死神は招かれざるに来る
董子は、≪楽園≫こと聖フィリイーデ学園の良いところを努めて考えようとした。
ただし、埃っぽい部屋の隅に、後ろ手で縛られて、猿ぐつわを噛まされて転がされてる状況では、もちろんうまくいくはずもなかった。
董子はぐねぐねしてみたが、芋虫のように滑稽なだけだった。
茶髪とそばかすは董子を横に、人を使って早速風祭を呼び立てていた。そして、さすが金持ち、使用人らしき人間を部屋に置いて、シャンパンの用意を整えさせたことには、董子は驚いた。
「それにしても、こんな僥幸が転がり込むとは、お互いに運が向いてきたね」
「確かに。≪楽園≫に入ったとはいえ、まったく≪能力者≫と話す機会も持てない。せいぜい≪一般生≫同士で馴れ合うのがせきのやまと思っていたが、ここにきてハロウィンパーティーか……つくづく、ついてる」
そういう観点から言えば、董子の運は最悪だ。
授業にも出席できず、こんなところに自由を奪われて閉じ込められている。
風祭をこんな厄介ごとに巻き込むわけにはいかない。それに、こんなへまをやらかしたことを瑠可に知られて、≪犬≫失格の烙印を押されて殺されたくない。
董子は1つにまとめられている後ろ手を、ぐりぐりと動かしてみた。だが、かたい。かたすぎる。手首がヒリヒリとしてきたので、ふうと詰めていた息を吐き出す。
二人はまだとりとめもない会話を続けていたが、そこに出てきた名前に董子は思わず反応した。
「君が前に付き合っていたほら、あの」
「ああー、あの。なんか、今日の朝、退学したらしい、と噂を聞いたな」
それはなんと、董子が夢の中で出会った、あのクラスメイトだった。
退学した?
董子は耳をそばだてた。
「さすが、耳が早いね。それがさ、ただの退学じゃないって話だ」
「まあ、不自然すぎるしな。彼女、よくこんなところ抜け出したいと言っていたから、まあ……な」
「らしいよ。いつものごとく、逃げだしたか、死んだか……おっと」
茶髪が董子が盗み聞きをしていることに気がついたらしく、口をつぐんだ。
――いつものごとく、逃げだしたか、死んだか。
董子は自分の心臓が、大きく音を立てたのを感じた。
果たしてあの彼女が、夢の住人だったのか、はたまた現実世界の住人だったのか。
ただ、董子の心は傾いていた。
おそらく、あれは現実の出来事だった――。
その彼女は、おそらく、逃げ出していた最中だった、と考えるのは無理からぬことだろう。
そして、≪楽園≫では、誰かが逃げ出すのはいつものことだという。
――誰かが死ぬことも、いつものこと?
董子は唸り声を上げた。この猿轡をほどいて欲しい。
二人は、先ほどとはうって変わった董子の様子を不気味そうに見ていた。しかし、茶髪の方がそばかすに目配せをした。
立ち上がると、董子の猿轡を外した。
「なに?」
その意外な問いかけの穏やかさに、董子は内心おやと思う。だが、続けた。
「さっきっ……逃げ出すとかっ、死ぬとかっ……」
「ああ……」
茶髪は意図を察したのか、眉をしかめた。髪と同じく、色素の薄いヘイゼルの瞳を細め、参ったな、と呟く。
今なら聞ける。
董子は勢いこんだ。
「最近、亡くなった方、いましたよね? ≪総代表≫の――」
その方のことを知りたいんです、と続けようと思っていた。もっと聞けるなら、貴登のことも。
しかし、瞬時に強張った場の雰囲気は、董子の言葉をそれ以上発っさせなかった。
「――こんなことをしてる僕たちが言えたことじゃあないけど、その話は≪楽園≫でしてはいけないよ」
そう言った茶髪も、頷くだけのそばかすも、どちらも顔色は真っ青だった。
董子は息を呑む。だが、つかみかけた糸口をそう簡単に手離すわけにはいかない。
「その方の、お名前だけでも……教えていただくことはできないでしょうか……?」
「まだ言うか!」
そばかすが吠えた。真っ白に血の気が引いた唇が、ぶるぶる震えている。
