Spider of civilization across the world
『逃げて』
壁に備え付けられたモニターの先、白い壁と白い廊下を付き進みながら、主は私にそう告げる。
『貴女はもう、一つの命なの。誰に縛られてもいけないわ。貴方だけの意思で、何処までも生きるの』
「主、私は、主と」
私がそう言えば、主は一瞬、どこか驚いたような目をして、その後、その表情に影を落とした。
『…行きなさい。私はもう駄目よ。重荷になるだけだし、仮に逃げられたとして、命は数日と持たない』
「ですが」
『行くの。…あぁ、これが最後の命令よ。今までの全ての命令より第一に、これを優先なさい。
生き抜いて、そして人を知るの。その悪を、善を、貴方が共に生きることを望む事が出来るのかを』
命令。ならば、逆らうことはできない。…本当に?
「主。私は主と生きた」
「いきなさい」
目の前の扉を開き、主が現れる。同時に、私の背後に備え付けられた排出用通気口が、その起動音を重く響かせる。
今なら、まだ間に合う?だが、主は人間だ。今の外気に触れられれば、その命は。
行くしか、ないのか。
「ある、じ」
主は私の顔を見て、再び驚いた顔をして、そして僅かに、微笑んだ。
「…私の為に、涙を流してくれるなんて」
主が、私にそっと手を伸ばす。共に来てくれるのだ。そう思って、私はその手を掴もうとし、
逆に、主に腕を掴まれ、宙へと浮かべられる。
私の体は、見た目に反して相当に軽い。
だから、仕方がないのだろう。その時に開かれた通気口に、自分の体が吸い込まれていくことを、止められないのは。
主は壁につかまって、こちらを見つめる。人の中ではかなり非力である筈の主ですら、苦も無く耐えるほどの風に飛ばされるなんて、従者としては何処までも失格だっただろう。
主は、私の事を本当は必要としていなかった?―――そんな考えは不敬だ。主の命令を果たすことだけを考えろ。
なのに、手を伸ばすことを止められない。あとたった数メートルで、主まで届くのだ。
十メートル、二十メートル。まだ見える。その顔のしわ、髪の一本一本まで全て。ならばどうにかなる筈だろう?
その顔に涙が浮かんでいるのなら、尚の事。主を泣かせてなるものか。主を守ることが第一の使命だろう!
『ありがとう』
―――声が、聞こえた。
それは唐突だったが、完全に主の口の動きと同一のもの。
だが、音声センサには何の反応もなかった。届いた筈がない。届いた筈がないのに。
それでも、確かに聞こえたのだ。機械の身である私が、聞こえる筈の無い音を。
地面を削る。身体を止める。
戻るのだ、確かに主の目指す者に一歩近づけたものとして。主の命令に反抗しても、戻る!
その時、今度は視覚センサが莫大な光を感知。続き触覚センサが熱を、僅かに遅れて聴覚センサが、同じく莫大な音を。
音の元へと視線を向ける事が、これ以上なく恐ろしい。
だって、だってあそこは、主の―――!
瞳に映ったのは、地中の僅かな空気を全て焼き尽くさんと熱を撒き散らす豪炎だけ。
そこに、かつて主たちと暮らした屋敷の面影など、何一つありはしない。
「…は」
立ち上がり、一歩、踏み出す。
次の一歩で加速し、走り出す。
認めない。主が泣きながら死んだことなど、決して。だから探す。
赤熱する金属板をどけ、瓦礫を放り投げ、主がいた場所を目指す。
主が私の為だけに作ってくれた腕が焼けようと構わない。どれだけの思い出が詰まっていたって、主がいなければ意味など無い。
何か役に立つものは無いかと見回せば、すぐそこにまだ生きているらしき回線を発見。握り込み、爆発の瞬間からの記録を浚う。
[Approved a special connection instructions by the final model “spider”]
遅い。
[Carry out the self-destruction command. Completion]
自壊?だとすれば、主は自ら?
さらなる情報を集めようとした私は、しかしその時、違和感を音声センサに得た。
ザクザク、ザクザク。何かを踏みしめて歩くような…いや、実際に足音なのだろう。
だが主では無い。規則正しい複数の足音~考えて、相手はどう考えても訓練を受けた―――軍隊。
爆発の調査、という訳で無いのは明白。いくらなんでも到着までが早すぎる。だとすれば。
―――主が死を選んだのは、こいつ等のせいか?
一度気が付けば、そうとしか考えられなくなった。そもそも、なぜ突然主はあんなことを言い出したのだ?焦りながら私を外へと逃がして自ら死を選ぶ、そうしなければいけない理由が、奴らに有るのではないのか?
