犬が見たのは死の夢
教室に入ると、董子を見るなり、風祭はぎょっとしたような表情になった。
「おい、とーこ。朝、カフェテリアに来てないと思ったら……顔。すごいことになってるぞ」
「……風祭くん、女子に対してそれは失礼だよ」
董子がなけなしの精神力で放った冗談は、残念ながら風祭をいっそう哀れませただけのようだった。
ただ、それは仕方がない。なぜなら、実際董子は瀬野と会った後、這うように自室に戻ったものの、動けなかった上、眠れもしなかったからだ。
瑠可も瀬野も大嫌いだ。
大嫌いだ、というのが子供っぽいというならば、用事がなければ絶対に関わりたくない連中だ。
人格破綻者どもだ。いや、そもそも人格なんかない、人間性ゼロのおおばかやろうたちだ。
人外の美しさを持つ、人を人とも思わない、どぐされモンスターたちだ。
思う存分、心の中で怨み言を吐き散らす。
でも、一番腹が立つのは、そんな奴らの手を借りなければ、目的も達することができないだろう、自分自身の力のなさだ。
虚しい、と董子はひとりごちた。
ひどい顔にもなるはずだ。
「――とーこ、ほれ」
そんなところに、目の前に無造作に差し出されたパンの包みと、風祭とを見比べて董子は目を丸くした。
「いいの?」
「おうよ。腹減ってるだろ。昨日の夜も、あんまり食欲なさそうだったしさ」
「――ありがとう。すごく嬉しい」
なので、思いやりとか優しさがいっそう身に染みた。
風祭は少し細い目を丸くしたが、すぐに気にすんなよ、と照れたように董子の肩を軽く叩いてきた。
風祭の良い意味でのその普通さは、冷えた董子の心に温かく灯を灯すようだった。
聖フィリイーデ学園は董子の通っていた公立高校とまったく雰囲気は違っていたが、救いだったのは、秋学期から1年が始まることだった。
少なくとも、授業の進度に関しては、董子の高校の方が進んでいたのだ。
業間に、そのことを風祭と、違うクラスだが仲間に加わった双子たちに告げれば、3人ともキョトンとした。
だが、風祭だけはさすがというか、すぐになるほどねえ、と自らの顎を擦る。
「……とーこ、あんたは真面目な人なんだな」
「いやいや、真面目じゃないよ。だって、学生の本分は勉強だし……」
この聖フィリイーデ学園が、高偏差値校ということは有名だ。
授業についていけず、補習なんてことは避けたい。悪目立ちするし、何より本当に費やさねばならないことに時間を避けなくなるというものだ。
しかも、元々董子の成績は中の下なのである。致命的だ。
さすがに、カッコ悪すぎて本音は言えなかった。
「いやいや。≪楽園≫での成績なんてもんはさ、あってないようなものなんだぜ」
「え、でも……」
≪楽園≫は様々な業界にコネクションを持つ、高レベルな教育が受けられる場所だと。そんな、未来への希望を持てる場所なのだと。
董子はだから、貴登を送り出せた。そうでなければ、弟は何ためにここに来たのかわからないではないか。
いいかい、と風祭は偉そうに自席でふんぞり返った。
「とーこ。あんた、まったくわかっちゃいなかったんだな。あーあ、おかしいと思ったぜ。おい、この風祭純心くんから、ありがたいアドバイスをくれてやらぁ。よーく耳かっぽじりな」
じゅんちゃんステキ、と双子は風祭に両側からしなだれかかる。
ただし、そこに色っぽいものはなく、ただただ子供のように無邪気であった。
「前に一度言ったよな? 俺たちは厄介者の集まりだ、ってさ。覚えてるか?」
頷く董子に、風祭は声を潜める。「厄介者でも、あわよくば、人脈を築けば役に立つヤツになる」
「えっと――」
「まだわからねえのかよ。社交と人脈作りが、俺たち厄介者が這い上がる唯一の手段なんだよ」
風祭は、言い募る董子に、被せるように続けた。「もっと言えば、ここじゃあ、≪能力者≫と≪総代表≫に気に入られ、学内で高い地位を得ることが、≪一般生≫にとっちゃあ、一番の目的だ。つまり、そういう意味じゃあ、とーこ、あんたはすでに大失敗してるっつーこと」
「大失敗……? でも、風祭くん、昨日はカフェテリアで真逆のこと言ってたじゃない――」
――恥を知れ。
目を丸くした董子に、風祭はにやりとした。
「だから、友達は選んだ方が良かったってことさ」
「どういう意味……?」
「とーこ、あんたは真面目で、しかも、いい人だ。あんたはどういうつもりで、ここに来てるのか俺は知らねぇけどさ。昨日の様子じゃ、≪総代表≫に興味があるんだろ? それなら、社交や人脈は大事にした方がいい。――まあ、もう手遅れかもだけどな」
手遅れ?
