死神の手
雨の音が、鼓膜を静かに叩いている。
あの夢の続きだ、と董子はすぐに気がついた。
あの、恐ろしい悪夢めいた、幻の続き――。
董子の肌を、わずかな感触が滑っていた。雨の粒が、全身に降り注いで、体温と血を奪っていく。
そして、お腹の中の子供たちも、ゆっくりと温度を失いつつある。
『――助けてやろうか』
ビロードの艶やかさとはほど遠い、錆び付いた声だった。
董子は雨でけぶる景色の中に、静かに佇む漆黒の影を見た。
『――助けて、やろうか』
董子は、震える唇を噛んだ。
ゆっくりと錆び付いた声が告げて、次の瞬間には影ははっきりと姿を顕す。
その顔を確認して、喉の奥から声にならない悲鳴が上がった。
その、顔とは――。
「それって、こんな顔?」
ぼんやりと目を覚ました董子の鼻腔を、清冽な花の香りがくすぐった。
同時に、視界に飛び込んできた濃い灰色の瞳。
董子はバネのように跳ね起きて、部屋の入り口まで後退りしていた。
ベッドの脇で、しどけなく魚に乗っていたのは、漆黒のナイフを思わせる男――雨宮瑠可だった。
薄闇の中でも印象的な目元のホクロは、彼の謎めいた魅力をさらに際立たせる。
カンテラをかかげる様は浮世離れしており、相変わらずどこまでもファンタジーの住人だった。
「驚かさないでくださいよ……何時だと思ってるんですか?」
「さあ?」
「さあ? じゃないです。大体――」
董子は、しゃらり、とクリスタルのペンダントを手に取る。「せ、接触は避けたいということだったのでは?」
「冷たいなあ。初日だから、さぞや不安だろうと思って会いに来たのに」
魚の上でふわりと微笑む瑠可を、董子はまったく理解できなかった。
――正直、一番の不安要素はあなたなんですが。
それは心の奥にしまう。
董子は入口の扉を背にしたまま、ゆっくりと息を吐き出した。
「瑠可さん」
「瑠可と呼び捨てて欲しいな、とーこ」
「では、瑠可、くん」
くすくすと忍び笑いをもらす雨の魔術師に、董子は赤面した。
しかし、照れている場合ではない。
情報。情報だ。
問いかけようと口を開きかけた時、瑠可のビロードの声が部屋に響いた。
「とーこ、≪楽園≫はどう?」
「どう、と言われても……」
まだ初日だ。加えて、瑠可の親切さがただ怖い。
「瀬野蛍には会えた?」
その名前には、どきりとした。
「会えた、というか。見掛けました。でも、とてもじゃないですけど話はできそうになかったです。
おっしゃっていた通り、≪総代表≫は特別なんですね」
できるだけ、正直に答えた。
だがそれは、疑念を抱いていると悟られないためだ。
そう、と瑠可は頷いた。
「……とーこ、君には期待してる」
気がつけば、百合の香りが濃くなって、瑠可が目の前に片膝をついていた。
瑠可は掲げていたカンテラを床に置くと、その骨ばった死神の手を、董子の頭にぽんと乗せる。
そのまま、優しく頭を撫でられて、董子は混乱に混乱を極めた。
――なんだ、これは!
