第四十五話:加速する世界
本日二本目です
「逸れちまったな…」
カルスとラスティアを脇に抱え直してから、エリクスはそう言いつつ雷然で空を舞っていた。
眼下には瘴気の大沼。先程までいた帝国軍の陣地はすっかり瘴気に沈み、何処に何が有ったのかを思い出す事も難しいありさまだ。
山脈を隔てた王国側の土地ならば問題はないだろうと越えてみれば、そちらも同じように瘴気が溢れていたのだから驚きだった。彼の常識では、瘴災というものはいくらなんでもここまで広範囲にわたり被害をもたらすものではなかったからだ。せいぜいが一つの町を飲み込む程度だと思っていた彼にとっては青天の霹靂。と言ってもこの場合、曇天から瘴気が降り注いできている訳だが。
「いや、瘴気が降るってなんだよ…」
彼の中に有る常識は脆くも崩れ去りかけていたが、そもそも瘴災が常識で測れるものではないとも知っていたが故に、どうにか平常心へと戻る事を可能とした。
「あ、あの、エリクスさん!…タクミ達は」
「ん?…まあ、無事ではあるだろ今んとこ。流された場所にもよッけど、海とかが有るわけでも無し」
「でも、脱出、出来ないなら、沈んだまま」
「いや、さっきレイリが抜けてたし、近くにいたんだからタクミの事も引っ張って来れる筈だぜ」
そう言ってエリクスが視線を瘴気の沼、その一角へと向けると、そこには誰の姿もなかった。
「…げぇッ!」
「し、沈んでるじゃないですか!助けないと!」
「早く、しないと、分からなくなる」
抱える二人の言葉にエリクスは迷い、しかし、こう決断した。
「――いや、あいつらならどうにかするだろ。むしろ、最初にするべきなのはお前ら二人の安全確保だ」
「で、でも!」
「俺が探しに行って、その間にまた瘴気が降ってきたらどうする?…多少時間はかかるかも知んねえけど、お前らの安全が確保できるまでは動けねぇ」
エリクスはそう言って、王国中心方向へと動く。瘴災が広範囲である事は事実だが、全てが呑まれた訳ではないというのもまた、確実な事の筈。自分の知識を頼りに王都へと向かうエリクスは、眼下の景色に、確かな数の忌種が現れ始めている事に気がついた。
上空からでも見つけられる、となれば、その大きさは確実に人間の数倍はある。…最低でも中位忌種、ほとんどが上位忌種に当たるだろうそれらの忌種が、本来は人里が有るべき場所まで降りてきているのだ。
「…これは、マジでやべぇな。守人何人で収める段階だこれ…!」
一方、カルスとラスティアには別の物が思い返されていた。
タクミ達も得たという神託、忌種や瘴気が溢れかえると言うその預言の日が訪れたのだと理解する事は、決して難しい事では無かった。
大勢の人間が予想し、備えを始めていたその日は、されど備えを完了するよりも先に始まってしまったのだ。
◇◇◇
「いませんねー、忌種」
「だなー」
森の中、二人の少年が武器を片手にそんな事を呟いていた。
「先週までは、この辺まで入れば【小人鬼】とか散々出てきてたのに、何で一匹もいないんだか」
「忌種が絶滅したってわけでもないでしょうしね」
「昨日金使ったから、今日どうにかしないと困るんだよなぁ…」
彼等は典型的な、日銭を稼ぐために冒険者を営む性質の者たちだった。決して素行が悪いわけではなかったが、冒険者が一般人から『きちんとした大人』として見られない一因でもある、『宵越しの金は持たない』という謎の行動を引き起こす生活と思考回路を持っている。
だがそれ故に、自らの生活を脅かしそうな変化には敏感だった。
忌種が減った、と聞いても、町の人間であれば少し安心するだけ。冒険者やギルドならば別だが、それでもどのくらい減ったのかを調査する程度であろう。
常識として忌種が絶滅しない事、人を襲わず逃げる理由が数少ない事、その二つを理解したうえで、どれだけ探してでも忌種を討伐しなければいけない彼らだからこそ、危険を顧みず森の奥へ奥へと誰よりも早く踏み込んで行けたのだ。
普段であれば中位忌種まで出没しかねないほど深い森の奥まで入っても尚忌種の一匹見当たらない状況に彼等は困惑した。それどころか、普段はほとんど見かけられない野生動物が歩きまわっている。それらを捕まえて帰れば牧場地域へ売り付ける事も可能ではあるのだが、彼等はあえて更に奥へと進む。
