「昔々・・・」
最終部では、桃太郎に関する諸々の研究の中における、本作品の議論の位置付けの確認を行う。
最終部 桃子誕生 –Momoko Naru-
原作:落語「桃太郎」
(一)
昭和五十五年。
その夜も雨であった。
大阪の団地の一室で、女子高校生の百子は、その日の勉強を終え、寝床に就いた。やがて、彼女の意識は、眠りの世界に転移を始めた。
あと少しで、この転移が完了するというときに、父親が小学生の弟を寝かしつける声に妨げられて、彼女の意識は、夢と現の境界に留まってしまった。
そのとき、彼女は不思議な感覚に陥った。目を瞑っているのに、瞼の向こうにある箪笥や本棚、それに弟の後頭部が見える気がしたのだ。
百子は驚いて、目を開けてみた。すると、さっき見えたような気がした光景と、実際の光景とには、ずれがあった。百子は、さっきの感覚は錯覚だったのだと思った。
彼女は再び目を瞑ったが、目が冴えてしまい、眠れなかった。彼女は、父と弟の会話に耳を傾けることにした。
「はよ寝なんだら、幽霊が来るで」
弟は、幽霊という言葉に慄き、固く目を瞑った。
「お父ちゃんが昔話したろう。ほしたら、自然に眠ぅなるさかい」
「うん」
息子は父に言われるままに布団に入ると、父の話に耳を傾けた。
「昔々、あるところに、お爺さんとお婆さんがおった。ある日ぃ、お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に行た。お婆さんが洗濯をしよったら、川上から大きな桃が、ドンブラコッコ、ドンブラコ、と流れて来た。お婆さんは、それを持って帰って、半分に割った。ほしたら、中から男の子が生まれてきたんや。桃から生まれたさかい、名ぁは桃太郎。桃太郎はやがて大きゅうなって、ある日ぃ『鬼退治に行く』と言い出した。お婆さんは桃太郎を送り出すことにして、餞別に黍団子を持たせてやった。それを携えて、桃太郎は鬼ヶ島を目指して進んで行った。するとそこに、犬と猿と雉が出てきて、言うには『お腰に付けた黍団子をば、一つ下さい、お供致す』。桃太郎は三匹を引き連れて、鬼ヶ島に攻め込んだ。桃太郎は強いねんで。迫り来る鬼共をばっさばっさと斬っていった。三匹の共も、犬は噛み付き、猿は引っ掻き、雉は嘴で目ぇを潰して、みんな勇ましゅうに戦うたんや。流石の鬼共も『降参や。もう悪いことはせえへん』言うて、宝物差し出して謝った。車に積んだ宝物、エンヤラヤア、エンヤラヤ、と持って帰って、お爺さんとお婆さんに孝行したっちゅうこっちゃ」
いつの間にか、弟の相槌が聞こえなくなっていた。見ると、弟は眠ってしまっていた。
父は、子の頬を愛撫した。
「子供っちゅうもんは、罪が無いなあ」
(二)
時は流れ、平成十四年。
百子は順調に出世し、あるとき独立して起業し、四十歳になった現在は、一つの会社の社長であった。
現在の彼女の住まいは、大阪の河内地方の、古くからある田園地帯にあった。
いま時分、近所の水田では、稲穂は実りを蓄えて枝垂れており、ちらほらと、一年振りに幌を外された刈取機の姿も見られた。
そんな環境に囲まれた一戸建てに、彼女は、夫と息子と三人で暮らしていた。夫は、百子と違って何をやってもうだつが上がらず、現在、百子の会社の社員として働いていた。仕事の腕前は決して悪くないのだが、社会人としての世渡りの才に乏しかったのだ。
ある夜、百子は、仕事で疲れ、普段ならまだ起きている時間に寝床に就いた。
やがて、彼女の意識は、眠りの世界に転移を始めた。
あと少しで、この転移が完了するというときに、突如、隣の部屋から聞こえてきた夫の声に妨げられて、彼女の意識は、夢と現の境界に留まってしまった。
そのとき彼女は、またも、例の、瞼の向こうが見える錯覚に陥った。
彼女は、あれからも何度か同じ体験をしたので、今や驚かなくなっていた。
夢と現の狭間では、空想と知覚の区別が付きにくくなり、瞼の向こうにあると「想像される」光景が、実際に瞼を見透かして「見えている」と錯覚してしまうのだ。百子は、いつからかそう考えて納得するようになっていた。
彼女の視覚は、瞼を越え、壁を越え、更に聴覚、その他あらゆる感覚もまた、寝室を越えて拡散した。
子供部屋では、夫と、小学生の一人息子が問答をしていた。
「寝なさい言うたかて、眠うないから寝られへんわ」
「はよ寝なんだら、幽霊が来るで」
「幽霊が来るってか。どっから入って来るねん」
「壁でも何でも、擦り抜けて入って来るんやがな」
「そりゃおかしいわ。幽霊と壁とを構成する分子同士が干渉するがな」
「幽霊に分子もへったくれもあるか」
「そんなもん物体とは呼ばれへんわ。そもそも、幽霊の動力は何やねん。電力か?」
「ええい、うるさい奴ちゃ。お父さんが昔話してやるから、それ聴いて寝なさい」
