしても、この宿主の体内では免疫活動が活発になっていると言えるかもしれない。むしろこれこそ――体内の免疫活動の活性化こそ――、人間たちという『悪の組織』が、組換えウイルスを用いて炎症性サイトカインを大量生産させる目的なのかもしれないが‥‥‥。
とりあえず、組換えウイルスのことは忘れよう。
先ほども述べたように、過去よりも未来を大切にするのが、ウイルスという種族なのである。些細な問題があろうと、気にしてはならない。
もしかしたら楽観的すぎるかもしれないが、悲観的すぎるよりは良いではないか。
そもそも、こんな考え方が出来るのも、俺が人間ではなく、ウイルスになったからに違いない。そう、俺は現状に満足しているのである。ありがたい、ありがたい。
(俺はウイルスである・パート4「敵か? 味方か? 改造ウイルスあらわる!」完)
シリーズ第一作目以来の「あとがき」です。
最後までお読みくださりありがとうございます。
組換えウイルスについては、完結済みのホラー作品『深夜の動物実験』ではメインで扱いましたし、連載中の異世界ファンタジー『ウイルスって何ですか?』でも言及しましたから、今さら「俺はウイルスである」シリーズでやるのはネタの使い回しかもしれない、とも考えましたが‥‥‥。
ウイルス目線で書くならば少しは新しいことが出来そう、というだけでなく、炎症とかアポトーシスとか「一見マイナスに思えるものがプラスに」という話をするには良い機会かもしれないと思って、作品にしてみました。
いかがだったでしょうか?
もともとシリーズ化の予定もなく、だからこそ最初は「短編」という形で投稿した「俺はウイルスである」でしたが、いつのまにか四作目です。今後も、また何か思いついたら、作品にするかもしれません。その時は、また、どうぞよろしくお願いします。