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2/12

かりそめの死に、降り注ぐ雨は冷たい

 数十分、はたまた数時間。


 時間の経過がまったく読めず、さらにどこをどうやって通ってきたかもまったくわからないまま。


 董子は振り落とされるように、とある部屋の床に投げ出された。


 何とか室内だとわかったのは、明らかに質の良い絨毯に顔から突っ込んだからである。


 頭にはみるみる鈍痛が広がっていった。

 さらには、乗り物酔いにも似たひどい吐き気を覚えて董子は転がったまま、しばしそれを堪えたが、次に目を開けた時、また別の吐き気が喉の奥からせりあがってきた。


「とーこが起きた」


 寒気がするほど美しい死の使いは、董子の脇で子供のようにしゃがんでいた。


 その形の良い唇に面白そうな微笑をはいて。

 反射的に跳ね起き、董子は部屋の出口らしき扉へ猛ダッシュした。

 が、足首に何かが絡み付き、ずでんと転ばされる。


 董子は這いつくばったまま、背後を振り返る。

 漆黒のローブの死神は変わらず、面白そうに――なんというか、珍獣でも観察するかのように董子を見ていた。


「とーこ、話をしよう?」


 それはあくまで提案の形であったが、董子に決定権はまったくなかった。




 男は、雨宮(あめみや)瑠可(るか)と名乗った。


 ゆっくりと瞬かせた瑠可の瞳の色は、ほの暗いものの室内の照明の下で見れば、今にも雨が降りだしそうな雲を思わせる、濃い灰色だった。


 董子と瑠可は、良い香りの紅茶を挟んで応接セットに向かい合って座っていた。


「とーこは人間でしょう?」


 部屋は広くはないが、その代わり天井は高く、壁という壁にぎっしりと本が詰められた棚が無数に設えられていた。

 その他にアンティークのような古めかしい木製のしっかりした机があったが、よく手入れが行き届いているようで、鈍く艶やかに光っていた。


 部屋の主らしく、瑠可は今は漆黒のローブを脱ぎ、同色のシャツとズボンで、いくぶんリラックスした様子である。


 座るだけで沈み込むような柔らかなソファは来客用なのかもしれないが、むしろ、董子をまったくといっていいほど落ち着かせなかった。


「人間、ですが。その……?」


 むしろ、人間以外の何に見えるのか、教えてほしい。


「やはりそうか。こんな時間に、外をうろつくなど、≪死神≫以外に考えられないものだから。間違えて、うっかり殺しそうになってしまったよ」


 ごめんね、と紅茶のカップを上品に傾けながら、穏やかな笑みを浮かべる、自分自身が死神のような姿形の男。


 何がなんだかわからないが、うっかりで殺されかけた方の董子は、ガチガチの笑みを浮かべるしかなかった。


「それで、ただの人間のとーこが、どうして≪楽園≫に?」


 董子は思わず、息を詰めた。


 やはり、ここは≪楽園≫で間違いなかったのだ。


 そうなれば、董子にも聞きたいことはたくさんあった。


 瑠可が先ほどまで乗っていた巨大な魚のこと。


 度々董子を襲った、ワイヤーのようなもの。


 大体、この目の前の男は人間なのかどうか。


 そして、ここが≪楽園≫であるというのなら、なんでもいい、貴登の情報が喉から手が出るほど欲しい!