「…止まろう」
そんな彼等が足を止めたのは、最終的に森に入って八刻、そろそろ引き返さなければ翌朝までの期間が怪しくなる月二刻の事だった。
「間違いなく異常なのは分かったし、ギルドに伝えればもっと詳しく調査してくれる…だろうと思う。もしかしたら何か、危険な兆候かもしれないし」
少し前に有った忌種の瘴気汚染体が森から飛び出してくるという危機を思い出して、片方の男がそう言った。
「そうだなー。一応その辺の木に目印でも付けて、帰るか」
そう決めた彼等は周囲の木を手当たり次第に斬り付け、多少道を間違えても同じような場所まで辿り着けるようにし、道順が分かるように行きの道にもつけた傷を頼りに森を抜けていく。
そうして彼等は、来た道を六刻で抜けた。
「…いや、おかしいな。何で八刻の道をこんな早く抜けられたんだろう」
「ま、行きほど警戒してなかったしなぁ。…というか、暗いな」
彼等が見上げた空は、赤黒く澱んでいた。
『ロルナンまで帰り辛いな』などと言葉をかわしつつ、何故か行きよりも長く伸びた街道の途中で、昔から町一番の冒険者として尊敬を集めていたある男の乗る馬車に相乗りさせてもらい、二人は無事に自分の町まで辿り着いたのである。
◇◇◇
「某の準備は万全だ!どこへなりとも向かわせろオンドリッチ殿!」
「北方は連合の守人と僕の方で当たる。今のところ一番酷そうな要塞都市付近も、人は住んでいないし、丁度、王直属の部隊が全員移動しているらしいから大丈夫。という訳で、クォル周辺を頼むよ」
王都の中心近くに有る屋敷で、大勢の軍関係者や貴族たちが行き来する中、そんな会話が有った。
「了解した!某の全霊を以って溢れる忌種どもを叩き潰す!…砦となる場所は任せるぞ!」
「始めるよ。『幾万の星誘う大地導け指し示す灯道標――」
オンドリッチ・ステミア侯爵――北方小国連合とも接する土地に広大な領地をもつステミア家の現頭首であり、王国に所属する守人の一人でもある。
彼が高速で紡ぐ起句が、屋敷の森にある花壇の隣で片膝を立てて座るシュリ―フィア・アイゼンガルドの体の周りへ、宇宙に瞬く星のように小さな光を浮かばせていく。
「――星海の彼方辿りし光の旅人』」
「いざ参る」
そして、シュリ―フィアの姿は消えた。
オンドリッチはすぐさま、侍女姿の少女へと報告を任せ、自分自身にも同じ起句を唱え始めた。
「領民の避難も終えねば、いけませんから」
普段の穏やかな笑みを潜めた彼もまた、この緊急事態への対処に全力を尽くしていた。
◇◇◇
――ぞわ、と、背筋に震えが走る。
「ニールン」
「分かっている。…始まった、というような所だろう。分かっていた事なら、慌てるまでもない」
家の外には、どうやら自分たちと同じ感覚を得た者たちが集まってきている様だ。グンド・ヴァイジールは、彼等とも話をしようと立ちあがって外へ出ようとするが、――視界がふらつき、上手く立てない。
「寝ていろ。もうそこまで、自由のきく身体でも無いだろ?」
「…すまん、頼るぞ」
グンドのかわりに屋敷の外へ出たニールンは、そこに集った、自分と同じ白い光をみなぎらせる村人たちの姿を見て、こちらを見つめるグンドの姿を振り返って、こう言った。
「始まったぞ。私達を苦しめる瘴気、それが莫大量で押し寄せる災厄の時が」
『分かっている』とばかりに頷きを返す村人たちの姿を見て、ニールンはさらに続ける。
「戦いの先陣を切れ、とは言わない。私はな。ただ――自分たちの命を守るため、そして、自分たちが守りたいと思った相手の為に力を使う事には躊躇うな。
既に、聖十神教側とも話は通してある。自らの心に背いてまで、この村に閉じこもる必要はない」
それだけを告げて、ニールンは再び屋敷の中へ舞い戻る。
村人たちの中で、最初に口を開いたのはフィディ・ナルクだった。
「…まあ、そう言う訳らしい」
その言葉をきっかけに、村人のなかでもより親しい者同士、あるいは家族内で次々に話し合いが始まる。そんな姿を見ながらフィディは、そのそばで事態を見守っていたミィス・ナルクの元まで戻った。
