第三十六話:茶
黒色の、しかし色素の薄い髪の間から除く瞳は、若葉のような黄緑色。しかし、その明るい色彩とは反対に、どこか焦点がまとまっていないような、不思議な危なっかしさを感じさせる。
だが――こちらを見ているのだろう。彼女の視線そのものは、俺達がいる門の方向に固定されたまま、変わってはいないのだから。
「…も、守人ですかね、あの娘」
「分かんねえけど…不審者扱いされると拙いだろ。兄貴、立てって、一回移動するぞ」
レイリがそう言っている間にも、カルスとラスティアがエリクスさんを立ち上がらせる。エリクスさん自身かなり憔悴しているらしく、おとなしく立ち上がっていた。
しかし、今までは地べたにへたり込んでいたから見えていなかったのであろう少女の姿を視界に入れるなり、再び動き出し、門の方へと俺達を押しのけて向かおうとした。
「ちょ、エリクスさん」
「止まってください!」
俺とカルスがエリクスさんを呼び止めようとしている間にも、レイリとラスティアさんはそれぞれが実力行使の構えを取りつつあった。相当に危険である。レイリはともかく、ラスティアさんも何故ここまでエリクスさんに対して容赦が無いのだろうか?――なんて事を考えている場合では無い。これ以上エリクスさんを痛めつけるのも問題だが、今この場では、これ以上エリクスさんを暴走させない事の方が大事である。
そう思って、せめて動きを止めようと肩に手を伸ばし…しかし、その手が届くよりも先に、エリクスさん自身が柵の手前で立ち止まった。
「…聞きたい事があります!シュリ―フィア・アイゼンガルドという女性は、何時頃こちらにいらっしゃられるでしょうか!」
そうして、大声でこう言い放つ。一瞬呆気にとられ、そして、今までの選択よりは随分とましなものだと築いて、ほっとする。それは皆同じだったようで、レイリは動きを止め、ラスティアも起句を唱えてなどいなくなっていた。
…だが、それを問いかけられたのはあの少女である。少なくとも気が強い様には見えず、見知らぬ男――或いは不審者――大声で話しかけられれば、或いは怯え、館の中に閉じこもってしまうのではないだろうか?
そう思って少女の方を見ると、屋形の中に逃げていく事は無く、しかし、何かを言い返したり、こちらへ近づいて来たりする様子もなかった。
逃げないまでも、やはり怯えてしまい、どうするべきか判断が取れないのだろうか?
「あの、エリクスさん、あの娘、恐がってるんじゃないですか?」
「…いや、何というか、問題ない感じがしたんだ。だからまあ、大丈夫だろうよ」
「…え、そんなぼんやりした感じなの?」
カルスが唖然とした表情でエリクスさんを見つめている。ラスティアの表情が誰より厳しいのだが、もしかして『シュリ―フィアさん分』についての会話がまだ尾を引いているのだろうか?
そんな光景を見てレイリが溜息を吐いていた。俺も、楽しい様な、疲れた様な、そんな不思議な気分を感じて思わずため息をつきそうになり、
――聴覚に、何か、違和感を得た。
ほとんど何も分からないくらいに薄い感覚だったが、しかし確かに、音…というより、誰かの声がしたような。
「ちょ、ちょっと皆、静かにしてみて」
「は?静かにって…ま、良いか」
困惑したレイリの言葉を聞きつつ、耳に神経を集中させ、僅かな身じろぎの音すらも聞き逃さない様にする。強化された身体能力は、このくらいの無理には容易く答えてくれるようで、2、3秒も集中すれば、僅かな木々のさざめきすらもはっきりと聞き分けられるようになっていた。
当然、その声――少女の声も。
「…エリクスさん、もう一度彼女に呼びかけてくれませんか?…どうやら、説明してくれているみたいですので」
「な、本当か!?」
「はい、でも、もう冒頭の部分を聞き逃していて、ちゃんと意味が通じているか怪しいんです。よろしくお願いします」
聞くや否や、エリクスさんは再び少女へと問いかけの声を出していた。落ち着いたからか、先程よりは少し抑えた声で。
そして、少女からの答えが返ってくる。
「…『シュリ―フィアが帰ってくるのは、二刻後。仕事を終わらせてから来る。時間はかかるから、後で来るか、そうでなければ、中に入って待っていればいい』…だそうです」
「…耳いいなタクミ。アタシ、何か言ってるのは分かっても、何言ってるのかはさっぱりだったぜ」
「僕はさっぱりだったよ…」
「私も。ほんの、少ししか」
「俺は全く聞こえなかったよ、っと…これから何か用、有るか?」
エリクスさんが何を言いたいのか、それはもう、手に取るように分かってしまったので、全員でその意図に乗る事にした。
◇◇◇
「…どうぞ、粗茶ですが」
少女が差し出す湯呑みを受け取って、机の上に並べる。彼女の声がか細い事に変わりはなかったが、屋内で、全員が大声を出さない様にしていれば、そこまで聞き取りづらいという事も無かった。
俺達は現在、少女に招かれた(と言い切っていいのかは少し迷うが)館の奥、客間のような場所で椅子に腰かけ、お茶を振舞われている。どう考えても俺達は無理に押しかけているので、これは少々、居心地が悪い。
だが、少女からは俺達に対する嫌悪感と言った物を感じ取る事は出来なかった。いや、表情の動きが少ない事で感情も読み取りづらい以上、本当は非常に迷惑だという可能性もある。
「美味い。…ってこれ、相当高い茶葉なんじゃぁ」
最初の感想とは真逆に顔を顰めたレイリの声で我に返り、冷えないうちにと自分も茶に手を伸ばす。
まだ湯気の立つそれは、かなり薄く焼かれた湯呑み――というよりティーカップ――くらいの壁越しではまだ熱い。と言っても、勿論火傷するほどではない。まずは一口頂こうと、その縁に唇を添わせて。
口の中へ、液体よりも先に、すっとする良い香りが吹き抜けた。
それはあくまでも感覚で、実際に香りを感じたのは鼻孔の奥で有る筈だが、…茶、という物をこれほどまで魅力的に感じたのは初めてではないだろうか?