「無茶言いないな。聴くなら聴く、寝るなら寝る。聴きながら寝るような、器用な真似はできひんわ」
「聴きながら寝ろ言うてんのと違うねん。聴いてるうちに眠なる言うてるねん」
「どれ、ほしたらやってみ」
「『やってみ』って、親を噺家みたいに思うてけつかるな・・・。昔々・・・」
「昔っていつや」
「知らんけど、大昔や。あるところに・・・」
「あるところってどこや」
「やから知らんって。お爺さんとお婆さんがおったんや。お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に行った。お婆さんが洗濯をしてたら、川上から大きな桃が、ドンブラコッコ、ドンブラコ、と流れて来た」
「ということは、川上に桃があったいうことやな」
「そういうことかな。ほんで、その桃を持って帰って、半分に割ったら、中から男の子が生まれてきた」
「桃から子ができるか?そんな現象があったら、果物屋さん騒がしゅうて仕方ないで」
「分かった、分かった。ほな、妊婦さんが流れて来はったんや。これで満足か?」
「満足や」
「こんがきゃ、一遍しばいたろか・・・。桃から生まれたから、名前は桃太郎」
「妊婦やろ?」
「ええい、妊婦さんの名前が『桃』やったんや!大きなった桃太郎は、『鬼退治に行く』と言うた」
「鬼って何者や」
「鬼は力の強い怪物や」
「せやけど、『おに』の語源は漢語の『隠』、すなわち幽霊のことのはずや。父さん、ついさっき『幽霊に分子はない』って言うたとこやん」
「分かった、分かった。幽霊という名前のついた、力の強い怪物や」
「強引やなあ」
「ごちゃごちゃ言わんと聞いとけ。お婆さんが桃太郎に黍団子を持たせてやったら、犬と猿と雉が出てきて、『一つ下さい、お供する』と言う」
「動物が喋りはせんで」
「子供は純真やから、動物の言葉も解るんや」
「僕には解らへんで?」
「お前が純真なことあるかい!今時の子供は理屈っぽうていかん。昔の子供は純真で良かった」
「せやけど、いくら昔の子供が純真でも、動物の言葉が解りはせんやろう」
「応えん奴ちゃ・・・。人間かって、大昔は動物やったんやから、動物の言葉が解っても不思議やないわい」
「その理屈やったら、大人も子供も動物と喋れることになるやん」
「ほな、原始時代と近代の中間ぐらいやろう。古墳時代あたりやと思っとけ」
「ほしたら、『桃太郎』いう名前もおかしいな。その頃、漢語はまだ無かった」
「一々うるさい!分かった、ほな『モモコ』や。お前のお母さんと一緒や」
「ふうん」
「桃太郎・・・改めモモコは三匹を引き連れて、鬼ヶ島に攻め込んで、迫り来る鬼共をばっさばっさと斬っていった。三匹の共も、犬は噛み付き、猿は引っ掻き、雉は嘴で目ぇを潰して、みんな勇ましく戦うたんや。流石の鬼共も『降参や。もう悪いことはせえへん』言うて、宝物差し出して謝った。車に積んだ宝物、エンヤラヤア、エンヤラヤ、と持って帰って、お爺さんとお婆さんに孝行したっちゅうこっちゃ。ああ、やっと終わった!」
父は、安堵して一息吐いた。
しかし、息子は眠るどころか、先程にも増して目が冴えてしまった。
「えろう残酷な話やなあ!聞いた限り、鬼の方が被害者やんか」
「でも、放っといたら人間がやられてまうがな」
「インドのガンディーさんは、殴られようが蹴られようが、服従も報復もせず、その結果、インドを独立に導いたで。キリスト教かって、『右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ』いう教えを守って、ローマ帝国の国教の地位にまで上りつめたやん」
「全く、どこで覚えたんや、そんな知識・・・。兎に角、当時には当時の価値観があったんや」
「ほしたら、その価値観が間違うてた言うことになるな」
「今にして思えばそうかも知れへんで。でも、当時はそれが正しかったんや」
「せやけど、今の人間は、なんぼ頑張ったかって、当時の人間にはなられへんねんで。今の人間から見たら、当時の人間は間違うたもんを正しいと認識してた、ということに他ならへん」
「時代は現代だけと違うねん。現代の人間が昔の人間になれなんだとしても、その時代の人にとっては、その時代こそが『今』やったんや」
「証明できるか」
「は?」
「認識できひんもんの存在を証明できるんかって訊いてるねん。『当時の人間』にとっての、『この時代が現在や』という実感を、現在の人間が味わうことが、よしんば出来たとしても、その時代を現代と実感した途端に、その時代は過去ではなく、現在ということになってしまうやろ。影踏みみたいなもんや。やから、『当時の人々にとっては』という言葉は、ちとナンセンスなんと違うか」
父は、返答に困ってしまった。息子の主張に矛盾は見当たらないのだ。
父が黙っていると、息子は主張を開始した。