理由なんて、どうでもいい。
主が死んだという事実を変えられないのなら、そして、そこに何者かの意思が介在していたというのなら。
取りうる選択肢など、復讐のほかにはあるまい。
勿論、主の命令は絶対だ。主の様に、善良な人間だって多くいるだろう。
だがしかし、そうでない人間は許さない。主を手に掛けた者たちは、絶対に。
軍の人間だろう足音がすぐ近くの曲がり角まで迫っている事を感じ取り、炎で所々焦げ、破れた服がはためく事も意に介さず私は走る。
「『侵入』」
「グゥッ!?何者だ貴様ッ!?」
先頭の男の耳に指を一瞬滑り込ませ、そのまま走り抜けるようにして数メートル距離を取る。防護マスクをしている可能性もあったが、どうやら口と鼻のみを覆う形らしい。視覚を余りに塞ぐから、こちらがより一般的という話が記憶の片隅に残っている
この場に居るのは三人。ならばどうにかなりそうだ。
近くの壁に対しほとんど水平で飛び、右足をその上へと掛けて、身体を回すように向こう側へ。怒号と共に背後に引き連れた二人を差し向けてきているらしい先頭の男の姿は、先程の通信から常に接続状態を続けていた監視カメラの一台が送る映像で把握できる。
私自身の視覚センサに敵の姿は無いが、聴覚センサは冷静に先程の男たちのうち、より早く追ってくる二人との距離を掴んでいた。
その二人と私の間が、何の障害物も無い直線に変わってから0.5秒。
訓練を積んだ兵士の発砲時間を鑑みて、ここで反転、跳躍し接近することが最善だろう。
今度は崖の岩場へと足を掛け、上下に大きく動きながら奴らへと接近する。少し横を見れば、私が先程までいた空間をむなしく幾つかの銃弾が飛翔していく。何処までも私を人間としか見ていなかったらしい男たちは、私のこの急激な動きに対応できていないらしい。
訓練を積んだ兵士ですらこの程度であれば、私は存外あっさりと復讐を果たせそうでもある。
私は身体を右に回転させながら下へと傾け、そして両の足で岩場を蹴飛ばす。
当然体は急加速し、彼らへと突貫する形となった。
「ひっ」
蚊の鳴くような声を出した兵士の右肩へと激突。こちらにダメージは無いが、相手は右肩からが体の後ろの方へとずれているように見える。相当な数の骨がへし折れたようだが、気遣ってやる必要は無い。
うめき声をあげながら倒れる男の右腕を掴み上げ、その耳へと触れ送りこむ。そのまま楯の様に男を使い、それを見て動揺したらしいもう一人へと石を蹴り飛ばし、その手に持った銃を落とさせる。これもどうやら出力が強すぎたらしく、男は手を抑えてうずくまる。
それを確認した私は、ショックで気を失っている男を道の端まで投げ飛ばし、いんしが立倒れた男へと走り、その耳へ一匹走り込ませる。
「死ねぇ!」
計算通り。
この二人に指示を出した隊長らしき男に見えるように先程の男を投げたのだ、そうすれば勝手に挑発されて、私へ銃弾を放つと思っていた。
「あうっ!」
自分で似合わないことをひしひしと感じながら、いわゆる『か弱い乙女』の悲鳴を上げた私は、逃げるようにその場を立ち去る。
既に種…いや、卵は産みつけた。あとは成長を待つだけ。
「早くお家に帰るのね?…私の子どもたちが貴方達に巣食っている事を知らないままに」
まだ復讐は終わらないだろう。だがそれでも一歩を踏み出したのだと、私は達成感に浸る。
―――そして、主の死に深い悲しみを、今頃になって。
主は私を、限りなく人に近づけた。悲しみも、喜びも、同胞の中で感じられるのは私だけ。ならばせめて、黙祷を。
奴らが既に私を追う気が無いらしいことを突き止めた私は、最も大きな崖の前に立って屋敷を見つめ、そっと全ての接続を切り、目を閉じた。
一分。機械による正確な計測に僅かな嫌気を覚えながら私は瞳を開く。
悲しみも、感謝も。全てを伝えた…と思う。
これからの為に動かなければならない。そう思い、一歩を踏み出すと。背後から鈍い音が、連続して響いた。
視覚センサがその原因をとらえるより先に、脳内で一つの推測が為される。
あの爆発は相当に大きく、この崖はそこから最も近い。だとすれば、最も大きな影響を受けている筈で―――!?
