第九話:翌朝
瞳を開けば、そこには、雨戸の隅から漏れる光に照らされた、艶やかな金髪が。暖かな安心感に抱かれて、再び意識が沈み――どうにかそれを止める。早起きしろ、と言われた事を思い出したからだ。
意識の覚醒と共に、記憶もきちんと蘇る。――また同衾か。いや、全く不健全な行為などは無かったのだ。何を恥ずかしがる事があろうか。
と、何時の間にやら思考が軽やかな物に戻っている事に気がつく。…やはり、レイリのお陰か。
助けられてばかりだ。レイリは俺が追い付くのを待ってくれると言ってくれたけれど、それに甘んじている事は出来ない。レイリが俺を見捨てないというのなら、むしろ、自分から勇気を出して進んでいくべきである。そうしてやっと対等。助けあえる本当のコンビ、といったところか。
レイリを起こすべきかとも思うが、俺のせいで遅くまで起きることになってしまったのだし、多分、俺より後に眠っている。それを考えれば、ここで俺がレイリを起こすのは駄目だろう。…とりあえず、眠っている内に着替えてしまうか。
そうして、特に時間をかける事も無く着替え終わる。
「ふう…」
「おはよう。昨日は、最近にしちゃ寒い夜だったが、暖かかったか?」
「あ、はい。…暖かかったです」
背後からの声に、羞恥を感じながらも答えを返す。レイリが起きていないから言える事だが、互いの体温を伝えあう感覚という物が、あれほど安心する事だったとは。
――待て。
レイリは起きていない。それは、視線を少し左へずらせば確認できる。だとすれば、俺の背後から語りかけてくるこの声は一体…!?
振り返る。
体格は男のそれ。鍛え上げられた身体を軽装の鎧で包み、腰には剣を提げている。美、と付けるべき顔をした青年。その髪は美しい金髪――エリクスさんだ。
ほっとする。エリクスさんと俺は同室なのだから、部屋に入ってきて当然だ。
「エリクスさんも、やっぱり無事だったんですね。おはようございます」
「おう、そうだな。…で?」
見れば、エリクスさんの表情は僅かに苛立たしげなものだった。正確には、苛立ちを越えて、ただ疲労を感じるようになってしまったような表情か。
さて、どうして俺にそんな感情が向けられているのだろうか――ッて、考えるまでも無いか。
そっと床に膝を突き、そのまま上体をエリクスさんへ向けて下げていく。
「エリクスさん。状況が状況なので、とても信じられないとも思いますが。ええ、昨晩、俺とレイリの間に、その、不健全なあれこれの一切は発生しておりません。それでも尚お咎めを受けるのなら、その全てを俺が受ける所存であります…」
「それもだけど、そっちじゃねえよ」
エリクスさんの声は平淡な物だった。謝罪するべきものはこの事ではないらしいが、この事についても既に知っている様な反応…というか、そうか、もう部屋には入ってるもんな。
じゃあ、なんだ?エリクスさんが怒りそうなものなんて、他には何も…。
悩みながら視線を動かした先、俺が使っていなかった方の寝具を見つける。丁寧に折りたたまれたそれは使われた様子も無く、本来それを使うべきだった物が部屋へと訪れなかった事を示している。
…ギギギ、という音が首から鳴っていると錯覚するほどゆっくりと、エリクスさんの方へ視線を戻す。
エリクスさんの表情は、さっきと打って変わって朗らかな笑顔になっていた。何に怒っているのかを俺が理解したから、少し気分が楽になったのだろう。良い事だと思う。だがしかし、追いつめられたのは俺だ。…元から追い詰められていたことが露呈しただけだが。
「え、っと…」
「別に、お前らがさ、どうこうなるって心配はしてなかったよ。ならないって思ってたし、同委の上田ってんなら俺が今更口出しする様なこっちゃない。…だがな、そんな状況で、どの面下げて部屋に入れってんだ?うん?」
何時になくいやらしい言葉の攻め方をしてくるのは、それだけ外で一夜を明かすのが疲れたからだろうか。――!一声目で既に『寒い夜だった』とか言ってる!
