弟の死を知らせる手紙
現代学園ファンタジーになると思います。
耳元で、刹那、吹き荒ぶ風がびょうびょうと吠えた。
辺りはインクを撒き散らしたかのような、漆黒の闇に包まれていた。
≪そこ≫は、ひなびた県の辺境の、さらに山を分け入った森の奥に聳えていた。
「ほんとうに、着けてしまった……」
沢谷董子は、震える唇をかんで、寒さを堪えた。
季節は秋の始まりで、まだまだ夏の暑さを残していた。
例え、時刻が深夜であるとしたって、寒くなどないはずだった。
ということは、これは身の内から出ずるもの――恐怖だとか、恐れだとかそういった類いの。
ふいに、何かが吠える声がして、董子は身動ぎをした。
履き慣れたスニーカーが草を擦り、青臭い匂いが鼻をくすぐった。
日常をとっくに離れた場所に立っている、と思い知った。
董子は、ゆっくりと≪異様≫を見上げた。
深い山と森に囲まれた、石造りの古めかしい巨大な時計塔。
それを中心に、五茫星を描くように道が延び、広大な敷地が広がっている。
この≪異様≫のどこかに、弟の手がかりがあるはずなのだ。
董子は数ヵ月前の弟の様子を思い返していた。
「とーこ、俺は来月から≪楽園≫に行くことになった」
久々に顔を合わせた弟は、そう言った後、コーヒーを口に運んだが、苦かったのか、その精悍な顔をしかめた。
砂糖とミルクをめいっぱいいれてなお、弟はコーヒーが飲めない。彼は見た目によらず、甘党なのだ。
「それは……」
董子は、落ち着くために、自らのカフェラテのカップを持ち直した。
その拍子に、わずかに液面が波立った。
放課後のチェーンのコーヒー店は、董子たちのような高校生や、主婦、サラリーマンたちなど、たくさんの客で賑わっている。
それは、恐ろしいくらいに何でもない日常のワンシーンで、一方で低めた声で繰り広げられる、董子たちの奇妙な会話には、誰も気がついていない。
「貴登、そのこと、小野のおじさんたちは反対していないの?」
「ああ。むしろ、俺が消えることになって、ホッとしてるんじゃねえのかな」
董子が躊躇いがちになったのも、少し息を詰めたのも、弟は鋭敏に感じ取ったのだろう。
弟――小野貴登はいつもはきつく引き結ばれている形の良い唇を、不器用に緩ませた。「だから、早くとーこにも報告したかった」
「貴登……」
「そんな顔すんな。大丈夫だって」
貴登はらしくなく、困ったように眉を下げると、董子の瞳を優しくのぞきこむ。
董子も、貴登の鳶色の目を見つめ返した。
そうすれば、この、いつでも無器用な双子の弟の本心が読めるような気がしたから。
だが、いつか、こんな日が来るとどこかでわかっていた。
16歳になった今では、到底考えられないが、小学校に上がったばかりの当時はまだ、董子と弟 貴登の上背は同じくらいで、名字も同じだった。
二卵性の双子である二人は、同じ時期に、同じ茶色のランドセルを二つ並べて、毎日手を繋いで通学したものだった。
ただ、董子があらゆる場面で感じていたのは、弟はやはり≪特別≫である、ということだった。
まず、弟はずば抜けて足が速かった。
誰が例えたか、その様はあたかも一陣の疾風。
涼しい顔をして、次々と周りをぶっちぎっていく。
小学校に上がった時点で、もはや校内には敵なし。どこで聞き付けたかは知らないが、あらゆるスポーツのクラブチームの勧誘が家に列を作った。
そして、弟は異常に勘が鋭かった。
カードゲームでは連戦連勝は当たり前。
天気の予想に始まり、様々な人間関係の思惑、学校でのぼや騒ぎ、町での通り魔事件。特に、弟自身が知りたいと思ったことについては、ほぼ、『当てる』ことができたようだ。
ようだ、というのは、董子が貴登に、例え何か勘づいたとしても、知らないふりをしておけ、ときつく言い聞かせていたためだ。