 そのためには、この男の機嫌を損ねないよう、うまくやらないといけない。


 ――少なくとも、殺されないように。


 董子はごくりと息を呑んだ。


「……しっ、知り合いが、こちらに最近編入致しまして」

「へえ?」

「近頃、連絡が取れなくなったものですから、心配になりまして。それで」

「会いにきたんだ?」

「はい……」


 絞り出した理由は、急造にしては、そこまで不自然なものではなかったはずだ。


 まさか、そちらから弟が死んだという連絡が来たものの、不信感を覚えたので様子を探りにきた、とは口が裂けても言えない。


 未だ、首に何かが絡みついてきそうな気がして、董子はそっとそこに手をやる。


「会いにきた、かあ……とーこ、≪楽園≫の場所はどうやって知った?」


 意図の知れぬ質問だったが、脳裏には手紙に隠されるようにして記された住所や、弟からの一部が切り取られた手紙が過る。「あの、普通に。調べました」


「どこに載っていたのかな?」


「ね、ネットでたまたま、見つけただけで。よく、覚えていないです」


 瑠可の感情を表すように、瞳の色合いが濃く淡く変わっていく様に、董子は背筋に大量の汗をかいていた。


 確実に怪しまれている、と思う。


 なぜなら、≪楽園≫についての情報は、明らかに出所が限られているに違いなかったから。


 しかし、そう、と瑠可は穏やかに微笑んだだけだった。


「ここまではどうやって来たの?」

「え? あの、電車とバスと歩きで……」

「それは、本当?」


 今度こそ、嘘はついていない。


 こくりと頷いた董子に、瑠可は考え込むように濃いグレーの視線を宙にさまよわせる。

 長い漆黒の睫毛が瞬くさまが、机を挟んだ距離からでも見てとれた。


「とーこ」


 呼ばれて、董子は改めて瑠可に向き直った。


 瑠可の濃い灰色の瞳には、相変わらず穏やかな笑みが浮かんでいた。



「――君の尋ね人は誰?」



 ここが大一番なのかもしれない、と董子は本能的に悟った。


 ここで何としても瑠可を納得させなければ、おそらく、董子は殺される。


 殺されるとまではいかなくとも、ただで戻してもらえるとは到底思えない。



 しかし、この雨宮瑠可を信用することができるのだろうか。



 だが、信用するとか、しないとか、そういうレベルでは、すでになくなっていた。


 失敗すれば、死ぬか、または死ぬと同じくらいにひどいことになる。


 生きて、貴登の情報を掴む。


 そのどちらかしか、董子には選ぶことはできない。

 ならば、董子に選ぶ道はひとつしかない。


 本当のことを話し、後は天命にかける。



「……雨宮、さんは。小野貴登という男子生徒をご存じでしょうか」



 瑠可は視線だけで続きを促す。


 董子はゆっくりと、噛み締めるように告げた。


「本当のことを、言います。貴登は、半年ほど前にこちらに編入すると言っていました。でも、今日、強い伝染性の病気で死んだ、って、知らせがきたんです……。でも、私にはどうにも信じられなくて――」


「それで、≪楽園≫まで乗り込んできたんだね?」


 瑠可は優しい声音をしていた。

 少しだけ勇気づけられて、董子は頷いた。


「……紙切れたった1枚で、大事な人が死んだだなんて。そんなの、納得できるわけないでしょう――」


 言い切った。

 最後は、舌が震えて語尾が怪しかったけれど。


 小野夫妻は貴登を邪魔者にしたが、董子にとって貴登は、ただ一人の片割れ。


 瑠可は面白そうな表情は崩さないまま、その骨が目立つ痩せこけた指先で、華奢なティーカップの縁をなぞる。「僕はあまり世の中を知らないけれど、≪楽園≫にやって来るより、まず、君はケイサツなる組織や、公的に権力を持つ者に助力を求めるべきだったのではないのかな」


「あっ……」

 頭に血がのぼり、その考えはまったく思い浮かばなかった。


 この非常識の塊のような瑠可から出る言葉としては、ひどくまっとうで、わけのわからない場所に一人で飛び込んでいくより、ただの高校生である董子が真っ先に取る手段としては現実的だった。


 もののついでに、董子は自分が学校へ欠席の連絡もしていなければ、同居している親戚に特に何も言い残しては来なかったことも思い出して、一気に、今はもはや遠くなりつつある現実を、突きつけられたことを付け加えておく。


「しかし、その愚かさは今回に限っては僥幸だったね、とーこ」


 瑠可の濃い灰色の瞳が、ほの暗い照明の光を受けて、きらりと光った。「君が≪楽園≫のことを社会的組織に訴え出れば、即座に君は《潰されていた》だろうから」


「ええっ!?」


「それに、見つかったのが僕だったのも、運が良かった。他の連中だと、即座に処分されていただろうし。その点、僕はまだしもおおらかな質だから、()()なら偽りも許す」


 ――ここ、本当に日本なのだろうか。

 瑠可がおおらかなら、後はどんな魑魅魍魎ぞろいなのだろうか。



「君の事情はわかったよ。僕は力になることができそうだ」



 瑠可は懐にそっと手をやると、端正に折り畳まれた真っ白なハンカチを董子に差し出した。


 董子は今さら、自らの瞼から溢れだし、頬を滑った熱いものに気がついた。


 ありがとうございます、と董子は気を失いそうになりつつも、何とかお礼を言った。


 どうやら、董子は首の皮1枚で繋がったらしい。


 が、安堵できたのはものの一瞬だった。



 ただし、と瑠可は付け加えた。



「君は僕の犬になるんだよ、とーこ」



 ……はい?