「僕はここへ残るよ。身重の君を置いてはいけないし、そもそも、絶対に助けたいと思うほどに外の人と関わってはいないから」
「…やっぱり、ちょっとほっとするわね。私の事を選んでくれて、ありがと。
でも、動きたいって人も多いみたいね」
「と言ってもほとんど、近くの町までしか動かないとは思うけれどね」
「そうね…。所で、『外の人と関わっていない』って言うけど、タクミ君の事は?」
ミィスがそう言うと、フィディは斜め上を見上げて少し考えた後、『助けたいのは事実だけど』と切り出した。
「個人で行くには国外は遠い。心配するほどタクミ君は弱くない。…後、二人ももうついて行ってるんだから、これ以上の人数で押し掛けちゃあね」
「あら、全員強くなったって思うのね」
浄化の力を持つ者達もまた、自らの新たな選択で動き出そうとしていた。
◇◇◇
「この際仕方が有りませんわ!忌種は守人や冒険者に任せ、焼け石に水だろうと瘴気の浄化を続けるのです!」
部下達に指示を出しながら、自らも浄化作業を続けるアードゥ。対瘴気、対忌種を目指して作られた彼等の組織は、この緊急事態において国家以上に一人一人が全力で行動していた。
体力を使い果たす者も多く現れるようになり、アードゥは唸る。
「間に合わない…!」
◇◇◇
掴まれた手が、引きずられている。
その感覚に気がついた時には、自らの体を覆う不快な泥の圧力が少し、弱まっていた。
「ゲホッ、ゴホゥッ!」
咳こむと、帰還にまで入りこんでいたらしき泥が吐き出される。服の下まで完璧に瘴気の泥が付着していて、正直な所馬すぐ全て脱ぎ去ってしまいたい程だった。
「大丈夫か…?というかタクミ、まさか泥飲んでんじゃねえだろうな」
「き、起句唱えようとした時、飲んだ」
俺と同じように泥まみれなレイリにそう伝えると、無理やり背中を前へ方向けさせられ、更に背中を強く叩かれた。
「吐いとけ!絶対に酷い事になる!」
「わ、分かった、分かったから待…ォウェ――!」
一度吐き出してしまえば、もう止まらない。ズルズルと出てきたそれは、最終的に握り拳二個以上の大きさとなっていた。…血の塊を吐き出したようにも見えて非常に不安を煽られる。
「レ、レイリは大丈夫…?」
「やべぇって思った時点で口も鼻も抑えてた。…髪に入り込んだ奴がマジで面倒だわ。タクミの方から、取れるだけ取ってくれ」
周囲に忌種の姿が無い事を確認してから鎧を外した彼女の神を、後ろからそっと触り、からみつく泥を指で取っていく。
「水と、石鹸もしっかりないととてもじゃないけど取れないね、これ」
「あの調子じゃあ、川も汚れてそうだな…切るか」
そう言うレイリに、何故か――恐らくとても非合理的な理由で――同意したくなかった俺は、『もう少しきれいにしてから考えよう』と言って、必死に泥を取り始めた。
服などで拭おうと思っても、その服自体が泥まみれだからどうしようもなく、結局は綺麗な髪に戻す事は出来なかったが…何故か彼女は最終的に髪を切る事を止めていた。
「…その、本当にありがとうレイリ。あのまま一人で流されてたら、また誰も知らない場所に流れ着いてしまう所だった。でも、どうやって見つけたの?…俺多分、全身沈んでたよね」
「ん?そうだな…」
状況を確認するために見晴らしのいい場所を探して移動するさなか、レイリに問いかける。すると彼女は不思議そうに数秒考えた後、子どものように無邪気な笑顔で
「もう二度と勝手に消えさせねぇ、って思ってたしな。だからまあ、…上手く行った、って所だな!今度は離れ離れじゃねえし」
その言葉は、答えにはなっていない者だが――レイリにも理由は分からないのだろう。行ってしまえば、ただの偶然だ。
それでもいい。
「そうだね。…ちゃんと、一緒にいられる」
流された先で孤独を感じなかったのは、これが初めてかもしれない。
「おう。…じゃ、行こうぜ」
「うん」
先に歩きだした彼女の隣を、添うように歩く。
危険は多いだろう。これは恐らく、アリュ―シャ様が言っていた大量の瘴気が溢れた結果なのだから。だが…全てが解決するその日まで、皆で生き延びるのだ。
六章はもう少しで終了です




