表が死なら、裏も死亡
「小野貴登がいなくなった顛末を話すよ。とはいえ、僕が直接見たわけではないし、伝聞だけれどね」
そう、瑠可は前置いた。
小野貴登が≪楽園≫に現れたのは、7ヶ月ほど前のことだった。
≪楽園≫では見ない独特な雰囲気の男で、その異能力の強さとともに、何かと衆目を集めていた。
「……そもそも、≪楽園≫に入るには、ルートが限られていてね」
まずは、生まれたばかりから幼い頃、最悪小学校卒業までに≪楽園≫に能力を見出だされ、大金とともに親元から離され、≪楽園≫に引き取られるルート。いわゆる、幼稚舎からの生え抜きばかりの、通称、≪能力者≫育成コース。
次に、各界の著名人、大物、あらゆる金持ちの隠し子など、強い影響力を持った隠されるべき子供たちが、親から多額の寄付金とともに預けられるルート。編入時期は様々だが、遅くとも中学卒業までには≪楽園≫で暮らし始めることが多い。
通称、≪一般生≫コース。
「両方のコースに共通するのは、≪楽園≫は一度入れられればほとんどの場合、出られない、ということだね」
「出られない……?」
「おっと――」
瑠可は茶目っ気たっぷりに舌を出した。「外出が制限されている、ということだよ。ここは、曲なりにも全寮制だから」
話を戻そう、と瑠可は言った。
「だから、貴登のように、高等部の途中から≪能力者≫として編入してくるような学生は、ほぼいないといっていい。
なぜなら、それまでに草の根を分けるように、≪楽園≫の人間が≪能力者≫を市政から探しだしてくるからだ」
瑠可は微笑んだ。「しかも、貴登の能力は強力――」
それは、明らかな異分子だった。
そして、異分子は閉鎖的なこの≪楽園≫では、排斥されるべき最たるもの。
とはいえ、弟の≪楽園≫での暮らしは、概ね平穏だったらしい。
なぜなら、弟の後見となった、≪総代表≫がいたからだ。
「後見、ですか……?」
「そう。貴登の能力に目をつけたのかな。自らの配下に加えたかったのかもしれないね」
「配下……」
「有能な配下は、≪総代表≫の力になる」
さらりと言って、とにかく、と瑠可は続けた。
「とにかく、≪総代表≫の≪楽園≫内での身分は特別だ。一方、貴登は強力な≪能力者≫とはいえ、何の後ろ楯もない学生だったからね。≪総代表≫の庇護を受けたとなれば、待遇は雲泥の差だっただろうな」
しかし、小野貴登が失踪したのは、ちょうど先週のことだった。
もっといえば、事の起こりは、さらにその一週間前のことだった。
≪総代表≫の1人が死んだ。
正確に言うなら、殺された。
もっと正確に言うなら、小野貴登に殺された。
「そう。小野貴登は自らの庇護者たる≪総代表≫を弑した――」
瑠可の濃い灰色の瞳が、ゆっくりと瞬いた。
昼間とはいえ、書庫の明かりは木漏れ日が高い位置にある小さな丸窓ひとつきり、照明もついていないやや薄暗い室内には、陰がさしていた。
董子は真っ白になった。
まさか。
まさか、あの弟が。しかも、自分の恩人を、殺した?
確かに、話し方は少しぶっきらぼうで、見た目も強面だったかもしれない。
160センチとそれなりに背が高い董子よりも、さらに15センチ以上は弟には上背があった。
さらに元々筋肉質ながっしりしたタイプであったから、実際よりもさらに大きく見えた。
しかも、顔つきも犬っぽいといえば聞こえはいいが、どちらかといえば野良犬の鋭さがあったと思う。
しかも、弟には強力な異能力があるらしい――。
とここまで考えて、董子は内心首を振った。
「違います……違う……貴登じゃない……! そんなことしない……!」
「さて。≪楽園≫で、それが通じると思う、とーこ?」
通じるはずもない。弟はしょせん、ここでは信用がないただの編入生なのだから。
弟は即座に捕縛、そして裁定にかけられた。
判決はもちろん、≪有罪≫。
そして、貴登の処刑が決まった。
「しょけ……い……」
董子は己の中で、何かががらがらと崩れていくのを感じた。
貴登は、やはり死んだ?
