第四十六話:表面上の平穏
辿り着いたのは、木に覆われた丘。標高の高い場所でも瘴気が降ってきた形跡は見られたが、すぐさま下へ流れていくからだろうか、沼は生まれていなかった。
木々を切り倒して周辺に忌種、或いは帝国兵の姿が無い事を確認した俺は、『飛翔』で周囲を警戒しながら浮かび上がる。
「瘴気が丘の下に流れたんなら、忌種もこっちに好んでこねぇとは思うんだけどな」
剣を鞘ごと肩に乗せたレイリが、周囲を見渡しながらそう言う。それはそうだが、やはりこんな緊急事態では安心なんて出来ない。そのままゆっくり上昇し――木々よりも高い場所まで到達する。
空はまだ広範囲にわたって変色していたが、それでも先程よりはずっと通常に近い色だ。…今は何時だろう。月六、いや、七刻くらいだろうか?日が沈んでからより、昇るまでの時間の方が短いほどの時間にはなったと思う。
「夜が明ければ、もう少し安心して行動もできるんだけど」
空を覆う瘴気と思しい何かも、太陽の光を全て塞ぐほど濃い物とは思えない。今も月明かりはうっすらと届いているのだから。…と言っても、魔術を使わずに周囲を見る事が出来るかと言えば、夜目に自信が無ければ不可能だろうとは思える程度の暗さだ。
レイリはこの状況でも普通に動けているようだが、もしも戦争が無い状況で、避難していない一般人がこれに巻き込まれていれば助かったかどうか怪しい。正しく、不幸中の幸いだ。
「――これは」
丘を覆う木々の先、平原が広がっている筈の大地は今や、降り注いだ瘴気と同じ赤黒い色彩に染められていた。
何処に人が住んでいたか、という事までは分からないが、少なくとも魔術で強化した視界で捉えられる範囲に人の姿も、建物もない。
忌種の姿もない――だが時間の問題だろう。奴等が住んでいる場所にも瘴気が溢れているからこちらまで出てきていないというのが実際の所だと思われる。
「瘴災の被害はかなり酷い。近くに人里は見えない。忌種もいない、か。…朝までここで待ってる方がマシかもな」
「そうだね。こんな状態じゃ、どっちに進めば町に辿り着くのか、正確には分からないし」
「山を越えた時点で道なんてねえからな。あの沼がもし、山を越えて王国内まで続いてるなら、知ってる街道まで消えてっかも」
再び地面へ降りた俺を横目に、レイリは数度、雷然を使って石を真上へ数個飛ばしていた。暗い中ではそれらの石が纏った燐光も多少濃く見える。恐らくは、エリクスさん達が万が一近くにいた場合、自らの場所を教えられる様にしているのだろう。
「…じゃ、交代で寝るか。まずはタクミでいいだろ。アタシの方が体力有るし。…朝までの時間を考えたら、二刻くらいしか眠れねえかも知れねえけどな」
「いや、まずはレイリからで良いよ。殺気助けられたばっかりだし、何もできず流された分、俺の体力も魔力も回復出来てるから」
「そうか?…んじゃ、お言葉に甘えて。二刻くらいで起こせよ?」
「分かった。忌種がでたらすぐに対処するよ。出来る限りゆっくり休んで」
レイリが寝た後も、周囲は静かなままだった。あの量の瘴気が増えても、すぐさま忌種が生まれる、という訳ではないらしい。とはいえ、どれだけ瘴気があれば、どんな忌種が、どんな時間で生まれる――なんてことを研究した人は誰もいないらしく、こうしている間にも突然目の前で忌種が発生、という状況だってあり得るのだ。
何せアリュ―シャ様は、町中で忌種が突然暴れ出すような事態にまで言及していたのだから。油断など一瞬も出来ない。…レイリがすっかり眠っているのは、俺の事を信頼しているからだと好意的に受け取っておく。
◇◇◇
そこは森だった。だった、というのは、今の状況を見れば皆、口をそろえて湿地帯と呼ぶだろうからだ。
周辺の土地を含めて瘴気に浸されたいま、通常のまま存在する土地などはない。どこもかしこも瘴気と泥の混ざった赤黒い色彩に染まり、何時大量の忌種が溢れてきてもおかしくない状況だ。
普段は忌種の居ない平原に忌種が溢れていないのは、自らの住処にも瘴気が溢れているから、というだけの話であり――元から瘴気が濃厚な、忌種の生まれる場所では全く違う現象が起きていた。
森の最深部、多くの中位忌種と、僅かな上位忌種が生まれおちる、王国屈指の瘴気のたまり場であるこの場所では今、巨大な忌種が一匹、動き出そうとしていた。
ズズ、ズズ、と鈍重な摩擦音と共に、周囲で泥に溶けていた瘴気が吸収されていく。
『…ゥ』
