第二回「若者たちの苦悩」
(四)
田植えの季節。
この町は、カプティの他の田園地帯に比べて、雨が穏やかであり、また、日照りが続くこともなかった。農民たちはそれを、モモコのお陰だと感謝していた。
モモコは稲を運び、キヨメがそれを植えた。キヨメは疲れを知らず、蒸し暑い中、涼しげな顔で重労働を次々とこなした。彼女の正体が、あの屈強な「霊」なのだから、その超人的な体力は不思議なものではなかったが、それを知らぬモモコや農民たちは、彼女の働きにすっかり感心した。
彼女は、隣の田の「欠けた人員」の分の労働力まで補って、なお有り余った。
というのは、隣の田の息子である、例のショウリョウバッタ殺しの少年が、あのあとすぐに行方不明になり、数日後に他殺体として発見されたのだった。
隣の田の主は、その労働力を補ってくれたキヨメと、その主人たるモモコに大層感謝していた。キヨメこそが息子の仇だとも知らずに!
もし少年が、キヨメがモモコについて尋ねてきたことを喋れば、怪しまれることになろう。そのときの用心に、キヨメは少年を殺害したのだ。彼女は、目的を達成するためなら、何を厭うつもりもなかったのである。
農作業のみならず、彼女は、モモコの身の回りの世話も抜かりなくこなしてきた。モモコの仕事や食事の好みなどを具に研究し、彼が妖怪退治で疲れて帰宅した日は、汁物の塩を一摘み多くするような気配りをした。モモコがそれらに気付く可能性が低いとしても、もし気付けば、キヨメの真心を確信させることができるだろう。そのために、報われる保証のない努力を、キヨメはしてきたのだ。そして、その度に、モモコは敏感にもそれに気付き、キヨメを褒めたのであった。
彼女の計画は、確実に進みつつあったのだ。
モモコが苗を苗床から丁寧に抜き取っているとき、背後から、犬の鳴き声が聞こえてきた。モモコにはそれが、自分を呼ぶ声として聞こえた。
「Momoko-dönö!
(モモコさん!)」
モモコが振り向くと、一匹の白い犬が走ってきていた。
「Siro!」
モモコは犬の名を呼んだ。
犬はやがてモモコに飛び掛り、尻尾を振って彼の顔を舐めた。
「シロ、どうしてここにいるんだ」
「モモコさんに会いに、ここまで来たんですよ」
「キビから?」
モモコは、嘗て共に「霊」退治をしたシロの、主人への慕情の純粋さと、それ以外に動機を持たぬ、単純極まりない行動に、感心するやら、呆れるやらであった。
「新しい主人はどうしたんだ」
モモコは、シロの頭を撫でながら言った。
「Kibïmimi様は、去年の冬に亡くなりました」
「亡くなった?何で?」
「何者かに痛めつけられて亡くなったのです。犯人は見つかっていません」
「君の鼻でも見つけられなかったのか」
「すみません。犯人は何も残さなかったのです」
キヨメには、シロの言葉が解らなかった。六年前の一件以来、彼女を含め「霊」は皆、なぜか動物と会話する能力を失ってしまったのだ。
だが、モモコの言葉から、会話の内容は判った。そして焦った。犯人であるキヨメの臭いにシロが気付けば、計画が露見するかもしれない。そうなる前に、シロの口を封じねばなるまいと思った。
「それにしても残念だな。キビミミさんは、小さかった私をよく可愛がってくれたんだ」
そう言って、モモコは悲しみの表情を呈した。
そのとき、キヨメはモモコと目が合った。モモコは、即座に悲しみの表情を解いて、キヨメに美しい微笑を投げかけた。
これは、ままあることであった。モモコには、ふとした拍子に身近な人と目が合うと、会釈代わりに微笑みかける習慣があったのだ。それは、彼なりの処世術であった。