また、弟は人を惹き付けた。
しかも、老若男女問わず、のべつまくなしに、だ。
弟はお世辞にも他人に愛想が良い方ではないし、むしろ無愛想なタイプだ。
また、弟はあくまでも董子の血縁なのだ。
少年の頃も、大人になりかけの今も、好みが別れるだろう容貌だ。背が高く体格は良いが、どちらかといえば厳つい部類に入る。
しかし、フェロモンとでもいうのか、董子にはさっぱりわからない、≪魅惑≫とでも言うべき不思議な魅力があるらしい。弟は、いつでも崇拝者には事欠かなかった。
実際、このコーヒーショップでも、貴登が少し体を揺らせば、ぴくりと反応している人間は少なくない。
『お姉様、貴登君を私の養子にきていただけるよう、ご説得いただきたい』
どこで見知ったか、誰もが知る大企業の会長に潤んだ眼ですがりつかれた日には、さしもの董子も猛ダッシュで逃げ出したものだ。
おそらく、その≪魅惑≫に関わるのかもしれないが、弟は犬にも非常に好かれた。
弟が少し外に出れば、飼い犬、野良犬、あらゆる犬が弟に懐いてくる。
だが、弟は特に犬が好きというわけでもなく、逆に犬好きの董子はむしろ犬には嫌われる。世の中とは厳しいものだ。
とはいえ、弟を取り巻くそれらの≪特別≫が、人生に陰を落としていなかったといえば、嘘になる。
弟はどこにいても目立った。隣にいた董子もまた、人の目にさらされてきた。
それは決して、愉快なことではなかった。董子は、弟ほど肝も据わっていない。
理不尽なことばかりが起きたし、世の中の怖さに眠れない日もあった。
ただ、董子はこうして、弟と向かい合ってお茶が飲める。
どんなに無愛想で、図体と態度だけは大きいとしても、ずっとずっと庇護すべき可愛い弟。
とーこ、と不器用に呼ばれれば、守ってやるのは道理なのだ。
尋ねてはいないが、弟にとっての董子もきっと、そうであるはずだ。
しかし、そんな貴登が董子から離れようとしている。
そして、きっとそれは、貴登なりの、董子も含めた周りへの配慮なのだ。
「≪楽園≫はどんなところ?」
「董子が考えてるより悪いところじゃない。俺みたいな、ちょっと変わったやつが多い」
「そっかぁー……うーん」
それはちょっとどころではない風変わりな気がして、董子は微苦笑せざるを得なかった。
その微妙な反応に、貴登は珍しく、くしゃりと屈託なく笑う。
「大丈夫。きっといいところだって」
その後、通称≪楽園≫――聖フィリイーデ学園について、名前がそれなりに知られているにも関わらず、董子が集められた情報はあまりに少なかった。
幼稚舎から高等部まで一貫の全寮制私立教育機関であること。
運営費は好事家の寄附で賄われており、入学金、授業料その他一切の費用が無料であること。
レベルの高い教育が受けられ、世界中のあらゆる業界にコネクションがあること。
たったこれだけの情報を集めるのにも手間取り、インターネット上にもほとんど情報がない。
董子はなんだか、言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。
だが、あの弟が選び取った場所だ。多少風変わりだったとしても、貴登に合った場所なのだ。
その後、弟が汚い字の手紙を二度ほど寄越した。董子はそれぞれに返信をした。どうやら、寮では携帯電話の使用が禁止であるらしい。
それきり連絡はなかったが、元々筆まめでない弟のこと、便りがないのは元気な証拠と特に心配はしていなかった。
それに、弟は選ばれた人間なのだから。
それは貴登への、董子の信頼だった。
そんな折、郵便受けに消印のない董子宛の手紙が投函されていた。
内容を確認し、董子は心臓が潰れるような衝撃を受けた。
――小野貴登は死んだ。R.I.P.
