第三回「それぞれの戦争」
(一〇)
一年近く前にカプティに来てからというもの、モモコは、外交官カナピコに伴われてヤマト連合王国の首都・Miwaに何度も参内し、キビがヤマト連合王国に加盟する上での条約について協議を重ねてきた。
貿易と軍事に関する面はカナピコが、信仰に関する面はモモコが、それぞれ担当してヤマトの外交官と交渉してきたのだ。
そして、それが済んだら、大人しくキヨメの手に掛かろうと決めていた。
死後、自分がどこへ行くのかなど、見当も付かない。故に恐ろしい。だが、自分には復讐から逃れる資格はない。自分がした暴力には、暴力の報いを従容として受ける。これだけが非暴力の道だと信じ、信じた道を往くのだ。信念を貫けるだけの勇気を、彼は持ち合わせていた。
思い返せば、七年前、雉が従者になったのは、この勇気を見込んでのことであった。
モモコは考えた。
もし、七年前のあのとき、ガァンたちをも従者にしていれば・・・?
もしかすると、「霊」退治を思いとどまっていたかも知れない。或いは、今やっているような、交渉による和平の道を模索していたかもしれない。
ガァンたちの、あの穏便さ、あの消極性、あの事なかれ主義。あれらがあのときのモモコに備わっていたら、暴力は回避できたかもしれないのだ。そうすれば、キヨメの裏切りに遭うこともなかっただろうし、そもそも彼女と出会ってすらいなかっただろう。そして、この苦しみを味わわずにも済んだのだ。
だが、あのときのモモコは、そんな平和などを求めてはいなかった。あのときは、征伐が正しかったのだ。それに比して、今のモモコは違う。違うからこそ、あのときの自分は間違っていたと考えることができるのだ。
不図、モモコは、歴史とはそういうものなのかも知れないと思った。ある「今」を生きる人々にとって、その「今」の思想は絶対的に正しく、かつて「今」だった過去の思想は、絶対的に間違っているのだ。この「絶対的」ということは、「今」ではない、過去の時点においても、気付かれていないだけで、実は間違った思想であったということを含意している。だが、その過去が「今」だった時代の人々にとっては、その「今」の思想は、やはり絶対的に正しいのである。
「今の」モモコは、その絶対性を、「非暴力」に見出している。事態は、ただそれだけなのだ・・・。
涼しい日が増え、稲刈りの済んだ田がちらほら現れ始めていた。緑だった籾は、生気を失って枯れ草の色になり、翻ってその内なる米粒は豊かに肥え太った。
そんな時期に、ミワで、双方の提示する条件の、最終的な擦り合わせが行われることになったのだ。
(十一)
モモコが出立する日の、まだ夜も明けきらぬ早朝。
キヨメは、久しく顔を見ていなかったモモコを見送ろうと、サララミミ邸の門前で待っていた。だが、いくら待ってもモモコは現れなかった。他の使用人に訊くと、モモコは用事があると言って、予定より早く出立してしまっていたとのことだった。
そのころ、参内のために、水色地に桃の意匠の正装に身を包んだモモコは、馬に乗って例の社に向かっていた。
社に着くと、彼は楓の実のように軽やかに馬から降りた。彼が馬の頬を撫でて宥めると、馬は嬉しげに嘶いた。だが、今の彼は、それを言葉として認識できなくなっていた。
モモコは階段を上り、注連縄の前で一度跪くと、拝殿へと進んだ。拝殿の前でまたも一礼すると、サララミミの許可を得てはいなかったが、構わず扉を開けた。
東側から差し込んだ朝日が、財宝の右半分を光の領域に、左半分を闇の領域に分けた。モモコは、自分の指の背を彫像の美青年の首筋に当て、頬に向かって滑らせた。彼の指は、大理石の感触に本来は伴わない筈の、完璧なる「青年の形状」を味わった。それは七年前から変わることなく、ついに年齢においてモモコに追い付かれてしまった。七年後も、七十年後も、七百年後も、この美青年が年老いることはないだろう。
それは、如何にもこの日常の世界の摂理に反することであった。日常の世界では、あらゆるものは変質を免れない。故に、この彫像は、日常の世界ならざるものであるはずなのだ。
暫くして、モモコは社を去り、馬の側に寄った。
「Kimi, iza yukamu.
