第五十一話:泥酔
「エリクス殿、ささ、一献」
「え、シュ、シュリ―フィアさん!?」
夕食、エリクスさんを連れて別の席へと行き、お酒を注ぎ始めたシュリ―フィアさん。エリクスさんはこれまでと明らかに違うシュリ―フィアさんの行動に動揺しているようだ。
そんな姿を見ながら、俺は普通に食事を続けていた。
「…おいタクミ、何だあれ」
「いろいろあったんだよ。…悪い事じゃないって」
「いやまあ、それは分かるけど。…シュリ―フィアさんも何であんな事してんだ?」
「エ、エリクスさんにとっては嬉しい事、だよね…?」
レイリもカルスも、その光景には開いた口が塞がらないようだ。逆に、何が有ったかを知っているラスティアの顔には、僅かな疲労感が浮かんでいる。
「でもまさか、本音で語り合う為にお酒を使うって事になるとは。シュリ―フィアさんは今の状況に気がついて…無いんだろうな」
身体が触れあいそうな距離で酒を注がれているエリクスさんの顔は心配になるほど紅く染まっていて、シュリ―フィアさんが目的としていた本音で話す事すら出来ないのではないかと思ってしまう。最終的に本人の感想は幸せな物で終わるだろうが、…変な事にならなければいいな、なんて他人事の様に考えてしまう。
「兄貴ぶっ倒れんじゃねえのかあれ…」
「むしろ、そうなった時の、シュリ―フィアさんが、心配」
「それも有るな…。兄貴め、酔って変な事しなけりゃいいけど」
視線の先、エリクスさんの視線は机の上を右へ左へ、当てもなく彷徨っているように見えた。
いや、それも仕方のない事だろう。普段、エリクスさんの体面にシュリ―フィアさんが座っただけでも恥ずかしそうだったのが、今日は隣、それも、いつもより確実に距離間が近いのだから。そのうえ自分とシュリ―フィアさんしか座っていないから、意識を集中してしまうのだ。
そうなると自分が何をしでかすか心配になってしまった、と言う所だろうか?見たところ鼻息も荒い。完全に脳が茹だっている。
「心配だけど、二人の空気を崩す訳にはいかない、と。まあ、前の時も上手く行ったし、今回も大丈夫じゃないかな」
「無責任な…タクミがシュリ―フィアさんに何か行ったんだろ。アタシは騙せねえ」
「言ったけど、俺だってあんなことになるとは思わなかったんだって」
食事を続けながら、昼間の事について話す。隣で話を聞いていたレイリは、最終的には頭を両腕で抱えていた。
「シュリ―フィアさんが暴走してる…!つうか、兄貴の恋愛感情そのものには全く気がついてねえのか?」
「そうじゃないと、流石にあんな事はしないかなぁ、とは思う」
「と言うかお酒飲み過ぎなんじゃないかな。二人ともお酒強かったと思うけど、酔おうとして酷い事になってるんじゃあない?」
「もう、何度も、店員さんが、、お酒持ってきてる」
「…止める方法が無いなぁ」
二人とも、何時の間にやら出来上がっている。何やら話しあって入るようだが、シュリ―フィアさんがエリクスさんの方に体を預けたりするたびにエリクスさんの思考回路が停止しているのが俺達にも見えた。いや、むしろその空気は酒場全体からしても以上、次第に周囲から人が離れ、それに比例するように視線が集中して行く。
「まあ、この状況なら酷い事にはならないと俺は思う。…だから後の事は二人に任せる。うん、放置してる訳じゃなくて、二人の意思を尊重するって事だよ」
「誰に言い訳してるのかは知らんが地震の無さが現れすぎだぜタクミ。…まあでも、良いか」
『良いの?』とばかりにカルスとラスティアが俺達へと視線を向けてくるが、…良いのだ。妹であるレイリが認めたのだし。
そうしている間に、少しずつ食堂の客は減って行った。二人に対する視線も同じく。どうやら、二人の行動に進展が無い事を悟って飽きられたらしい。まあ、エリクスさんが一度落ち付かなければ、周囲の期待していたであろう恋愛系の何かが起こる事はないだろうし。