顔を上げれば、穏やかな表情を湛えた整った顔立ちが、カンテラの光に暖かに照らされていた。
目元の魔術的な雰囲気のホクロが、目に焼き付いて離れなかった。
結局、あの後董子はよく眠れなかった。
最悪の気分で目を覚まして、董子はベッドの中で唸った。
わかっていたこととはいえ、瑠可は人間ではなかった。
なのに。
董子は自らの頭に手をやった。まだ感触が残っている気がした。
清冽な百合の残り香だけを残し、瑠可は微笑んで去っていった。まるで、董子を慈しむような、はたまた哀れむような――もしかすれば、嘲笑うようなそれに、董子は何とも言えないもやもやばかりを抱えていた。
ベッドから起き上がり、爪先を床に下ろす。
それでも、今日はまた始まるのだ。
この≪楽園≫こと、聖フィリイーデ学園の敷地は広大だ。風祭と双子に昨日、すぐに使うような場所の案内は軽くしてもらったが、さすがに転入したてではそのすべてを覚えられない。
これからの調査には必ず使うだろう。
盗み聞きや、はたまたもっと後ろ暗いことをやっていくことになるかもしれないのに、現地の地理を知らないなどありえない。と、奮起し、少し散歩をしてみていた董子であったが。
「迷っちゃったかも……」
支給された懐中時計を開けば、まだ時刻は早朝を通り越して夜明け近くだった。
朝食や1限目までには、余裕があるだけ救いかもしれないが――本当に一人で戻れるか自信はなかった。
昨日頼み込んで書いてもらった簡単な地図を取り出し、董子はううんと悩む。
石造りの高い塀で囲まれた≪楽園≫は、あたかも要塞だが、内部のエリアは大きく分けて4つにわかれる。
まずは授業などが行われる共通区域。一番巨大なエリアであり、講義室はもちろん、膨大な蔵書を誇る図書館や、広々とした運動場や学生たちのあらゆる教育に必要だろう施設が揃っている。昨日、董子もほぼ一日をこのエリアで過ごした。
次に管理区域。こちらは、いわゆる学校の中枢とも言える場所で、教務室、カフェテリア、医療施設など学生たちの生活にかかる部分をフォローする機能があるエリアだ。
また、さすがは私立校なのか、管理区域と言いながらもさながら1つの街のような様相を呈している、らしい。
また連れていってやるよ、と風祭たちからはすでにお誘いを受けている。
そして、一般生居住区域。そう、董子たちが寝起きする建物があるエリアである。
最後は、能力者居住区域。基本的に他の区域と違い、一般生は出入りを禁じられている場所だ。
しかし、董子は少し思い当たるふしがある。
――おそらく、能力者居住区域に入り込んだことがあると思う。
たぶん、瑠可と最初に話した場所は、能力者の居住区域だった。
迫ってくる朝の清浄な空気は、世界を違ったものに変える気がする。
董子は逡巡した。
どうせ迷ってしまったなら、わざと迷い込んでみてもいいかもしれない。
こんな早朝から出歩いている学生は少ないだろうから、うまくやれるかもしれない。
ここから1番近い、能力者の居住区域は――。
「……何を、しとるんや」
そう、声がした気もしたが、次の瞬間、董子は地面に這いつくばっていた。
遅れてから鈍い痛みが、鳩尾をじんじんとなめている。
たぶん、殴られた。
董子はうつ伏せた顔を上げ、相手を見やる。
だが、その正体に目を丸くする。思わず、口をついて出た名前は、自分でも思いがけないものだった。
「……瀬野、蛍」
瀬野蛍は、微かにその、灰色よりさらに淡い薄墨色の目をすがめた。
まだ明けきっていない夜、生まれたばかりの朝の陽光は、白髪の帝王を菫色に染めていた。
カフェテリアで見た時も思ったが、瑠可とあまり変わらないくらいの長身だ。
しかし、間近で見るその造作は、美しいが雨の魔術師とはまた、毛色が違う奇種である。
雨宮瑠可が夜の闇に溶ける漆黒なら、瀬野蛍は朝の光にかき消える純白。
整った鼻梁は滑らかで、切れ長の薄墨の瞳は、縁取る長い睫毛までが白い。光の粒が輪郭に沿って反射し、神々しいまでに冴え渡る美貌をいっそう眩いものに見せる。
「……誰が、呼び捨て許した? 」
またおもむろに打擲されて、董子は震え上がった。
恐ろしくて声が出ない。感情の高ぶりのあまり、急速に涙目になる。怖い。何が琴線に触れるかわからない。
――僕はまだしもおおらかな質だから。
その通りだ。
瑠可はこの白晰の美貌とはまったく、違う質だ。
「……立ち去り、一般生。ここはあんたのおるとこやないで。そんで、二度と足を踏み入れたら、あかん」
形の良い薄い唇が、かさついた声でそう吐き捨てた刹那、空からふわりと音もなく瀬野の肩に舞い降りた――鳥だ。おそらく、カラス。ただし、純白であった。
瀬野と同じ色を持つ鳥が、瀬野の肩で優雅に羽づくろいをしたかと思えば、董子に向いた。
「……わからんアマやな。つまり、さっさとここから去ね、言うてんのや」
頬にぴしり、と何かが触れた感触――わずかにひりひりと痛んだ。これは、静電気?