(モモコさん、さあ行きましょう)」
今度は、はっきりと馬の言葉が解った。
モモコは確信した。この能力の源は、あの財宝だったのだ。霊能力は、本来なら疾うに失われているはずだった。子供というものは、日常と非日常の狭間に存在するものであり、故に、皆あの能力を備えているのだ。だが、大人になると、日常の世界に足場が確立されてしまい、能力が失われてしまうのである。
それなのにモモコが、大人になっても尚、日常と非日常とを一続きの世界として認識してこられたのは、非日常を日常に現出させたかのような財宝を所有しているためであったのだ。故に、財宝に触れることで、能力を回復させることができたのだった。
七年前、「霊」たちが動物の言葉を解していたのもまた、この財宝のためだったのかもしれない。
だが、疑問は残る。なぜ、モモコの能力は俄かに鈍り始めたのだろうか?財宝が失われた訳でもないのに。
モモコは、考えることを止すことにした。これから、キビの命運を決する大切な会議があるのだから。
馬に乗って走っていると、遥か前方に、人間とは思えぬ速さで、しかも不自然なほど無駄のない動きで、こちらに向かって走って来る者の姿が見えた。距離が縮まると、それがキヨメだと判った。
やがて二人は出会い、同時に止まった。キヨメは息も切らさず、馬上のモモコに言った。
「モモコ様!」
「キヨメ、どうしたんだ」
「お見送りに来たのです」
モモコは、キヨメが自分を殺しに来たのだと思った。
彼は下馬した。
「キヨメ。君に言いたいことがあるんだ」
そう言ったモモコの瞳を見て、キヨメは、正体が露見した訳ではなかったのだと確信した。
正体が露見したというのならば、なぜ、こんな、敵意のない瞳で自分のことを見てくれているのだ?そんなことはありえない。彼女はそう考えたのだ。
「何でございましょうか?」
モモコは今にも、キヨメの予想に真っ向から反して、キヨメの正体を知っていることを打ち明け、会議が終われば大人しく殺されるから、それまで待って欲しい、と言おうとしていたのである。
そのとき、馬が嘶きを上げた。
モモコは慄然として馬を見た。先ほど回復したはずの、動物の言葉を解する能力が、突如としてまた失われてしまったのだ。
キヨメは、モモコの態度を訝しんだ。
「どうかされましたか?」
モモコは、再びキヨメの目を見た。その目から殺意は感じられなかったが、それもまた巧妙な演出に違いないと、彼は思った。
しかし、それでも・・・いや、それだからこそ、モモコの心は、キヨメを渇望せずにはいられなかったのだ。現実には存在しない「キヨメの真心」を、存在しないからこそ渇望してしまうのだ。超自然さえも、霊能力を以ってその可視範囲に取り込むことができるモモコにさえ、得ることができないもの。それが、キヨメの心なのである。モモコは今、空想上の、裏切り者ではないキヨメに恋をしていたのだった。
その渇望が、モモコを日常の世界に縛りつけ、非日常的な能力を曇らせていたのだ。
なぜなら、何かを渇望した時点で、その人は「生ける埴輪」ではあり得ず、「一人の人間」になってしまうからだ。モモコもまた、日常と非日常の狭間から、日常の世界に引き込まれてしまったのだ。
そして、それこそは、取りも直さず、彼が長年求めていた、子供から大人への変身だったのである。
だが今は、子供の霊能力が、なくてはならないのだ。愛する祖国・キビ王国の伝統的信仰を守るために!
モモコは、心を鬼にして、キヨメから目を逸らし、無言で馬に跨った。
馬が「行きましょう」と言葉を発したのが、今度ははっきりと分かった。
キヨメは、モモコの内面の変化を敏感に見て取った。先ほどまで「一人の人間」であったモモコが、突然、あの「生ける埴輪」に戻ったのだ。
キヨメは、
「モモコ様、これを!」
と叫びながら、モモコに小さな巾着袋を差し出した。しかし、彼は目もくれずに去ってしまったのだった。
呆然と立ち尽くしているキヨメの背後から、「霊」の仲間たちが現れた。
「Kuyo, kupatate ya sokonaparetaro?
(クヨ、計画は失敗か?)」
「Una, sokonaparetara naparu.
(いいや、失敗ではない)」
キヨメはそう言うと、仲間たちを振り向いた。そして、不敵な笑みを浮かべて言った。
「Takara pa yasuro naru.