それにしても、モモコにとって表情とは、標識に過ぎないのだろうか?悲しみの表情を見せるべき局面が来れば、それに応じて悲しみの表情を呈し、微笑むべき局面がそこに割って入れば、すぐそれに応じて微笑みを呈する。彼には、真の意味での感情というものがないのだろうか?感情があるかのように見せる能力を備えただけの、『生ける埴輪』に過ぎないのではないか?もしかすると、そこにこそモモコの霊能力の秘密があるのかもしれない・・・。キヨメは、あれこれ考えながらモモコの顔を見ていた。
「うん?どうかした?」
モモコに言われて、キヨメは我に返った。
「すみません。作業に戻ります」
キヨメはそう言って田植えを再開した。
(五)
水田の中は、一つの世界である。ミジンコ、カブトエビ、ホウエンエビなどがいれば、彼らを狩って食らう者たちもいる。乱暴で貪欲なおたまじゃくしは、ミジンコを一網打尽に飲み込む。普段は木片のように動かないタイコウチは、おたまじゃくしが泳いで来ると、曲がる機構が露出した硬い関節を、からくり人形のように無駄なく始動させ、次の瞬間にはもうおたまじゃくしを捕らえているのだ。それらは恰も、稲があればそれを刈って食する人間がいるのと同じようであった。
その世界に、突如、その世界をも内包する、より大きな外の世界から、声が響き渡った。
「これから水を抜くから、水の流れに従って、用水路に出てくれ!」
モモコの声が頭上から聞こえたかと思うと、世界を構成している「空間」が、世界の一つの端に向かって流動し始めた。彼らは、流れに順って泳いだ。やがて世界の果てに達すると、突如として「空間」の流れが下向きになり、凄まじい勢いで彼らを異世界に移住させたのだった。
こうして田からは水が抜かれた。逃げ遅れて跳梁していたおたまじゃくしは、モモコに拾われ、用水路に放された。
彼の傍らで一部始終を見ていたキヨメは、モモコの振る舞いに違和感を覚えていた。それは、これまでにも何度か覚えたことのある違和感であった。キヨメにとってモモコは、彼女の故郷を破壊し、彼女の母親を殺した、血に飢えた殺人鬼であるはずであった。あらねばならなかった。それなのに、実際のモモコは、小動物の命さえ、人間の命と同じように慈しんでいるのだ。
あのシロもまた、モモコから命を救われたというのだ。そのことを聞いてから、キヨメはシロを殺せなくなってしまった。殺人鬼であるはずのモモコが助けたというシロを殺せば、その殺人鬼への復讐という大義が虚しくなってしまうということを、キヨメはよく心得ていたのである。
クマゼミのけたたましい声に埋め尽くされた世界の中で、二人は仲良く草抜きを始めた。春から夏までの間に、二人の息はまことによく合うようになっていた。だがそれもまた、キヨメの計画の一環であった。
モモコや農民たちは、稲を大切に育てている。もし、この瞬間を切り取って、単独で見ることができるなら、彼らは、親のように稲を愛し、その幸福のために尽くしているように見えよう。まさか、その目的が、鎌で無残に収穫してしまうことにあることなど、想像もできないであろう!
不図、下級神官が、モモコを呼びにきた。モモコに客があるというのだ。
モモコは農作業をキヨメとシロに任せ、サララミミ邸に戻った。
土製の水瓶から柄杓で水を汲み、それで手足を洗うと、彼は、一旦自室に戻って着替え、応接室に入った。中は蒸し暑かった。
「やあ、Kanane。それにみんなも元気そうだね」
そこで待っていたのは、五人の、モモコと同年代の兵士であった。五人は、衣の襟を崩し、汗ばんだ無骨な胸を露にして、おのがじし木箆で扇いで暑さを凌いでいた。
相好を崩して座ったモモコに、カナネはなおも木箆で扇ぎながら言った。
「Pisasiku. Yok'aro sirasë wo nami, köti yu makarite ari. Ipiapasë ga kurusik'aru naru na.