 董子は、一瞬固まった後、うわごとのように瑠可の言葉を繰り返した。


「いぬ……? 犬って……? あの、犬?」


 脳裏に、汚い野良犬が現れて、3回回ってワンした。


「さて、と。とーこ、僕らはもう、ずいぶん話した。そうだね?」


 瑠可は音もなくソファから立ち上がり、 行き過ぎた痩身をうんと伸ばした。


 確かに、董子も朝から活動しっぱなしの上に、昨夜はよく眠れておらず、体はひどく疲れていた。


 が、頭の方はぎんぎんと冴え渡り、心は叫び続けている。

 色んなことが起こりすぎて、脳が火を噴いてスパークしそうだ。


「ま、待ってください。犬って何なんですか? 結局、小野貴登のことは知っているんですか? ねえ、雨宮さんっ……」


「瑠可でいい。敬語も特にいらないよ。――僕は疲れたんだよ、とーこ」


 瑠可は穏やかに微笑むと、柔らかな濃い灰色の眼差しで董子を見詰めた。「犬は犬だよ、とーこ。あと、貴登のことは知っている。さ、これでいいかな」


「瑠可……さん、話の続きを――」


「すべて明日にしよう。おやすみなさい、とーこ。良い夢を。――(まき)、後はお前に任せる」


 ゆらりと、細身のナイフのような背中は扉の奥へ消えていく。

 瑠可を追おうとした董子を阻むように、 一人の少女が現れた。


 ミルクティー色のさらさらのボブヘアとつり上がった大きな淡紫の瞳の、猫を思わせる美少女である。


 彼女もまた、上質な布で作られた漆黒のワンピース――どうやら、瑠可の纏っていたものと似たようなデザインのそれは、制服なのかもしれない――はぴたりと身の丈に合っていた。


「わたくしは、(まき)瑞季(みずき)と申します。雨宮瑠可の配下が一柱であり、筆頭を務めております」


 牧はふわりと、愛らしい笑みを桜色の唇にのせた。「瑠可をこれ以上追うこと、許しませんわ」


「でも――」


「瑠可がそう言ったのなら、あなたは今からお休みになるのですわ、お嬢様(フロイライン)