(財宝は社にある)」
(十二)
やがてモモコの馬は、ミワまであと少しのところで、カナピコの馬に追いついた。カナピコは、二人の武官を伴っていた。
彼は、視線をモモコに流して、
「Osoki kamö. Iduku ni sö makarisi?
(遅いぞ。どこに行っていた?)」
と、下手なヤマト語で言った。
「すみません。祖国の神々に、会議の成功を祈願しておりました」
モモコは、キビ語で言い繕った。
カナピコは、侮蔑を込めて鼻で笑うと、視線を再び前に向けた。
彼は、モモコとは逆に、政治的独立さえ守れれば、キビの文化を捨ててヤマトの文化に染まっても良いという考えだった。彼は、祖国の信仰さえ、田舎の弊風としか見ておらず、実はヤマトの信仰を受け入れることにも吝かではなかったのだ。
そんなカナピコ自身も、今日は、キビを代表して、ヤマトの政治的支配に屈する宣言をせねばならない。その憂さ晴らしに、彼は殊更にモモコの信仰上の保守性を嘲笑したのであった。
のみならず、ヤマトの政府がモモコを、霊能力への畏敬の念のためか、どことなく厚遇していることに対する、そねみもあった。
歩みを進めるほどに、周囲は人で賑わってゆき、しまいには大陸人の姿さえも目に付き始めた。
ヤマトの都心には、巨大な陵墓が点在し、その中で一際巨大なものが、高名な女性神官・Momosöの墓であった。
モモソは、一、二の神官とは比べ物にならない、凄まじい超能力を持ち、名だたる神々と自由自在に対話し、それによってヤマトを繁栄に導いた、ときの最高権力者であったのだが、不慮の事故でこの世を去ったのだ。
事故の発生から葬儀までの顛末を直に知る者は一握りであったが、政府の発表によると、次のようであった。
当時、モモソには夫がいたが、彼は素性を明かそうとしなかった。彼女は、夫に素性を明かすよう何度も頼んだ。そしてその結果、彼はその正体である、ミワ山を司る蛇の神の姿を現し、以後、二度と彼女の目の前に現れることはなかった。
夫を失った悲しみのためか、彼女の体調は日に日に悪化し、ある日、誤って祭具の箸の上に腰掛けてしまい、産道に大怪我を負い、それが元で命を落とした、とのことであった。
それが、十八年前のことだという。
⁂
日が大分に高くなった頃、カナピコ一行はヤマト連合王国の中央政府に到着した。
カナピコとモモコは、会議室に通された。会議室には、井草でできた上等な筵が敷き詰められていた。二人は、これまでにこの会議室に何度も来たのだった。
ヤマトの外交官は、これまでの会議で決まった条約を改めて述べた。軍事上の協力の要請に応じねばならぬことや、貿易に関する不平等な取り決め、等々。その逐一に、カナピコは承諾の旨を述べねばならなかった。
それらが一通り終わると、ヤマトの神官が、ヤマトの神々を祀る社をキビに作るよう求めた。モモコは、「解りました」と答えた後、更に付け加えた。
「但し、前回の会議での合意の通り、キビの神々の保護を保障してください。その暁には、必ずヤマトの神々がキビの人々に受け容れられるように致します」
モモコがそう言うと、ヤマトの神官は、これを認める旨を述べた。
そうして双方の合意が確認された後、二人は別室に移動し、ヤマトの役人たちと、今後の予定の相談をした。カナピコは、後日、ヤマトの皇帝に謁見し、条約締結の会見をすることになった。
モモコは、外交官ではなく、神官としての身分も高くないので、謁見を許されなかった。
(十三)
全てが終わり、一行はカプティへの帰路に就いた。
ここヤマトで為すべきことをすべて為し終えたモモコは、カナピコに先んじてキビに帰る仕度に取り掛かることになっていた。
カナピコは、モモコが稲刈りを楽しみにしていることを知っていて、嫌がらせのために稲刈りの前に帰すことにしたのだ。
だが、モモコは思っていた。どの道、稲刈りには参加できない。その前に、キヨメに殺されるのだから、と。