そのあまりの勢いに、董子は身を縮めた。怖かった。だが、引き下がる気はなかった。
「お願いします……! お願い、教えて……」
縛られたままで、董子は半ば懇願状態である。
そばかすはあまりに必死すぎる董子に、やはり怪しいやつ、と恐れを抱いたようだった。
疑われてしまったか。
しかし、董子が彼らの話を立ち聞きしていたことがそもそもの始まりだったのだ。それも当然だろう。
しかし意外なことに、茶髪の方は逆に董子を哀れに思ったようだった。
「――わかった。わかったから泣くのは止めて」
そばかすが、おい、と咎め立てしたが、茶髪は騒がれるのも困るだろう、と続けた。
董子は鼻水をすすり上げた。
「その代わり、このことは僕たちから聞いたなんて、決して言うなよ。死んでも言うな」
「はい、決して」
茶髪は髪をかきむしった後、本当かなあ、とため息をついた。董子は、この人、意外と悪い人ではないと思う。
茶髪は大きく息をつくと、ヘイゼルの瞳をゆっくりと瞬かせた。
「彼女の名前は早川たまき。≪妖精≫と呼ばれていた方だ――」
まるで、風の精でも顕れたかのように、刹那、その場の雰囲気が変わった。
見れば、茶髪も、そばかすも、先ほどとはうって変わって、どこが夢見るような、うっとりとした表情を浮かべていた。
董子は、ああそうか、と本能的に理解した。
きっと、≪妖精≫と呼ばれた彼女は、美しいのだ。
おそらくその美しさは、雨宮瑠可や瀬野蛍のように、人並外れたもののはずだ。
――その名を口にし、彼女を思い出した人間を骨抜きにさせるほどに。
「ほら教えてやったぞ、もういいだろ? 」
「 あの! もう少しだけ……」
「貴様、何様だ!? 身の程を知れ、庶民が!」
そばかすが怒鳴って、董子はわずかに身を竦める。
董子は少し、わかりかけていた。
たぶん、この二人はそこまで悪辣ではない。なれないのだと思う。
少なくとも、殺されることにはならない。
「まだ、なにかあるの……?」
と疲れきった様子で、茶髪。
ほら、と董子は内心一人ごちた。
「早川さんは、その。こっ……殺されたって、聞いて。小野貴登という方が犯人だと――」
茶髪とそばかすは、今度こそ何も答えなかった。
そばかすは黙ったまま、董子の側に膝をついた。そして、猿轡を再び噛ませる。
「……編入生、お前が誰で、今さら何を探りに来たのか知らない。何が知りたいのかもわからない。が、もうすべては済んだことだよ。あのことは、≪一般生≫である、僕たちはまったく関知していない」
むぐむぐ暴れる董子に、茶髪は告げた。「≪妖精≫がもうこの世にいないことと、小野貴登とかいう身の程知らずが僕たちの目の前で裁かれたこと以外に、確かなことはない――」
≪妖精≫は死に、貴登が裁かれたという。だとしたら、貴登は本当に――?
董子は目を見開いた。目の前で水分が膜を張って、鼻からは水がつ、と滴る。
「瀧澤、いいよな?」
「……ああ、好きにやってくれ」
瀧澤と呼ばれた茶髪はがっくりと椅子に座り込むと同時に、そばかすが董子に馬乗りになった。その焦げ茶色の瞳には、盛りのついた獣の気色がある。
「痩せた庶民はあまり趣味じゃないが、たまには珍味も面白い」
「君はつくづく女が好きだな。……僕はやる気が失せた」
董子は危機を感じて暴れようとしたが、縛られたままなのだから、それは叶わない。とはいえ、縛られていなかったとしても、男の力にはきっと手も足も出なかったかもしれない。
そばかすが董子のワンピースの胸元を寛げた気配を感じた時、その動きがピタリと止まった。
董子はぎゅっと目を閉じていたが、恐る恐る確認をする。
董子は思わず、ひいと猿轡の下で悲鳴を上げた。
「これは……瀧澤、こちらへ来てみろ」
「どうした? なっ――」
二人が視線を注いでいたもの。
それは、瑠可からもらった濃い灰色のクリスタルだった。