いったいどういう意味なのか、その時の董子にはわからなかった。
ただ、≪総代表≫に興味があるというのは、指摘その通りである。
瀬野蛍と話せるチャンスは得たが、まったく手応えを感じられなかった(手応えどころか、感じたのは、むしろ命の危機である)董子にとって、新しいアプローチがあるのは願ったりであった。
人脈、作ってやろうじゃないの。
またも、奮起する董子である。
だが、放課後、風祭のもうひとつのアドバイスを実践し、結果、董子は撃沈した。
――人脈作りには、部活やサークルに所属した方がいい。
非常に有益なアドバイスである。
普通の学校生活でも、部活やサークルに加入している方が、友達は作りやすい。
幸いにも≪楽園≫でも、部活やサークル活動は盛んであり、特に風祭のオススメは≪能力者≫も参加している団体だ。
教えてもらったのは、4団体。いずれも≪総代表≫または≪総代表≫に直接連なりがある≪能力者≫が属する団体だ。
ハンティング部には、瀬野の配下の筆頭である球磨鳴巳という学生が在籍しているようだ。常識をわきまえ、実力も兼ね備えた温厚な人柄は、≪一般生≫、≪能力者≫を問わず、慕われているらしい。
仲良くなることができたなら、瀬野と繋いでもらえる可能性がある。
入り込むならここかと思うが、ハンティングにほぼなじみがない董子である。要見学だが、董子としては、最有力候補だ。
美術部はなんと、あの雨宮瑠可が部長を務めているらしい。だが、却下。言わずもがなである。
あとは、園芸部とイベントサークルだったが、こちらについては、ハンティング部が難しければ考慮すべきと考えた。
だが、いずれも門前払いであった。
いや、門前払いではなかった。
風祭の話では、≪一般生≫や≪能力者≫関係なく、所属できる権利があるらしいし、実際、クラブハウスを訪問した際はどの団体も好意的であった。
――最初だけは。
それがなぜか、話を聞いているうちに、雲行きが怪しくなり、結局入部することができない。
1週間後、そもそも打診をしていない美術部を除いた3団体すべてに断られた時、董子は裏で何かがあると確信した。
「やあ」
夕刻、食事を終えて部屋に戻ってきた時、さも寛いだ様子で巨魚の上に横たわって迎えてくれた魔術師を、董子は心底ぶん殴ってやりたいと思った。
並外れた美形なので、なおさらムカついた。
「……なんでいるんですか」
「おやおや寂しいね、とーこ。君がここに編入してから1週間、全然連絡をくれないんだもの。待ちきれずに来ちゃった」
来ちゃった、じゃねーよ。
ビロードの深みを含んだ声で、お茶目さをアピールしてきたが、ただただ腹立たしい。
しかし、その怒りは理不尽だと、よく自身でもわかっていた。董子は大きく溜め息をついた。「ごめんなさい。実はまだ、報告できるようなことがなくて――」
それは本当のことだった。
唯一の手がかりであったはずの瀬野と話すことには失敗し、人脈作りにもつまづいている。
「ふぅん。僕でよければ、少し話を聞こうか?」
どうやら董子のムードに気がついたらしい。瑠可は、クリスタルの輝きと同じ、濃い灰色の瞳を細めて微笑した。
正直、ありがたい。
董子は一瞬、この人意外といい人かも、と思いかけた時、瑠可は微笑みのまま、さらりと続けた。「そういえば、お茶のひとつでも出ないのかな?」
董子自身、瑠可には色々もてなしてもらった。が、頼んじゃいない。わかったのは、たぶん、瑠可は悪意ゼロだ。ただただ、出してもらえて当然と思っているだけだ。
董子はミニキッチンに湯を沸かしに向かったが、内心モヤモヤでいっぱいだった。
「――へえ、部活動か。とーこ、君は面白いことを考えるね」
瑠可は紅茶の香りを楽しむように、ゆっくりとカップを持ち上げた。
綺麗な紅茶色の液面が、さざめく。
瑠可と董子は二人して、狭い部屋の中にぷかぷか浮かぶ白い巨魚の上で、紅茶の載ったお盆を前に、向かい合って座っていた。お茶請けは貰い物(風祭と双子が、董子を哀れに思って夕食のデザートをくれたのだ)のみかんである。
異様すぎる光景だが、もうさすがの董子も突っ込む気力も失せる。こうなれば、もうやけである。
董子は緩やかに首肯した。
「私も教えてもらったんです。≪総代表≫や≪能力者≫と関わりたいなら、人脈を作った方がいいって、クラスの友達に言われまして。それで。ですが、直接的に関わるには良さそうな3団体をあたって、すべて門前払いをくらいました」
「なるほど。ねえ、なら美術部に来るかい?」
思わず瑠可を見ると、相変わらずの穏やかな微笑を浮かべていた。
董子は思わず、唇をきゅっと引き結ぶ。その様子に、瑠可はふわりと口元を綻ばせた。「冗談だよ。そんな顔しないで」
今にも雨が降りだしそうな雲を思わせる濃い灰色の瞳には、相変わらず、慈しみとも嘲りとも言えない表情がある。
わからない人。
董子は眉間をもみもみしながら、はあと溜め息をついた。
「やはり、そういったところに入り込むにも、何かルートのようなものがあるのでしょうか? 私の身分が、取るに足らない≪一般生≫だから、こんなことになるんですかね」
それとも、瑠可が何か妨害をしているのだろうか。
董子にどこまで情報が開示されるか、はたまた、正しく伝えられるかは彼次第だ。
実際のところ、瀬野蛍の情報を与えられたものの、董子はそれを有効には活用できていない。
≪総代表≫と≪能力者≫。
そして、≪一般生≫。
それぞれの立ち位置。
編入して1週間、董子はまだまだ、それらをうまくつかめない。
「いや、それはない。とーこ、君は取るに足らない≪一般生≫だからこそ、どこへでも入り込むチャンスがあると思う。そうでなければ、君の身分をもっと違ったものにした。君がそうも弾かれる何か原因が、もしあるのなら、それはまったく別のところだ、と僕は考えるよ」
――裏は、ないの?
