夜の森に漂う死
気がつけば、青臭い匂いの中に投げ出されていた。やや肌寒い秋夜の風がむき出しの裸足を撫でて、董子は、自らがいつの間にか屋外にいることを悟った。
ここは、≪楽園≫の敷地の外、なのだろうか。
座り込んだまま空を仰げば、真ん丸の青ざめた月が、くらげのようにたゆたっている。
そもそも、これは夢の続き? それとも、現実?
董子は我に返った。
――そんなことよりも、あの犬を追わなければ。
弾かれたように立ち上がり、あてもないまま、駆け出す。
背の高い草で頬が切れた感触がした。
だが、董子は走るのを止めなかった。
自らの中にある、何かが叫んでいた。
≪彼≫を追え、と。
あの真っ白な大きな犬に、董子は弟の残滓を感じた。理由はない。ただただ、直感的で本能的な根拠だ。それはまるで、彼の死を知らせる手紙を受け取った時、形振りかまわず、こうして≪楽園≫に導かれてきたように。
その時だった。
荒々しく草を掻き分ける音が近づいてきたと思ったら、横っ面から何かが転がるようにぶつかってきた。たまらず、董子は転倒する。
「どいて!」
もはや金切り声に近い怒声を浴びせられ、董子はおののく。相手を見やると、思わず目を丸くした。
そこにいたのは、可愛らしい女子生徒だった。
確か、クラスが同じの女子生徒だ。名前はまだ覚えきれておらず度忘れしたが、その少しきつめの美しい切れ長の瞳は印象的だった。
だが、今目の前の彼女は汗と土埃で全身を汚しており、いつもの高貴なイメージとは真逆の様相であった。
董子は何とか立ち上がった瞬間、再び突き飛ばされた。
「わたしのこと、誰かに話したら絶対に許さないから」
彼女は董子を血走った眼差しで一瞥してから、吸い込まれるように暗い森の方に駆け出していった。
取り残された董子は、呆然と小さくなる彼女の背中を目で追った。
これは、果たして夢なのだろうか。
名前も思い出せないクラスメイトがこんなにリアルに出てくる夢は、夢なのだろうか。
董子の背筋に怖気が込み上げてきた時、ふいに月が雲に隠された。周囲に暗闇が落ちて、董子は思わず辺りに目を配る。
刹那、獣の咆哮が遠く近く、こだまする。
草を刈り取りながら、何かが荒々しい爪音とともに近づいてくるのがわかった。
いや、何かではない。董子は一度彼らに出会っているから、すでにわかっている。
「≪死神≫……」
董子が呟くのと、吐き気をもよおす臭気に押し倒されるのとが、ほぼ同時だった。
地面に縫い止められた時、反射的に頭を持ち上げたため、後頭部の強打だけは何とか免れる。衝撃で一気に肺の中の空気が空になる。間髪入れず、食らいつこうとする真っ赤な口の中が、暗闇の中でも鮮烈だった。
スローモーションのように、眼前に黄ばんだ牙が迫り、生臭いよだれが顔に降り注ぐ。
食べられる。
命の危機と、生理的嫌悪感に、董子は失神寸前だった。
「――此度はまだお気は確かですのね、お嬢様?」
涼やかな鈴を転がしたような声音とともに、猫めいた淡いアメジストの瞳がきらりと輝くのを認めた。その時、董子の体からは重みが消え失せていた。
目の端には、四つ足の獣がこちらを威嚇しているのが映る。
董子と獣の間に割り入るように立ち塞がっていたのは、カンテラを掲げた、ミルクティー色のボブヘアの美少女だった。
「牧さん……」
「お話は後ほど。わたくし一人きりでは、あの《死神》を処理できませんの」
牧は口元に淡い微笑を灯すと、董子の腕をぐいと掴む。そして、ゆっくりとその細い人差し指を、自らの艶やかな唇の前で立てる。
「≪静寂なる霧≫――」
濃いミルクを思わせる霧が、ゆらりと牧の全身からわきだした。それはみるみる辺りを包み込み、≪死神≫の姿を覆い隠していく。
牧はすばやく、カンテラを吹き消した。
「さあ、今のうちに参りましょう。≪死神≫は鼻が利きますから、目眩ましの効果は一時的ですわ」
「は、はい……」
牧に促され、董子はその場から早足で歩き出した。
どういう理屈か、牧は夜の濃い霧の中でカンテラなしでも目が利くらしい。
董子は牧に腕を引かれながら、前も見えない、夜の暗さと濃い霧を混ぜ合わせた、ミルクティーの闇にひたすら不安感を煽られた。
「何とか、お側にいたものですから、お助けできて良かったですわ。ただ、それは偶然ですのよ、本当に」
牧の可愛らしい声は、表情の見えない中で聞けば、知性の揺らめきをどこか感じさせた。
「お嬢様、なぜあなたがここに?」
「それは……」
「もうとっくにご存知とは思いますが、夜の≪楽園≫は危険です。現にあなたは、≪死神≫と遭遇した――」
夢で出会った白い犬を追っていたら、いつの間にかここにいた。
董子は言葉を飲み込んだ。あまりに荒唐無稽な言い訳で、言い訳としては認識されるはずもない。