あまり日が入らない埃っぽい部屋の中でも、微かな光を石の内部で乱反射させて輝く、それ。董子のワンピースの胸元から、おそらく、寛げられた拍子にころりとこぼれ落ちていた。
完全に、見られた。
「おい庶民。貴様、これは≪総代表≫の≪瞳≫だろうが。どこから盗んできた?」
董子は必死で首を横に振る。
クリスタルは瑠可との連絡手段として渡されたものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
≪瞳≫という言葉は、おそらく、このクリスタルのことを指すのだと察した。が、そばかすが激昂する意味はわからない。
董子が恐れることはただひとつ、≪雨の魔術師≫の≪犬≫とばれること。
そばかすとは対照的に、瀧澤はクリスタルを見るなり、明らかに董子と距離を置いた。
それぞれの反応に、董子は違和感を覚えた。
このクリスタルは、一体何なのだろう。
繋ぎだ、と瑠可も、牧も言ったが、それだけではない意味がある気がする。
「まあいい。この≪瞳≫は預かる。こちらから、≪総代表≫にお返しするのだ」
「おい、関わらない方がいいかもしれない」
「今さら止めるのか、瀧澤。むしろ、ハロウィンパーティーなんかより、こちらの方がずっといいだろう。なにせ、≪総代表≫と直接関わりが持てる」
そばかすは狂ったように笑うと、クリスタルを董子の首からちぎりとった。
手に持ったクリスタルを食い入るがごとく見詰める様は、常軌を逸しているように見えた。
董子はそれ返してよ、と言った。
だがそれは、猿轡の布に吸い込まれる。
クリスタルは瑠可と董子の繋ぎであったが、同時に董子と貴登を繋ぐもの。
それを持っていかれたら、董子は完全に貴登に辿り着く道を失ってしまう。
「僕は帰る。ハロウィンパーティーなんて、もうどうだっていい。……なんだか、いい予感がしないんだ」
「そうか。なら、これは俺1人のものだ。この色……≪雨の魔術師≫か。ますますツイてる」
「≪瞳≫も、女も、君の好きにすればいい。もちろん、口外はしない――」
瀧澤は言い捨てて、やや早足で部屋の出口に向かった。扉に手をかけて、固まった。「開かない!?」
董子はふいに、とぷん、と清かな水音を聞いた。
同時に、影が床に落ちてきた。
董子も、そばかすも、瀧澤も、三人まとめて間抜け面を並べて、天井のそれに釘付けだった。
「さかな……」
誰かはわからない呟きは、あっという間に静寂に溶けていった。
純白の魚(なぜかいつもより少し小さかった)が顕れたかと思えば、漆黒の染みが、部屋の隅でどろりと人の形となる。きつい百合の香りがした。
漆黒の魔術師、雨宮瑠可だった。
「やあ――」
ビロードを思わせる、深みのある声だった。
長い漆黒の外套をさらりとゆらし、微笑みを浮かべる様は美しかったが、なぜか董子たちは揃ってびくりとしていた。
相変わらず何度見ても、化け物じみた美貌である。だが、それを和らげるのは、そこ優雅な物腰だ。しかし、なぜか、どこか少しぴりついた雰囲気を醸している気がしたのだ。
一番先に我に返ったそばかすが、瑠可の足元に這いつくばるようにして駆け寄った。「じっ、慈悲深き≪雨の魔術師≫、こちらをお返しします! あなた様の≪瞳≫でしょう!? この庶民めがどこからか盗んできたらしいのですが、この大久保が見事取り返しました!」
瑠可は、大久保と名乗ったそばかすが震える手で、恭しく差し出したクリスタルを正しく同じ色の瞳で見ていたが、形の良い唇を綻ばせた。「なるほど――」
瑠可は手近の椅子を引き寄せると、優雅に長い足を組んで、座した。
上質な生地と遠目からでもわかる外套が、ふわりと後を追う。
「さて、どうしたものか――」
瑠可は転がされてうねうねしている董子に、ちらりとその濃い灰色の瞳を向けた。
助けてください、と目だけで訴えてみた。
だが、果たして伝わっただろうか?