董子は肩透かしを食らった気がした。
「とーこ」
ふわり、ときつい百合の香りが、鼻先を掠めた。
その中には、今まで気がついていなかった匂いがあった。――油絵の具の臭いだった。
瑠可のきつい香りの理由が、ようやくわかった。
「……はい? やっ、ちょっ……」
瑠可はおもむろに董子のワンピースの胸元をまさぐると、自ら董子に与えたクリスタルをそっとその骨ばった手に取った。
近いんですけど。
ほんの目と鼻の先には、凄絶な美貌がある。
クリスタルに視線を注ぐ同じ色の目が伏せられ、睫毛の陰が頬に落ちていた。
吐息すら聞こえる口元が、ぞっとするほどの近距離だった。
大きな手にあまるクリスタルを、コロコロと弄ぶ。
董子は思わず、パッと赤面して視線をそらした。
だが、雨の魔術師はそれを許さない。
「とーこ、こちらを見て?」
「えっと、あの……」
「――僕の目を見るんだ、とーこ」
ビロードの声音も相まって、優しく甘い口調だが、やはりそこには人に命令しなれた響きがある。
ゆっくりと視線を合わせると、魔術師は濃い灰色の瞳を優しく笑ませた。
董子が確信していたのは、この目の前の男が、人でなしであることだ。
董子を自分と同じ人間だとは考えていないし、穏やかな雰囲気を湛えていて、さも優しげな風情だが、実のところは見下していると思う。
そうでなければ、自分が今から利用しようとしている相手に、こんな見え透いた態度は取れないだろう。
董子はなにやかにや、自分の中で言い訳をしたが、それとは裏腹に心臓は早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
瑠可は董子の瞳の奥を覗きこむように、見詰めてくる。今にも雨が降りだしそうな雲の色は、まるで、董子の心の中を見通すように染み入る。
ふいに、手を取られた。
無意識に、手を握りしめていたらしい。だが、その上から、痩せた、しかし大きな掌が包み込むように触れる。
董子はその手のあまりの冷たさに、背筋が撫でられる心地がした。
眼差しは交錯しているのに、あまりに交換される感情がない。
董子は何度目かわからず、瑠可が恐ろしくなった。
死神だ――。
脳裏にこびりつく、獣たちは醜悪そのものだった。瑠可の存在はそれとは真逆の、異形の美貌のはずなのに、受けるイメージがまるで同じなのが、不気味だった。
瑠可は董子の固く握られた手を開かせたいのか、壊れ物を扱うように、柔らかな力でほぐす。
「とーこ、知っている? ≪犬≫は、どんな些細な情報にも食らいつくんだ」
濃い灰色の瞳が、董子を再び絡めとる。
ビロードを思わせる声は、ゆるゆると董子の鼓膜を震わせる。
「――それから、君の主人は僕だよ。覚えておいて」
情報収集が大事なんて、董子にだって分かりきっている。
落ちつかなくてベッドの中で、寝返りを打っていた董子はまたもや考えを巡らせていた。
ただ、瑠可が去り際に残していった言葉は、ひどく象徴的であった。
――壁や、地面や、何ならくず入れも漁ってみるといい。≪犬≫らしく、ね。
バカにしているのかとも思ったが、どうにもひっかかかる。
瞼が段々開かなくなって、董子はベッドに沈み込んでいく体の重みを感じていた。
気がつけば、董子は真っ白な空間に立っていた。
ここはどこなのか、自らに誰何をする間もなく、次の瞬間には目の前には、これまた真っ白な物体がある。
真っ白な物体――それは、犬だった。
犬は、なかなかの精悍な顔立ちをした男前である。董子から少し離れた場所で、行儀よくお座りをしている。凛々しい表情だが、もふもふの尻尾はぶんぶんと勢いよくふられていたため、愛らしい。
董子は撫で回したくてうずうずしていた。
あらゆる犬に特別好かれていたのは弟の貴登だが、董子は犬が好きなのだ。
董子はその場にしゃがみこむと、舌を出して笑っているような白い犬を、両手を広げて迎え入れる体勢だった。
見つめ合う董子と犬だったが、董子はその黒いつぶらな瞳にあれ、と既視感を覚えた。
「……貴登?」
犬は三角の耳をぴん、と立てた。
刹那、ぐにゃりと空間は歪む。
あっという間に、董子は、歪みの中に真っ逆さまに落ちていった。