ちなみに、ここ数カ月翠月での宿泊を続けた結果、常連の客からは顔を覚えられているようだ。…まあ、特徴的な一団だとは思うし、エリクスさんがシュリ―フィアさんへ思いを向けているのも傍から見れば分かっただろうから、今日のこれも面白半分で見る事が出来たのだろう。
「…アタシも、飲もっかな」
「レイリはすぐに悪酔いするし…」
「べ、別にいいだろ少しくらい。あの時とは違って、タクミに背負われなくてもすぐ部屋に着くし」
「今更言うのもなんだけどさ、お酒、あんまりハマりすぎるのも良くないよ?そりゃぁ、レイリももう成人、王国法で合法的に飲酒出来るからって」
そんな事にはならないと信じたいが、もしもレイリがアルコール中毒で常に酒を飲んでいなければ理性を保てないような人間になってしまったら、それは正直なところ、想像もしたくないほど最悪だ。
…と考えていた事が、レイリには伝わっているようで、途端に不機嫌になった。
「アタシが飲んだくれになるって言いてえのか?なわけねえだろ。あのな、王国だって節度を守れってきちんと法に明記してんだぜ?」
「でも、それこそギルドで飲まされてた時は短時間で歩けないくらいになってたじゃないか。レイリ本人が気をつけても、周りが飲ませるって事も有るんだよ?元から身体に良いわけでもないし」
「う、うっせえ!タクミはあれか!俗に言うオカン!」
「なんでレイリの母親になってるんだよ…」
レイリは腕を組んで、俺の言葉など聞かんとばかりに目を閉じた。成程、怒り方まで子どもの様だ。
…まあ、飲酒は合法だし、常識がずれているのは俺の方なのだから…郷に入れば郷に従え、という言葉も有る事だし…。
自分にレイリの機嫌を取る為の言い訳を重ねた後、こう口に出した。
「まあ、ほどほどにね?飲みすぎだって思ったら止めるから」
「何でタクミが決めるんだよ…まいっか、あ、一本お願い!辛い方で!」
店員へそう頼むと、酒はすぐに手渡された。器は四つ、レイリの要求に有った一本と言う言葉は、いつの間にか大瓶一本と解釈されてしまっていた。
「あ、これ違います…行っちゃったよ、高そうだなぁ、これ」
料理とは違い、酒は一本一本注文する事になっているので別料金なのだ。こんなに飲むつもりはなかったのだが。
「…受け取っちまった以上しゃあねえな、よし、飲む!」
「無理が有るって、落ち着いて」
レイリの手から瓶を奪って、器へと注ぐ。酒が入っていたのは地球で一般的に使われていたビール瓶とは違う形状の器だった。注ぎ口は太いが、底部はさらに太い。その間は括れていて…そう、確か、ガラス製か陶器かと言う違いは有るにしても、ワインを瓶から一時的に移しておく入れ物がこんな形だった気がする。
器の重さから伝わる内容量の多さに、気づかれないようため息をついてから、レイリの持つ器へ酒を注いで行く。
「ちゃんと一杯づつ、ゆっくり飲んで。と言うか、これを一人で飲むのは無謀だから俺も飲むよ」
「うわ、アタシには飲むなっつといて、アタシが頼んだら飲むのかよずっりぃ」
「はいはい。カルスとラスティアも飲める?」
問いかけると、何故かこちらとエリクスさん達の方を見比べていた二人は恐る恐る器を差し出してきた。
そう言えば、二人は村の皆と別れてからお酒を飲んでいなかったんじゃないだろうか?村で飲まれていたお酒はかなり酒精の薄い物だったし、二人こそ注意するべきかもしれない。
二人に少しずつ注いで、さて自分にもと瓶を戻せば、レイリが二杯目を求めて器を差し出してきた。
今度はこれ見よがしに溜息をついてから、さっきより少なく注ぐ。
「少ねえ…って、タクミは普通に入れてんじゃねえか」
「俺はまだ一杯目でしょ?レイリは早すぎ」
「勢いなんて個人差だろうが」
「勢いで飲んじゃ駄目なんだってば」
そう言った所で何やら変な吐息が聞こえたので視線を正面に向けると、カルスとラスティアが器を両手で持ったまま頭を前後させているのが見えた。
頬も紅潮していて…やはり、酒精が強かったらしい。少ないとはいえ、慣れない濃さを一気飲みしたようだから、少し休憩した方が言いだろう。
「聞きかじった話でしかないけど、お酒って言うのは、誰かと話をしながらゆっくり飲むのが一番いいんだってさ」