「……待って。でも、瑠可さんは貴登は生きている可能性があるって言いましたよね?」
「そうだよ。なぜなら、貴登は処刑日の前日にいなくなったのだからね。つまり今、≪楽園≫は血眼になって貴登を探しているんだよ」
瑠可の濃い灰色の瞳が、いっそう濃くなった気がした。
行方不明だという意味。生きている可能性があるという意味。
それは、あまりにも――。
「僕がね、とーこ、君に≪犬≫になれ、といったのは、小野貴登の行方を追って欲しいということだ」
「えっ――」
「僕も小野貴登には用があるし、僕は君を助けることができる。君にも悪い話じゃあない。そうだね?」
瑠可は董子の瞳の奥を探るように、灰色の眼差しを緩めた。
そうだ、確かに悪い話ではない。
むしろ、≪楽園≫に何のよすがもない董子にとっては、渡りに船だろう。
瑠可の話が正しいのなら、≪楽園≫に入り込むには、何らかの人脈や能力がなければ不自然である。しかし、不明確な貴登の生死――そして董子は貴登を信じている――貴登が人を殺すだなんて、ありえない。
それらを含めた、すべての真実を明かすためには、≪楽園≫に潜り込むのが一番の手だてなのだ、と。
「とーこ、君にはどこか適当な家の末席という身分を与えよう。階級は≪一般生≫。≪楽園≫では、よくいる学生になるんだ。小野貴登と違って、ね――」
瑠可の言葉は、なんとも示唆的だった。
つまりは、貴登と董子は真逆なのだ。
目立ってはいけない。
董子はあくまで、≪犬≫として、うまくここに馴染んでいなければならない。
そう理解すれば、瑠可が与える、董子の身分もまた、うまく作用するに違いない。
「彼は特に、階級制には懐疑的だったなあ――」
そう懐かしむ瑠可の濃い灰色の瞳の色に、董子はわずかに違和感を覚える。
「瑠可さん、もしかして、貴登と仲良かったりした……?」
「いや。話したことはあまりなかったけど、彼は目立っていたから……貴登と親しかった学生は知っているけれどね」
董子は目を丸くした。
――貴登に、友達ができていた。
かつて、貴登の周りには崇拝者や恐れを抱く者は多かった。
しかし、対等な友達は1人もいなかったのではないだろうか。
「それは、誰、ですか……?」
「瀬野蛍という生徒とは、よく一緒にいるのを見かけたかな」
「瀬野、蛍さん……」
まさか、貴登の友達が女子生徒とは思わなかったが、これはとてつもない有益な情報に違いない。
貴登と親しくしていたなら、何か聞いている可能性がある。
少なくとも、何の情報もないところより≪犬≫を始めるよりは、よほど違っている。
董子は俄然意気込んだ。
「あの! 瀬野さんと会えませんか?」
「焦らなくても、直に会えるさ」
君がうまくやれればね、と瑠可は微笑んだ。
……ですよね。
董子は甘過ぎる自らの考えに、嘆息した。
瑠可が立ち去り、入れ換わるように牧が書庫に滑り込んできた。
着いてくるように言われ、次々と部屋を経由して、とうとう長い回廊へ出る。どうやら、この建物はかなり大きいらしい。
前を静かに歩く牧が、ふと歩みを止めた。
「あなた、とうとう逃げ帰らなかったのですわね」
音もなく牧が振り返ると、真っ直ぐなボブヘアが後を追いかけるように揺れた。
「小野貴登を追いかけて、あちらから来たと聞きました。瑠可から聞かれたかもしれませんが、小野貴登は同胞殺しの咎人ですわ。それを探るなど、あまりにも浅慮。無謀ですわよ」
「それは……」
「……一応、忠告は致しましたわ。ただ、あなたはもう、こちらに足を踏み入れたのですから、この忠言は無意味なのかもしれませんわね」