「大体、父さん、さっきから『今ある昔話』に解釈を付け加えることで、僕の突っ込みに答えようとしてるけど、それは、『昔話の成立過程』を度外視してることになってるで。そんなことしたら・・・歴史が泣く」
「な、何が『歴史が泣く』や!何も知らんくせに」
「何も知らんのは父さんの方やで。あんなあ、桃太郎の話にはモデルがあるのんや。古代、吉備の国は、温羅という暴君に支配されとった。それを征伐するために、大和の朝廷から遣わされたのが、吉備津彦命。これが桃太郎のモデルや。吉備津彦命が、温羅を征伐して、吉備の国を暴政から救うて、無事に朝廷の統治下に収めたという伝説が、鬼退治の話の元になったんや」
父は、いつしか息子の解説に聴き入っていた。
「ほんで、それがどないして今の昔話の形になったんや」
「この伝説のテーマは、朝廷が地方勢力を平定するというところにある。言うたら、軍国主義や。それを、子供に教え込み易いように、主人公を子供にして、敵を鬼にしたんや」
「ほんで、ほんで?」
「父さん、さっきから『鬼ヶ島』言うてるけど、実際に温羅が城を築いてたのは山の上や。岡山県に今でも残ってるから間違いない。それを、あくまで人間ではない『鬼』やという設定を強調するために、敢えて海の向こうの島ということにしたんや。父さん、海言うのは怖いとこなんやで。なんぼ航海技術が発達しても、タイタニックみたいな海難事故が起こってしまうんや。海は本来、人間の領域と違うんやで。その海の向こう側に住んでると設定することで、鬼を、より人間離れした存在らしく感じさせようという、一種の演出なんや」
父は、当初の目的も忘れて、息子の雄弁に感心してしまった。多くの親がそうであるように、彼もまた、息子を、将来は民俗学者か古典文献学者にでもなろう秀才と賛嘆したのだった。
息子は更に続けた。
「犬と猿と雉とがおるやろ。これは、適当に三種類集めてきたと思うたら大間違いやで。犬は、盲導犬、警察犬、救助犬がおるように、人間の命を助けてくれる、優しい動物や。猿は、猿知恵言うて莫迦にされてるけど、逆に言うたら、人間になまじ似てるから、ちょっとの愚かさも目立ってしまうというだけで、実際にはあんな知能の高い動物はおらへん。雉は、卵を狙うてきた蛇に、自分が囮になって巻き付かれておいて、頃合を見計ろうて羽を一気に伸ばして蛇を千切ってしまうと言われてるぐらい、度胸のある鳥や。ほんで、この三匹で、幸魂・奇魂・荒魂という、神道の説く三つの精神作用を表してるねん。本真は、これに和魂を加えて、一霊四魂とせなならんねんけど、さっきも言うたように、この話のテーマは軍国主義やから、平和を司る和魂は意図的に除外されたんやろう。まあ、羊でもおったら四つ揃うことになるねんけどな。羊は群れの結束が強いから、和魂にぴったりや。ほんで、最後に宝物を持って帰るというのは、打ち負かした敵の領土とか、資源とか、人材なんかを奪うて、祖国に報いるのが武人の道やというメタファーなんや。戦時中、軍のプロパガンダに使われてたのも頷けるわな」
百子は、隣の部屋の息子の解説を、興味深く聴いていた。そして、今ある昔話に解釈を付けるだけという夫の試みは、如何にも無意味なものであったと感じさせられた。
そのときだった。
百子は戦慄した。彼女は目を瞑ったまま、子供部屋にいる夫の背に覆い被さる、女の姿を見たのだ。その女は、細身の割に筋肉質で、よく見ると、首筋に傷跡があった。
霊が来たのだ。百子はそう思った。
百子は、目を開けようかと思った。目を開けた瞬間に、この霊は、最初から幻だったということが決定されるだろうからである。
だが彼女には、同時に、この幻を消してしまいたくないという気持ちもあった。
桃太郎に関する息子の言説を聴いているときに現れたこの霊は、きっと、桃太郎と何か関係がある人物のはずだ。それも、息子の説いている「昔話の成立過程」ではなく、息子の批判するところの「今ある昔話」に関係する人物なのだ。そんな、理由のない確信が彼女にはあった。尤も、そもそも彼女の幻覚なのだから、確信に理由など要らないのだが。
目を瞑っている限り、この幻覚は、幻覚ではなく、真実なのだ。目を開けてしまえば、この霊が生きていた時代、すなわち「モモコ」の時代は、この現代に繋がらない、架空の時代になってしまう。百子は、「昔話の成立過程」と「現代」との「時間的な」繋がりではなく、「今ある昔話」と「現代」との「空間的な」繋がりに、暫く浸っていたかったのだ。
そうしている間も、息子は、尚も弁を振るっていた。
「桃太郎は、暴力的で時代錯誤な昔話やねん。やから、それをこの現代に・・・父さん?」
見ると、父は既に眠ってしまっていた。
息子は、にっこりと笑って言ったのだった。
「大人っちゅうもんは、罪が無いなあ」
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