第四十五話:鍛練
伸ばした右腕を、左側に延びるように体へ引きつけ、左腕で十字型になる様に抑える。
見覚えのある身体の解し方をしたレイリは、右足の爪先で地面を数度蹴ってから、先程よりは幾分か真面目な表情でこちらを見つめてきた。
「じゃあ始めるけど、ちゃんと見とけよ?」
「うん。…えっと、速いんだよね?」
「ああ、期待しとけ」
そこまで言うのなら、期待と共に、瞬きすらしない様に全力で集中しておく事にしよう。
などと考えている間に、レイリが軽く跳躍――そして、急加速。
その瞬間に生まれた残像がぶれた先を目で追う事でどうにか見つける事は出来たが、それにしたってとんでもない速さだ。…『飛翔』の速度より速いというのはどういう事なんだろうか?魔術より体術が勝る、というのは常識的ではない様な気もしたが、そもそも魔術を含めてアイゼルという世界で起こる事が、俺の常識とかみ合う筈もなかった。
そうしている間にも、レイリは平原を大きく迂回、こちらから見て横向きに見える方向へ駆け始めた。
どうやら、そうすることで俺達から速さが見えやすい、という事らしい。
ただ、そうなったことで分かった事が、もう一つ有る。それは、レイリの身に、幽かではあるものの黄金の光がまとわりついているという事。
最初、レイリの背中しか見えなかった時は、風に靡く金髪で全く気がつかなかったものの、どう考えても金髪が届かない所にまでその光は届いているのだ。だとすれば、そこには何らかの力が働いているという事に成るだろう。
魔力による何らかの反応か、――それとも。
何となく不安になってカルスとラスティアの方を見るものの、二人は特に何か特別な事に気がついたという様子でも無く、ただただレイリの速さに見入っているだけの様だ。
「張り切ってんな、単純な速度だが、今までで一番速かった時より…」
エリクスさんもそう言って顎に手を当てている。今のレイリの速さは、そうとう調子が良かったという事でもあるのだろう。
だが、その表情からは余裕が消えていない事も分かる。となれば、エリクスさんはレイリすら凌駕する速度を身につけているのだろうか?
視線をレイリに戻してから数秒後。レイリが突然、地面を擦ったように見えた。いや実際、そこで草の葉が僅かに舞っている。
だが、その速度そのものは衰えず、動きも真っ直ぐなままなので、怪我はしていない筈だと安堵のため息を吐く。
レイリは、少しだけ進路をこちらへと向ける形で反転した。殆ど今の移動経路をなぞる形ではあったが、その移動速度から俺達との距離が生まれて言った所だったので、ちょうどいいだろう。
すると、そんなレイリから何かが射出される。…恐らくだが、さっき地面に接触した時に拾い上げた石か何かだ。
斜め上に投げ上げられたそれは、本当に僅かな黄金の燐光を纏って飛ぶも…弧を描き、落ち始める。超高速で走りながら、という不安定な姿勢で投げられた事を考えればかなりの高さまで上がったのだが――昨日レイリが翠月で言っていた、物を速く投げる方法が分からないというのは、これの事なのだろう。
その石が地面に接触したのとほぼ同時、レイリが俺達の前で勢いを落とし、空中で一回転しながら地面へ降り立つ。
表情はどこか悔しげで、納得がいっていないのだと語っている。
「…まあ、こんな感じだ」
「…えっと、昨日も言ったけど、どうやって動いてるのそれ」
「ん?んー…なんか、こう、行こうと思ったらいけるぜ」
「ええ…?」
レイリの言いたい事ははっきりしなかったが、結果的に表情から暗い物を抜く事は出来た様だ。
しかし、それにしたってずいぶんな速度が出ていた。魔力とかが関わっていなければ、いくらなんでも身一つで実現可能なものでは無かったと思うのだが。
「で、まあ、俺がこの後見せてもあんまり変わらねえから、さっきの奴だけやるぜ」
そう言って、エリクスさんも無造作に足元の草をかき分け、小石を摘まみあげる。
「よっと」
手元から弾き飛ばされた石は、レイリの時以上に黄金の光をその通過点に撒き散らしながら高く、速く飛翔して行った。成程、確かにとんでもない速度だ。元々手のひらに収まりきる大きさではあったが、それにしたって光すら一秒も経たないうちに見えなくなる高さまで飛んでいってしまった。
「こんな感じで、自分やら物を加速する…言い方が有ってるかは分かんねえけど、そういうもんだ。俺にもよくわかんねえけど、実家に伝わる…秘術?とか、そんな感じだ。魔術かどうかはわからん」
エリクスさんはそう解説するが、やはり確証はないようだ。俺のも分からないし、見る限りラスティアさんも思い当たる節はなさそう。…これも含めて、シュリ―フィアさんに話を聞くべきかも知れない。