問いを重ねようとした董子を撥ね付けるがごとく、再び歩み始めた牧のその華奢な背中は頑なだった。
「さて、と――」
大きな姿見の中では、一人の少女が神妙な表情を浮かべている。
背は平均よりはやや高いが、高すぎない。
太りすぎてはおらず、むしろ少し痩せている方だ。
だが、聖フィリイーデ学園――通称≪楽園≫の制服である漆黒のワンピースは細身な作りだったため、何とか様になっている。
――といいな、と董子は思った。
癖が少ないセミロングの髪のいいところは、突然寮生活に放り込まれても、寝癖で爆発しないところだ。
顔立ちについては、昨日から立て続けに美形を見ていなければ、ここまで落ち込むことはなかったはずだ、と前向きなのだか後ろ向きなのだかわからないことを考える。
これが新生活の幕開けなことに、今さらながらに現実味がなかった。
いつのまにか、董子には≪楽園≫に相応しい身分が用意されていた。
それに従い、董子が自室としてもらった部屋としては、人生最大に広い拠点も与えられた。
これまでの色んなことを総合して鑑みるに、おそらく、色んな齟齬がないように執り図られているに違いない。
そう、色んなことが矛盾がないように。
おそらく、董子が死んでも、何も騒ぎにはならないだろう。
「……行きますか」
踵を返しかけて、董子は忘れ物を思い出した。
ベッドのサイドボードには、牧に別れ際渡されたペンダントが置いてあった。
いつでも身に付けておけ、と言われていたものだ。
――いいこと? これは、あなたと瑠可の繋ぎです。
あなたから瑠可への報告があれば、このクリスタルで連絡を取りなさい。
瑠可からあなたへの連絡があれば、同様にこのクリスタルが知らせます。
つまり、と牧は、淡紫色の瞳を瞬かせた。
≪楽園≫内で、私たちの繋がりを知られてはいけませんわ。
なぜなら、あなたは瑠可の直属の≪犬≫なのだから。
「……それって、いつでも切り捨てられるって意味だよね」
だが、それも当然だろうと董子は思う。
突然飛び込んできた得たいの知れぬ人間を、自分の手駒として使うのだから、これくらいの用心はあってしかるべきだと思う。
そして、おそらく瑠可が、持ちうるすべての情報を董子に与えていないことも薄々わかっていた。
むしろ、なぜ瑠可が董子を≪犬≫としたかが、いまだに少し解せないほどだ。
しかし、これはチャンスだ。
≪犬≫として、董子が役に立つとわかれば、きっとさらにチャンスは増す――。
「貴登、とーこは頑張るからね……」
自らに言い聞かせるように、董子は呟いた。
ペンダントを首から下げると、急に肩が重くなった。
瑠可の瞳の色と同じ、濃い灰色のクリスタルは親指の先ほどの小さなものであったから、それは董子の心持ち一つだった。
聖フィリイーデ学園には、初等部から高等部にかけて、大きく分ければ二種類の生徒がいる。
≪能力者≫と≪一般生≫だ。
瑠可が階層という表現をしたが、確かにこの二つの学生たちは、あらゆる場面において、はっきりと区別して扱われている。
≪一般生≫は董子もお馴染みの、クラス分けがされている。
とはいえども、董子の通っていた高校とは少し授業方法は毛色が違っており、授業は選択制である。
つまり、自分の受けたい授業を指定時間分履修し、その単位を取得することによって成績評価を決めていく。
一方、≪能力者≫にはクラス分けがない。
その代わりに、≪総代表≫を中心とした派閥とでもいうべき、独自ルールで機能している。
≪一般生≫と同じ選択制の授業編成であるようだが、それとは別の特別授業も受けている、らしい。