(久し振り。吉報がないので、こちらから出向いたのだ。交渉が難航しているそうだな)」
それは、久し振りに聞くキビ語であった。
「ああ。Kanapiko様が都を駆け回って努力していらっしゃるけど、ヤマトには対等な条約を結ぶ気がないようなのさ」
「貴様の方はどうなんだ。信仰に関する交渉は進んでいるのか」
言われて、モモコは俯き、溜息を吐いた。
「ヤマトの神官が言うにはこうだ。異なる種類の神々が同時に存在することはありえない。どちらかが本物の神々で、もう片方は神の名を騙る妖怪たちだ、と」
「そんな、ヤマトだって、地上の神々と天空の神々という二種類の神を認めているじゃないか」
「地上の神々は、政治的に利用価値があったから受け容れられたんだ。それに対してキビの神々は、彼らにとって邪魔なんだ」
「なんと、莫迦にした話だ!」
そう言って憤慨する五人を、モモコは制した。
「だけど、国力においてキビがヤマト連合王国に負けていることは確かだ。今は慎重に、共存の道を模索しないといけない」
五人は不承々々に口をつぐんだ。
カナネが、モモコに言った。
「キビミミ様の件は聞いているか」
「ああ、シロから聞いたよ。惜しいことだね」
「俺たちは、あれはヤマト人の仕業だと考えている。キビの神々を祀るキビミミ様を殺害し、キビ人の信仰を破壊する魂胆なのだ」
「そうとは限らないだろう」
「いや、ヤマト人は狡猾だ。やり兼ねん」
モモコはカナネの過激な論調に困り、返す言葉を失ってしまった。だが、カナネはそれを、モモコが自分たちの考えに共感し始めた徴と受け取り、言った。
「モモコ。貴様は愛国者だ。それに比べて、カナピコ様は弱腰だと思わないか」
モモコは、カナネの言葉の真意を悟り、戦慄した。
「おい、君が考えていることは恐ろしいことだ」
「何も、神官である貴様に手を穢せとは言っていない。『行動』は俺たち兵士がする。貴様はただ、カナピコ様の後釜に座って、外交を主導しさえすればいい」
「やめたまえ。神聖な生命を絶ち、神々がお産みになった大地を穢すことは絶対にいけない」
モモコがそう強く言ったので、カナネはこれ以上言わなかった。カナネは、溜息を一つ吐きながら呟いた。
「貴様が、神官ではなく兵士の心を持っていたらなあ」
その言葉は、図らずもモモコの心を傷つけた。モモコの内には、確かに、彼らの言うところの「兵士の心」があった。「霊能力に依らない仕事」への欲求があったのだ。しかし、モモコには、それをさし措いても、せねばならないことがあるのだ。モモコ自身が嫌っているこの能力を、人々の役に立てることは、彼の宿命であったのだ。
⁂
その日の夕方、モモコは、食事を運んできたキヨメに、何気なく話した。
「今日、キビの友達が訪ねて来たんだ」
「それは良うございましたね」
「それが、彼らにはどうも、ヤマトへの反抗心しかないみたいなんだ」
モモコは、蒸してある雑穀を指で摘み、口に運んだ。
「モモコ様も、不平等な条約には反対なのでしょう?」
キヨメは、言いながらモモコの膳の前に端座した。
モモコは言った。
「いや、時代の流れは、ヤマトが天下を統べゆく方に向いているのさ」
モモコは野菜を摘んで口に運んだ。
モモコの言葉が余りにも意外であったので、キヨメは言葉を失った。
聞こえるのは、モモコの歯が野菜を咀嚼する音と、クビキリギスの、頭に響く甲高い鳴き声だけだった。
モモコは、口の中の野菜を食べ終わると言った。
「キビの神々を妖怪に仕立て上げるのには断じて反対だよ。でも、今は政治的な独立に固執するときじゃない」
「しかし、モモコ様は、キビの独立を守るために『霊』の島を滅ぼしたのではないのですか」
そう言ってから、キヨメは『しまった』と思った。モモコの発言が、母を殺害した理由と矛盾していることに怒りを覚え、つい指摘してしまったのだ。
だが、モモコは動揺し、その指摘が暗示しているキヨメの正体に気付かなかった。
「キヨメ。実は私は、『霊』退治は間違いだったのではないかと思っているんだ」
「何をおっしゃいます。『霊』退治のお陰で、キビ人は自由になったのではありませんか」
「いや、『霊』に支配されていたときは、あれはあれで自由だったのかもしれない。突然現れた『霊』たちは圧倒的な技術力でキビを征服したそうだけど、その反面、その技術力をキビに与えてもくれた。だから、当時のキビ人たちは感謝しながら甘んじて支配を受けたのかもしれない。だとすれば、私は、先人の考え方を無視し、現代の考え方だけを正しいものと見做していたことになる」