そこに静かにあったのは、タイプ打ちされた、凍えるようなエンボスの文字だった。
「貴登が、死んだ……?」
震えた声が出た。
そんな、まさか。いたずらに決まっている。
いてもたっても居られず、小野家――貴登の実家に走った董子を迎えたのは、仏壇に申し訳程度に飾られた貴登の位牌だった。
小野夫人――それは、董子の母でもあったが――は、動揺する董子に、吐き捨てるように告げた。
「どこから嗅ぎ付けてきたの? あんたもおこぼれにあずかりにきたってわけ!」
「あの化け物がやっと片付いた、と思ったら次はこれだ。お前、子育て失敗しすぎだな」
貴登の義理の父はそう言って、夫人と笑い合った。
董子は気が遠くなりかけた。
董子は二人を詰問した。
しかし判明したのは、貴登が病死したこと。重大な伝染病だったため、≪楽園≫で遺体を処理したこと。
貴登の死亡診断書とともに、見舞金という名の莫大な現金が小野夫妻の手元に渡ったということだった。
まるで、口止め料だ。
呆然とする董子に、小野夫人は最後通帳を突き付けた。
「そうそう、もうここに来ないでね、董子。あんたも貴登と同じよ。あんたたち双子は、あたしの人生をめちゃくちゃにしてくれたんだから。一生許さない」
その目からは、貴登への愛情は微塵も感じられなかった。もちろん、董子への愛情も。
董子は一旦、自宅に帰り自室のベッドに潜り込んだ。
頭を巡るのは後悔ばかりだった。
まずは、父が死に、貴登を誰が引き取るか揉めたとき。
当時から貴登の風変わりぶりは群を抜いていた。
親族中、母も含めて、誰もが引き取りたがらなかった。
結局、董子を引き取った父方の親族が、母に金を払ったのだ、と後で聞いた。
父が死んだばかりにも拘らず、母が男と同棲しはじめても、貴登は平然としていた。
董子は董子で、親戚をたらい回し状態だったとはいえ、あまりに弟のことを気にかけていなかった。
どこが大丈夫だったのか、全然わかっていなかった。
次に、≪楽園≫行きを止めれば良かった、と煩悶した。
情報を集めたときに感じた胸騒ぎに、もっと耳を傾けていれば良かった。
そうすれば、少なくとも弟は考え直したかもしれない。
最後は、弟からの連絡がなくなったときに、真剣に心配していれば、と考えたときに、董子は涙が止まらなくなってしまった。
弟は大丈夫だ、といつもそう言っていた。
そう、それはあの別れ際も、だ。
――とーこ、いぬがうっとうしい。
――とーこ、へんなおっさんがきた。
――とーこ、これうまい。
脳裏には幼い頃からの貴登の面影が、次々に浮かんでは消えていった。
そうして数時間の、しかし途方もなく長い長い夜をまんじりともせず過ごし、夜明けを迎えたとき、董子はふと疑問を覚えていた。
そもそも、誰があの手紙を董子に届けたのだろう、と。
董子はベッドから跳ね起きると、貴登からの2通の手紙を取り出した。
どちらも同じ封筒に入れられており、例の手紙もまた、同一のものを使用している。
また、貴登の手紙には、届いたときには気がつかなかったが、まるで敢えて誰かがそうしたかのように、内容が切れている部分があった。
そして例の手紙をよくよく見てみると、罫線を模して、美しく豆粒のような字で書かれていたもの。
「これは……住所……?」
どこの住所かは知らない。
しかし、二度ほど弟に出した手紙の返事の宛先は、すべて私書箱となっていた。そこの住所ではないことでは確かであり、インターネットでも、電話帳にも載っていない、見知らぬ住所――。
董子は朝方の道路へ飛び出していた。
そこからは早回しのように、董子は動き回った。
ATMで口座からあるだけの現金を下ろし、片道分の切符を買ったら、必要な交通費を除けば、もはや手元には食事代も残らなかった。