董子は4限目の授業を受けながら、脳内で収集した情報の整理をしていた。
やはり、瑠可の用意した身分は適切だったのか、特段怪しまれることもなく、クラスに溶け込むことができた。
教師から説明を受けたことと、噂好きであり新しもの好きの学生はどこにでもいるようで、編入生がこれくらいのことを聞き出すことは、案外難しくはなくてホッとする。
この調子で貴登のこともわかればありがたいのだが。
前の3面黒板では、教師が無感動に講義を行っている。授業もまた、すでに瑠可が選んでくれていたらしく、それに従うまでだ。
董子は特にそれに反抗する理由もない――正しく犬である。
董子がここで探り出すべきことを考えてみる。
1つ目は、貴登の生死について。
2つ目は、貴登が起こしたという、≪総代表≫殺しの真実――そのためには、その時の状況。
3つ目は、≪楽園≫から抜け出す方法。
董子にはどれも雲を掴むようなことに思えて、気が塞いだ。
下手なことをすれば、おそらく董子も殺されるだろう。
董子の懐には、3通の手紙がハンカチに包まれて納まっている。
しかし、まったく手がかりがないとは言えない。
瑠可が言った、瀬野蛍という学生のこと。
彼女に接触できれば、あるいは何かを得られるかもしれない。
彼女のことは、まだ聞けてはいない。
董子は、とりあえず、昼休み以降を待つと決めていた。
なぜなら、昼休みにはカフェテリアで≪一般生≫と≪能力者≫は一緒に食事を取れるらしい。
もしかしたら、不自然ではない形で、何か噂話も耳に入るかもしれない。
瀬野蛍について情報を集めるなら、それからでも遅くないだろうと董子は考えていた。
「――で。ここがカフェテリアだぜ、沢谷さん。≪一般生≫はトレイを持って、各自好きな皿を取る」
クラスメイトの風祭純心は、そう闊達に笑って董子を促した。
これまで会った、瑠可や牧といった≪楽園≫の学生たちは 、一様にミステリアスで、かつ、≪楽園≫からの仕打ちは董子を≪楽園≫は閉鎖的で排他的な場所だとイメージ付けるには充分だった。
しかし、この風祭はその印象とは真逆である。
中背の黒髪で、顔立ちは平凡である。
ただ、なまえのとおりのお祭り男気質があるらしく、純粋に何かと世話を焼いてくれる。
どこか元の高校生活を思い出させる、明るく親しみやすい学生だった。
「じゅんちゃ~ん」
「じゅんちゃ~ん」
トレイの列に並ぼうとした董子と風祭に、甘ったるい声とともに、転がるようにして2つの影が近づいてきた。
「おわっ!? なんだ、お前らか……」
「それはひどいわ、じゅんちゃん」
「それはかなしいわ、じゅんちゃん」
疲れたような表情の風祭とは対照的に、その両腕には同じ顔をした少女が二人取り付いている。
双子、と董子はどきりとした。
少女たちは期待たっぷりの表情で、董子を見詰めている。
彼女らもとんでもない美貌だった。
牧も美しい少女だったが、双子はアイドルのような愛くるしい童顔である。どちらもロングヘアを複雑に編み込んでおり、鏡に映したようにそっくりだった。
「じゅんちゃん、紹介するのよ。花怜を」
「じゅんちゃん、紹介するのよ。杏奈を」
「はいはい……」
同時に放たれる同じ声は倍音が聞こえるようにすら感じた。
風祭は慣れっこなのか、両腕の少女たちを董子の前につきだした。
「中條花怜と杏奈。幼なじみだ。今は別のクラス。以上。花怜、杏奈、こちらは沢谷董子さん。編入生」
「花怜だよ、とーこちゃん」
「杏奈だよ、とーこちゃん」
よろしくねー、と双子はきゃっきゃっと笑って、董子の両手をそれぞれ掴んだ。