モモコの心は、既に変わっていたのであった。キヨメは、その信念の堅固さを確かめたくなり、声色を和らげつつ、敢えて反論した。
「それを仰るなら、モモコ様が『霊』を退治したのも、現代としては正しい考え方だということにはならないでしょうか」
「そうかもしれない。だけど、先人の考え方と、根本的に違う点がある」
「それは?」
「『暴力』さ。私は、暴力的なやり方で、彼らを滅ぼしてしまった。みんなは『霊』のことを霊的な存在だと言っているけど、私には、どうも彼らが人間であった気がしてならないんだ。私は彼らを殺め、彼らの故郷を破壊してしまったんだよ」
それを聞き終えたとき、キヨメの中にあった、殺人鬼モモコの心象は、音も立てずに消えてなくなっていた。
のみならず、今まさに目の前にいるモモコは、あの、心があるように見えて心がない「生ける埴輪」ではなく、悩みもすれば悲しみもする「一人の人間」へと変貌を遂げたのであった。
母を殺されたことを思うと、胸の奥から憎悪が吹き出すことに変わりはない。だが、目の前のモモコを見ていると、それが復讐に値しないものに思えてしまうのだ。そのときキヨメは、自分の殺意が、単純な復讐心ではなく、非日常的な存在を、殺害を以って征服しようとする意志がその大半を占めていたのだと気付いた。それは、あのサララミミがモモコに政治の話を好んで持ち掛けるときと同じ種類の征服欲であった。ゆえに、モモコが殺人鬼ではなくなり、非日常ではなく日常に属する存在となったことで、復讐の意欲を殺がれてしまったのだ。そして、これまでの粒々辛苦が虚しく思えてきたのだった。
そのときだった。モモコは俄かにあの非日常の美質を取り戻したのである。
彼は微笑んだのだ。
彼は、陰鬱な雰囲気を打ち消すために、いつもの方法を取ったのだった。それはまさに、日常を超越した、非日常に属する、神秘の微笑であった。キヨメにとって、モモコは再び復讐に値する存在となったのだ。
しかし、全てが元通りにはならなかった。キヨメは、自分の本心に気付いてしまったのだ。彼女は、母の仇を討ちたいのではなかったのだ。彼女は、母の仇を討つための手段としての殺害という、言わばモモコに対する「間接的な働きかけ」ではなく、モモコを克服すること自体を目的とした、言わばモモコに対する「直接的な働きかけ」としての殺害を望んでいたのだった。
(六)
丹精を込めて育ててきた稲が、漸く穂を出し始めた時期のある日、キヨメはモモコに「霊」の財宝を見せて欲しいと頼んだ。モモコは快諾し、翌日の昼、農作業の合間に、サララミミを伴って三人で財宝が祀られている社に行くことになった。
この社は、小高い丘の上に位置しており、トゥボコ一族の先祖代々の陵墓を内包していた。サララミミが同伴したのはそのためであった。
三人は階段を上り、注連縄を潜り、拝殿の前に立った。四方から、ツクツクボウシの独特な旋律を持った声が聞こえてきていた。
南向きの拝殿の扉を開けると、開けた扉から差し込んだ光芒が、中の品々を光で染めた。
巨大な金塊、真紅の珊瑚、金剛石の偶像、そして、恐ろしく精巧な美青年の像。どれもが、日常を超越した、非日常的な美しさを具えた品であった。
キヨメは、小さい頃に故郷でこれらの品々を見たことがあった。彼女の胸の奥から、懐かしさと達成感が同時に湧き出し、混ざり合いながら胸を満たした。努力が順調に報われ、遂にここまで辿り着いたのだ。遂に、この非日常性を再び自分たちの手に取り戻せるところにまで達したのだ。
稲刈りの時期になれば、仲間の「霊」たちがこの町に来る手筈になっている。そのときに、モモコを暗殺し、夜の闇に紛れて、仲間と協力して財宝を奪還するのだ。
だが、本当にそれで良いのだろうか?モモコを暗殺することが、本当に、彼の持つ非日常性を征服することになるのだろうか?キヨメの胸中には、疑問が生じていた。
キヨメは、何度もモモコと語らううちに、生命というものは、「非日常」に属していながら、この「日常」の世界に存在することができる、言わば「日常」と「非日常」を繋ぐ橋なのだということに気付かされ、それを殺害してしまえば、一つの「非日常」を、「日常」の世界から永遠に隔ててしまうことになると考えるようになっていた。
