第十五話:『飛翔』とは
師匠から冷たい、凍えるような視線を向けられたような気がしたが、そちらへ意識を向ける暇は無い。俺も結構、精神が限界ではある。
―――さあ、意識を限界まで研ぎ澄ませ。自由落下すれば俺の体には五つくらい余裕で穴が開く。それでもギリギリまで槍に接近し、そして体の細かな動きまでも制御して、歩いてですら踏破は難しいであろう隙間を潜り抜けろ!
残り二メートル、一メートル、―――十五センチィッ!
「『飛翔』―――!」
首元、左肺、右脇腹、右太腿、左膝、右足先端、その五つが最も最初に俺に傷をつけそうな槍だ。幸運に、というべきなのか、この五本以外には、これだけの槍の中でも当たりそうなものは無い。…かするどころか、どれもが確実に身体を貫くのが目に見えている現状、危険という意味ではこれ以上ないような気もするが。
比較的やりが少ない左側へと身体を傾け、更に足から上向きに跳ね飛ばすように上げる。失敗点は、本来の進行方向としていた方向が足先となった事によって、進行方向の変更が必要になった事だ。
だから再度、頭の先へと意識を集中。
あまり体を上げ過ぎるわけにはいかないだろう。避けるのは目的だが、逃げてはいけない。
目の前には、先程首元に迫っていた槍。身体を斜めに傾け、今の槍と、もう一つの槍の間を抜けようとして―――その裏に隠れて、もう一本。右脇腹を貫こうとしていた槍を失念していた事に思い当たる。
咄嗟に身体を捻り、すれすれの所を交わして行く。距離はバラバラだが、視界の先は全てが槍だらけ。こんな中で、師匠は俺の動きを判断つけられているのだろうか?とも思い、そんな事を考えている時間は無いのだと自分を一喝する。
人体の限界、という単純な問題として、関節というものは曲がる角度に限界がある。俺は身体の柔らかさだけなら、前から平均以上ではあると思っているが、それでもやはり、単純に身体を日根津だけでは無理も来る。
ならば、それだって魔術で強引に捻じ曲げる。
まず体全体を回転させ、斜めに突き出していた槍の先端を肩にかする寸前で避ける。
続いて頭に迫った槍の柄となる部分を、さらなる回転を加えることで回避。俺の体は傍から見れば、出来の悪いドリルのようだろう。
だが、それも数メートルほど進んだ所で限界が見えてくる。今まで通りに『飛翔』を続けられれば特に問題は無い。だが、無茶な軌道で飛びすぎた結果、俺の身体に限界が来た。関節がどうこうではなく、回転の多用による方向感覚の喪失が危険だ。酔ったとは言わないが、高速で回転した結果どっちに脱出しようとしていたのかが分からなくなってきた。既に移動距離は二十メートルなんて有に超えている筈。
これじゃあ駄目だ。それは分かっている。ならばどうするのか。
―――『飛翔』?これが?こんなもの、勢いに任せて吹き飛んでいるだけじゃないか。飛んでいるかも怪しくて、少なくとも、翔けているなんて言えはしない。
そうじゃない。この槍の壁とも言うべき場所から抜け出す為には、最低限『飛ぶ』ということそのものを手中に収め、制御しなければならない。鳥のように、とまでは言わないが、―――いや、目指すべきはそこだ。
加速されていく感覚の中、実現可能かどうかも分からないものをイメージして行く。
鳥のようにとはいっても、俺が鳥になる訳ではない。翼なんてはやさないし、こんな中では邪魔なだけ。ならどうする?自由に空を飛び回れれば、それでいい。
一つ一つの行動なんて考えなくていいのだ。魔術とは、俺の常識の中で終わるような物じゃあないだろう?頭を使ってたって分からない事は多い。むしろ、分かっている事の方が本当はずっと少ない。
分からないそれに身を任せ、脳裏に想起するは一つ。
―――誰にも触れられない、自由な飛翔。
音なんてしなかった、と思う。気がつけばただの暗い森の中にいて、仰向けに寝転がっていた。
ほんの一瞬、すさまじいまでの開放感を得たような気がしたが、それで集中力というものを失ってしまったのがいけないのだろう。全身脱力状態だと言う事がそれを証明している。
そうだ、師匠は何処に居るんだろうか。
落ち葉を髪の中に巻き込みながら首を右に、左に振れば、こちらへと歩いてくる師匠の姿を見つける事が出来た。その表情は笑顔と言っていい物で、俺が期待にこたえる事が出来たのだと感じ、とても嬉しく思う。
「想像以上、だった。まさか痛みを味わう前に、きちんとそれに気がつく事が、出来るだなんて」
「それですか…?」
師匠の言いたい事が、分かるような、分からないような。
これも、頭がぼんやりとしているせいだろう。
「そう。いつもタクミは、頭の中で、考え過ぎてた。…本能に、目覚めたの」
「…師匠、それは余り、褒められてる感じがしません…」
「褒めてる」
師匠が言うのなら、そうなんだろう。
しかし、本能か。そう言えばさっき、族長にも同じような事を言われた気がする。
「前までのタクミは、『飛翔』中に、一つ一つの動きを意識していた。魔術を再発動させているようなつもりだったらしいけれど、そもそも連続して起句を唱えている訳ではないから、そんな事は、出来る筈ない」
「あ…!」
盲点だった。となると、もともと俺の考え過ぎで、完成形は近くに有った?