今日のエリクスさんはこちらをからかう気満々か…。いやしかし、俺がどうこう言い返す事は出来ない。エリクスさんが部屋に入れなかった理由は実に妥当すぎる。
「俺が外で寒い思いしてる間に、お前らは中で仲良く温もりを分け合ってたってかー。かーッ!辛いわ―!一人身は辛いわー!」
「事実と虚偽を混ぜないでくださいよ!エリクスさんにはシュリ―フィアさんがいるじゃないですか!」
「まだ付き合ってねえから…ッ!」
ふとした言葉がエリクスさんの胸を突いてしまったのか、今度はエリクスさんが膝立ちになってしまう。片手を壁に添えて何とか体勢を保っているあたり、エリクスさん本人にも焦りが生まれているのかもしれない。
勝手な印象でしかないが、シュリ―フィアさんは恋愛的な意味では奥手。焦らなくても良い様な気はするが――ああ止めよう。恋愛経験のない奴が何を考えたところで周囲を混乱させるだけだ。
「は、早く朝飯食えよ…!」
捨て台詞のようにそう言ってエリクスさんは部屋を重い足取りで出て言った。…あれ、もしかしてそれを言う為にここを訪れたのだろうか?だとすれば少し酷い対応だったかもしれない。
…しかし、どうして俺は『エリクスさんにはシュリ―フィアさんがいる』なんて言ったんだろうか。その言葉は、…俺には誰がいるという前提で紡がれた言葉だ?
「んん…んぁ?」
しかし、その思考は途絶する。レイリが起きたからだ。何やら意味を成さない音を口からこぼしながら上体を起こし、きょろきょろと周囲を見回す。
「おはよう」
俺が背後からそう声をかけると、ゆっくりとレイリは振り向き、硬直する。
――苦い記憶が蘇る。もしも今騒がれたら、あの時の比じゃない騒ぎになってしまう。この宿に居る人の量は、翠月のそれをはるかに上回るのだから。
しかし、俺の予想は良い方向に裏切られた。
俺の事を視線でとらえたレイリは、そのまま数秒こちらを見つめて、そして、笑ったのだ。微笑んだ、というべきか?安心したような、そんな顔をした。
…相手がいる、ということに安心したのは俺の方ばかりだと思っていたけれど、どうやら、レイリもそう思ってくれているらしい。
「おー、おはよう…」
レイリは微笑んだまま、眠そうな目でわずかに頭を揺らした後、小さく『あ』と呟いた。
「…アタシの方が早く起きるつもりだったのに」
「ま、まあ、俺より後に寝たんだろうし、普通だよ。あ、エリクスさんが早く朝飯食えって」
「分かった。…あー、一回部屋戻っていろいろ準備してくるわ。着替えなきゃいけねえし、他にも色々…よく考えたらわりと矢べぇな。あんま何も考えてなかったけど、臭くなかったか?」
「ぜ、全然。臭くなかった。いい…というか、それは俺の方なんだけど」
「あー…やっぱ魔術士はあんま体動かさねえんだな、って感じだったぜ?」
臭くなかった、と断言されなかったので僅かに落ち込む。だがそれよりも、どうにか不都合が起こる前に口を閉じられたのが非常に幸運だった。
もしも『良い香りだった』などと口走ってしまえば、変態の誹りは免れなかっただろう。いくらレイリだって拒否感を抱くだろうし、…そもそも自分で自分が嫌になっている位だ。変態性が高すぎる。何時の間にこんな自分に成ったのだろうか。
「じゃ、さっさと準備して朝飯な。軍じゃねえから、戦闘以外では作戦説明くらいしか呼ばれねえだろうけど、それでも悠長にはしてらんねえし」
「うん、じゃあまた後で」
レイリを見送って、自分も支度を続ける。だが、彼女より少しだけ早く起きたからか、それもすぐに終わった。後は寝具を片付けるだけ。
そう思って、掛け布団をたたむために持ち上げて、皴を伸ばす為、波打たせるように振るい――ふわり、と。