市街地を脱し、田に挟まれた通りを真っ直ぐ歩いて行き、道程の半分ほどに達したとき、日は既に暮れなずんでいた。
突如、前方の道の脇から、鎧に身を包んだ五人組が現れ、槍を構えて立ちはだかった。カナピコの二人の武官は、前に出て、槍の穂先を五人に向けた。
モモコは、五人の顔を見て驚いた。夏に訪ねてきた、あのカナネたちであったのだ。
五人の中央のカナネは言った。
「国賊カナピコ。その首、頂戴仕る」
モモコは馬上から叫んだ。
「カナネ、やめろ!これから新しい時代が始まるんだ!」
「不利な条約を結んでまでヤマトに加盟する義理がどこにある!ヤマトと戦い、征伐すればいいのだ。モモコ、七年前の貴様と同じではないか!」
なるほど、カナネの姿は、今となっては本人によって「間違っていた」と見做されている、かつてのモモコの姿そのものだったのだ。
モモコは馬から下りると同時に、嗜みとして身に付けていた刀を抜き放ち、峰をカナネらに向けた。兜の代わりに、正装の帽子がモモコの頭を包んでいた。戦闘の準備をしておらず、槍も鎧もなかったからであったが、図らずも、神官としての姿で、過去の自分と戦うことになったのだ。
カナネは雄叫びを上げ、他の四人と共にカナピコを目指して突進した。
モモコは、カナピコの武官二人と共に応戦した。
(十四)
一方、カプティの町でも騒動が起きていた。社に、「霊」たちが押し入ったのだ。
トゥボコ家の兵士たちが駆り出され、応戦したが、「霊」たちは、たった五人で、十数人もの兵士たちを圧倒し、遂に財宝のある拝殿に到達したのだ。
シロは、モモコに報せるべく、ミワに続く道を走った。
(十五)
それから、どれだけの時が過ぎただろうか。
西の山の稜線と夜空との境目には、僅かに太陽の残滓が残っていた。
モモコに気絶させられていた敵の体を、カナピコの武官の槍が無残にも貫いた。モモコは満身創痍であり、特に右肩の傷は重く、武官の殺生を止めることができなかったのだ。
だが、その武官も手負いであり、やがて力尽きて倒れてしまった。もう一人の武官は、疾うに冷たくなっていた。
他の敵たちもまた、皆、命を落としていた。
一人生き残ったモモコは、右肩を押さえたまま、憮然として頽れた。過去の自分に、「非暴力」を以って打ち勝つつもりでいたのに、武官が彼らを「暴力」を以って殺害してしまうのを、見ていながら何もできなかったのだ。
辺りは、惨状に不似合いな、エンマコオロギの淑やかな鳴き声に包まれていた。
そこにシロが駆けつけた。彼は、惨状を目の当たりにして驚いた。
「モモコさん、これは!」
その声を聞いて、モモコは俄かに我に返り、辺りを見渡した。
カナピコは無事だろうか?
彼に万一のことがあれば、ヤマトとの交渉は、新しい外交官の許でやり直さねばならず、少なからず、加盟後のキビの立場が悪化するだろう。
辺りには、カナピコの姿は見えなかった。モモコは、死んだ兵士たちの中に、気を失っているカナピコが混じっていることに望みを賭け、よく見えぬ暗闇の中で、一人ひとりの顔を確認した。
やがて、カナピコは見つかった。彼は、斬られて絶命していた。
再び呆然となったモモコに、シロは、社での争いのことを告げた。
我に返ったモモコは、
「暴力は何も生まない・・・」
と呟きながら、自らの衣の袖を破り、それで右腕を縛って出血を止めた。
片足を挫いていたが、どうにか馬に跨り、シロをおいて町を指して走り去ってしまった。
(十六)
カプティの社の付近では、夜の闇を照らす灯の中で、人々が騒然としていた。戦闘はすでに終わっていた。
帰還したモモコは、殆ど落馬に近い形で馬から下り、辺りを見渡した。
せわしなく運ばれている怪我人や死者の数から、勝敗は知れた。
やがて、サララミミの使用人がモモコに気付き、駆け寄ってきた。そして、その血と泥に塗れた姿に驚いた。
「Mikötö, ikani ka sesisi!