「でも、今日からのタクミは、飛んだあと自分がどうなるか、という事だけで飛べるようになった。そうなれば、察知した攻撃を、意識して避けるまでもなく、勝手に身体が回避しているという状況に、なる」
聞くだけで、凄いと言う事は伝わった。
つまり―――なんて言うふうに説明する事も、はっきりとした認識を持てていない俺には難しいけれど、それでも達成感はあった。飛べた事よりも、師匠から褒められた事の方が大きいと感じるあたり、俺も貪欲ということか。
「…さ、そろそろ晩餐だから、村に戻ろう?」
「あ、はい…晩餐?」
「うん。…タクミ、寝てたから。昼食はずっと前に、終わったよ?」
「…ええ?」
解放感と共に、意識まで手放していたらしい。それも、恐らく六時間近く…まだまだ修行が肝心か。
「行こう?」
「…はい。行きましょう、師匠」
立ちあがって、師匠の後ろを歩く。
今日もまた、良い一日だった。
『飛翔』の完成による達成感から一夜明けて。
最近は、一日一日の間隔が短くなってきた気がする、なんてどうでもいい事を考えながら朝食を、いつものように師匠とカルスで食べ終えた俺は、後片付けを済ませた後、―――族長からの呼び出しを受けて、カルスと共に再び広場へ向かった。
そこには十数人の男女が居て、その顔ぶれから、やはり体術の修行に関する招集だということが分かる。
つまり、族長が昨日思いついたであろう修行方法を、早速実践すると言う事なのだろう。
「カルス、どうする?いや、参加するのは確実なんだけど」
「…まあ、無茶な修行だとちょっと、ね。でも族長の事だから、命に関わるような事にはならないんじゃないかな?」
「そう、だよな…?」
いやしかし、族長の娘である師匠は、昨日俺に、なんだかんだでかなり危険な修行を…いや、実際こうして無事だったのだから、そこまで危険では無―――いって事は無いよな、うん。
やはり一夜明けたからか、昨日の状況について冷静に考え直す事が出来るようになっている。昨日は、『人喰鬼』に襲われた時とか、司教の手から離れて海に沈んだ時とか、そのくらいの命の危機だったという自覚が生まれてきて、何故深く考えずにあんな危険行為に走ったのかと、昨日の自分に対して恐怖も抱いている。
総合的には、新たな成長を迎えられたような気がするので嬉しいのだが、微妙に複雑な気持ちだったりもするのだ。
一度危険な修行をしたんだから、族長が同じようなものを指示してきても行える―――と考えているが、正直言ってこれに関しては、その場に立たなければ正確な事は何も言えないだろう。自分に対する諦めの気持ちとして、多分善意から俺たちの事を鍛えようとしてくれている師匠や教官たちの言葉には即同意してしまいそうだ、という懸念もあるが…実際悪いようにはならないだろうと信じる。
無駄に先の事を考えていた俺の方をカルスが軽く叩き、何事か伝えようとする。
「来たよ」
そう言われて振り向けば、ゆっくりと歩いてくる族長の姿がある。その手には、ここからでは視認し辛いものの、黒く細長い布が、幾本も握られているようだ。心なしかその足取りは重く、これから行う修行の厳しさを物語っているようでもあった。
最も族長の近くに居た、俺の外見より三つほど上―――二十歳そこそこであろう男性が族長に駆けより、何かを問いかける。ここからではその内容は聞き取れない。
だが、その数秒後にその男までもが厳かな面持ちでこちらへと踵を返したのだから、やはり今回の修行内容、族長が本腰を入れていると言うのが伝わる。
更に言うのであれば、俺たちが族長の求める水準に対して全く対応できていないのだろうと言う事も。
広場の外側、村の外へと続く道を背に立った族長に対して、俺たちもまた、誰が言いだした訳でも無く横一列に整列して行く。
口を開く者はいない。当然だ。ここに居る十五人は、そもそも修行に耐える事が出来ている者たちだ。
族長による修行は、他の、武器を操る物と比べて危険は少ないが、非常に長時間で、地味である。
それに耐えてきた、精神力だって以前より増した者たちばかりだから。
「さて」
族長が口を開けば、俺を含めて皆、より緊張して行く。
昨日、修行について族長が溢した時、近くに居たのは俺だけだったが、そうでなくてもここに居る全員が、何となく今日の目的を察しているだろう。
その、詳細な説明を求めて、皆が静かに待っている。
「とりあえず、村の外に行くぞ」
そういうのであれば、そうするだけ。
振りかえり、そして歩き出した族長の後ろを、俺たちも歩いて行く。
…それから十五分ほど歩いただろうか?