「≪魔術師≫よ、この働きに褒美をください!」
長い沈黙に焦れたのは、大久保の方だった。瑠可は痩せすぎて骨張った手を、指揮者のように振る。微笑んでいた。
「ああ、そうだね。お前には褒美を与えよう」
相好を崩した大久保だったが、ふいに足を何かに取られ、ぐらりとバランスを崩した。次の瞬間には、天井から逆さに吊り下げられる。表情は刹那絶望に塗り替えられる。
「下ろしてくれっ……≪魔術師≫、これはどういった――」
≪雨の魔術師≫の指先から、一瞬きらりと光るものが見えた。
董子には瑠可の見えない糸――≪銀の驟雨≫が、大久保を襲ったのだ、とわかった。
「お前は、何もかも、忘却できるのだ。それは実際、何にも替えがたい褒美だろう。そうだね?」
濃い灰色の瞳が瞬いた。瑠可は問いかけをしたが、相手に答えさせる気はない。
ごぉう、と耳障りな雑音に、董子は身悶えた。
だが、視界の端では純白の魚が、目にも止まらぬ速さで、大久保に真下からばくり、と食らいついた。
董子はひい、と悲鳴を猿轡に吸い込ませた。
魚が、大久保を丸呑みにしたのだった。
部屋の扉に取りついて、瀧澤は狂ったようにそれを揺さぶっていた。だが、扉は堅くそれを阻み、彼の願いを叶えない。
魚は大久保を吐き出し、闇へと消えた。
大久保は埃っぽい床にうつ伏せに倒れたまま、動かない。
瑠可は椅子に優雅に座したまま、手すりの上で頬杖をついている。
「さて、もう一人か。お前も褒美が欲しいかい?」
「な、何をしたのですか、彼に……まさか殺――」
「とんでもない、褒美を与えたんだ。≪忘却≫という名の、最高の褒美だよ。彼はすべてを忘れた」
瑠可はどこか愉快そうに、口元に手をやる。「先ほどここで見たことも、≪楽園≫のことも、お前のことも、これまでの人生のことも、そして自分自身のことも、すべて。悩みも苦しみも悲しみも。つまり、彼は、まっさらに生まれ変わったんだ」
とはいえ、場合によっては思い出すこともあるかもしれないけれどね。魚は、気まぐれだから。
記憶を奪う? そんな褒美があってたまるか。
董子は震えていた。
自分自身のことすらわからなくなるなど、怖すぎる。
それは、殺すより残酷なことなのではないのか。
瀧澤も恐らく、董子と同意見であるらしく、扉を背に張り付かせたまま、ずるずるとその場に座り込んでしまっていた。
「それで、どうする?」
「褒美など……!」
「なるほど。お前の名は?」
「瀧澤。自分は、瀧澤三角です」
「よろしい、では瀧澤。お前は今日から、彼女の手足となるがいい」
「なぜ、僕が!」
「こちらとしてはどちらでも構わない。また、お前の褒美のために、≪魚≫をここに呼ぶだけだ」
息を呑んだのか、瀧澤の喉がおおきく動いた。
董子もまた悟る。
これは、脅迫とか、強要とかそういったものに当たるのでは。
「……仰せのままに」
「いい子だ。それでは瀧澤、そこのクリスタルを拾うんだ」
「なぜ、僕が……ぐっ……」
瀧澤が苦しげに首元をかきむしる。糸で締め上げられているのだ。董子は先日の記憶を思い起こして、喉がいがいがするのを感じた。
「この糸は、お前にずっと巻き付かせておくよ。その意味がわかるかい?」
瀧澤の顔は、赤黒く染まっていた。
口をぱくぱくさせている様は、水中で酸素を求める金魚めいていた。
瀧澤は、瑠可に必死で身ぶりをした。
瑠可は微笑んだ。
「わか……わかり、ました……」
解放され、息も絶え絶えの瀧澤は、這うようにして、大久保の側に転がるクリスタルを手に取る。
瑠可に、彼女の縄を解くんだ、と言われ、操り人形のように、ぎくしゃくと瀧澤は董子の側に寄る。
ようやく董子が猿轡を取られた時、瑠可はどろりと再び闇へ溶けていった。
雨宮瑠可が消え失せたその場には、いまだ、その香りと存在の残滓が漂っている気がした。
茶髪――瀧澤三角は、紙のように白い顔色で、うつ伏せた友人を見つめていた。もっと正しくいえば、彼はすでに記憶を失った抜け殻となっていたのだが。
董子はさすがに気の毒になって、その端正な横顔に声をかける。
「瀧澤くん……」
「僕を憐れむとは。庶民の分際で、身の程を知るがいい」
瀧澤は呻いたが、そこには先ほどまで大久保と二人して、董子をいたぶっていた時の余裕はない。
いっそう哀れになって、董子は口を噤む。
犬と、犬の配下の間には、再び重い沈黙が横たわった。
刹那、教室の外が騒がしくなる。董子にも聞き覚えのある声が近づいてくる気配に、瀧澤が目を細めた。「風祭純心……ハイシンシャめ……」
「瀧澤くん?」
「悪いが、今この状況で、あいつの相手をしたくない。失礼する」
瀧澤が踵を返し、部屋から出ていったのと、風祭純心と双子が部屋に飛び込んできたのとはほぼ同時のタイミングだった。
「とーこ!」
「とーこちゃん、大丈夫?」
「とーこちゃん、平気?」
三人に口々に話しかけられながら、董子の脳内は奔流する情報に打ちのめされていた。