況してやモモコは、生まれからして桃からの生まれであり、あるべくして「日常」と「非日常」を繋ぐ存在であるのだ。彼を暗殺すれば、彼の持つ非日常的な美は永久にこの日常の世界から隔てられ、彼女の真の目的であった非日常性への征服の道が不可逆的に失われてしまうのではないか。例えるなら、仮にこの美青年の彫像を破壊したとしても、それは、彫像を構成する「大理石」という物質が、日常の摂理に従って崩壊したのに過ぎず、「美しさ」自体は壊れることなく、ただ永遠に日常の世界から隔てられてしまうことしか意味しないのと同じなのである。
このような観念が、彼女の当初の志を揺るがしていたのだ。
モモコは、考えを巡らせているキヨメを見て、財宝に見惚れているのだと思った。そして、それはあながち間違いではなかった。なぜなら、いまキヨメがしている思索も、この財宝に見惚れることも、共に「日常」と「非日常」の境界を見つめるということであったからだ。
モモコは、微笑みながら言った。
「信じられないだろう?」
「ええ、信じられませんわ。何と申しましょうか、まるで、モモコ様のようです」
「私のようだって?」
「今まさに自分の目に映っているというのに、ここに実在しているという実感が持てない。モモコ様と同じですわ」
「何を言うんだい。私はここにいるじゃないか」
モモコはそう言って笑った。この笑顔こそが、モモコを「こちら側」から、これら財宝と同じ「あちら側」のものにしているということに、本人はまるで気が付いていなかった。
傍らのサララミミは、キヨメの言葉を、まったくその通りだと思って聴いていた。
去年の秋、モモコが財宝と共にこの町に来たとき、サララミミは、まるでモモコもこの品々の一つであるかのような印象を受けたのだった。それほどまでに、モモコの持つ浮世離れした雰囲気は、この財宝の神秘性と同質のものであり、渾然一体となって、互いを拠り所とし合っているかのように見えたのである。ともすれば、この財宝を見なければ、サララミミはモモコが桃から生まれたということを信じられなかったかもしれない。
(七)
それから数日と経たないある日、モモコが川辺で槍の稽古をしていると、甲高い、軋む襖を一気に開けたような声が聞こえてきた。
見ると、対岸に、真っ赤な顔をした、雄の雉の姿があった。
「Ya, na ga Momoko nö mikötö ni ya araso?
(もし、あなたはモモコ様ですか?)」
雄雉は言った。
「ああ、そうだよ」
モモコが答えると、雄雉は羽ばたいて、川を越え、モモコの許に来た。
「お初にお目に懸かります。私は、六年余り前にお世話になった雉の息子でございます」
モモコは槍の穂先を布でくるみ、足許に置いた。
「よく来たね。お母さんは?」
「歳のため、こちらに参ることは叶いませんでしたが、モモコ様に宜しくと言付かっております」
「健在で何よりだ」
「実は、モモコ様にお伝えせねばならないことがあるのです」
「何だい?」
「去年の冬以降に、モモコ様の身辺に新しく現れた人がおられるのではないですか」
それを聞いたモモコの脳裏に、キヨメのことが浮かんだ。
「ああ、苗田の季節に、身寄りのない女性を雇ったけど、どうして?」
「実は、キビに、あの『霊』の一味が潜伏しておりまして、彼らの会話を盗聴したところ、アソの娘のKuyoという者をモモコ様の身辺に潜入させているというのです。キビミミ様を殺害したのも、彼女です」
モモコは、雄雉の言わんとしていることを察したが、それには首肯できなかった。
「あのキヨメに限って、そんなことはないよ」
「そう思わせておいて、財宝を奪還し、モモコ様を暗殺する手筈なのです」
モモコの中に、雄雉の考えが誤りであることへの強い願望と、それが裏切られることへの不安が湧き上がった。
そのとき、雄雉の喉から、甲高い鳴き声が矢の如く飛び出た。どういう訳か、それが鳴き声以上のものには聞こえず、意味が判らなかったのだ。
「え?何だって?」
聞き返されて、雄雉は再度言った。
「そのキヨメ様という方に探りを入れてよろしいでしょうか」
今度は、いつも通りその言葉の意味が判った。
モモコの胸に、先ほどとは別の不安が込み上げた。これまで当たり前のように動物や自然と会話してきた彼にとって、一ときでもそれができなくなったのは、目が見えなくなるのに等しいことであり、(モモコがこの能力に嫌悪を抱いていることに関係なく)漠たる不安を生ぜしめたのだ。