人為的に伐採されたのであろう森の一角に、俺たちは立っていた。
切株なども全て掘り起こされ、見る限りでは石も無い。不自然に平らな土地が出来上がっている。
その範囲、大凡百平方メートル。トラック一台程の長さを一片とした、ほぼ正方形に近い土地だ。
どう考えても、修行場所はここだろう。族長の言う『本能』を鍛える修行と入った井戸のようなものになるのか―――。
「皆、この帯を目に巻け」
「了解しました、教官」
族長に最も近い場所にいた男性が、黒い帯を受け取って、そして、一つづつ受け取り、回して行く。
受け取ったその束から一本を引き抜き、束をカルスに渡す。
目の上から巻きつければ、もう何も見えない。もともと薄暗いのだ。何人かで集まることで、『魂光』の光も出来はするが、それも、この黒帯を巻けば何も見えやしない。
「全員、そのままで」
族長の言葉から、全員が帯を巻き、視界をつぶされていると言う事が分かる。
そして、その数秒後。先程最初に黒帯を受け取った男性の、『ウヒャァッ!?』と、何とも間の抜けた声が響き渡った。
凄まじく目隠しを外したい気持に駆られるが、しかし『そのままで』と言われている以上それは出来ない。
まさか、これが既に修行の一環―――?そんな風に思っている間にも、男女それぞれ『ウヒィ!』とか、「フェァア!」とか、常軌を逸したような声が連続する。
それが少しずつ近づいてくる事に、知らず、恐怖を感じ始める。
そして、目の前に立っていた筈の男の声で、『ウォヒョイ!』などという声が聞こえた時、それは頂点を迎えた。
一体何をされたと言うのか。苦痛を伴わず、倒れ伏すような音もない以上、命の危険などは無いだろうが、全員が確実に大きな反応を返すと言う時点でかなりの恐怖だ。
僅かに呼吸が早くなり―――それを自覚すると同時に、両耳に何かを挿入される。
「フォォウ!」
その、日常的に感じる事のない感触と、そもそもとして多少敏感である耳という部位に接触したという事実から、変な声が出てしまうことは避けられない物だと俺は思う。
さて、実際何をされたのか、という事を冷静に考えれば、耳栓を付けられた、ということになるんだろう。
耳栓を渡して、目隠しをつけるのだと伝えてからそれもはめさせればよかったのでは?とも思うが、深い問題ではないだろう。
さて。
この状態で、どうすればいいと言うのだろうか?
―――その時、何かが急速に近づいてくる、そんな、気配というべきものを、感じた。
「ウグッ!」
ぶつかってきたのは、族長の拳や蹴りとは違う、純粋な重さの大きな物。…恐らくは、人の体。
族長が投げたのか、蹴り飛ばしたのか。それは分からないが、しかし、やらせたい事に関しては理解も追いついた。恐らく、一撃入れられたころには皆気がつく事だろう。
族長は、気配で、気配のみで攻撃を避けられるようにしようとしている。
言葉にすればたった一文。しかし、その実とてつもない難易度だ。
俺は先程、誰かが飛んでくる事に先駆けて気配を感じたが、『どこから』、また、『どんな物が』という事に関しては、全く理解できていなかった。
例えば、大きく跳躍するなどすれば避けるだけなら可能なのかもしれない。しかしそれでは、族長が本来求めている筈の、体術として、戦いを続けながら相手の攻撃を避ける技術は身に付かない。当然だ。そんな大幅な動きを繰り返せば、何時かは読まれ、罠を張られる。そうでなくても体力が持たない。
しかし、難しい事だ。立っていることくらいはどうという事も無いが、走ることは難しそうで、最近行う事の増えてきた宙返りなどの曲芸じみた技に関しては、三半規管が追いつかないのは間違いない。
俺にぶつかって、のしかかったままだった誰かも、立ち上がったようだ。ここまでの間に、何人かが倒れ込んでいるらしき地面の揺れも感じ取れている。
そして、再びこちらへと近づいて来て、不意に歩みを止めた一人の事も。
「ンッ!」
恐らくは俺では無く立ち上がった誰かに対しての攻撃に、しかし巻き込まれるだろうと考えて横へと転がる。予想は当たったらしく、先程の誰かが勢いよく倒れ込む音が聞こえた。
―――厳しい修行になった。やはり、父と娘か…!
現実逃避気味に、そんな事を考えた。
今日中に次話が書ける…はずです。