その忌種はまだ瘴気が足りないとばかりに周囲から瘴気を吸い上げ続け、時には口の前を通りがかった他の忌種を飲み込んでまで瘴気を欲していた。
最初の姿は不定型。泥とほぼ同色、同質の体液と内臓を弾力のある膜で覆ったような姿だったその忌種も、瘴気を吸い上げる量と時間に比例して、少しずつ形を変えていく。
体はより硬質な物に、肉体はより生物らしい器官を備え、何より物を考える脳が発達し始めていた。
思考の発生はその忌種に、自分が何をしたいか、何をするべきかという疑問を抱かせる。
まず忌種は、瘴気が欲しい、強い体を得たいと思い、それ自体は容易くかなえられるものだと気がついた。何せこの場には瘴気が溢れているし、それさえあれば時間経過とともに強くなれるとも分かっていたからだ。
だから次に、何をするべきかと考え――何も知らない筈の脳に、記憶とでも呼ぶべき何かが現れた事に気がついた。
と言ってもそれは非常におぼろげで、まとまりのない思考と光景の連続。その記憶は最後に、敵から放たれた輝く光の矢が自分へと飛翔してくる光景と、それを放った敵に対する無尽蔵の憎悪を忌種へと見せつけ、沈黙した。
憎悪の対象を、当然ながらその忌種は知らない。だがしかし、心へ植え付けられた憎悪の炎は他の全てを燃やし尽くさんとばかりに昂っており――それは、自らと同じ忌種以外の全てを壊せば、その憎悪を多少なりとなだめる事も出来るのではないかと気がついた。
いまはまだ雌伏の時である。たどたどしい思考でそれを決めた忌種は、今度は同じ忌種へ手を出す事はせず、静かに瘴気を啜り始めた。
その瞳が見つめるのは西方。いま自分の居る場所へ流れ込んでくる瘴気が、最も多く降り注いだ場所…。
◇◇◇
「朝、か」
「いや起こせよ!」
山脈の向こうに昇った太陽を見ながら目を細め、レイリからの怒声をそっと受け流す。
…レイリを休ませようと思って、少しだけ時間を伸ばそうとしたのは事実だ。だが単純に、誰とも話をせず周囲へ気を配るだけの状態で正しい時間を測る事が出来なかったのだ。
そろそろ二刻くらい経った、と最初に思った時は、体感時間で考えるに恐らく一刻も経っていなかったのだろう。暇な時には時間の流れが遅く感じられるものだからまだ二刻経っていない、と判断して時間を伸ばした結果がこの有様だ。
正直眠い。
「流石にアタシも、この状況でタクミを休ませる為だけに時間伸ばす、とかはできねぇぞ?危険な事に変わりはねえんだから、早ぇとこ避難しねえと」
「うん。…大丈夫。すぐ倒れるとか言う状況じゃないし、避難するだけならどうとでもなる筈。それに、魔力だってしっかり回復してるからね。忌種も、よっぽど強い相手じゃ無ければどうにかなる…筈」
呆れの視線を向けるレイリに苦笑を返しつつ、出発の準備をする。と言っても、荷物は常に身につけている分しか無いわけだし、不調が無いかどうかを確認する程度だ。ちなみに、瘴気に流されている時に蓋が外れてしまったのか、矢筒の中には数本しか矢が残っていなかった。
「…兄貴なら、アタシ達探すより先に二人連れてまともな所まで避難しただろうし、入れちがいとかは気にせず逃げていいだろ」
「なら…まずは山脈の向こうがどうなっているかを確かめて、クォルに向かう、って感じで良いかな?人が避難してない町で一番近いのはあそこの筈だし」
「だな。…忌種がいないか確認頼む」
「うん」
昨夜と同じ、『飛翔』で木の隙間から上へのぼり、周辺の状況を確認する。空の色は今も平常通りとは言えないが、それでも紅
が薄く、かなり高い空を雲のように流れているのは見える。ただそれも、日光を遮ったりするような濃さではない。
昨晩よりもずっと遠くまで見える地上は、全面が降ってきた瘴気に赤黒く染められていた。と言っても、ここからでは帝国側に続く丘の上部と、王国側の山脈までしか見えない。
忌種の姿も、未だに無い――油断はできないが、今移動するのが最も安全だろう。むしろ、この機を逃せば忌種に囲まれる、ということだってあり得る。
「山脈の麓まで、少なくとも大きな忌種はいない筈。突っ切る?」
「だな。山脈は流石に、元から忌種の住処だから油断なんて出来やしねぇけど」
などと言いながら、移動開始。丘を降り、平原へ出ても忌種の姿は無かった。瘴気の発生と忌種の発生には時間差が有るのだろう。不幸中の幸い、といった所だ。俺達が脱出できるというのもそうだし、瘴気の増加は王国の上層部にも伝わるだろうから、的確な対策がもう打たれている筈。
「帰るぞ。…戦争も一段落だろ」