「とまあ、これでおおよそ、何ができるのかとかは互いに分かった感じか?」
「はい、それはまあ…それで、ですけど」
「あー、まあ分かってるから、…ちょっと耳貸せ」
エリクスさんの言われるがままに耳を貸せば、ささやき声で何かを伝えてくる。
「…良いか、自分の意志を貫きたいって言ったが、その為にはまず、自分に対して自信が無くちゃなんねえ」
「…まあ、確かにそうですね。今だって、自信に満ち溢れてるとかは絶対に言えませんし」
「おう、つう訳で、鍛える」
「…鍛える」
「おう。…変な顔すんな。真面目に言ってっから」
いや、何となくわかりはするのだ。多分、鍛えて自信をつけろ、とか、そんな感じなんだろうとは。
「でも、ですよ?自身がつくほど強くなるのって、かなり時間がかかるんじゃあないですか?」
「かかるな。だがまあ、そんなもんだろ」
そう言われてしまうと、頷くほかない。
確かに、これまでにした修行なんて魔術くらいだし、それだって身体の苦しみは味わっていなかった。ならばいい加減、地道な努力という物を積み上げなければならない時期が来たのかもしれない。
――それに、魔術でしか戦えないのなら、どうしようもない窮地に追いつめられることだってあり得るし。
「じゃあ、お願いします」
「おう、まずは体力つけるとこからだな」
◇◇◇
ただひたすらに走り、数刻。
強化された体力ですら息が切れ、喉元からどこか鉄に似た味がし始めた頃、ようやくエリクスさんから終了が言い渡され、地面に倒れ込む。
一刻ほど前にはラスティアさんが倒れ、少しだけ前にカルスも倒れた。レイリは今、俺の隣で膝立ちになってゼエゼエと苦しそうに喘いでいるが…俺よりはやはり、体力が有るのだろう。
エリクスさんは、少しだけ呼吸が乱れているものの、それだけ。軽い運動をしただけ、といった様子だ。
「まだまだだな、全員。俺くらいとまでは言わねえけど、レイリくらいまでは鍛えるか…」
「おいおい、兄貴…あのな、普段から体動かしてる奴じゃねえと、年単位かけないと無理だぜ、これ。タクミはともかく、ラスティアなんていかにも魔術士、体力を求められてる訳じゃないだろうに」
「ま、いずれだいずれ」
そう言ったエリクスさんは、王都の方向を振り返る。
俺もつられて振り返れば、ふらふらと『飛翔』してきたラスティアが、カルスが倒れた所に降り立ったのが見える。
「とりあえずあそこまで戻るか、よし、走るぞ」
「え、ちょ!」
「じゃあ、アタシも先に行っとくわ。大丈夫大丈夫、兄貴もおいてったりはしねえからさ」
そう言って、エリクスさんもレイリも走って行く。
俺も何とか立ち上がるが…歩く事は出来ても、膝が震えてとても走れない。
『飛翔』を使うかとも考えたが、今は身体を鍛えているのだから、それもあまり…よろしくない。
「ああもう、走る!」
そう言って踏み出した俺は、何度か酷く転びながらもどうにか皆の元へとたどり着く事が出来たのだった。
「お、帰って来たかタクミ」
「は、はい、どうにか」
そこは、王都の外を流れる川のほとりだった。エリクスさんは上着を脱いで、顔を川の水で洗い、持ってきた布を浸して身体を拭いている。
「着替えてから町に戻るぞ、昼飯食って、シュリ―フィアさんの所に」
「わ、分かりました」
のろのろと動きだしたカルスと共に、服を脱いでエリクスさんと同じようにする。
「カルス、大丈夫だった?」
「な、何とか…タクミこそ、何で走れるの?」
「ちょっと、ね…いや、体がおかしいんだよ」
「それじゃあ俺がもっとおかしいって事じゃねえか。ほら、さっさと終わらせて、レイリとラスティアと交代だ」
――その言葉の意味をできるだけ考えない様にして、身体を拭き、着替える。
無言でレイリと入れ替わり、そのまま王都の方でも眺めていようと思ったのだが、すれ違うその瞬間、耳元で囁かれた。
曰く、『分かってんな?』と。
カルスが震え、エリクスさんは余裕そうだが…視線が遠くを向いている。
逆らえる筈などなかった。振り向きたいという思いなど、一瞬で握りつぶされてしまったのだから。
「あ、エリクスさん。聞きたい事が有るんですけど」
「何だ、今のところ振り返った事なんかねえぞ俺は」
「そんな事じゃないですよ…!」
違う話を振って緊張を取り除こうとしたのに、エリクスさんのせいで変に意識してしまいそうになる。
それを振り払って、もう一度。
「シュリ―フィアさんに、明日も来るって言ったんですか?」
「…やっべ」
そう言いながら苦しそうにうつむくエリクスさんの顔を見ると、何だか今日の苦労も消えていくようだった。