掛け布団に包まっていた彼女の残り香が、鼻腔へと届く。甘い香り。戦場で剣を振るう彼女の荒々しさからは想像できないような、優しく、暖かな香り。それは、容易に昨夜の記憶を呼び起こす。
膝から力が抜け、自らの意志とは裏腹に――という事にしておきたい――寝具へと頭から沈み込む。
駄目だ。うっすらと気が付き始めた。多分俺は、レイリの事が気になっているのだ。…つまり、その、恋とか愛とか、そういう方向性で…。
「おい、早く飯食いに来いっつってんだろ!まさかたぁ思うが、まだレイリ寝てんじゃ、ねえ、だろうな…」
動けない。
部屋を開けて現れたエリクスさんの視線が、酷く冷たい物になっている気がしたから。
「…タクミ?」
しかし、こうしているだけでは駄目だ。エリクスさんに言い訳しなければ。…その高い難易度に、重圧を感じた心が勝手に呼吸を荒くする。
「――お前は、レイリの匂いで興奮してんのか?」
「違ッ!違うんですっ!」
全力で振り向き、そう言い張る。だが声は震えていた。自分が変態かもしれないとさっき思ったばかりなのだから仕方が無いと思うが、これではエリクスさんからの信頼も下がる。
『完了!』
妙に機嫌の良いレイリの声が、階下より響いて来る。その後、俺がエリクスさんと双方唖然としたまま見つめ合っていると、今度は階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
間違いない、レイリが上がってきたのだ。こんな所を見られれば全て終わりだ!見放されるぞ!
見放されて当然な気もしたが、見放されたいとは思えない。だから、エリクスさんとの見つめ合いを止めて体を動かさなければいけないんだけど。
「タクミはあれだな。その悲しそうにしてる顔見ると、何か楽しくなってくるわ」
「最低ですか…!?」
「さっきまでの行動思い返してから言おうな」
駄目だ完全に弱みを握られてる…ッ!
そんな事を考えている間に、階段を上る音は途絶え、今度はこの部屋へと少しずつ足音が近寄ってくる。
――どうする?このままでは…。
そう悩んで、ふと思う。今俺は、エリクスさんの方へと状態ごと振り返っている。手には布団が握られているが、別に顔に近づけている訳でもない。
…となれば、だ。
「よっ、と」
そう言いながら床へ掛け布団を広げ、畳む。それとレイリが来たのは全くの同時だった。
「おいタクミ、遅ぇよ。何でアタシの着替えより時間かかってんだ」
「いろいろと、ね。うん。エリクスさんとも話をしてたし」
「ふぅん…何の話してたんだ?兄貴」
レイリからそう問いかけられたエリクスさんは、小さく笑った後、こう言った。
「いや、人間ってのは、ちゃんと成長するもんだよな、ってな」
「はぁ…?そりゃまあ、そうだろうけど。そんな話するより前に飯食えって…」
「ああ、うん。もう準備できたから今すぐ行くよ」
「それならアタシ、席取っとくわ。兄貴は食った?」
「食った。二人で食ってこい」
それを聞くや否や駆けだして行ったレイリの足音が遠ざかるのを確認して、俺も立ち上がる。
「なあ」
「なんでしょうか」
「俺が言うのもなんだが、あれだ。…変な道を走るなよ?道はあくまでも一本を選ぶだけで、他に無ぇわけじゃねぇ。選んだ道を、ゆっくり進んできゃぁ良いんだ。暴走すると、悲惨だぜ?」
「…肝に、銘じておきます。
ところでエリクスさん、シュリ―フィアさんとの状況は、悲惨なんですか?」
俺の言葉を聞いたエリクスさんの顔はまた不機嫌になっていたので、廊下だという事も構わず全力で頭を下げて誠心誠意謝ってから食事に行った。結局レイリからは遅いと言われたが。
シリアスに対する反動が…。