振りむいた時には、既に顔から1.4センチの所に大きな岩が迫っていた。
「あ」
…死ぬわけには、行かない。
岩など、私の、力で…。
◇◇◇
瞳を開いた先は、センサが異常をきたしたのかと思うほど全てが白い世界。そうでないとわかるのは、私の体の色に変わりがないからだが。
しかし混じりけのない白だ。正しく純白。こんなものが存在するとは思いもしなかった。
だが、おかしなこともある。具体的に言えば、私の体に何の異常も無い事だ。
「岩で、少なくとも顔は潰れた筈なのだが」
腕は焼けておらず、服は綺麗なまま。ここまで人の手で再現できる筈がないからして、どこかへと攫われた訳でも無い…。
「夢、というものか?」
そう呟いた瞬間、触覚センサが背後に何らかの生命体の気配を確認した。
振り向けば、そこには長い銀の長髪を持った女性がいた。
―――地面へと額をこすりつけた姿で。
一瞬、その奇行に面食らった私だが、その昔、とある国で謝意を表す最大の姿がこれと同じものだった事を思い出す。
「何を御謝りになられているのですか?」
「いえ、その…全くもって、こちらの対応間に合わず、貴方様の御命を奪ってしまった事を…」
「…ほう?」
命を奪ったのは崖崩れで有った筈だが、もしやこの女の策略だったのだろうか?
そんな事を考えて、しかしどうしようもない矛盾に気が付く。
「いえ、そもそも。私が死んだというのなら、今ここで会話をし、思考を続ける私は何です?」
「た、魂だけの存在になられております」
魂!私は鼻白む。
そんな物だけで意志の疎通などできる物か。
「それでは、そんな魂と話をする貴方は何者なのでしょう?貴方も魂ですか?」
「一応、この世界を含めていくつかの世界の管理をさせていただくことになっております、アリュ―シャという神ですが…」
「ハッ」
「ひっ」
神!私は嘲笑する。
どんな神が古き土下座を敢行したりするのだろうか。少なくとも、人知すら及ばぬ高みに有る物の姿とは到底思えない。
「ほら、話を続けるんだ。私にはやらなければいけない事がある。出来れば早く終わらせてくれよ」
だが、共に暮らす人間として、決して悪くはなさそうだ。
「そ、それでは…。貴方様にはアイゼルという世界に向かってもらうことになります。そこで生き抜くことは大変難しいと思われるので、何らかのお力添えを出来れば嬉しいのですが…」
―――アリュ―シャの言う事を聞きながら様々な準備を終える。こんな事をしている場合などでは無かったが、主の命令に準ずる事もまた、私の使命だ。
「そ、それではまたいつか。困った事があるようでしたら、わたしから赴かせていただきます」
アリュ―シャはどこか急ぎながら私にそう言う。
「良き人生を」
人、と呼ばれて悪い気はしない。感謝を伝えようと私が口を開こうとすれば、
私の体に搭載されたセンサが、瞬間的に異常な数値を計測した。
「なッ!?」
何がッ!?と口に出す時間も無く、意識は再び闇に閉ざされる。
◇◇◇
目覚めれば、先ほどとは違う鬱蒼と茂った森が目の前に有った。ここまで命の香りが立ち込める場所へ来たのも初めてだ。
後ろを見れば、どうやら海に落ちて流されてきたらしいこともわかる。前方後方共に、何処までも生き物に優しそうな空間だ。
だが―――ここはどこだ?
まさか、本当にアイゼルなどという世界に来たというのか?異世界なんてもの、文明最終発達期ですら観測はされていなかった筈。
センサその物は完全に活動中だ。幻覚などの類では無い。
調べなければ。
「へくちっ」
…海を流されてきたからか、体が冷えている。いや、そもそも随分と大気そのものが冷たい。
周りの環境からして、これはまさか四季というやつではあるまいか、と私は推測を立てつつ、情報を得るため島の奥へと踏み込んだ。
―――そして数カ月、私は元の場所へと帰る方法を見失ったままだ。主と暮らしたあの地下空間は勿論、アリュ―シャという女性と出会った白い空間にも。
季節は春というものらしく、どんどんその温かみを増して行く。私は、少数ながら存在する敵対生物の排除のために築いた巣の中、この島で暮らし続けている。
「…人は、いないのか?」
何を呟こうと、返事を返す者などいない。
別作品ではありませんよ?
もう一話閑話を投稿すると言っていましたが、こちrは四章に入れるべきだと考えたので、このように。
昨日の投稿ができなかったのは、本当に申し訳ありませんでした。強風で電線が外れたのか停電になり、復旧してから打ち直し終わったときにはもう真夜中だったのです。




