第四十三話:攪拌
「うぅ…」
その日、王国西部の町であるクォルで、一人の少女が石畳の上で蹲り、涙をこらえていた。
現在のクォルは、その更に西部から、帝国の侵攻を逃れるために避難してきた民衆でかなり混沌とした様相を呈している。元々町に住んでいる人間の十倍、あるいは百倍にも及ぼうかという数の人間がそこを通過し、更に内地の町や村へと疎開して行くのだ。
少女はその中でも後半組。ある深い山の奥にある村で、年相応に、或いは少々子供の様に『いつか素敵な王子様が迎えに来てくれる』なんて夢を見ながら日々を過ごしていた彼女は、異常な忌種の増殖に伴い、その危機から救ってくれた村の恩人と共に大移動、この町で数日間を過ごしていた。
緊急事態だったが故に、精神的な準備が全くできていない状態での避難は、結果として彼らの心身共に大きな疲労を残していたのだ。村を救ってくれた、蜘蛛を従える冒険者と、その後に出会った守人達に感謝の念を抱きつつも、平穏な日常が消え去ってしまった事は少女にとって耐え難い苦痛である。だがしかし、彼女が蹲って泣いているのは実に単純な理由――親と、ひいては村人たちの集団から、一人ではぐれてしまったのだ。
辛い避難生活でも、彼女にとっては初めて訪れる町。母から馬車の出発時刻を聞かされていた彼女は、疲れも取れた最終日、いい機会だからと街を回っていたのだ。
これは、馬車の発車時刻が月二刻と非常に遅かったのも理由とは言える。太陽が沈んでから行けば間に合う…彼女はそう考えていた。…道のりとしての話をすれば、その感覚は間違っていなかったのだが…今のこの町は人が多い。さらに言えば、公判組とは言え彼女と同じように馬車で町の外へ出ようとする者達も多くいるのだ。人波にもまれた彼女は、村の人間だけでなく大勢の人間が同時に利用する馬車の発車時刻に間に合わなかった。
基本的に利口な彼女が馬車に乗っていない、という事を母親は予想しておらず、村人も複数台の馬車に乗っていたので、確認する事は出来なかった――という事実は彼女にとって何の救いにもなりはしない。戦争の混乱の中、徴兵された父に再会できるかも分からないというのに、母とも別れてしまったのだ。
クォルに住む人々は決して悪い人間性の持ち主だという訳ではないが、大勢入ってきた避難者の事をひとくくりにして居ている節も有り、泣いている彼女の事も他の避難者たちがどうにかするだろうと思って完璧に放置。彼女は今、完全に孤独である。
「やだよ…」
口からついて出る言葉は、周りの者からは深い所まで読み取ることのできない感情の発露ばかり。町の人間からひとくくりにされている避難者たちも、そもそも自分達の事で精一杯だ。事情がありそうだとは思っても、ただ蹲っているだけの彼女を率先的に助けようとする者は結局、現れなかった。
少女の心は暗く沈む。視線の先に映る石畳は、村の地面よりずっと暗く映った。町の道には光る石が置いてあると知っていた彼女は、遂に自分の心が幻覚まで見せるようになったかと変な笑いをこぼしそうになり、次に、そもそも今夜の月はまだ大きいはずで、いくらなんでもここまでの暗さにはならない筈だと気がついた。
まさか、雨が降るのか。季節を考えればおかしな事ではない。だが今年は珍しく雨が少ないという話ではなかったか。男での足りなくなった村で農作業に骨を折る母がそう話していた事を思い出す。
何故、屋根の下に居られそうにないこんな日に限って雨が降るのか。仕方が無い。少し恐いけれど、誰でもはいれる冒険者ギルドへ向かい、事情を話しておいてもらおう。少女はそう考えて、雲が覆っているだろう暗い空を見上げ…。
赤黒く光る空が、同色の柱をゆったりと、数十本以上の数で地上へと突き立てていく瞬間を、目撃した。
「…うそ」
ゆったりと言っても、それはあくまでも彼女の瞳から見た話。天空から地上までの距離をたった十数秒で伸びるその柱は、実際の所とてつもない速度を誇っている。
そんな柱の一つが、クォルの外壁傍へ鈍く大きな衝撃と共に突き立った。
柱の中心部はそのまま地面へ深く入り込み、そして外周部は、上からさらなる量が落ちてくるごとにたわみ、横側へと延びて行く。
周囲の異常に気がついた衛兵たちが何か行動をとるよりも早く、それは外壁を乗り越えた。
既に夜という事も有り、町に出歩く人影はほとんどなかった。故に、最初に乗り越えたそれに触れたのも衛兵だった。
「液体…!?くそ、何がどうなっている!」
「わ、分かりません!こんなもの、見た事が…!」
衛兵の一人が小石を赤黒い液体へと投げいれる。特に反応は無かったが、かなり粘着質の液体だろうことはその場に居た者達の目には明らかだった。衛兵として活動する魔術士が出した明かりに照らされた表面が、小石に対して飛沫を散らさず、波打ちもせず飲み込んだからだ。
「それに…それに触るな!」
そう言ったのは、四十代に差しかかったころらしき衛兵隊隊長。
「避難だ!影響の薄い王都方面へ移動する!住民の避難を急げ!」
「りょ、了解しました!しかし隊長、あれは…」
「私は知っている!見た事が有るだけだが、…私の両親はあれに呑まれた!あれは、絶忌…ッ!?」
隊長の言葉が突然途切れたのは、その足元にあった石畳が突然崩落したからだ。一気に首元まで沈みこんだ隊長は、自分を飲み込んだ、地の泥沼とでもいうべきそれが周囲の建物数件ごとまきこんで発生している事に気がつくや否や、声を張り上げる。
「行け!これが緊急事態だという事は分かっただろう!…ここはもう駄目だ!住民たちを避難させるんだよ!」
突然の状況に戸惑う部下達を無理やり走らせ、自分自身もその沼の中を必死でもがいて近くの建物へと近づいて行く。
「こうなれば、一人でも多く救うだけ…ぐうっ!?」
が、その進行は途中で阻まれる――液体が流れ出したのだ。
「きゃっ…!?」
その頃少女は、唐突な地震に怯えていた。自身は決して珍しい物とは言えないが、それでも経っていられないほどの大きさとなれば初体験。体勢が崩れ、冷たい石畳へ打ちつけられてしまう。
しかし、立ち上がろうとして地面を腕で押しても、何故か体が持ち上がらない――その時、少女の足元もまた、沼と化していたのだ。
いや、もうその頃には既に、町全体が崩落寸前だったのだ。衛兵達は全力で避難を動かしたが、町の外へと脱出させる事は結局叶わず――そして、全てが流れゆく。
土石流というよりは、泥の津波。傾斜など殆どない平地のほぼすべてが赤黒い泥によって液状化し、その上にあった木々や岩、建造物、そして人々を飲み込み、かき混ぜていく。