まあ、父さんから聞いた話だ。俺は正直、酒も強くないし、父さんと酒を飲むことに対しても罪悪感に近い物を感じていたから、十年以上の飲酒可能な年齢の間でも数度しか同席しなかった。
そんな中、飲み始める時に常に言っていた言葉がこれだった。今思えば、あれも、俺を酔わせて、悩みなりなんなりを話させようとしていたのだろうか。
「アタシは、あれだ。冒険者流かもしれねえけど、仲間と集まってぎゃあぎゃあ騒ぎながら飲むのが一番だって聞くぜ」
「それもまあ、そうかもね。…とりあえずは、誰かと飲んでる方が楽しいって事で」
「一人で飲むのはな…楽しいって雰囲気がねえよな、本人はどうだか知んねえけど」
まあ、ギルドの中の酒場で静かに酔ってる人なんかもいる訳で、レイリはそんな人を思い出していたのだろう。
「とりあえずは、タクミの言う事を聞いといてやるよ。だからほら、注げ」
「はいはい、酔っても知らないよ?」
「うっせ、タクミの方が酔うのは早ぇよ、どうせ」
レイリの器に酒を注ぎ、自分のそれにも口を付ける。
成程、確かに強い酒だ。アルコール濃度も高い方だろう。…濃度の高い酒は、技術が無いと作りづらいと言う話も聞くのだが、まさかこれを造るのにも魔術が関わっているのだろうか?…いやいや、どんな微生物がいてもおかしくはないから、考えなくても良いか、そんな事。
一口、二口、飲みこむほどに、思考が気楽な方に流れていくような感覚が有った。次第に器を傾ける回数も増え、レイリの器にも俺の器にも、復活したカルスとラスティアの器にも酒を注いで行き…。
約半刻後、全員が酔い潰れた。
…酔ったと言う事を自覚しても尚、瓶に残った酒をそのままにしておく事をもったいないと思ってしまったのが運の尽きだったのだろう。カルスとラスティアが机に突っ伏し、そのすぐ後、俺とレイリも限界を迎えた。
「…皆、大丈夫?」
「…おお…」
「うう…」
「…」
「ラスティアさん…?」
ラスティアさんが完全に沈黙してしまったので、その隣に座るカルスに安否を確かめてもらう。どうやら小声で返事をしてくれているらしいので、一安心。
だがまあ、何時までも此処にいる訳にもいかない。部屋に戻らなければ、…意識が有るうちに。
「ほら、行こう。肩、肩貸しあって、支えて、部屋」
「おお…立たせてくれぇ…」
「俺だって、立てないから…レイリも、力入れて…」
肩を組み、机に腕を突き、息を合わせて力を込め、立ちあがる。カルスとラスティアの方へ歩いて行って、二人も立ち上がらせる。
四人で肩を組んで食堂を出る直前、向けた視線の先では、エリクスさんとシュリ―フィアさんが――肩を寄せ合っていた。まさかとも思うが、結局のところ、互いに飲み過ぎて意識を朦朧とさせていると言うのが事実だろう。俺達四人の何倍、二人だけで飲んだのか。
階段を登りきってすぐ部屋に着くカルスとラスティアと別れ、次は俺の部屋。
「レイリ、大丈夫…?歩ける…?」
「うん…んぁ…」
俺の肩に体重を掛けながら、レイリは寝た。…寝た、完全に。
起こそうとしても、最早大声を出す力も無く、揺さぶれば平衡感覚を失い転倒してしまうだろうことははっきりしている。レイリの部屋は施錠されていて、運び込む事も出来ない。
エリクスさん達が帰ってくるのもかなり後だろうし…などと考えている内に、俺自身の思考にも、靄が、かかってきたようだ。
結論の出ないまま、鍵を開け、部屋に入る。扉を閉めれば部屋はかなり暗くなった。だが今更証明を付けようとも思えない。
瞳を見開こうとしても、閉じた瞼の下で白目を剥く事しか出来なくなるほどの眠気に襲われた俺には、もう着替える事すら億劫であった。まあ、寝る前に本来服は着替えるが、これも部屋着だし、良いか。
そう考えて、寝所へ近づき…膝から床へ崩れ落ち、上半身だけがベッドの上に乗ったような状態で、思考が完全に錆びついた事を理解した。睡眠と言うより、これでは気絶だ。
意識が飛ぶ一瞬、肩に重みを感じたような気もしたが、もう何が何やら分からない。