だが、董子は逆に疑問を覚えた。
「……なぜ、牧さんはここに一人でいるんですか?」
瞬間、董子の腕を握る牧の手が、少し震えた。
董子は続けた。
「だって、牧さんは≪能力者≫ですけど、一人で出歩くのが危険だということは、私と変わらないと思うんです。なのに、どうしてかなって」
あの時、瑠可は軽々と≪死神≫たちを屠っていたが、本来≪死神≫を殺せるのは、≪総代表≫やそれに準じる異能力を持つ≪能力者≫たちなのだろうと思う。それは、先ほどの牧自身の、自分には死神は殺せない、という発言でも明らかだ。
だから、と董子は考える。
牧もまた、董子と同じように何かを探していたのではないか。なんて。
「……まあ。せっかく助けて差し上げた上、こちらの質問にも答えないなど、失礼な方」
牧がわずかに息を詰めた気配がしたが、一転、心底あきれた口調で言い放った。
やばい、と董子は青くなる。
「わたくし、今宵は、何名かの配下と手分けして学内の警らを行う当番でしたのよ。≪楽園≫の治安を乱す学生がいないかどうか、≪楽園≫に異変が起きていないかどうか、見回っておりました。それが、力持つ者の責務と、常々考えております。そこに、あなたが≪死神≫に襲われるのが見えました。ですから、この身を挺してお助けしたのですわ。このような答えで、ご満足いただけますかしら?」
「す、すみません、すみません……本当に、ううう……」
董子はひたすら平身低頭である。
よく考えなくても、牧が≪楽園≫内でそれなりの地位があるのはわかるし、それなりの地位にはそれなりの責務があるのくらいは想像してしかるべきだった。
その忙しい合間、董子をわざわざ追いかけてきてくれたのだから、董子の無礼な質問にも怒って当然だろう。
董子は牧の質問への回答を探していた。
だが、何を言っても夢のように消えてしまいそうで、嘘のように聞こえてしまいそうな話しかできそうになく、やはり董子は言葉を失ってしまう。
牧はふいに、立ち止まった。
「――もう何も言わなくてよろしくてよ。今のあなたは、瑠可の≪犬≫ですものね。今日のところはあなたの、その意気を買うことに致します。お互い、今宵のことは水に流しましょう。よろしいかしら?」
「牧さん……」
いつの間にか、霧は晴れていた。牧が技を解いたのか、それとも。
ここにきて、牧はそっと董子の腕を解放した。董子はにわかになくなった他人の温みに、ふと寂寥を覚えていた。
牧は毛並みのよい猫を思わせる、アメジストの瞳を瞬かせた。
「あの男――風祭純心と親しくするのはお止めなさい」
「えっ……」
突然の宣告めいた物言いは、牧の端正な表情には似合いだったが、一瞬、董子には理解できなかった。
それが、≪楽園≫に来てからこちら、仲良くしている友人の名前だと気がついた時には、アメジストの瞳を持つ少女はすでに姿を消していた。
そこで、董子は目を覚ました。ベッドの中は自らの熱で暖まっていた。
「今の、夢だったの……?」
問いかけもかねて、呟いてみた。ぼんやりする頭を冷やすように、自らの頬に手を当てる。ひんやりした感触に、董子は次第に覚醒していった。
いやにリアルな夢だった。
現実ともつかぬそれは、あの雨の中の悪夢とはまったく違い、どこか夢だとも切り捨てられない何かがある。
白い犬のことは、現実ならいいな、と思う董子もまた、同時にいたから。
でも、董子がここにいるのなら、夢だったのだろうか。
「気味が悪いな……」
口に出してみれば、肌寒い部屋の空気に広がって、なおさら嫌な気分になった。
ふと、香りがつんと鼻をつく。
百合の香り。そして、ほんの少し、言われなければ気がつかない程度の油絵の具の香り。
昨日、瑠可がここにいたことだけは、確かだった。
それは改めて、≪楽園≫での自らの存在の頼りなさを感じさせて、董子は少しだけ泣いた。
着替えた後、朝食のためにカフェテリアに顔を出せば、ちょっとした騒ぎが起きていた。
野次馬が辺りを取り囲んでいたため、よく状況がわからない。
誰か話せるような人はいないだろうかと、キョロキョロしていると、高音のダブルサウンドが響き渡った。
「とーこちゃん、おはようー」
「とーこちゃん、ごきげんようー」
花怜と杏奈の双子は、今日も朝から可愛らしい笑顔の花を咲かせている。
「おはよう。今日は二人だけ?」
「ううん、違うわ~」
「ううん、じゅんちゃんと一緒よ~」
花怜と杏奈は交互に話す。
――風祭純心と親しくするのはお止めなさい。
董子はふいにどきりとしたが、慌てて辺りを見回した。「風祭くん、どこか行っちゃったの?」
「じゅんちゃんはあの中なの~」
「じゅんちゃんは頑張ってるのよ~」
あの中で頑張ってる?