 きつい口調ではなく、それは彼女の柔らかな声のせいなのか、あくまで優しげで甘やかな響きに聞こえた。


 しかし、それは明らかな命令である。


 牧はその細い指に似合わぬ強い力で董子の二の腕を掴むと、足早に、しかし優雅に歩き出した。





 董子に用意された一室は、先ほど瑠可と対面した部屋よりもやや広かった。


 こちらも負けず劣らず、高級な雰囲気の漂う空間で、寝室らしくベージュと金を基調とした落ち着いたインテリアで統一してある。

 部屋の真ん中に置かれているふかふかのキングサイズのベッドを見た瞬間、眠気が董子を急襲した。


 そもそも、今は何時頃なのだろうか。


 そんな董子の様子に気づいているのかいないのか、牧は淡々と一頻り部屋の設備の説明を続けている。


「そして、奥には簡易的なものですけれど、浴室がございますから、お湯浴みもしていただけますわ。お着替えもそちらに。お手伝いは?」


「手伝い、ですか……?」


「湯をお使いになるなら、お手伝い致します、と申しておりますが」


「えっ、お風呂って一人で入るものじゃあ……。うっ、すみません……」


 董子の言葉に、牧の柳眉だけがぴしり、と跳ねた。


 が、牧は微笑みを崩さない。


 董子は口をつぐんだ。牧が慇懃ながらも相当董子に対して腹を立てていることには、さすがにもう気がついていた。


 初対面の相手に対して、何を腹に据えかねることがあるのかは董子には窺いしれないが、これ以上の怒りを煽る真似もしたくはない。

 世界が違いすぎて、相手のツボもわからなさすぎて怖かった。


 何より、もう董子は疲れ果てていた。


 このまま、この毛足の長い絨毯が敷かれた床なら、この場で倒れこんで泥のように眠っても問題がない気がした。


 しかし、せっかくなのだから、入浴でもしようか、とのろのろ動き始めた董子だったが、視線を感じて振り返った。



 牧はまだ、そこに立っていたのだ。


 その淡紫の瞳と董子の目が合った瞬間、牧は踵を返して部屋から出ていった。




 簡易というにはあまりに広すぎる浴室だった。


 とてつもなくいい香りの泡のお風呂でおっかなびっくりの入浴をし、今まで使ったこともない肌触りの良すぎる着替えも、ありがたく使わせてもらった董子だった。


 大きなふわふわのベッドに身を横たえると、鼻腔を百合の香りが満たしていく。

 そう、あくまでもここは、瑠可のテリトリーなのだ。


「――貴登、とーこはここまで来ちゃったよ……」


 ――貴登、本当にもう死んでしまった?

 生きているかも、なんて、ただのとーこの願望なのかな。



 自然と瞼が、降りていった。






 銀色の糸が、つ、と一筋流れ落ちたかと思えば、天は、とうとう泣き出した。


 鉄錆の臭気が周囲に充満し、自分自身の全身――特に腹部からは、命とも言い換えるべき液体が止まることなく流れ出て、雨の滴に溶け出していく。


 ここはどこ、と董子は、ぼんやりと落ちてくる雨の粒を頬で受け止めていた。


 そして、視界の端で血塗れで力尽きている夫の姿を認めたとき、これが夢の中であると気がついた。


 どうやら、董子と夫は自動車に乗っている途中に事故にあったらしい。


 ――不思議なことに、夢の中であるにも関わらず、董子は記憶を引っ張りだすことができた。


 董子は身ごもっていた。

 出産のための里帰りの途中だった。

 夫は仕事終わり、疲れているにも関わらず、董子を実家まで送るといって聞かなかった。


 出発時、まだ雨は降っていなかったが、空には濃い灰色の雲が重たくかかっていた。


 董子の実家までは高速道路と途中山道を通り、二時間ほど。

 夫は疲れていたし、天気が崩れそうな気配であったが、行き慣れた道でもあったから、そこまで心配もせず、気軽に送迎を頼んだ。

 実際、高速道路を下りるまでは快調なドライブだった。


 しかし、山道を進みだして十数分後。


 董子たちの乗った車の上に、≪何か≫が≪降り立った≫。


夫が自動車を停車させる前に、≪降り立った何か≫は、車の屋根からフロントガラスに顔だけ出した――。




 董子は目を覚ました。


 夢とわかっていてなお、心臓が早鐘のように打っている。

 全身が汗でぐっしょりと濡れていた。


 ここはどこ。

 ――ここは、≪楽園≫だった。


 今の不気味な夢はいったい何だったのだろう。


 ただの夢といえば、そうなのかもしれない。

 しかし、そのあまりのリアルさは、董子は実際に自分が経験した過去の記憶のようにすら、感じられたくらいだった。


 董子は思わず、自分の腹部を探った。


 もちろん、傷などなく、ほっと息をつく。


 大体、結婚や妊娠どころか、彼氏だっていたことがない。

 好きな人だってできたことがない、年頃にしては何とも寂しい董子だった。


 と、なぜかその時、濃い灰色の瞳が思い出されて、ないない、と董子は首を横に振った。


 確かに、瑠可は態度は優しげであるし、希にないほどの美貌だ。


 が、いかんせん、忘れてはいけないのは董子はうっかり殺されそうになっているのだ。


 好きになる要素がなさすぎて、かえって笑えてきた後、ひどく疲れた。



「起きておられますか? 」



 三度のノックの後、牧の控えめな声が扉越しに響いた。


 はい、と董子が返事を返した瞬間には、するりと牧が部屋に滑り込み、後ろ手で鍵をかける。


 その相変わらずの猫めいた美貌には、いささか硬い表情が浮かんでおり、董子はどきりとする。



「どうやら、招かれざる客のようですわ」



 董子は目を丸くしたが、すでにドアの外からはざわめきが聞こえてきていた。




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