董子は戸惑ったが、この3人は本当に仲が良さそうだった。
一人でいるよりは、グループでいる方が不自然ではない、という思いもあったが、思いがけず友達ができそうなことが、単純に嬉しかった。
「≪一般生≫の中にも階級があるの?」
「ああ。≪楽園≫に来るヤツは基本ワケアリだろ? それは、俺もこいつらもとーこも一緒。けど、やっぱどこからか漏れるらしんだよな、素性がさ――」
正直、董子は与えられた偽りの経歴でここに来ているため、そもそもの≪一般生≫の普通を知らない。
――≪一般生≫も特別。
そういえば、瑠可はそんなことも言っていた。
風祭はビーフシチューを口に運んだ。
「ここに来てるやつらは、全員厄介者だからな。
有名人や資産家や経営者や名家、旧家、その他の連中の隠し子や、とにかく外には出せないやつらが放り込まれてる」
≪一般生≫ルートで編入してきた生徒。
風祭が漆黒の眼差しを董子に向ける。「とーこ、お前もだろ?」
「あっ、うん。もちろん……」
どきりとした。
董子は冷静を装って返したが、果たして誤魔化せただろうか。
風祭は案外、頭の良い男のようだった。
疑われることは避けたい。
董子の思惑には気がつかなかったのか、風祭は続けた。
「とにかく、その素性がいつのまにか学生間に広まって、階級ができる。
つまり、《外》の地位が持ち込まれてるってわけさ。
放り込んだ連中としては、うまくいけば、厄介者の見張りもできる上、人脈を築ければ、あわよくば役に立つかもしれないってな腹だよな」
董子は頷いた。
つまるところ、≪楽園≫という場所は、陽の光の下を歩けない者たちの集まりなのだ。
「……ほら、後ろを見な。なんか人だかりできてるだろ? あれ、≪能力者≫に媚びる連中だぜ。――よくやるぜ、恥を知れってんだ」
「じゅんちゃん、しぃーっ、よ」
「じゅんちゃん、だめーっ、よ」
双子にたしなめられ、風祭はそっぽを向くと小さく舌打ちをした。
董子は、人だかりをそっと観察した。
真ん中にいる人物は見えないが、周囲の学生たちはなんとか歓心を買おうとして必死だ。
そんな集団がカフェテリアのあちこちに点在している。
そんな折、カフェテリアの入り口で一際高い歓声とどよめきが上がった。
「……珍しいな。≪総代表≫の瀬野が現れた」
「瀬野……って、瀬野蛍!?」
思わず食らいついた董子に、風祭は逆に面食らった様子だった。
董子はしまったと思ったが、すでに口から出てしまったことは仕方がない。
「風祭くん、どの人?」
「ああ。あのメガネの男の隣にいる、白髪の男だ」
まさか、瀬野蛍が≪総代表≫だとは。
というか、女の子じゃなかったことにも董子は多少ショックを受けていた。
遠目であるにも、なおかつ大勢の人間に囲まれているにも関わらず、瀬野蛍の存在感は圧倒的だった。
まずは、長身痩躯である。
ただそれは瑠可も同じであったが、やや猫背気味の瑠可とは対照的に、瀬野は姿勢すら非常に整っており、立ち姿さえ美しい。
雨宮瑠可が漆黒の死神であるなら、瀬野蛍は純白の死神――。
カフェテリアには、あまねく、瀬野の発するぴりついた雰囲気が走る。
彼も瑠可と同じ、≪総代表≫だが、こうまで違うとは。
瀬野は辺りを見渡し、何かを探しているようだった。
ふと、視線が合った気がした。
しかし、それは一瞬だった。
なぜなら、瀬野は目的のものを発見したらしかった。
人混みがまるでモーセが海を割った伝説のように引いて、瀬野と目的のものの間に一本の道を作り出した。
そこにいたのは、一人の女子学生だった、と思う。
なぜなら、すぐに人が視界を遮り、よく見えなくなってしまった。