董子か首を傾げた時、わあ、と野次馬の中心から一際楽しげな歓声が上がった。
しばらくして、学生たちが散会の様子を見せ始めた。直後、普段はシニカルなイメージが強い中肉中背の男子学生が、珍しく喜色満面といった様子でこちらへとやってきた。
双子はきゃっきゃっと同時に手を振って、風祭はそれに応えるように手を上げる。
「喜べお前ら! この男、風祭純心、ついにやったぜ!」
「じゅんちゃん、さすがー!」
「じゅんちゃん、ステキー!」
3人は万歳三唱、喜んでいるが、董子はおいてけぼりである。
「おー、とーこ。もちろん、お前のもゲットできてるから安心しろよな」
「ありがとう。……って、なにが?」
風祭がぽん、と肩を叩いてきたので、思わずお礼を言ったが、間髪入れずに質問した董子である。
風祭は目を丸くしたが、あ、と今さら気がついたらしく、悪い悪いと笑いだした。
「ハロウィンパーティーの抽選、当たったんだよ。しかも四人分」
「ハロウィンパーティー?」
「そう。自分が恐ろしいぜ」
風祭の得意気な顔と、董子の戸惑いは相容れない。
さすがに目に余ったのか、双子たちが風祭と董子、それぞれに囁いた。
「じゅんちゃん、とーこちゃんはハロウィンパーティーを知らないのよ」
「とーこちゃん、ハロウィンパーティーはすっごくステキなのよ」
「――つまり、ハロウィンパーティーってのは、端的に言えば、≪総代表≫主催の仮装パーティーなんだ」
ベーコンエッグをフォークで突き刺し、風祭はいいかい、と続ける。「基本的に≪一般生≫は、≪総代表≫や≪能力者≫と話すのは難しい。接触すらできねえヤツもいるくらいだし、そもそも連中は特権階級だから、まともに≪一般生≫と話す気がないやつもいる」
董子は頷く。
瑠可や牧は、董子を対外的に特別扱いするつもりはさらさらないようだった。そう、董子は≪犬≫だ。
確かに、正攻法を取った時、授業やカフェテリアでは取り巻きがすごすぎて近づくことすらできない。
部活のことも含め、董子もすでに失敗している。
瀬野との邂逅など、ひどいものだった。
「でも、このハロウィンパーティーは違う。≪一般生≫の参加者は限られるにも関わらず、≪総代表≫と≪能力者≫は全員参加。しかも、パーティーはちょっとしたゲームもあるし、ダンスと立食メイン」
しかもイベントのため、≪総代表≫や≪能力者≫たちもかなり気分が違っている。
――これは、行けるかも。
董子は光明を見た思いで、風祭を見た。それが伝わったのか、風祭は鼻高々感を増している。
「しかも、≪一般生≫の参加者ってのは、いわゆるランクが上の連中が優先的に選ばれる。俺たちみたいな、≪一般生≫中の≪一般生≫はスゲー倍率の抽選なんだぜ。しかも、今年は派手好きの≪総代表≫、≪豪炎の獅子≫こと波々伯部神波だから、すげー豪華だと思うぜ。倍率はそうさな、10倍とか」
董子は目を剥いた。「じゅっ……10倍!?」
「おおよ。そんで、董子、それを四人分当てた俺のことどう思う?」
「さすが! ステキ!」
「そうだろ? そうだろ!」
「じゅんちゃん、さすが!」
「じゅんちゃん、ステキ!」
いつも割りと賑やかな食事時だったが、その朝の四人はいっそう浮き足だっていた。
授業の時間帯になっても、ハロウィンパーティー抽選の余波とでもいうのだろうか。様々な場所で熱はまだ冷めていないようだった。
――壁や、地面や、何ならくず入れも漁ってみるといい。≪犬≫らしく、ね。
瑠可の言葉が比喩なのかはわからないが、生活にも慣れてきたことだし、もう少し丁寧に情報収集をしてみようと董子は考えた。
ハロウィンパーティーのことももう少し知りたかったし、≪豪炎の獅子≫と呼ばれる≪総代表≫のことも気になっていた。
休み時間は、風祭たちに不自然に思われない程度に手洗いなどに立ったり、散歩の時間や場所を増やしていった。