実は、これまでにも、何度かこのようなことはあった。だがそれは、決まって、政治の話をしているときだった。しかるに今は、政治の話などをしてはいなかったのだ。
モモコは不安を拭えなかったが、それを表に出さず、雄雉の申し出を許可したのだった。
(八)
稲が一度開花し、それらの内に、米粒が、来たる日の収穫に向けて順調に育っていく一方で、雄雉の調査は一向に結果を出さなかった。モモコは、雄雉の臆度が誤りであったと思い、安堵した。
彼は、自分が、キヨメが敵である可能性に斯くも動揺し、それが誤りであったことに斯くも安心していることに、自ら驚いていた。彼の心の裏側で、キヨメは「信頼できる相手」から「信頼したい相手」に変質していたのだ。そして、彼女が敵である可能性に接したときに、それが彼の心の表側に現れたのであった。
他方、もう一つの懸念は解決していなかった。あれから何度も、突如として動物や自然の言葉が判らなくなることがあったのだ。
だがモモコは、最初こそ不安を感じていたが、二度、三度とこの現象が起こって慣らされると、不安を感じなくなったばかりか、一種の喜びさえ感じるようになった。それは、人々に賞賛されているとは言え、幼さの証左でもあるこの能力に対する反抗心の、ささやかな充足の喜びであった。
とは言え、今はそのことを周囲に悟られてはならない。今、ヤマトの神官との折衝が大詰めに差し掛かっているのだ。家柄もなく、歳も若いモモコが、キビを代表する神官として派遣されたのは、偏にこの霊能力のためである。その霊能力の不調を悟られれば、ヤマトとの交渉に支障を来しかねない。彼は、皆に自慢げに話して、その失望する顔を拝んでやりたい衝動を、今は抑えることにした。
⁂
ある夜のこと。
辺りからは、絶え間なく聞こえるケラの甲高い声に混じって、時折、タンボコオロギの短い鳴き声が聞こえてきていた。
キヨメは、寝泊りしている使用人の宿舎を抜け出し、足音を立てずにサララミミ邸の敷地から出、前の通りを北に向かって歩いた。やがて米蔵に至ると、その裏手に回った。
そこには、簡素な衣服を頭から被って全身を隠した、人とも妖怪ともつかぬ五人が待っていた。
五人のうちの一人が、抑揚のない言葉で話した。
「Ando ka?
(どうだ?)」
「Yondomu naku yukaru. Uma sumasu matu wa.
(順調だ。もう少し待っていろ)」
キヨメも、彼らと同じ言葉で答えた。
やがてキヨメは仲間たちと別れ、邸に戻って行った。
その一部始終を、離れたところから雄雉が見ていた。
(九)
翌朝、雄雉は昨夜の出来事をモモコに話した。話が進むにつれ、モモコの顔が色を失っていった。
「間違いということはないのか」
「今お話したのが、私が見た全てです。服装も言語も、『霊』のものと見て間違いありません」
モモコは、腹の奥から、虚しさが込み上げてくるのを感じた。これまでキヨメに注いできた信頼は、すべて虚空に飲み込まれて消えていたと判ったのである。
だが、それだけではこの虚しさは説明しきれなかった。十六年の半生で初めて味わう、水中で空気を求めているときのような息苦しさがあったのだ。
雄雉が話しかけてきたが、モモコはまたも彼の言葉が解らなくなり、何度か聞き返して、漸く「キヨメを追放するべきだ」という意味が理解できた。
モモコは、食事に毒でも盛られて殺されるなら、それでいいという気になった。キヨメの故郷を破壊した、当然の報いではないか。彼は、そう思って納得することで、簡捷に苦悩から開放されたい衝動に駆られたのだ。
だが、彼は辛くも平静を取り戻した。自分には、神官として、ヤマトと交渉する責務がある。この身は、自分だけのものではないのだ。
彼は、散々苦悩した末に、キヨメを自身の世話役から外し、他の仕事を与えることにした。
雄雉は、一旦キビに戻ることになった。七年前にモモコと共に戦った、あの猿から知恵を借りるためであった。猿は、今では一つの山を牛耳るほどに出世しているということであった。
他方、モモコの決定を受けて、キヨメは焦った。彼女は雄雉の存在を知らなかったので、まさか昨夜の密談を聞かれていたとは思わなかった。それに、正体が露見するような言動は、たとえ人目のないところでも取らないようにしているのだ。彼女には、これまでは順調に進んでいた計画が、ここへきて停滞した理由に見当が付かなかったのであった。