わっと騒ぎが起こった後、瀬野が取り巻きを連れてカフェテリアを出ていくのが見えた。
再び平常を取り戻したカフェテリアで、風祭がふう、と嘆息した。
「……≪雷帝≫は相変わらずだな。マジこえーよ」
「≪雷帝≫?」
「ああ、瀬野の通称。≪総代表≫は皆、能力にちなんだ異名があるんだよ」
「……例えば、≪雨の魔術師≫、とか?」
「それは、雨宮瑠可だな。なんだ、意外ととーこもそういうことに興味あるんだな。仲間だと思ったのに、とんだ見込み違いもいいとこだ――」
「……えっ、仲間って……?」
風祭はへらへらと笑って、その後は何を聞いても答えてくれなくなった。
その夜、どうにか初日を終えた董子は、ベッドの上であぐらをかきながら、ノートにメモをしていた。
まず、一番の手がかりと思われていた瀬野蛍について。
会えさえすれば、簡単に話を聞けると思っていたが、それはあまりに浅はかだった。
そもそも、≪総代表≫とは遭遇することすら危うい。
また、この昼休みのようにたまたま会えたとしても、あの喧騒の中、他の学生たちも瀬野との接点を持ちたがっている中で董子から話を持ち出すのは至難の業だ。
犬として行動する董子としては、絶対的にうまい手ではない。
悔しいが、瀬野蛍については、後回しだ。
――まず、≪総代表≫殺しや貴登の話題がどの程度で、この≪楽園≫で扱われているか、知らなすぎるというのもある。
「……ちょっと待って」
はた、と董子は動きを止めた。
そもそも、殺された≪総代表≫について、董子はまったくもって、情報をもらっていないことに気がついた。
わかっていることは、貴登の後見になってくれていたこと。
そして、新たな≪総代表≫になろうとしていた貴登によって、殺されたらしいということ。
それくらいだ。
ただの瑠可の伝え忘れだろうか。
それとも、あえて秘密にしたのか――?
董子はペンで、ノートに書き付ける。
『嘘でも、信用しているフリをした方がいいのかどうか』
まだ、瑠可とはお互いに理解し合えるほど、話もしていない。
また、向こうは明らかにこちらを切り捨てられる方向で、今回の話を持ち出してきた。
その前提があった上で、だ。
「……うん。信じているふりをして、素直に聞こう」
瑠可の取りはからいあっての今の状況で、無意味に挑発にも取れることをしたところでまったくメリットがない。
それなら、瑠可にすり寄っておくのもやぶさかではない。
そして、その上で、裏付けは董子自身が取ればいい。
そこで、董子はゾッとした。
――瑠可は、どこまで本当のことを董子に話したのだろうか。
瀬野蛍が≪総代表≫であることすら、教えてくれていなかった。
また、瑠可は貴登の情報を欲しがっていたが、その意図も不明である。
そもそも、≪楽園≫内で相当高い位置にいるという、≪総代表≫が知ることができない部分を捨て駒を使って探るというのは、本当にヤバイ案件なのでは――。
「わ、どうしよう……私、死んじゃう……」
董子はそのまま、ベッドの上に倒れこんだ。
もし、もし瑠可がまったく信用できないとして、
その他に一体誰を信じることができるのだろう。
――手紙。
董子は目を開いた。
そもそも、董子がここに来ることになった手紙を差し出した人物はどうか。
手紙がなければ、董子は少なくとも貴登の危機をここまで早く知ることはできなかった。
もしかすると、知ることすらなかったかもしれない。
手紙の差出人は、信頼のおける有力な情報提供者となるはずだ。
――とにかく、情報が欲しい。
董子は横たわったまま、とろりと眠気が襲ってくるのを感じていた。