色んな場所で聞き耳を立てていれば、風祭の言う通り、ハロウィンパーティーはかなり重要なイベントらしかった。
≪一般生≫たちのほとんどがあの抽選に参加していたらしく、そこここで抽選結果についての意見が飛び交っていた。
そのほとんどは不満。もちろん、倍率10倍なら外れる生徒も多いのはその通りだ。
逆にその倍率で、四名分当選を引き当てた風祭は、本当に強運だ。
そして、同時にハロウィンパーティーの当選チケットの所持者たちについての噂も流れている。
中庭の木の陰で本を読んでいるふりをしていた時、ふと漏れ聞こえた見知った名に、董子は耳をそばだてた。
「――風祭純心、一人でかなりの数のチケットを手に入れていたらしいな。カフェテリアでずいぶん噂になってたよ」
「風祭純心が? あんな≪ハイシンシャ≫にもチケットは当選するものなのか」
≪楽園≫の生徒たちは基本的に育ちがいいのか、董子の通っていた高校の生徒たちよりも言葉使いに品がある。
ただ話している内容は、耳を塞ぎたくなるようなものも多く、董子は少し疲れていた。
とはいえ、知り合いの名前が出るとなると、話はまた別だ。≪ハイシンシャ≫の漢字がわからず、董子は困惑した。
「今の風祭純心には、裏で手を回せるようなコネはなさそうだがな」
「いや、わからない。彼は確か、――とは古い馴染みだろう」
ところどころよく聞こえず、董子は思わず身を乗り出した。刹那、後ろからどん、と押された。
「えっ……?」
自然、木の陰から転がりでる形となり、董子と二人の男子学生は対面する。
二人の男子学生は、みるみる青ざめていく。
董子もまた、自分がみるみる血の気が引いていくのを感じていた。
「あの、そのう……違うんです!」
董子は苦し紛れに言ったが、内心は何が違うんだ、と自分自身突っ込みの嵐であった。
もちろん、二人の男子生徒たちもそれは同じだったのだろう。腕を組んだり、腰に手を当てたりしながら、それぞれ董子を威圧する。
「お前、見たことあるよ。最近、風祭が中條姉妹以外に、やけに気にかけてる女だ」
「編入生だってな。ほぼ庶民の」
「そっ、そうです、私は――」
董子は何度も練習した自らの身分を、すらすらと並べた。どこに出しても、疑いようもない、ごくごく平凡なものだという。
だが、それをこのまったく知らない二人の男子学生たちが知っていることに、董子は内心驚愕した。
董子が思っているよりもずっと、周りは董子のことをよく見ているのだ。
「ねえ、庶民さん。こんなところで、お前みたいな子が躾のなってない犬みたいにかぎまわって、何をしてるの?」
二人組のうち、色素の薄い髪が特徴の男子学生がからかうように、しかし、目は本気で尋ねてきた。
なんてことのない≪犬≫という言葉に、董子はどぎまぎした。
「私は、ただ本をここで読んでいて――」
「もっとましな言い訳をしろよ、庶民」
そばかすが目立つ男子学生は、董子の頬を掴んだ。かつて瑠可にも同じようなことをされた。だが、今は本気で触られたくないと感じて、董子は懸命に身動ぎした。
しかし、いいお育ちの細い男にも関わらず、まったくかなわない。
そばかすは楽しげにニヤニヤしていたが、茶髪の方がふと思い立ったように言い出した。
「そうだ。ハロウィンパーティーのチケット」
「え?」
と、これはそばかす。茶髪は続けた。「この女を使って、風祭純心からハロウィンパーティーの当選チケットを奪うんだよ」
董子は固まった。そばかすが怪訝な顔をしたが、すぐ得心が言ったように、にやりと下卑た笑みを見せた。「それはいい」
「ついでにさあ……」
「ああ。良くはないが、悪くもないし――」
色素の薄い髪とそばかすから揃って、身体を舐めまわすように見られて、董子は震え上がった。
これ、もしかしなくとも危険なのでは。
董子は二人に両脇から抱えられるようにして、建物の中へと連れ込まれた。