瀬野がおもむろに、董子の方に手を延べた。気づけば、鳥はいつのまにか、彼の腕を止まり木にして、数を増やしていた。
「……ど低脳が」
鳥が瀬野から飛び立った。
にわかに、バリバリッ、とうってかわってつんざかんばかりの耳障りな羽音。
と思いきや、それは雷がはぜている騒音だ。
朝の光に照らされてさえ、鳥たちが羽ばたく度、その翼にはプラズマの交換が見てとれる。
そのまま、一気に軍勢となったカラスたちは、董子めがけてまっしぐらに迫ってくる。
「いっ……!」
あと一息で、鳥のくちばしの先が、触れるか否か。
董子は思わず身を守った。
しかし、次の瞬間、董子は違う場所に立っていた。ただし、まったく知らない場所ではない。
「ここ……寮の、前……?」
――飛ばされた?
何が起こったのか、よくはわらかないが、すでに董子は様々な奇跡を目の当たりにしている。≪総代表≫である瑠可と同じように、瀬野にも奇妙な力が備わっていることは明白だ。
空はすでに、紛れもなく朝となっていた。
隅々まで澄み渡るような、清々しい朝の気配が辺りを包んでいた。
だが、董子は恐ろしさで、未だに歯の根が合わない。
――瀬野と二人で会って、話せばなんとかなる? 貴登の友達だから、悪い人間ではないはずだ、とどこかで考えていた。
なんという驕りだ。
瑠可が人でなしなのに、瀬野が人だと考えるなんて、とんだ甘い見通しだ。
話せる、話せないではない。
向こうは董子を同じ人間だと思っていない。
話が、通じない――。
少なくとも、董子の言葉ではきっと、届かない。
董子はうなだれた。
一方、≪雷帝≫が配下の筆頭である、球磨鳴巳は、≪雷帝≫及びその一派の能力者居住区――で力を行使した気配を感じ、主を探していた。
≪雷帝≫が毎早朝、使役たちとともに、敷地内を散策するのは、幼い頃からの倣いであった。
それを止める権利は球磨にはないし、特段止める必要もない。
なぜなら、瀬野にかすり傷でも、危害を加えられるような存在は、≪総代表≫ですら限られているからだ。
「蛍さん、こちらでしたか」
≪雷帝≫は球磨の呼び掛けに何の反応も示さなかった。立ち姿さえ端正で、その肩や腕に使役でもある真っ白なカラスたちを載せる様は、あたかも美しい彫像のようだ。
「いかがされましたか? よもや、≪死神≫でも現れたのではないでしょうね」
瀬野はまたも答えず、ただ、今度は球磨を振り返った。
相変わらずの主の様に、球磨はくいとメガネに手をやる。「当たりですか? そして、また奴らを逃がしたとか――」
言い終わる前、瀬野は刹那、消えた。
だが、それは高く跳躍しただけなのだった。
球磨が瀬野に次に気がついた時には、彼の巨大な鎌――≪魂を削る雷≫は球磨の喉元に押し当てられていた。
白い雷が、バチバチ、と喉を叩く。
「……ちょっと黙りや」
球磨ははあはあ、と、荒い呼吸を繰り返す。嫌な汗が背筋を濡らしていた。
目だけで背後の瀬野を振り返れば、限りなく白に近い薄墨色の瞳は冷たく凍えていた。
「蛍、さ……」
「……ただの≪犬≫やったわ」
「犬、ですか? 野良犬でも迷いこんできたのですかね――」
瀬野が大鎌を手にしたまま、ゆっくりと球磨から離れた。
そのまま2、3歩と歩いていく瀬野の肩に、鳥たちが集まってくる。
陽光に照らされたその光景は、見慣れた球磨の目から見ても、夢のようだった。