(モモコ様、どうなさったのですか!)」
「大丈夫だ。それよりキヨメだ、キヨメはどうしてる!」
「この騒ぎですから、恐らく戦いの始末に奔走していると思います。モモコ様、申し訳ございません。財宝を『霊』どもに奪われてしまいました」
「ああ、もういいさ・・・」
そう言うと、モモコは片足を引き摺って、サララミミ邸に向かった。
(十七)
サララミミ邸は、社の辺りと打って変わって、音は無く、光も、月光を措いて無かった。
モモコは、キヨメが、てっきり自分を殺してから財宝を奪うものと思っていたので、意外に思ったのだった。
狙いは財宝のみであり、自分の命はどうでも良かったということだろうか。そう思うと、腹立たしいような、寂しいような気になった。モモコはこのとき初めて、自分が、自分を欺いていない「空想上のキヨメ」のみならず、自分を欺いている「本当のキヨメ」をも求めていたということに気付いたのだ。
彼は、使用人の小屋に入った。小屋は、十人前後の使用人が辛うじて生活できるほどの広さしかなかったが、全くの暗闇に支配されており、向こうの壁どころか、一寸先も分からないほどであった。
「キヨメ、いるか」
モモコは、かすれた声で言った。
その刹那、小屋の奥で、確かに、人が動いた気配があった。モモコは、それがキヨメだと確信した。
「キヨメ!君の正体はとっくに判っているんだ。君が、私を欺き続けていたことも!」
モモコは、声を振り絞って叫んだ。正体が露見したとなれば、殺しにくる筈だと思ったのだ。
だが、キヨメが襲い掛かってくる気配はなかった。
小屋の中を、再び静寂が支配した。聞こえるのは、虫の音だけだった。
正体が疾うに露見していたことに驚いたのだろうか?或いは、殺す価値などないと判断したのか? そう思うと、俄然、焦りが生じた。
「怖気づいたか。『霊』など、故郷の仇も討てない腰抜けどもなのだな!」
彼は、心にもないことを言って挑発したのだった。
三たび、静寂が小屋を支配した。ここへきて、モモコは漸く状況を訝しんだ。もしや、気配を感じたのは、錯覚であったのか?
彼は、目が暗闇に慣れてきたので、小屋の中に入った。すると、奥に、横たわる人影らしきものが見えた。
モモコは、それに歩み寄った。そして、暗闇の中で、辛くもそれがキヨメだと判ったとき、彼は一瞬、全身の皮膚が凍りつくような感覚に襲われた。
彼はすぐに、彼女を抱き起こした。その体はまだ温かかったが、首の辺りから、夥しい血が流れていた。
「キヨメ!」
軽く揺さぶると、彼女の体は、それに合わせて揺れた。それは、目に見えぬ、大きさも重さも形もない「生命力」の、抜け殻のようであった。
「キヨメ、死ぬな!生きてくれ!」
モモコは必死に呼びかけ、彼女の頬を叩いた。危機感が、今の彼の全てだった。だが、全ては虚しく、モモコの腕の中で、キヨメの体は、どんどん冷たくなっていった。
キヨメの体が冷えきり、その死を受け容れざるを得なくなったとき、モモコは漸く、自分が泣いていることに気付いた。彼は、二度と動かぬキヨメをそっと横たえたのだった。
「すまない、すまない・・・」
彼は、キヨメの聞こえぬ耳に向かって何度も謝った。それが何に対する謝罪なのか、自分でもよく解らなかった。
キヨメの死の理由は詳しくは判らないが、モモコと関係があることは確かであった。彼女は、財宝を奪還するためにカプティに来たのであり、死んだのは仲間が本懐を遂げた直後なのだから。
それに、彼が小屋に入ってきたとき、キヨメはまだ生きていた。それなのに、彼はキヨメを助けられなかったのだ。そのことへの悔恨の意味もあった。
そして何より、死にゆく彼女に、呪詛の言葉を投げ付け、その死を安らかならざるものにしてしまったのだ。もはや、それを撤回することは不可能であった。
彼は、何度繰り返しても届くことのない謝罪を、そうと知りつつ、なお必死に届かせようとし続けた。
背後から、雉の鳴き声が聞こえたが、モモコは意に介さなかった。続いて、犬と猿の鳴き声も聞こえてきた。
モモコの周りに、雄雉と、シロと、キビからはるばる駆けつけた、あの猿とが集まり、おのがじしモモコに声を投げかけたが、今のモモコの耳には、もはや、群がる獣の奇声としてしか聞こえなかったのであった。