文字通りの片道切符だったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
何度も電車を乗り継ぎ、その後でバスに乗り換えて、山奥へ、山奥へと進んでいく羽目となった。
そして、ようやく≪異様≫は董子の目の前に姿を顕した。
「……探さなくちゃ」
闇夜の中を、己を奮い立たせるように呟き、董子はどこか≪楽園≫に入れるような入り口を探しにかかった。
石造りの塀は董子の背の数倍の高さを誇っていた。
そこに絡みついた年季の入った蔦に手で触れながら、董子は自らの考えを反芻した。
誰かが、大金を払ってまで秘すべき弟の死を、誰かが董子にわざわざ、手紙で知らせてきた。
弟の死は死亡診断書1枚で片付けられた。
そこには、董子が考えるよりももっと、重要な意味があるのではないか。
例えば、まだ貴登が生きている、だとか――。
董子は上がった息を整えるため、一旦歩みを止め、天を見上げた。
いつの間にか雲が晴れ、暗い夜は静かな月が支配する世界へと様変わりしていた。
その満月のあまりの丸さに、董子は思わず見とれた。
その瞬間、いきなり首回りに何かが絡みついたかと思うと、董子はふいに喉を締め上げられていた。
呼吸ができない。
苦し紛れに喉元をかきむしれば、何か糸のようなものに手が当たった。
この固さと細さは、董子の知るもので例えるならば、ワイヤーかもしれない。
なぜ、ワイヤーが首に巻き付いているのか。
なぜ、こんな状況に陥っているのか。
たくさんのなぜが浮かんでは、意識が真っ白に染め上げられつつあった。
「――あれ、見ない顔だな」
ビロードのように艶やかな男の声が聞こえた刹那、董子の肺に大量の酸素が送り込まれた。
ワイヤーの気配が消え、董子は地面に崩れ落ちる。
荒い息を繰り返す董子の耳に、雨水が滴るがごとく、清浄な音が響いた。
瞬間、董子の視線の先にある地面が翳り、ゆらりと陰は蠢いた。
「さか、な……?」
それは、巨大な魚だった。
満月に照らされ、真っ白な鱗が光を乱反射する。
ゆっくりと巨魚は天を回遊し、呆然と見上げる董子の目の前で動きを止める。
その上には、漆黒の影が座っていた。
「やあ。君は、何?」
影――男は穏やかに微笑んだが、ぞっとする美貌だった。
闇夜を溶かした髪と同じ色の切れ長の瞳、さらに目元の泣きぼくろが彼の魔術的な雰囲気を際立たせている。
黒い影に見えたのは、その体に纏うローブのせいだろう。
歳は董子や貴登と同じくらいに思われる。
ただ、 果たして、彼は人間なのだろうか――?
董子は思わず後退りしたが、男はわずかに目を細めた。「同じ質問をするのは苦手なんだ」
首筋に先ほどと同じ気配を感じた気がして、董子は早口で叫んだ。「董子! 沢谷董子と申します!」
「……董子。とーこ」
巨魚の上の美しい男は、ビロードの声で転がすように穏やかに繰り返すと、董子の腕をふいにその長い腕でつかんだ。
温度のない手は、ひどく痩せて骨張っていた。
「なに、を……?」
戸惑う董子を尻目に、ゆるやかに弧を描く、男なのに、ひどく形の良い唇。
ひょいと魚の上に転がされて、何か大きな布のようなものを上から被せられる。
視界が真っ暗になり、董子はパニックになった。
「ちょっと、やだっ……なにっ……!?」
ふいに、≪地面≫が揺れた。
その後で続く、何とも言えない、内臓が体の中でゆらめく感覚――浮いている。
完全に、巨魚は宙に浮いている。
鼻先にふわりと、漂ってきたのは、清冽な花の香りだった。
百合だ、と董子は感じた。
それは死の臭い。
ならば、先ほどちらりと見えたガリガリの手は、死神の手だ。
だとしたら、と董子は青くなった。
――死の世界へと来てしまったのかもしれない。