そして、いざ舌に触れた茶の味は…俺ごときが語った所で誰にもその正確な味を伝える事が出来ないだろうと確信してしまうほど、素晴らしいものだった。
それでもあえて言い表そう。香りの後、最初に感じたのは苦みだった。しかし、嫌悪感を感じるようなものでは無く、香ばしさを伴っていた事でむしろ心地よいものとして現れる。
次に、苦みに隠されていた甘みが。茶、という物はただの植物の葉から溶かした汁だとでも思っていた俺には、一体何処に潜んでいたのかさっぱり分からない。
最後に、ミントにも似た爽快感。これは、最初に感じた香りの中にも含まれていた。これが全体を引き締めているからこそ、この茶をより満足感のあるものにしているのだろう。
ミントの香りが茶からする、というのは、もう俺の想像の埒外だった。もしかしたら、地球でも本当はありふれていた物なのかもしれない。だが少なくとも、夏の暑い日にだけ麦茶を飲む、という程度しか茶と呼ばれる物を飲まなかった俺にとっては感動すら覚える程の味であり、――周囲の全員にとっても、また同じだったらしい。
気がつけば、みんな押し黙り、黙々と茶を啜りながら、少女に対して何か、とんでもないものを見るような視線を向けている。
少女の方もそれには気がついている筈だが、しかし何か反応を返すでもなく、扉のそばで佇んだままだった。
だが、それも数秒の事だった。誰かがカップを机の上に置いた後、少女がまた囁く様に、しかし沈黙に覆われたこの部屋で唯一の音源として、一言。
「おかわりは、いりますか?」
――答えなど、分かりきった物でしかなかった。
それから一刻の後、皆が味わうようにゆっくりと、しかし確実に茶を消費し、ようやく落ち着いた所でレイリが恐る恐る、少女に対して問いかける。
「な、なあ。この茶葉、相当高かったんじゃないか」
「…皆さんの所に、送られてくるんです。沢山有ってもいらないから、ここで使うんだと」
それは、まるで何でもないものについて話しているかのような口調だった。いや、少女にとっては事実なのだろう。最初の『粗茶ですが』という言葉も、彼女にとってはありのままを伝えたというだけの事だったのだ。
ただ、少女の言う『皆さん』というのはこの場合、…館を訪れる守人たちの事を露わしている可能性も、非常に高くて。
「…そういや去年、茶葉の産地の近くで大規模な瘴災があって、それを王国の守人達が何人かがかりで喰い止めた、っつう話を聞いた気がすんな…いやでもあそこ、高級茶葉で有名な所だし、そこが礼として、守人に送る茶葉…!?」
「…え、っと、それって、凄くお金がかかるんじゃ」
エリクスさんまでもが気まずそうな顔をしているのを確認して、俺も背筋が冷たくなってきた。未だに金銭価値については俺達より少し判断基準があいまいなカルスすら、顔色は蒼白だ。
守人がその茶葉を自由に使っていいと言っていたとしても、まさかふらっと訪れた冒険者に振る舞っているとは思っていないのではないか?それも、大量に。
…まあ、やってしまったものは仕方がない。シュリ―フィアさんが最初にここを訪れる事を信じて、これ以上へんな事はせず、おとなしく待っているべきだろう。そう考えた時、俺の聴力が、館の扉が開いた音を聞き取った。
シュリ―フィアさんが帰ってくるまで、後一刻程はあるはずだ。一刻、というのは決して僅かな乱れではない。となれば――。
「…皆、ちょっと覚悟した方がいいかも」
焦燥感で説明が足りていなかったが、皆それぞれ、深呼吸したり、思い詰めた表情になったり。
中でも、深呼吸をしていつもの調子を整えるラスティアさんの姿が、何だか余計に、この状況が危機的だと知らせてくるような気がした。
茶を飲んでいるだけ、だと…!?




